周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

田所文書2 その3

    二 沙弥某譲状 その3

 

       一所田三反      [  ]

       一所畠五反 同     ⬜︎重⬜︎[  ]

       一所畠二反       佐[

     安南郡

      符中

        田

        畠

                  安南郡

       一所畠         矢加村

                             (爲ヵ)

        件畠者、造符所公文[  ]京都⬜︎河長次郎米⬜︎⬜︎祖父知音

       (之間ヵ)       (爲ヵ)

        ⬜︎⬜︎、⬜︎國下向之時、依⬜︎船津所望之間⬜︎預之畢、而所従令

        沽却于助正父爲正之、此条雖其謂、云爲正同母白河

        尼同妹松女〈在廳政所清家母〉召仕之間、即宛給給恩者也、

                   (地ヵ)   (引ヵ)

        彼等死去之後者、令収納⬜︎子[ ]見⬜︎付、

       一所田畠六反〈[ ]西o大道者西⬜︎至海邊 早馬立〉

        件所者、本主在廳弘助也、而國衙供僧西常坊永西自弘助手傳領之

        後、所従

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

        則延法師父近延〈源三郎祖父〉傳領者也、

       一所田二⬜︎〈[ ]祖[      ]早馬立〉

                                   

        件田地者、所従國助父國元相傳之地也、爲所従領上者雖不

        別子細、載種々子細去状了、巨細見彼状地頭押領

       一所田一反小 地頭押領、■分 上山 〈澤行作墨丸父也、〉

        件所者、在廳行圖領澤門名田⬜︎也、以負物[   ]之者也、

                    (濱ヵ)

       一所屋敷畠二反 地頭押領、北⬜︎ 〈[   ]國衙公人也、〉

        件所者、造符所公文名内也、而号負物代有冨名主[

            ]領不及敍用[

         (田)

       一所⬜︎畠一反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

       一所田◼️反◼️◼️◼️  ◼️◼️◼️◼️

       一所田畠      自河南濱

        件屋敷田畠并娘秋石女等父大源太宗員引文明白也、仍宛給彼従女

        給恩者⬜︎、

 (裏書)

 「田數御帳」

       一所田畠二反内 〈田一反畠一反〉 一宮政所敷

        件所者、國元引文内也、然而召仕國助一類之間、不改易

           入于

        之處、o福嶋二郎信景利銭質募、寄事於左右已依押領

                     (云ヵ)

        自眞土彼銭領作⬜︎々、此条方々以無其謂之上者、

                        (息ヵ)

        敢不承引者也、然者雖爲何子⬜︎[  ]處分之条勿論也、

                  譲渡

        但眞土於長壽御前o者、可其左右者也、 ◼️◼️◼️◼️

                  分給分

       一所田二反 山田藤兵衛o末宗

       一所田畠二反 南濱中小路平三分

       一所田二反小 河角屋敷 ◼️◼️屋敷◼️◼️

          (清ヵ)(夫ヵ)

        件条、⬜︎大⬜︎末宗同大郎宗弘二男末門等、云其身屋敷田畠

        各依有證[ ]領知者也、仍所領給末門以下子息等給恩也、子細

        見引文状等

       一所屋敷田畠二反 〈祖父兼資母堂内部屋敷也、〉三昧堂

       一所同三反         河窪

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「矢賀村」─現東区矢賀町。温品川下流右岸にあり、安芸郡に属した。村の西部は標高

      七〇─八〇メートルの南北に長い丘陵がある。北は中山村、東は府中村

      (現安芸郡府中町)に接する。「屋賀」とも書き、中世には佐東郡とされ

      ることもあった。

      正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某譲状(田所文書)に「一所畠

      二反 矢加村」とあり、有力在庁官人田所氏の私領があったことが知られ

      る。なおこのとき矢賀村は府中の一部とされている。室町時代は武田氏の

      治下にあり、応永十四年(一四〇七)武田信之から熊谷氏に預けられてい

      るが(同年一月二十日付「武田信之預ヶ状」熊谷家文書)、のち武田氏家

      臣渋谷氏に与えられたようである(弘治二年十月二十三日付大内義長宛行

      状「閥閲録」所収白井友之進家文書)。中山・尾長・矢賀三村の境にある

      大内越(おおちご)峠の名は、天文十年(一五四一)銀山城(跡地は現安

      佐南区)の武田氏を倒した大内軍が府中の白井氏攻撃にこの峠を越えたの

      にちなむと伝える。武田氏の滅亡後、毛利元就大内氏から「矢賀卅五

      貫」などを預けられて(天文十年七月二十三日付「大内義隆預ヶ状写」毛

      利家文書)以後、矢賀は戸坂・牛田などとともに水軍の拠点とされ、「佐

      東矢賀之内弐拾貫前」が小早川水軍の乃美氏に(天文二十年二月二十八日

      付毛利元就宛行状「閥閲録」所収浦四郎兵衛家文書)、「矢賀村之内太歳

      原が毛利水軍の統率者の一人児玉氏に(永禄十一年十二月付東林坊事書案

      「知新集」所収)それぞれ宛行われ、村役人として目代・散使が置かれた

      (「毛利氏八箇国時代分限帳」山口県文書館蔵)。なお弘治元年(一五五

      五)厳島合戦を前にして陶方の水軍が矢賀を攻撃したが、仁保城(跡地は

      現南区)にいた東林坊(現中区の光円寺)の僧や飯田氏ら川の内水軍に退

      けられた(前記東林坊事書案、年欠正月九日付毛利元就同隆元連署感状

      「閥閲録」所収飯田七郎右衛門家文書)(『広島県の地名』)。

「早馬」─通信連絡のための急使または急使の乗る馬。早打などと同義であるが、鎌倉

     時代から南北朝期ころまで使用されることが多い。鎌倉幕府は創幕早々、東

     海道に駅制を設けたが、その宿駅に常備した馬も早馬と呼ばれ、その数は弘

     長のころ、各宿二疋と定められた。文永・弘安の役後、幕府は駅制を京より

     博多まで延長した。そのつぎ替えの早馬は沿道の御家人あるいは荘園に負担

     させたが、この課役は早馬役または早打雑事などと呼ばれた。古代駅制の駅

     馬・伝馬の名を捨て早馬と呼称されたのは、通信の迅速性が駅制の主眼であ

     ることを直截に示すが、じっさい京─鎌倉間三、四日、京─博多間六、七日

     という古代駅制を上回る早さであった(新城常三『国史大辞典』)。

「去状」─「去文」。避文とも書く。去状ともいう。自己の所領・所職などを放棄し、

     その領有を主張しないことを保証した文書(『古文書古記録語辞典』)。

「公人」─①寺院の下級職員で、寺領の雑事、荘園の年貢・公事徴収、寺領内の検断を

     行った。②六位以下の下級官人。③鎌倉幕府の政所・問注所の寄人、六波羅

     探題の奉行人、室町幕府の奉行人また下級職員。④国衙の国掌、雑色(『古

     文書古記録語辞典』)。

「引文」─「曳文」。身引とも。犯罪を償うため、また債務未済の代償として、自分じ

      しん或いは家族の身柄を債権者に渡して下人・所従とすること。そのとき

      書く証文は曳文という(「身曳」『古文書古記録語辞典』)。