周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

本宮八幡神社文書3(完)

    三 乃美八幡宮流鏑馬次第注文

 

   秀遠当郷之儀依存知仕〈乃美八幡宮」矢鏑馬之次第」新儀ニ矢鏑張之事〉

              高橋内蔵助

 大永四年〈甲申〉 新給     天正 高橋□法師

              内藤九郎左衛門尉

                 天正 新請取

              眞田又五郎

 大永五年〈乙酉〉 同      天正 眞田助二郎

              山内与三左衛門尉

                 天正 高橋三郎衛門

 大永六年〈丙戌〉 同   〈兒玉新次郎」岩崎新右衛門尉〉

 大永七年〈丁亥〉 同   〈草井木工助」賀藤九郎五郎〉

 享禄元年〈戊子〉 本給  〈山内四郎右衛門尉」眞弓田孫左衛門尉〉

 享禄二年〈己丑〉 同   〈矢原衛門尉」小田又次郎〉

 享禄三年〈庚寅〉 同   〈草井飛騨守」草井木工助〉

   

 享禄年〈辛卯〉 同   〈高橋少輔五郎」眞田四郎左衛門尉〉

 享禄五年〈壬辰〉 同   〈土屋小太郎」高橋三郎右衛門尉〉

 天文二年〈癸巳〉 同   〈高橋少輔次郎」井原九郎五郎〉

 天文三年〈甲午〉 同   〈神足又三郎」井原与拾郎〉

 天文四年〈乙未〉 同   〈高橋内蔵助」内藤九郎左衛門尉〉

 天文五年〈丙申〉 同   〈賀藤佐衛門三郎」有田善拾郎〉

 天文六年〈丁酉〉 同   〈眞弓田孫左衛門尉」賀藤孫八郎〉

 天文二年〈戊戌〉 新給  〈山岡太郎五郎」原与三左衛門尉〉

     (1579)            安芸守

   于時天正七年〈己卯〉八月吉日     隆興(花押)

              安芸郡

 右之書付当年迄年数百拾八年倉橋徳蔵寺殿ニ有之候、我等断申ニ附廣島鹽屋町専勝寺

 殿にて受取申候、幾久所持可有之候、

     (1696)          久芳村神主   (黒印)

     元禄九年子ノ極月十一日      治部大夫○

        乃美村いなば

           与三郎殿

       ○本文書、二号文書ニ貼リ継グ、ソノ継目裏ニ治部大夫ノ黒印アリ

 

*割書とその改行は〈  」 〉で記しました。

 

 

 「書き下し文」

   (前略)

 右の書付当年まで年数百十八年倉橋徳蔵寺殿に之有り候ふ、我ら断り申すに附け広島塩屋町専勝寺にて受け取り申し候ふ、幾久しく所持之有るべく候ふ、

 

 「解釈」

   (前略)

 右の書付は当年まで百八十年間、安芸郡倉橋島の徳蔵寺殿にありました。我らが道理を申し上げて、広島塩屋町の専勝寺殿で受け取り申しました。いつまでも所持しなければならない。

 

 

 「注釈」

「久芳村」

 ─現福富町久芳(くば)。安芸国豊田郡の西北部、高田郡との境にある鷹ノ巣山東南麓に位置し、東は能良(のうら)村(現豊栄町)。村の中央部を流れる沼田川の本支流域に形成された低地に耕地がある。丘陵地には多くの古墳が築造され、出土地は確定できないが、安芸国の一部に見られる島形瓶が出土しており、早くから開けた地である。「和名抄」所載の豊田郡訓芳郷の地に比定され、後には久芳村・久芳郷と称された。建武三年(1336)十一月二十六日の足利尊氏寄進状(本圀寺文書)によると、久芳保が京都本圀寺の造営料として寄進されたが、貞和三年(1347)五月日付の園城寺堂舎造営料所支配注進状(園城寺文書)に、園城寺新羅社造営領未進分として久芳保がみえる。正平六年(1351)十二月二十三日の足利義詮下文写(小早川家文書)により久芳郷の半分は足利義詮から小早川胤平に、至徳元年(1348)十二月二十四日の将軍家御教書写(同文書)では小早川宗平・兼平に宛行われ、同三年十月二十九日には小早川春貞に安堵されている(「足利義満安堵御判御教書案」同文書)。

 応永十一年(1404)九月二十三日付の安芸国諸城主連署契状(毛利家文書)に久芳秀清が名を連ねており、地名を負った在地武士の存在がうかがえる。同二十一年四月十一日の小早川則平譲状案写(小早川家文書)によると、久芳保は大内氏が押領していた。応仁二年(1468)から文明三年(1471)の頃小早川氏と大内氏がこの地で抗争、久芳の地を小早川熙平は幕府から(同文書)市来家朝と久芳氏一族は大内政弘からそれぞれ安堵されている(「附録」所収市来家文書、「閥閲録」所収久芳庄右衛門家文書)。大永三年(1523)七月十四日尼子経久書状(平賀家文書)によると、平賀弘保は尼子経久から久芳400貫を宛行割れており、尼子氏の勢力が及んだことも知られる。天文十五年(1546)三月二十九日には大内義隆が久芳途重の所領を安堵している(「閥閲録」所収久芳庄右衛門家文書)が、義隆の死後大内氏に離反した毛利元就・隆元は、同二十二年九月二十日、久芳本郷を久芳賢直に宛行い(同書所収久芳五郎右衛門家文書)、同二十三年十月五日には賢重が陶晴賢から久芳保内の松弘名・末弘明・国弘名合わせて35貫を宛行われている(前記庄右衛門家文書)から、賢重は陶氏から離反したらしい。同年三月十五日大内義長は賢重先知行の久芳保内35石を市来元家に恩賞として宛行っている(同書所収一来幾之進家文書)。厳島合戦後の弘治三年(1557)大内義長を滅ぼした毛利氏は、十月二十八日に井上元継に久芳内30貫文を宛行う(同書所収井上甚左衛門家文書)とともに、元継・久芳兼重(賢重)・賢直に対し、久芳惣郷で藩屏となるよう命じている(同書所収久芳小兵衛家文書)。伊勢神宮御師村山氏が記した村山家檀那帳(山口県文書館蔵)の天正九年(1581)分には、久芳賢直・元和らのほかに井上元豊・綿貫直家・満蔵寺(万蔵寺)などの名がみえる。元豊は同十二年十一月には厳島神社回廊一間の檀那として名を連ねている(大願寺文書。文禄四年(1595)九月二十一日付の平賀元相同市松連署起請文案(平賀家文書)に、久芳分として120石5斗2升、うち所務70石2斗、家10軒とあり、同年十月二十四日付の平賀氏知行付立案(同文書)には、田数13町270歩(分米107石9斗)・畠数2町8段120歩(分銭4貫620文)を記す(『広島県の地名』平凡社)。