周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

田原文書1

解題

 当家は天正十三年(1585)の用水関係文書二通を所蔵する。

 

 

    一 財満忠良散使四郎左衛門尉連署充行状

 

 西条原村八拾貫分之内極楽名、為堤井溝代、御 公領宮丸名之内長迫参百目

 之事、

 西山寺領分堤井溝代之為替之地進置候上ハ、永代可御進退候、此上若

 彼長迫於相違ハ、又極楽名溝事可相違候、仍為後日一通如件、

     (1585)              財満東市允

     天正拾参年〈乙酉〉三月廿一日     忠良(花押)

                    四郎左衛門尉(花押)

       西山寺 まいる

        極楽太郎次郎所へ

 

*割書は〈 〉で記しました。

 

 「書き下し文」

 西条原村八十貫文分の内極楽名、堤・井溝代として、御公領宮丸名の内長迫三百目の事、

 西山寺領分堤・井溝代の替への地として進らせ置き候ふ上は、永代御進退有るべく候ふ、此の上若し彼の長迫相違に於いては、また極楽名の溝の事相違有るべく候ふ、仍て後日のため一通件のごとし、

 

 「解釈」

 西条原村八十貫分のうちの極楽名と、堤や用水の維持費用としての、御公領宮丸名のうちの長迫三百目のこと。

 西山寺領分の堤や用水維持費用を捻出する替地として進上するうえは、永久にご領有になるべきです。このうえ、もしこの長迫の領有に差し障りがあれば、再び極楽名の溝のことを変更しなければなりません。そこで、今後のため充行状は以上のとおりです。

 

*書き下し文・解釈ともに、よくわかりませんでした。

 

 「注釈」

「原村」「西山寺」「極楽名(極楽寺)」

 ─現東広島市八本松原。吉川村の北に位置する。西は曾場ヶ城山(そばがじょう)

  (607・2メートル)から水丸山(660・2メートル)に続く尾根で熊野跡

  村・安芸郡上瀬野村(現広島市安芸区)との境界をなす。北の飯田村・原飯田村、

  東南の下見村、南の吉川村との間や村中央部には比高20─100メートルの低丘

  陵が点在。村内を南流する温井川と水丸山から東南に下る戸石川が村南端で合流。

  寛正六年(1465)二月二十九日付大内政弘預ヶ状(天野毛利文書)に「東西条

  原村内百貫足」を天野家氏に預けるとあり、この100貫の地は文明三年(147

  1)毛利豊元の東軍から西軍への寝返りの際、仲介した福原広俊に与えられたが

  (「閥閲録」所収福原対馬家文書)、同十七年天野氏に返付された(天野毛利文

  書)のちは天野氏の領知が確定。戦国時代の原村は300貫の地とされ、100貫

  が天野氏領、50貫が鏡山城領で(大永三年八月十日付「安芸東西条所々知行注

  文」平賀家文書)、残りも脇氏・安富氏など大内氏家臣の給地となっており(「譜

  録」所収脇信之家文書、「安富家証文」山口県文書館蔵)、大内氏滅亡後は毛利氏

  公領もあった(田原文書)。なお、年欠十二月二十日付毛利元就志道広良連署書状

  (「閥閲録」所収井上善兵衛家文書)で、飯田三郎右衛門尉に充行われた「西条之

  内大竹名に当たると思われる。(中略)

  村内には小倉神社・雷八幡神社・進行八幡神社の三社がある。小倉神社は西部の小

  倉山東南麓に鎮座し、源頼政の室菖蒲前を祀る。縁起によると、菖蒲前は愛児を伴

  って御薗宇に落ち延びたが、まもなく愛児が病死すると出家して西妙と号し、小倉

  山に庵を結んだ。元久元年(1204)没したため、その霊を村民が祀ったという

  (賀茂郡志)。永禄三年(1560)毛利隆元により具足一両を寄進され、当時の

  祝師は磯部刑部太夫(秀純)出会った(磯部文書)。臨済宗妙心寺派円福寺は聖一

  国師が建立して菖蒲前の位牌を安置した瑞鳳山小倉寺に始まると伝え、当初は小倉

  神社参道北側にあった。現在も寺院跡らしきものが残る。室町時代、南方の小見谷

  に移って瑞鳳山小倉院円福寺と改称し小倉神社別当寺となったが、槌山城の合戦で

  消失。明治六年廃寺となったが、同二十二年に再興、現在地には大正元年(191

  2)に移った(原村史)。

  ほかに西福寺・極楽寺・西山寺・十林寺・善福寺などの跡がある。西福寺は蓮華山

  と号し菖蒲前の創建と伝える。極楽寺は12坊を擁する真言宗の大寺で五重塔もあ

  ったと伝え、塔が峠(国郡志下調書出帳)・極楽名(田原文書)の地名があった。

  本尊薬師如来像は田原家に伝来。西山寺は天正元年(1573)の厳島社回廊棟札

  (大願寺文書)や同十三年の史料(田原文書)に名が見える。字西山の跡地近くに

  五輪塔を残す。十林寺は杉元氏の菩提所と伝える。曾場ヶ城は峻険な山頂に本丸・

  二の丸・午の段など数段の郭・帯郭・空堀・井戸・石垣などが残る。城主は大内氏

  家臣杉元氏と言われるが、結城盛貞・杉野義晴・杉野隆兼などとする説もある

  (『広島県の地名』平凡社)。