周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

イリュージョン! 記録上最古の花火興行

  文安四年(一四四七)三月二十一日条 (『建内記』8─41)

 

 廿一日、壬子、天霽、

  (中略)

 今夜向寺門、初夜如法念仏聴聞之、大炊御門前内大臣信、参会、於同局聴聞之、彼仏

 事料貳百疋、・諷誦文一通・麻布代百疋、被送之、依親懇之舊好也、

 初夜了唐人於寺庭有風流事、立竹竿於庭中、垂紙捻并紙褁物等、付火於彼之時、種々

 形象以火成其躰、薄・桔梗・仙翁花・水車・風車以下之形躰也、又張縄、自一方付火

 於褁物、彼火傳縄走之、又走歸本方、又称鼠於庭付火於褁物、方々走廻之、又持褁物

 於手付火、彼飛空中如流星、希代之火術也、又有紙放、其聲驚人、聴彼藝、以百疋令

 下行之、致沙汰云々、

 

 「書き下し文」

 今夜寺門に向かひ、初夜の如法念仏之を聴聞す。大炊御門前内大臣信参会す、同局に於いて之を聴聞す、彼の仏事料貳百疋・諷誦文一通・麻布代百疋、之を送らる、親懇の舊好に依るなり、

 初夜了りて唐人寺の庭に於いて風流の事有り、竹竿を庭中に立て、紙捻并に紙褁物等を垂れ、火を彼に付来るの時、種々の形象火を以て其の躰を成す、薄・桔梗・仙翁花・水車・風車以下の形躰なり、又縄を張り、一方より火を褁物に付け、彼の火縄を伝わり之を走り、又本の方に走り帰る、又鼠と称し庭に於いて火を褁物に付け、方々に之走り廻る、又褁物を手に持ち火を付く、彼空中に飛ぶこと流星のごとし、希代の火術なり、又紙放つ有り、其の声人を驚かす、彼の芸を聴き、百疋を以て之を下行せしむ、沙汰致すと云々、

 

 「解釈」

 今夜浄花院に向かい、初夜の如法念仏を聴聞した。大炊御門前内大臣信宗も法会に参加した。同じ部屋で聴聞した。この仏事料二百疋・諷誦文一通・麻布代百疋が信宗から浄花院に送られた。昔からの親しい間柄のためである。

 初夜の法会が終わり、寺の庭で明国人の芸能が催された。竹竿を庭のなかに立て、紙縒や紙袋などを垂らし、それに火を付けたとき、さまざまな形が火によってその姿を現した。ススキ・キキョウ・センノウゲ・水車・風車などの形であった。また、縄を張り、一方から火を紙袋に付け、その火が縄を伝って走り、また元のほうに走り帰った。また鼠と言って庭で火を紙袋に付け、方々にこれを走り回らせた。また紙袋を手に持ち火を付けると、それが流星のように空中を飛んだ。世にも珍しい火術である。また紙袋を放り投げると、その音は人を驚かせた。明国人の芸を聴いて、見物料百疋を与えさせた。明国人に支払われたそうだ。

 

 「注釈」

「寺門」

 ─浄花院。清浄華院。現在は上京区北之辺町。この時期は上京区元浄花院町にあったと考えられる。浄土宗四ヵ本山の一つ(『京都市の地名』)。

 

「諷誦文」

 ─死者の追善供養のために、三宝衆僧に布施する意や、施物のこと・その趣旨などを記して捧げる文章で、僧が代わって読むもの。法会の導師が、これを読み上げることを例とした(『日本国語大辞典』)。

 

*どうやらこれが、記録上最古の花火興行を行った史料だそうです。さまざまな仕掛け花火が室町時代にもあったようです。最先端の火薬技術が、京都のお寺で披露されていたのですね。この記事の詳細は、清浄華院のホームページで紹介されています(http://jozan.jp/index.php?清浄華院の逸話)。

洞雲寺文書39

   三九 穂田元清書状(切紙)

 

     (包紙ウハ書)

     「             治部大輔

      洞雲寺尊報          元清」

 

 其以来依遠境音問候之處、預貴翰再三拜披候、殊更両種被

                      (宗用)

 懸御意候、御厚情之至本懐候、貴寺之御事、全室和尚被御与奪之旨

 被御在院候、勿論先住御同前可尊意覚悟候、然而輝元御一通則時調

 被進之由、尤御歓喜之至令察候、委曲御使僧申候之間、可演説候、恐惶

 謹言、

     天正八年)(1580)

      壬三月廿二日         元清(花押)

       洞雲寺尊報

 

 「書き下し文」

 其れ以来遠境たるに依り音問を絶えし候ふの處、貴翰を再三預かり拜し披かしめ候

 ふ、殊更両種御意に懸けられ候ふ、御厚情の至り本懐に候ふ、貴寺の御事、全室和尚

 御与奪の旨に任せられ、御在院を遂げられ候ふ、勿論先住と御同前に尊意を得べき覚

 悟に候ふ、然かして輝元御一通則時調え進らせらるるの由、尤も御歓喜の至り察せし

 め候ふ、委曲御使僧申し候ふの間、演説有るべく候ふ、恐惶謹言、

 

 「解釈」

 以前のお便り以来遠くにおりましたので、音信を絶やしてしまいましたが、あなた様の書簡を再三預かり拝見しました。とくに二種類の贈り物のお心遣いをくださり、このうえないご厚情に感謝しております。洞雲寺のことは全室宗用和尚のご譲与の内容にお任せになり、御在院を遂げてください。もちろん先代の住持と同様に、あなた様のお考えを伺うべき心づもりでおります。そして輝元様の安堵状一通をすぐに調えて差し上げれば、きっとこのうえなくお喜びになると推察します。詳細はご使僧が申し上げますので、お話があるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「先住」─九世全室宗用か。そうであるなら、充所は洞雲寺住持、十世梅菴賢達になる

     と思います。

洞雲寺文書38

   三八 毛利輝元書状

 

 先度者洞春寺御越之由候、對我等快然之至候、向後常令来臨給候者、尤可

 爲本望候、恐々謹言、

      三月十日               輝元(花押)

     洞雲寺床下

 

 「書き下し文」

 先度は洞春寺に御越しの由候ふ、我等に對して快然の至りに候ふ、向後常に来臨せし

 め給ひ候はば、尤も本望たるべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 先日は洞春寺へお越しになりました。我らの要求に応じてくれ、このうえなく満足しています。今後いつもお出でになりますならば、我々としても当然望みが叶い満足するはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「洞春寺」─現在の吉田町吉田。郡山の西麓、城の搦手にあたる所にある。元亀二年

      (一五七一)に没した毛利元就の三回忌にあたる天正元年(一五七三)に

      菩提寺として孫の輝元が創建した臨済宗の寺院で、本尊は十一面観音、脇

      立の勝軍不動明王・勝敵毘沙門天は元就の護持仏と伝える(『広島県の地

      名』)。

洞雲寺文書37

   三七 毛利輝元安堵状

 

 安芸國佐西郡佐方村洞雲寺領、元圓満薬師寺領、同永興寺領之事、任代々證文之

             (友田)

 旨諸役等令免許訖、并興藤寄進之地坪附別在之 等之事、以宗用和尚譲状之

 辻、執務領掌不相違之状如件、

    (1580)

    天正八年三月六日             右馬頭(花押)

     洞雲寺當住賢逹和尚

 

 「書き下し文」

 安芸国佐西郡佐方村洞雲寺領、元圓満薬師寺領、同永興寺領の事、代々の證文の旨に任せて諸役等免許せしめ訖んぬ、并に興藤寄進の地(割書)「坪附別に之在り」等の事、宗用和尚の譲状の辻を以て、執務領掌相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国佐西郡佐方村洞雲寺領、もと圓満寺・薬師寺領、同永興寺領のこと。代々の証文の内容のとおりに、諸役等は免除させた。また友田興藤の寄進した土地(所在地と面積を記した注文は別にある)などのことは、先代の宗用和尚の譲状の内容によって、取り仕切り支配することに相違あるはずもない。安堵状は以上の通りである。

 

 「注釈」

「圓満寺」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)地域にあった中世の廃寺。現在も小字名として残る(『広島県の地名』)。

 

薬師寺」─円満寺と同様に、佐方にあった中世の廃寺か。

 

「永興寺」─未詳。厳島社領内の寺院でしょうか。

 

「興藤」─友田興藤。もと厳島神主。

 

「坪付」─田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に記載するもの(『古文書古記録語辞典』)。

 

「宗用和尚」─洞雲寺住持、九世全室宗用。

 

「辻」─よくわかりません。「物事の結果」(『日本国語大辞典』)という意味が最も近いように思いますが、「内容」ぐらいの意味でよいのではないでしょうか。

 

「賢逹和尚」─洞雲寺住持、十世梅菴賢達。

中世の昼ドラ 〜新妻の不倫!〜

  文安四年(一四四七)三月十四日条 (『建内記』8─32)

 

 十四日、乙巳、天霽、

  (中略)

 傳聞、中御門大納言宗継卿、新妻者、月輪右衛門督家輔卿、息女也、元爲喝食在光香

 院〈二条家門内也〉、宗継卿⬜︎[ ]許見付之、奪取令同輿、入室作女房、不可説事

 也、其後男子・女子誕生云々、而密通家僕〈八鳥云々〉、件男逐電、女姓雖歸父許不

 許容、仍於中途作尼云々、依此事去比今月初比事云々、大納言損気、不領状申歟、

 ⬜︎⬜︎⬜︎定領状歟云々、今称可爲典侍者、舊妻腹云々、

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 伝え聞く、中御門大納言宗継卿の新妻は、月輪右衛門督家輔卿息女なり、元喝食として光香院に在り〈二条家門内なり〉、宗継卿⬜︎[ ]ばかり之を見付け、奪ひ取り同輿せしめ、室に入れ女房と作す、不可説の事なり、其の後男子・女子誕生すと云々、而れども家僕(割書)「八鳥と云々」と密通す、件の男逐電す、女姓父のもとに帰ると雖も、許容せず、仍て中途に於いて尼と作すと云々、此の事に依り去る比〈今月初比の事と云々〉、大納言気を損じ、領状申さざるか、⬜︎⬜︎⬜︎定めて領状するかと云々、今に典侍に為るべしと称する者、舊妻の腹と云々、

 

 「解釈」

 伝え聞いた。中御門大納言宗継卿の新妻は、月輪右衛門督家輔卿の娘である。もとは喝食として光香院〈二条家の門内である〉にいた。宗継卿は[  ]この娘を見付け、奪い取って輿に同乗させ、自分の家に入れて女房にした。けしからぬことである。その後、息子と娘が誕生したそうだ。しかし、新妻は家僕の八鳥と密通した。この男は逃亡した。新妻は父家輔のもとに帰ったが、許されなかった。そこで、還俗半ばで尼にした。このことにより、先日〈今月の初めごろのことだそうだ〉大納言は意気消沈し、新妻の出家を承知しなかったのだろうか。[  ]きっと承知するかという。そのうち典侍になるはずの者は、先妻の子だそうだ。

 

 「注釈」

「不可説」

 ─「ふかせち」。理解しがたい、けしからぬこと(「建武の新政の法」『中世政治社会思想』下、P91)。

 

*いくつか、きちんと解釈できないところがありますが、解釈どおりならすごい内容です。中御門宗継は、お寺で見つけた美少女の尼さんをそのまま拉致し、輿に乗せて連れ帰り、そのまま女房にしたそうです。なんと劇的な展開でしょうか。現代なら少女誘拐事件ですね。この時代の感覚としてはどうだったのでしょうか。「不可説」(けしからぬ)と表現しているからには、よい話ではなかったのかもしれません。

 さてその後、中御門夫婦は一男一女をもうけて幸せな生活を送っていたようですが、ここで家僕(おそらく侍身分の被官)の八鳥と新妻は密通してしまいます。八鳥は逃亡し、新妻は実父によって出家させられたようです。和姦か強姦かははっきりしませんが、両人とも命は助かったようです。

 以前に、「男女の仲も命懸け」という記事で、将軍の若君付き女房と僧侶の密通事件を紹介しましたが、その時女房は流罪、僧侶は斬首という処分でした。今回の場合、八鳥は逃亡しているので仕方ないのですが、新妻のほうは出家処分で済んでいます。処罰がゆるいような気がするのですが、何かしら処分の基準でもあるのでしょうか。中御門夫婦の間には一男一女がいるので、母親を流罪にしたり、殺害したりすることは、さすがに気が咎めたのかもしれません。