文安四年(1447)三月十四日条 (『建内記』8─32)
十四日、乙巳、天霽、
(中略)
傳聞、中御門大納言宗継卿、新妻者、月輪右衛門督家輔卿、息女也、元爲喝食在光香
院〈二条家門内也〉、宗継卿⬜︎[ ]許見付之、奪取令同輿、入室作女房、不可説事
也、其後男子・女子誕生云々、而密通家僕〈八鳥云々〉、件男逐電、女姓雖歸父許不
許容、仍於中途作尼云々、依此事去比今月初比事云々、大納言損気、不領状申歟、
⬜︎⬜︎⬜︎定領状歟云々、今称可爲典侍者、舊妻腹云々、
*割書は〈 〉で記載しました。
「書き下し文」
伝え聞く、中御門大納言宗継卿の新妻は、月輪右衛門督家輔卿息女なり、元喝食として光香院に在り〈二条家門内なり〉、宗継卿⬜︎[ ]ばかり之を見付け、奪ひ取り同輿せしめ、室に入れ女房と作す、不可説の事なり、其の後男子・女子誕生すと云々、而れども家僕(割書)「八鳥と云々」と密通す、件の男逐電す、女姓父のもとに帰ると雖も、許容せず、仍て中途に於いて尼と作すと云々、此の事に依り去る比〈今月初比の事と云々〉、大納言気を損じ、領状申さざるか、⬜︎⬜︎⬜︎定めて領状するかと云々、今に典侍に為るべしと称する者、舊妻の腹と云々、
「解釈」
伝え聞いた。中御門大納言宗継卿の新妻は、月輪右衛門督家輔卿の娘である。もとは喝食として光香院〈二条家の門内である〉にいた。宗継卿は[ ]この娘を見付け、奪い取って輿に同乗させ、自分の家に入れて女房にした。けしからぬことである。その後、息子と娘が誕生したそうだ。しかし、新妻は家僕の八鳥と密通した。この男は逃亡した。新妻は父家輔のもとに帰ったが、許されなかった。そこで、還俗半ばで尼にした。このことにより、先日〈今月の初めごろのことだそうだ〉大納言は意気消沈し、新妻の出家を承知しなかったのだろうか。[ ]きっと承知するかという。そのうち典侍になるはずの者は、先妻の子だそうだ。
「注釈」
「不可説」
─「ふかせち」。理解しがたい、けしからぬこと(「建武の新政の法」『中世政治社会思想』下、P91)。
【コメント】
いくつか、きちんと解釈できないところがありますが、解釈どおりならすごい内容です。中御門宗継は、お寺で見つけた美少女の尼さんをそのまま拉致し、輿に乗せて連れ帰り、そのまま女房にしたそうです。なんと劇的な展開でしょうか。現代なら少女誘拐事件ですね。この時代の感覚としてはどうだったのでしょうか。「不可説」(けしからぬ)と表現しているからには、よい話ではなかったのかもしれません。
さてその後、中御門夫婦は一男一女をもうけて幸せな生活を送っていたようですが、ここで家僕(おそらく侍身分の被官)の八鳥と新妻は密通してしまいます。八鳥は逃亡し、新妻は実父によって出家させられたようです。和姦か強姦かははっきりしませんが、両人とも命は助かったようです。
以前に、「男女の仲も命懸け」という記事で、将軍の若君付き女房と僧侶の密通事件を紹介しましたが、その時女房は流罪、僧侶は斬首という処分でした。今回の場合、八鳥は逃亡しているので仕方ないのですが、新妻のほうは出家処分で済んでいます。処罰がゆるいような気がするのですが、何かしら処分の基準でもあるのでしょうか。中御門夫婦の間には一男一女がいるので、母親を追放したり殺害したりすることは、子どもの手前、さすがに気が咎めたのかもしれません。