周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書8

   八 武田信賢安堵状寫

 

                         (別)

 安祥寺御法流、悉依御相傳、爲天下護持、相副東寺之佛舎利并勅筆

 与之上者、於當國聖道門家捴別當之旨申定訖、若有違背之族者、

 可成敗之状如件、

    (1460)

    長禄四年八月廿七日      大膳大夫源朝臣

   福王寺別當

     寛雅大僧都御房

 

 「書き下し文」

 安祥寺御法流、悉く御相伝に依り、天下護持の為、東寺の仏舎利并に勅筆を相別け授

 与せらるるの上は、当国の聖道門家に於いて総別当たるべきの旨申し定め訖んぬ、若

 し違背の族有らば、成敗を加ふべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 安祥寺の御法流をことごとくご相伝になったことにより、天下の護持のため、東寺の仏舎利や宸筆を分け与えられたうえは、安芸国真言宗寺院において、すべての統括者であるべきことを決め申し上げた。もしこの決定に背くものがいるならば、処罰するべきである。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「安祥寺御法流」─真言宗小野流の一つ。安祥寺隆快から相伝されたもの。1号文書の

         注釈参照。

「聖道門」─仏語。修行して、現世において迷いを断ち、聖者となって、悟りを得よう

      とする道。また、その教え。浄土教以外の諸宗。自力門。難行道。

「大膳大夫源朝臣」─安芸国分郡守護武田信賢。

福王寺文書7

   七 武田信賢禁制寫

 

   禁制 福王寺領山上山下條々

 一伐採山木

 一女人夜宿事

 一往来僧俗并乞食不入事

 一軍勢甲乙人等不入寺領

 一於寺領殺生事(割書)「但、大宮一頭狩者非制之限」

 右於違犯之輩者、不権門高家罪科者也、仍制札如件、

     (1460)

     長禄四年八月 日      大膳大夫源朝臣

 

 「書き下し文」

   禁制す 福王寺領山上山下條々

 一つ、山木を伐採する事

 一つ、女人夜宿する事

 一つ、往来の僧俗并に乞食入るべからざる事

 一つ、軍勢甲乙人等寺領に乱入すべからざる事

 一つ、寺領に於いて殺生すべからざる事(割書)「但し、大宮一頭狩は制の限りに非

    ず」

 右違犯の輩に於いては、権門高家を嫌はず罪科に處すべき者なり、仍て制札件のごとし、

 

 「現代語訳」

   福王寺領の山上山下に対して以下の条項を禁止する。

 一つ、領内の山木を伐採すること。

 一つ、女が坊舎に夜宿すること。

 一つ、領外の僧侶や俗人、ならびに乞食は、領内に入ってはならないこと。

 一つ、他領の軍勢や庶民が乱入してはならないこと。

 一つ、寺領で殺生をしてはならないこと。ただし、大宮一頭の狩は、禁止しない。

 右の条項に違犯したものについては、権勢の盛んな家柄を厭わず、処罰するべきものである。よって、制札の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「禁制」─特定の場所で特定のことを禁止する旨を告知する文書。制札、定書、掟書、

     法度も同じ。

「山上山下」─福王寺山の山頂や麓の坊舎か。

「武田信賢」─安芸国分郡守護

「大宮一頭狩」─未詳。福王寺のある可部庄の総鎮守は両延八幡宮なので(『広島県

        地名』)、大宮はそれを指すのかもしれません。

福王寺文書6

   六 安祥寺隆快叙位状寫

 

   大勝金剛院

    權大僧都寛雅

     冝叙法眼

   (1460)

   長禄四年八月廿七日

                別當權大僧都法眼大和尚位

                            判

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「大勝金剛院」─西安祥寺のことか。1号文書の注釈参照。ただ、22号文書「安藝国

        金龜山福王寺縁起寫」によると、中興の祖禅智上人が後醍醐天皇から

        この院号を賜ったことになっています。福王寺の院号は、1号・22

        号文書から「事眞院」と判明するので、縁起の記載は単なる誤りか、

        あるいは福王寺に「事眞院」と「大勝金剛院」という二つの塔頭があ

        ったのかもしれません。もう一つ考えられることですが、この文書で

        法眼を叙された寛雅はもともと西安祥寺の僧侶で、安祥寺嫡系隆快の

        弟子だったのではないでしょうか。隆快は法流を伝えるために、弟子

        の寛雅を福王寺に送り込んだのかもしれません。同日付の8号文書で

        は、寛雅は「福王寺別当」として現れています。そうなると、寛雅は

        京都の「大勝金剛院」の僧侶でありながら、安芸「福王寺」の別当

        もあることになります。二つの寺に同時に籍を置くという事例が他に

        あるのか知りませんが、寛雅は自身の出身寺院の名称を、新たな赴任

        先である福王寺の縁起に無理やりねじ込んだのかもしれません。

権大僧都」─僧正について僧侶を統括する僧官。大僧都権大僧都僧都少僧都

       権少僧都の五等にわかれている(『新訂 官職要解』)。

「法眼」─僧綱の僧位。僧都に対応した僧位が法眼。

「隆快」─出自の詳細は不明。幼少より高野山に居住して、同山宝性院に相承された安

     祥寺流(真言宗小野流の一つ)を、宝性院成雄から伝授された僧侶。長禄四

     年(一四六〇)までには、高野山を離れ、拠点を西安祥寺(上安祥寺・大勝

     金剛院・山科区上野)に戻した。隆快が拠点を西安祥寺に移して以後、嫡系

     安祥寺流の活動が活発化する。以前の伝法・教学等の門弟養成を中心とした

     活動から、失地回復の訴訟等、法流復興のための積極的な活動が現れ始め

     る。隆快はその活動を支えるための収入を得るために、積極的な法流伝播活

     動を開始する。隆快の関する一連の福王寺文書(1・5・6号文書)は、こ

     の結果と考えられています(鏑木紀彦「中世後期の安祥寺流について─隆

     快・光意の事跡を中心に─」『ヒストリア』257、2016・8)。

福王寺文書5

   五 福王寺僧官人数記寫

 

   福王寺之僧官位事

   權少僧都  五人

   權律師   十人

   阿闍梨   十人

 右廿五人、永代爲寺官昇進之事、不子細候、此外不競望之

 儀候也、

    (1460)

    長禄四年八月廿七日     安祥寺權大僧都隆快

                           判

   福王寺

     別當御房

 

 「書き下し文」

   福王寺の僧官位の事

   権少僧都  五人

   権律師   十人

   阿闍梨   十人

 右廿五人、永代寺官として昇進の事、子細有るべからず候ふ、此の外競望の儀有るべ

 からず候ふなり、

 

 「解釈」

   福王寺の僧官位のこと

   権少僧都  五人

   権律師   十人

   阿闍梨   十人

 右の二十五人は、永久に寺官として昇進することに異論があるはずもない。この他は競望してはならないのです。

 

 「注釈」

権少僧都」─僧正について僧侶を統括する僧官。大僧都権大僧都僧都少僧都

       権少僧都の五等にわかれている(『新訂 官職要解』)。

権律師」─僧綱第三位の僧官。律師には、大律師・(中)律師・権律師がある(『新

      訂 官職要解』)。

阿闍梨」─一般に弟子を教え、その師範となる高徳の僧の尊称(『日本国語大辞

      典』)。僧綱(僧官の場合、僧正・僧都・律師)の次の職分を有職(うし

      き)と呼ぶが、そのうちの一つ。

「安祥寺」─1号文書の注釈参照。

「隆快」─出自の詳細は不明。幼少より高野山に居住して、同山宝性院に相承された安

     祥寺流(真言宗小野流の一つ)を、宝性院成雄から伝授された僧侶。長禄四

     年(一四六〇)までには、高野山を離れ、拠点を西安祥寺(上安祥寺・大勝

     金剛院・山科区上野)に戻した。隆快が拠点を西安祥寺に移して以後、嫡系

     安祥寺流の活動が活発化する。以前の伝法・教学等の門弟養成を中心とした

     活動から、失地回復の訴訟等、法流復興のための積極的な活動が現れ始め

     る。隆快はその活動を支えるための収入を得るために、積極的な法流伝播活

     動を開始する。隆快の関する一連の福王寺文書(1・5・6号文書)は、こ

     の結果と考えられています(鏑木紀彦「中世後期の安祥寺流について─隆

     快・光意の事跡を中心に─」『ヒストリア』257、2016・8)。

「福王寺別当御房」─未詳。寛雅か。

 

*安祥寺の隆快が、福王寺の僧官の人数を規定した文書。福王寺では阿闍梨から権律

 師、そして権少僧都へと出世していくのだと思います。福王寺の寺僧たちは、この三

 つ以外の僧官を望むことはできなかったのだと思います。

福王寺文書4

   四 後花園天皇口宣案寫

 

   上卿 廣橋中納言

    (1459)

    長禄三年七月十一日   宣旨

     權少僧都寛雅

      冝轉權大

     蔵人頭右大辨兼山城守權藤原経茂奉

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「廣橋中納言」─広橋綱光。

 

「寛雅」─未詳。福王寺の住持か。

 

権少僧都

 ─僧正について僧侶を統括する僧官。大僧都権大僧都僧都少僧都権少僧都の五等にわかれている(『新訂 官職要解』)。

 

「宜任權大」─宜しく権大僧都に任ずべし(権大僧都に任命せよ)。

 

「藤原経茂」─勧修寺経茂。

 

権少僧都という僧官にあった寛雅が、権大僧都という僧官に任命された文書。権大僧都に対応する僧位は法眼になるのですが、別に僧位を授けられた文書が発給されているのかもしれません。