周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書18

   一八 沙弥乗光武田信在寄進状寫

 

 寄進

     安北郡               (奈ヵ)

  安藝国可部庄福王寺奥院大師御影堂免、同庄内小桑原田畠山所等事、

       (マ丶)

 右此免田等、致子々孫々違乱煩者、不子孫之状如件、

   (1400)

   應永七年正月十一日          沙弥乗光

  福王寺住持

 

 「書き下し文」

 寄進す

  安芸国可部庄福王寺奥院大師御影堂免、同庄内小奈原田畠山所等の事、

 右此の免田等、子々孫々に至り違乱煩ひ有らば子孫たるべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 寄進する

  安芸国安北郡福王寺奥院大師御影堂免田、同庄内小南原の田畠、山などのこと。

 右のこの免田等は、子々孫々の代に至り、秩序を乱し妨害することがあれば、子孫であるはずはない。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「小奈原」─小南原。南原村(安佐北区可部長南原、『広島県の地名』)のことか。

「福王寺住持」─未詳。

福王寺文書17

   一七 守護代沙弥惠一宛行状寫

 

 宛行 可部庄内重吉名主職

   合田數注文別紙在

   福王寺院主觀蜜坊

 右名者、先名主禪智房依子細、寺務職云彼名主分云被召放畢、雖

 以別儀下知也、早任先例限濟物御公事等可勤仕之状

 如件、

     (1336)

     建武三年六月廿八日

         御代官沙弥惠一

                判

 

 「書き下し文」

 充て行ふ 可部庄内重吉名主職

   合わせて田数注文別紙之在り

   福王寺院主観蜜坊

 右の名は、先の名主禅智房子細有るに依り、寺務職と云ひ彼の名主分と云ひ召し放たれ畢んぬ、然りと雖も別儀を以て下知を加ふる所なり、早く先例に任せ限り有る済物・御公事等を勤仕せられるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 福王寺院主観蜜坊に給与する 可部庄内重吉名主職のこと。

   すべての田数の注文は別紙にしてある。

 右の名については、前の名主禅智坊に問題があって、寺務職もこの名主職も没収されてしまった。しかし、格別の計らいによって給与の命令を下すところである。早く先例のとおりに、重要な年貢や公事などを納入なさるべきである。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「重吉名」

 ─安佐北区可部町大毛寺・可部町虹山。古くは重吉村といったが、のちに大文寺と改め、さらに大毛寺としたという。重吉の地名は建武三年(一三三六)六月二八日の守護代沙弥恵一宛行状写(福王寺文書)に「可部庄内重吉名主職事」、「延文四年(一三五九)一一月二二日に武田氏信安堵状写(同文書)に「福王寺領安芸国可部庄内重吉名事」とみえる。長禄四年(一四六〇)の安芸国金亀山福王寺縁起写(同文書)では、天長年間(八二四〜八三四)のこととして綾谷・九品寺・大毛寺三邑の朝廷よりの寄進を記しているが、遅くとも長禄年間には大毛寺の呼称が行われている(『広島県の地名』)。

 

「観蜜坊」─未詳。

 

「御代官沙弥惠一」─未詳。福王寺の院主に代わって、所領を経営する僧か。

福王寺文書16

   一六 武田光誠氏信書状寫

 

 不動堂建立事尤可然候、仍爲彼寺領苻中之堤興行事、在所繪圖加

 見畢、不子細候、且當堂被取立候後、寄附状等者重可進候、先

 以此状御興隆候也、恐々謹言、

      正月十七日         光誠

                      判

      福王寺坊主

           御返事

 

 「書き下し文」

 不動堂建立の事尤も然るべく候ふ、仍て彼の寺領のため府中の堤興行の事を始め、在所の絵図一見を加へ畢んぬ、子細有るべからず候ふ、且つ当堂を取り立てられ候ふ後、寄附状等は重ねて進らすべくそうろうふ、先ず此の状を以て御興隆有るべく候ふなり、恐々謹言、

 

 「解釈」

 不動堂建立のことは、当然りっぱなことです。そこで、不動堂の寺領のため、府中の築堤を始め、在所の絵図を一見した。異論があるはずもないです。その上、当堂をご建立になりました後に、寄進状などは重ねて進上するつもりです。まずこの書状をもってご興隆になるべきです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「不動堂」─未詳。福王寺の堂舎か。

「府中の堤」─未詳。

「福王寺坊主」─未詳。

福王寺文書15

   一五 武田光和安堵状寫

 

 福王寺別当職并諸末寺社家殊九品寺之事、任先判之旨寺務、不

 有修理勤行等懈怠之状如件、

      八月一日          光和判

     福王寺

 

 「書き下し文」

 福王寺別当職并に諸末寺社家殊に九品寺の事、先判の旨に任せ寺務を全うせられ、修

 理勤行等懈怠有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 福王寺別当職ならびに諸末寺・末社、とくに九品寺のこと。以前の安堵状の内容のとおりに寺の職務を全うなさり、修理・勤行等を怠ることがあってはならない。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「先判」─14号文書のことか。

「九品寺」─九品寺村。安佐北区可部町城。もと下南原村と称したが、慶長六年(一六

      〇一)の検地の時に、村内の地蔵堂の寺号にちなんで村民が九品寺村と答

      えたことから、この村名を得たと伝える(郡中国郡志)。「芸藩通志」は

      当村を南原筋に入れ、中世には南原郷に含まれていたことも考えられる

      が、明徳四年(一三九三)三月二九日付武田信在安堵状写(福王寺文書)

      は「可部庄九品寺事」と記し、可部庄内としている。九品寺は江戸時代末

      には地蔵堂を残すのみであったが、かつては真言宗の大寺であった(芸藩

      通志)。前述の武田信在安堵状写は、九品寺院主職を綾谷村の福王寺に返

      付させ安堵したものである(『広島県の地名』)。

福王寺文書14

   一四 武田信在安堵状寫

 

  安藝国可部庄九品寺事

 右當寺院主職者、先年御知行之間、如元返付于福王寺、別當良海阿闍梨

 之處也、仍全知行 天地長久之御祈禱可精誠之状如件、

    (1393)

    明徳四年三月廿四日       伊豆守信在判

 

 「書き下し文」

  安芸国可部庄九品寺の事

 右当寺院主職は、先年御知行の間、元のごとく福王寺に返付することを、別当良海阿闍梨申すの処なり、仍て知行を全うし天地長久の御祈祷精誠を致さるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

  安芸国可部庄九品寺のこと。

 右福王寺の院主職は、昨年良海に安堵され、その職務を執行なさってきたので、九品寺の院主職も元のように福王寺に返付することを、良海阿闍梨が申請してきたところである。そこで、職務を全うし、真心を込めて天地長久のご祈祷を致しなさるべきである。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「九品寺」─九品寺村。安佐北区可部町城。もと下南原村と称したが、慶長六年(一六

      〇一)の検地の時に、村内の地蔵堂の寺号にちなんで村民が九品寺村と答

      えたことから、この村名を得たと伝える(郡中国郡志)。「芸藩通志」は

      当村を南原筋に入れ、中世には南原郷に含まれていたことも考えられる

      が、明徳四年(一三九三)三月二九日付武田信在安堵状写(福王寺文書)

      は「可部庄九品寺事」と記し、可部庄内としている。九品寺は江戸時代末

      には地蔵堂を残すのみであったが、かつては真言宗の大寺であった(芸藩

      通志)。前述の武田信在安堵状写は、九品寺院主職を綾谷村の福王寺に返

      付させ安堵したものである(『広島県の地名』)。

「良海阿闍梨」─福王寺院主。