一五 武田光和安堵状寫
福王寺別当職并諸末寺社家殊九品寺之事、任二先判之旨一被レ全二寺務一、不レ可レ
有二修理勤行等懈怠一之状如レ件、
八月一日 光和判
福王寺
「書き下し文」
福王寺別当職并に諸末寺社家殊に九品寺の事、先判の旨に任せ寺務を全うせられ、修
理勤行等懈怠有るべからざるの状件のごとし、
「解釈」
福王寺別当職ならびに諸末寺・末社、とくに九品寺のこと。以前の安堵状の内容のとおりに寺の職務を全うなさり、修理・勤行等を怠ることがあってはならない。内容は以上のとおりである。
「注釈」
「先判」─14号文書のことか。
「九品寺」─九品寺村。安佐北区可部町城。もと下南原村と称したが、慶長六年(一六
〇一)の検地の時に、村内の地蔵堂の寺号にちなんで村民が九品寺村と答
えたことから、この村名を得たと伝える(郡中国郡志)。「芸藩通志」は
当村を南原筋に入れ、中世には南原郷に含まれていたことも考えられる
が、明徳四年(一三九三)三月二九日付武田信在安堵状写(福王寺文書)
は「可部庄九品寺事」と記し、可部庄内としている。九品寺は江戸時代末
には地蔵堂を残すのみであったが、かつては真言宗の大寺であった(芸藩
通志)。前述の武田信在安堵状写は、九品寺院主職を綾谷村の福王寺に返
付させ安堵したものである(『広島県の地名』)。