周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

土井泉神社文書3

   三 毛利氏奉行人連署知行付立

 

 飯室之内八幡領事、分米壹石九斗七升定、右之分前々任引付立之由

 候、社役等之儀被相調候事肝要候、仍一筆如件、

   (文禄)           山縣

    文三十月廿六日       宗兵衛(花押)

                 福井

                  太郎兵衛

                 錦織

                  太郎左衛門

                 日隈

                  神兵衛

     物申神右衛門尉殿

 

 「書き下し文」

 飯室の内八幡領の事、分米一石九斗七升定、右の分前々の引付に任せ立て置かるるの由に候ふ、社役等の儀相調へられ候ふ事肝要に候ふ、仍て一筆件のごとし、

    (1594)          山縣

    文禄三年十月二十六日    宗兵衛(花押)

   (以下略)

 

 「解釈」

 飯室内の八幡領のこと。分米は一石九斗七升。この分は以前の訴訟文書のとおりに、はっきりと社領として確立させなければならない、とのことです。社役などの件は、不足のないように備えることが大切です。そこで、一筆認めた内容は、以上のとおりです。

 

 「注釈」

「飯室」─安北郡広島市安佐北区安佐町飯室を領域とする国衙領。当村は「安芸榑」

     で名高い国内有数の杣地域の一角を占めていた(『講座日本荘園史 中国地

     方の荘園』吉川弘文館、一九九九)。

「分米」─斗代に面積を乗じて算出された貢租の米の高。銭で納入すると分銭(『古文

     書古記録語辞典』)。

「引付」─後日に判例とするため、詳細に書き留めておく訴訟に関する記録や文書。ま

     た、これをもとに訴訟を審判すること(『日本国語大辞典』)。

「物申」─祝詞などを奏すること(『日本国語大辞典』)。祝詞の奏上を役目とする神

     職か。

土井泉神社文書2

    二 杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状

 

 (安藝安北郡

 飯室之内

 預ケ申神田之事

   合米三石八斗八升

    畠半三十歩代七十貳文

    屋敷一つ

 

  右之内にて米貳石立申候、

           (放生會)

    但貳俵者八月之法しやう江同よころ二まつり使之、貳俵者九月九日

     流鏑馬        (修理)

    御やふさめ、用之、壹俵はしゆりあてかひおく候、

     (1591)

     天正十九年

      十二月十四日      杉原次郎左衛門尉(花押)

                  井尻又右衛門尉(花押)

      物申神右衛門尉殿

 

 「書き下し文」(漢字仮名交じりにしました)

 飯室の内

 預け申す神田の事

   合わせて米三石八斗八升

    畠半三十歩代七十二文

    屋敷一つ

 

  右の内にて米二石立て申し候ふ、

    但し二俵は八月の放生会、同じくよころ二まつりニ之を使ふ、二俵は九月九日

    御流鏑馬ニ之を用ゐる、一俵は修理ニ充て行ひ置く候ふ、

 

 「解釈」

 飯室のうち、預け申す神田のこと。

   都合米三石八斗八升。

    畠半と三十歩(二一〇歩)の代七十二文。

    屋敷一つ。

 

  右の中から、米二石を差し出し申し上げます。

    ただし、二俵は八月の放生会、同じくよころ二祭でこの米を使う。二俵は九月九日の流鏑馬でこれを使う。一俵は修理に給与します。

 

 「注釈」

「飯室」─安北郡広島市安佐北区安佐町飯室を領域とする国衙領。当村は「安芸榑」

     で名高い国内有数の杣地域の一角を占めていた(『講座日本荘園史 中国地

     方の荘園』吉川弘文館、一九九九)。

「杉原次郎左衛門尉」─未詳。毛利の家臣か。

「井尻又右衛門尉」─毛利の家臣か(村井良介「芸備国衆家臣団一覧表」、

          https://core.ac.uk/download/pdf/35266460.pdf)。

「よころ二まつり」─未詳。

「九月九日」─重陽節句か。流鏑馬神事を行っていたようです。

「修理」─未詳。

「一俵」─差し出した米は二石で、それを合計五俵に分けて祭祀や給与分として使用し

     ています。したがって、この地域の一俵は四斗俵であったと考えられます。

「物申」─祝詞などを奏すること(『日本国語大辞典』)。祝詞の奏上を役目とする神

     職か。

土井泉神社文書1

 解題

 この神社は天承元年(一一三一)甲斐国から勧請したものと伝える。江戸時代には飯室村八幡宮と呼ばれている。戦国時代には飯室にある土井城主三須氏と深い関係にあり、引地直種は「郡中国郡志」によると三須氏の家老である。社家河野氏は天文二十年(一五五一)、甚五左衛門が熊谷有直より神主を仰せつけられてからその職を相伝しているという。

 

 

   一 安芸国安北郡飯室八幡宮神田注文

 

     御神田

       安北郡

 一田三百目  宇津

 一田貳百目  市之奥

 一田貳百目  引地之前

 一田貳百目  たかとり

 したちより

 一田百目   こふけ

   合壹貫目之辻

     (1589)         引地宗左衛門尉

     天正十七年七月五日      直種(花押)

       河野弥太郎殿

 

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

「飯室八幡宮」─土井泉神社のこと。安佐北区安佐町飯室土居。鈴張川の東の山際、旧

        庄原街道の東側に鎮座し、品陀別尊を主神に祀る。旧村社。天承元年

        (一一三一)甲斐国から勧請したと伝え、中世には太田川沿いの宇津

        にあって飯室八幡宮と称したが、土居城主退転後に社殿を現在地へ移

        した。社蔵の天正一七年(一五八九)七月五日付の神田注文は、土居

        城主三須氏の家老引地直種が、神主河野弥太郎に宛てたもので、「宇

        津・市之奥・引地之前・たかとり・こふけ」などの地名がみえる。同

        一九年一二月一四日の杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状

        (社蔵)には、当社の神事として八月放生会・よころまつり・九月九

        日流鏑馬が記されている。

「辻」─合計(『日本国語大辞典』)。

中世の逆三枚起請!?

   一 行雲起請文 (町内文書『甲奴町誌』資料編)

 

 「解説」

 これは明治十九年(1886)に、甲奴町宇賀品谷の八幡神社の神像の体内文書として、時の社掌信野友幸氏が発見されたものである。

 現在町内に存在する古文書のうちで最も古いもので、傷みがひどくて内容を十分に把握することが困難であるが、宇賀の歴史を探求するのに不可欠の重要な史料である。

 

    白敬きしようもんの事

   (件ヵ)

   右⬜︎

 一なかはらのこけ[    ]もしぎよううん[    ]てふうふのおもいににご

                        (ヵ)

  る事候はゞ、一まんさせん諸仏[    ]ゑ⬜︎ほ[  ]六[  ]さ天

  [  ]大ほ天たいしやくの御ばちをぎよううんあつうふかうかうふらん

 一ひちいちのないしの事、きやううんもしめをとのやくそくにこるゝこと候はゝ、

                          (所ヵ)

  大日本国六十[    ]ゆうしんきめうとそ大明神⬜︎[    ]御ばちをぎや

  ううんあつふかうかうふらん

 一やまなかのむまの[  ]が事 もしぎやううん[  ]ふうふのやくそく⬜︎てに

                         (所ヵ)

  こるゝ事候はゝ[    ]国のちんしやうれう三⬜︎うかの三しやのやしろしなの

  八幡大菩薩の御ばちを、きゃううんあつうふかうかうふらん

 一しなのこけとふの事 もしきやううん[  ]て[    ]とのや

  [     ]候はゝ一五の[  ]て六十四[    ]まてを[    ]ん

  [    ]きゃうほうむなしうなりて なかく大むんけに□さいして 大自在天

  満天神の御はちを きやううんか八まんしせんのミのケのあなことにあつうふかう

  かむらん よてきやううんのしやう如件、

   (1382)

   永徳弐⬜︎十月三日

                      行 雲 花押

 

 「書き下し文」

*漢字仮名交じり文に改めました。『甲奴町誌』(1994)の解説を参照しましたが、私の推測に基づいて、いくつか改めた箇所があります。

 

    敬白起請文の事

   右件

 一つ、中原の後家[    ]若し行雲[    ]て夫婦の思いに濁る事候はば、

  一万三千諸仏[    ]ゑ⬜︎ほ[ ]六[ ]さ天[ ]大梵天帝釈の御罰を行

  雲厚う深う蒙らん、

 一つ、小童市の内侍の事、行雲若し夫婦の約束ニ濁るる事候はば、大日本国六十余州

  大小神祇冥道大明神所[ ]御罰を行雲厚う深う蒙らん、

 一つ、山中のむまの[ ]が事、若し行雲[ ]夫婦の約束にて濁るる事候はば、

  [    ]国のちんしやうれう三所、宇賀の三社の社、品の八幡大菩薩の御罰

  を、行雲厚う深う蒙らん、

 一つ、品の後家とふの事、若し行雲にて夫婦の約束濁るる事候はば、一五の[ ]て

  六十四[    ]まてを[    ]ん[    ]きゃうほう空しうなりて、

  永く大むんけに⬜︎さいして、大自在天満天神の御罰を行雲か八万四千の身の毛の穴

  毎に厚う深う蒙らん、仍行雲の状如件、

   永徳弐年十月三日

                      行 雲 花押

 

 「解釈」

 一つ、中原の後家のこと。もし私行雲の妻への愛情が濁るようなことがありますなら、一万三千の諸仏諸神、大梵天帝釈天の御罰を厚く深く蒙りましょう。

 一つ、小童の市場の内侍のこと。もし行運が夫婦の約束を違えるようなことがありますなら、大日本国六十余州の大小の諸神・諸仏・大明神の御罰を行雲は厚く深く蒙りましょう。

 一つ、山中の右馬のこと。もし行運が夫婦の約束を違えることがありますなら、国の鎮守三所、宇賀村の三社、品の八幡大菩薩の御罰を、行雲は厚く深く蒙りましょう。

 一つ、品の後家とふのこと。もし行運が夫婦の約束を違えることがありますなら、(解釈できず)、大自在天満天神の御罰を、行雲の八万四千の身の毛の穴ごとに、厚く深く蒙りましょう。よって、行雲の起請文は以上の通りです。

 

*「いやな起請を書くときにゃ、熊野でカラスが三羽死ぬ」。古典落語三枚起請」の台詞を捩って言えば、この場合、「宇佐で鳩が三羽死ぬ」のかもしれません。この史料は厳密に言うと「三枚起請」ではなく、ただの「一枚起請」なのですが、その一枚の起請文のなかで、四人の女性との変わらぬ愛を誓っています。

 さて、いやな起請文を書いたのかどうかわかりませんが、差出人の行雲は起請文を認めて、品の八幡神社の御神像の胎内に込めました。四人の妻の詳細は分かりませんし、どの女性が正妻なのかもはっきりしませんが、彼女たちの在所はそれぞれ異なっているので、別居しているようです。また、そのうち二人は「後家」さんです。一夫多妻制の時代であったといえばそれまでですが、中世の日本は「女は男に倍す」という状況でした(井原今朝男「祈禱・呪術を否定する中世仏教」『中世寺院と民衆』臨川書店、2004、281頁)。女性が一人で生きていくには厳しい時代だったのかもしれません。

 それにしても、この起請文については、作成の状況や背景がよく分かりません。いったい、どのような場で書かれたのでしょうか。行雲一人が神前で一通の起請文を書いたのか。それとも、行雲は、四人の妻と神の御前で起請文を書いたのか。この場合、ものすごい修羅場を想像してしまいます。そもそも、四人の妻への愛を誓うのに、なぜ四枚の起請文を書かなかったのでしょうか。面倒だから一枚で済ませたなどと口走れば、それこそ修羅場になりそうです。四人の妻が徒党を組み、平等に愛情を注ぐように行雲に迫り、起請文を書かせたと想像するとおもしろいのですが。

 行雲は自主的に、四人の妻への変わらぬ愛を誓った起請文を、八幡神に捧げたと考えられないことはないですが、その理由がまったく分かりません。ラブレターや紙切れ同然の価値しかなくなった婚姻届とは訳が違います。三角関係ならぬ五角関係ということになりますが、何がしかのトラブルでもなければ、神仏を仲立ちにした起請文など書かないのではないでしょうか。何せ約束を破れば、体中の毛穴という毛穴に神罰を蒙るわけですから、これは恐ろしい誓約です。

 行雲は同様の起請文を四人の妻に渡したのか。それともそれぞれの妻宛に起請文を一通ずつ書いて、四人の妻の名をまとめて記した起請文を御神像の胎内に込めたのか。品の八幡神社以外の村の社、つまり四人の妻の在所の鎮守にも納めたのか。はたまた、他に書いた起請文は、一味神水のように焼いて灰にして飲んだのか。分からないだけに、いろいろと想像できておもしろいです。

須佐神社文書 参考史料2の8(完)

   五〇 小童祇園社祭式歳中行事定書 その8

 

 一十日

  御注連揚ヶ之式 御注連下シ与同様

  若宮遊之事

    若宮引於拝殿  (割書)「右陸奥左刑部」神宮寺勤之

    同神楽散物   三太夫三ツ割ニ納

  若宮附之事    陸奥

   礼物三匁 散米二升同人ニ納

    布料弐匁     神前当人

     四ツ割仁シテ配分   中座 但陸奥モ人数割之事

                東座

                西座

  御供精進備

    賄方者壱度宛之事

    願主銘々弁 但数有之時者模相ニテ取計申事

 一九日ヨリ十日晩迄散物末社等配分放生会ニ同(割書)「潤月者本月並」

 一年中祭日神殿御戸開次第三太夫社参可仕事

 一郡中祈祷之節三太夫モ参詣之事

 一常夜灯 神宮寺ヨリ調ス但其料畑有

 一神前御幣 神宮寺ヨリ調申事

 一御本社鍵取  祢宜実光

    以 上

   此書別当エ壱通禰宜エ壱通三太夫エ壱通相納置毎歳正月十四日初祭当之節披露可

   仕事

  右年中行事祭式旧記雖有之、歳霜隔無拠指縺等出来彼是博変之儀有之、当度願出、

  御出役在テ拒障之義等夫々御改之上、銘々勤方納得一同例座シ書載連印相違無之上

  者、毛頭違背不仕、永々無怠謾弥以於神前御武運長久、五穀成就之旨抽丹精相勤可

  申、依テ向後違乱為無之御奥書願受定書如件、

         当時

         今高野山安楽院ヨリ兼帯別当神宮寺印

   (1836)           禰宜 伊達紀伊守印

   天保七年          幣取 広田陸奥正印

    丙申六月         国宗 田中 形部印

                舞神子 陶山加賀正印

               武塔神主 近藤出雲正印

               妙見祢宜   貞兵衛印

               山王祢宜   与兵衛印

               天神祢宜   新五郎印

               厳嶋祢宜   留十郎印

               竜王祢宜   吟 蔵印

               比叡祢宜   保 蔵印

               八幡祢宜   仙 吉印

               君達祢宜   増 蔵印

              八将神祢宜   万 吉印

                神子役   伴次郎印

                大頭役   周兵衛印

                御加役   自 然印

                同     熊五郎

                同     文三郎印

               頭庄屋

               庄屋兼帯

                   直右衛門殿

               出役

               田打村庄屋

                   五右衛門殿

               出役

               戸字村庄屋

                   作右衛門殿

                庄屋

                   茂 三 郎殿

                庄屋

                   喜代兵衛殿

                庄屋格

                組 頭

                   万 兵 衛殿

                組頭

                   森 太 郎殿

                組頭

                   六右衛門殿

  右之通定書相調申候処少シ茂相違無御座候間、乍恐御奥書奉願上候以上

   丙申              頭庄屋

                    庄屋兼帯

    六月               直右衛門印

                   出役

                    田打村庄屋

                     五右衛門印

                   出役

                    戸字村庄屋

                     作右衛門印

                   庄屋

                     茂 三 郎印

                   庄屋

                     喜代兵衛印

                   庄屋格

                   組 頭

                     万 兵 衛印

                   組頭

                     森 太 郎印

                   組頭

                     六右衛門印

   村方

    御役所

     前書之趣承届候、後来定之通違乱

     無之様可取計者也

  申六月 村方

        御役所 印

   御奥書者時之       伊達紀伊

   御代官星野正太夫様     藤原朝臣実本書之

 

   おわり

 

*書き下し文は省略します。

 

 「解釈」

 一つ、十日。

  御注連縄上げの儀式。御注連縄下げの儀式と同様。

  若宮遊のこと。

    若宮引は、拝殿で、右が広田陸奥、左が田中刑部、そして神宮寺が勤める。

    若宮の神楽の供物は、三太夫(広田陸奥・田中刑部・陶山加賀)が三つに割り

    納める。

    若宮附のこと。広田陸奥の役。

     礼物三匁と散米二升は同広田陸奥に納める。

      布料二匁は神前両人(本社大禰宜伊達紀伊守・神宮寺別当)に納める。

       四つに割って配分する。 中の座。東の座。西の座。ただし、陸奥も人

       数に含めて割ること。

  御精進供を供える。

    賄い方は一度ずつのこと。

    願主がそれぞれ支払う。ただし、数が多いときには、物相で取り計らい申すこ

    と。

 一つ、九日から十日の晩までの供物を末社等に配分する。放生会と同じ。閏月は九月

 並み。

 一つ、年中の祭日では、神殿の御戸を開き次第、三太夫が社参しなければならないこ

 と。

 一つ、甲奴郡中の祈祷のとき、三太夫も参詣すること。

 一つ、常夜灯は、神宮寺が調進する。ただし、その費用を拠出する畑がある。

 一つ、神前の御幣は神宮寺が調進すること。

 一つ、御本社の鍵取り役は禰宜の実光。

    以上。

   この書は神宮寺別当へ一通、禰宜伊達紀伊守へ一通、三太夫へ一通、それぞれ納

   め置き、毎年正月十四日の最初の月次祭のときに披露しなければならないこと。

  右の年中行事の祭式には旧記があるけれども、年月が隔たり、なんともしがたい混

  乱が出てきて、あれやこれやと幅広く変わってしまったところがある。この度我々

  が願い出て、神事の役目を辞退するものがいる件などを、それぞれ兼役のお役人が

  お改めになり、神事を勤めるものがそれぞれに納得し、一同がいつものように座

  り、印を連ねることに間違いないうえは、けっしてこの内容に背いてはならない。

  永久に怠ることなく、ますます神前において武運長久や五穀豊穣を、心を込めて祈

  祷し申し上げなければならない。そこで、今後違乱のないよう、御代官様の御奥書

  を願い受ける定書は、以上のとおりである。

 

   (神職の署判、充所の役人名は省略)

 

  右の通り、定書を調え申しましたところ、少しも間違いはありませんので、恐れな

  がら役人一同、御代官様に御奥書を願い申し上げます。以上。

 

   (役人の署判は省略)

 

   村方

    御役所

     前書の内容は承りました。後々、定書の通りに違乱のないよう、取り計らわ

     なければならないものである。

  天保七年(一八三六)六月 村方御役所 印

   御奥書は、時の御代官星野正太夫様。

   伊達紀伊守藤原朝臣実本がこれを書いた。

 

   おわり

 

 「注釈」

「若宮遊」─未詳。若宮社の前で行われる神事舞か。

 

「若宮引」─未詳。

 

「若宮附」─未詳。

 

「神前当人」

 ─「神前両人」の誤記か。それなら「神宮寺別当と大禰宜伊達紀伊守」の二人を指す。

 

「模相」

 ─「物相・盛相」のこと。飯を盛ってはかる器。ふつう円筒形の曲物で、これに飯を押し込んで型に抜き供する。多く寺院などで用いられる(『日本国語大辞典』)。

 

「出役」

 ─江戸時代、本役のほかに、臨時に他の職務を兼ねること。また、その役人(『日本国語大辞典』)。

 

「拒障」─辞退すること(『日本国語大辞典』)。