周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

中世の最先端医療

【史料1】

  応永二十三年(一四一六)九月二十二日条 (『看聞日記』1─65頁)

 

                         (法安寺僧)

 廿二日、晴、瘧病発日也、暁弘法大師御筆以下濯之呑、良明房令加持、然而又発了、

  但聊軽分なり、

 

 「書き下し文」

 二十二日、晴る。瘧病発る日なり、暁に弘法大師の御筆以下之を濯ぎ呑む、良明房加

  持せしむ、然れども又発り了んぬ、但し聊か軽分なり、

 

 「解釈」

 二十二日、晴。今日は、マラリアの発作が起こる日である。そのために明け方、マラリア除けのため、弘法大師の筆を濯いだ水を飲んだ。さらには、法安寺の僧である良明房にお祈りもしてもらった。それなのに発作は起こった。ただし症状はやや軽かった。

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(三)」(『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』42、2015・3、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=219&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「瘧病」─わらわやみ。間欠熱の一種。悪寒・発熱が、隔日または毎日、時を定めてお

     こる病気。マラリアに似た熱病。おこり。えやみ(『日本国語大辞典』)。

「法安寺」─京都市伏見区深草大亀谷五郎太町近辺にあった寺院か(『京都府の地名』

      平凡社)。

 

 

*科学と宗教(呪術)が未分離だった中世では、こうした医療措置は当たり前のことだったのでしょう。弘法大師の筆とはいえ、それを濯いだ水を飲むなんて、なんとも非科学的なことを信じるものだと呆れてしまいそうです。が、弘法大師の筆が本物であるならば、この方法は、一部の高貴な身分の人々だけが享受できる医療行為ということになります。

 迷信じみた民間療法なら、私も知っています。風邪をひいたときには、長ネギを首に巻く。鼻血が出たときには、頚椎を2、3回叩く。前者は、大正生まれの亡くなった祖母から聞きました。後者は、幼いころ父親にやられて、実際に鼻血が止まりました…。

 今回の事例に近いところでいえば、呪符を飲むというのもあります。まるで一味神水の作法のようですが、幼いころ、どこかのお寺でいただいた呪符を細かく切って、水と一緒に飲み込んだことを覚えています。どんなご利益があったのか、さっぱりわかりませんが…。

 最先端の科学技術が猛威を振るう昨今、こうした民間療法や呪術はしだいに消え去りつつあります。ですが、西洋医学を盲信する一方で、お守りや祈祷をありがたがる現代人の姿をみると、その心性が中世人とすっかり変わってしまったとも思えません。

 さて、瘧病の治療法は他にもあります。

 

 

【史料2】

  応永二十四年(一四一七)閏五月十七日〜二十三日条

                         (『看聞日記』1─131頁)

 

                            〔違〕 

 十七日、晴、昼程有風気、以外病悩、若瘧病歟、十五日聊有遣例之気、不審、

        〔違〕

 十八日、自今暁遣例取直、瘧病之条勿論歟、

      (法安寺僧)

 十九日、晴、良明房参令加持、其外大師御筆等濯之呑、不動・愛染王行法一座、

  良明懃仕、自未斜更発、以外大事也、散々式也、

 廿日、雨降、自暁違例醒了、抑退蔵庵僧以筭落瘧病云々、病者之年瘧病発最初之

           (田向経良)

  日注賜可落之由申、三位挙申之間如然注遣了、

 廿一日、雨降、払暁良明参令加持、又彼僧以筭落云々、自昼程再発、但夕方醒了、

  若影歎、

                       〔違〕

 廿三日、晴、晩夕立降、良明参令加持、心神聊雖遣例無発儀、於干今落歟、併良明

  加持、彼僧筭術効験歟、可貴可喜、々々々々、

 

 「書き下し文」

 十七日、晴る、昼の程風気有り、以ての外の病悩、若しくは瘧病か、十五日に聊か違例の気有り、不審、

 十八日、今暁より違例取り直す、瘧病の条勿論か、

 十九日、晴る、良明房参り加持せしむ、其の外大師御筆等之を濯ぎ呑む、不動・愛染王行法一座、良明勤仕す、未だ斜めならざるより更に発る、以ての外の大事なり、散々の式なり、

 二十日、雨降る、暁より違例醒め了んぬ、抑も退蔵庵の僧筭を以て瘧病を落とすと云々、病者の年と瘧病の発る最初の日と注し賜ひて落とすべきの由申す、三位挙げ申すの間然るがごとく注し遣はし了んぬ、

 二十一日、雨降る、払暁良明参り加持せしむ、又彼僧筭を以て落とすと云々、昼の程より再発す、但し夕方に醒め了んぬ、若しくは影か、

 二十三日、晴る、晩に夕立降る、良明参り加持せしむ、心神聊か違例と雖も発る儀無し、今に於いて落つるか、併しながら、良明の加持、彼の僧の筭術の効験か、貴ぶべし喜ぶべし、々々々々、

 

 「解釈」

 十七日、晴。お昼頃に風邪のような症状がでて、とても苦しかった。もしかしたらマラリアかもしれない。この前の十五日にもちょっと体調がおかしかった。不審なことである。

 十八日、今日の明け方に病状がよくなった。これはやはりマラリアに違いない。

 十九日、晴。良明房が来て、マラリア退散の祈祷をしてくれた。その他にも、弘法大師の御筆などを灑いだ水を飲んだりした。不動明王愛染明王の法会を一回、良明房が勤めてくれた。午後三時前にマラリアが再発した。とてもひどい病状だ。散々な目に遭った。

 二十日、晴。明け方からマラリアの症状が収まった。さて退蔵庵の僧が算木でマラリアを治すという。病人の年齢とマラリアが発症した最初の日を書いて渡して下されば、マラリアを落としてさしあげますという。田向三位が勧めるので、それぞれの数字を書いて渡した。

 二十一日、雨が降った。明け方、良明房が来て、加持祈祷をしてくれた。また退蔵庵の僧が算木を使ってマラリア治しをしてくれたという。昼頃から再発したが、夕方には治まった。もしかしたら治りかけているのかもしれない。

 二十三日、晴。夕方、にわか雨が降った。良明房が来て、加持祈祷をしてくれた。気分はまだよくないが、マラリアの発作は起きていない。もう今は治ったのだろう。いずれにせよ、すべては、良明房の祈祷とあの僧の算木の効き目であろうか。尊ぶべき法力であり、かつまた、うれしいことである。

 

*解釈、注釈は、薗部寿樹「『看聞日記』現代語訳(五)」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』51、2015・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=209&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「筭(さんぎ)」─占いや計算に用いる木札。

 

 

弘法大師の筆の濯ぎ水、良明房の祈禱、そして退蔵庵僧の算木を使った呪術。何が効いたのかさっぱりわかりませんが、瘧病は治ったようです。こういうのをプラシーボ効果というのでしょうか。西洋医学至上主義者の私には、こんな説明しか思いつきません…。

 さて、退蔵庵の僧侶が用いた「算術」「算道」ですが、これには計算や数学だけでなく、吉凶を占ったり、人を呪い殺したりすることもできる、魔術的なイメージがあったそうです(「和算の時代: 日本人の数学力をたどる: 平成15年度京都大学附属図書館公開企画展」2003・11、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/141905/1/wasan.pdf)。

 算術の呪術的なイメージを象徴的に表した説話が、『今昔物語集』(第24巻第22「俊平入道の弟筭の術を習ふ語」)、『宇治拾遺物語』(巻第14の11「高階俊平が弟の入道算術の事」)にあります。両者はほぼ同じ内容で、「算術には病人を治す術がある」と記載されています。こうした呪術効果は、室町時代でも信じられていたようで、僧侶たちが呪術的医療の担い手として、日本各地で活躍していたのでしょう。

 それにしても、手厚い呪術的医療行為です。病気に罹ったときに、いったいどれだけの中世人が、これほどの贅沢な治療を受けられたのでしょうか。大した処方もされず、そのまま命を落とした庶民は数知れず、なのでしょうが、タフな民衆のこと、彼らには彼ら独自の呪術的医療知が集積されていたのではないでしょうか。

芸藩通志所収田所文書6

    六 平兼資解并外題

 

     (外題)

      「下 田所

        [        ]

                   勧農使散位(花押)」

 散位平兼資解 申請公廨給出入事

  合壹町

   除

   賀茂郡

    西条一丁 本免

   請

    武清村一丁

  右、依例出入請文、以解、

      (1183)

      壽永二年七月 日

                     (散位平)

                     [   ]兼資

 

 「書き下し文」

     (外題)

      「下す 田所

        [        ]

                   勧農使散位(花押)」

 散位平兼資解し申し請ふ公廨給出入の事

  合わせて一丁

   除く

    西条一丁 本免

   請ふ

    武清村一丁

  右、例に依り出入りを請ふ文、以て解す、

 

 「解釈」

 散位平兼資が願い申し出る、公廨給田の相博のこと。

  都合一丁。

   西条の本免田一丁を公廨田から除く。

   武清村一丁を公廨田に入れることを願う。

  右の件は、先例のとおりに公廨田の交換を願う。以上、お願い申し上げます。

 

 

 「注釈」

「勧農使」─中世、勧農のために、領主から現地に遣わされた使者。また平氏政権下で

      寿永二年(一一八三)安芸国において国衙の勧農使が現地に派遣されてお

      り、元暦元年(一一八四)にも北陸道に勧農使を派遣しており、のちの守

      護の源流と考えられている(『古文書古記録語辞典』)。

「本免」─本免田とも。荘園成立時の免田部分。以後に課役免除となった部分は新免田

     である(『古文書古記録語辞典』)。

「武清村」─未詳。

「公廨田」─くげでん・くがいでん。①太宰府官人および国司に支給された職田、不輸

      租田。②天平宝字元年(七五七)以後、諸司公廨田が設置され、これが各

      官衙の独自の財源となり官衙領化した(『古文書古記録語辞典』)。

芸藩通志所収田所文書5

    五 安藝国司廳宣

 

 廳宣  田所

      (兄)

  補任執事完部職事

   散位藤原朝臣經兼

 右人、爲相傳譜代之上、任親父兼信之譲状、補任如件、冝承知、依

 用之、以宣、

     (1122)

     保安三年十二月九日

           (爲忠)

 大介兼皇后宮權大進藤原朝臣(花押)

        ○本文書ニ「安藝國印」五アリ

 

 「書き下し文」

 庁宣す 田所

  補任す、執事兄部職の事、

   散位藤原朝臣経兼

 右人、相伝譜代たるの上、親父兼信の譲状に任せ、補任すること件のごとし、宜しく

 承知し、宣によりて之を用ゐよ、以て宣す、

 

 「解釈」

 国司が田所の藤原経兼に下達する。

  補任する、執事兄部職のこと。

 右の人は、執事兄部職を相伝してきた系譜であるうえは、親父兼信の譲状のとおりに、補任するところである。よく承知し、この庁宣のとおりに経兼を田所執事に用いよ。以上、下達する。

 

*「注釈」は一号文書参照。

芸藩通志所収田所文書4

    四 藤原兼信解并安堵外題

 

         (外題)

         「任親父兼信朝臣譲状、可令[  ]

                       (大介藤原爲忠)

                          (花押)」

                   (國裁事ヵ)

 田所惣大判官代藤原朝臣兼信解 申請[    ]

  請被且任譲状旨且依申状理裁定給、以男經兼朝臣、欲

  田所文書執行職子細状

   副進譲状壹通

 右、謹撿事情、兼信⬜︎従幼少[    ]跡數代之間、令恪勤之事

 然間齢漸及八旬之筭、不行歩、仍以男經兼年来之間、令彼勤

 来者、相副 國判行彼事、望請[    ]傳之譲状、被定補

   (弥)  (ヵ)

 者、⬜︎成其勇奉公之忠節、謹解、

     (1122)

     保安三年十二月九日     散位藤原兼信

 

 

 「書き下し文」

        (外題)

         「親父(外題)兼信朝臣の譲状に任せ、[ ]しむべし」

 田所惣大判官代藤原朝臣兼信解し申し請ふ国裁の事、

  且つうは譲状の旨に任せ、且つうは申状の理に依り、裁定せられ給ひ、男経兼朝臣を以て、田所文書執行職に補せられんと欲するを請ふ子細の状、

   副へ進らす譲状一通

 右、謹んで事情を検ずるに、兼信[  ]の間、恪勤の事を致さしむ、然る間齢漸く八旬の算に及び、行歩に能はず、仍て男経兼を以て、年来の間彼の勤めを致し来たらしむてへり、国判を相副へ彼の事を執行せしめんと欲す、望み請ふ[  ]、定め補せられば、弥々其の勇みを成し奉公の忠節を致す、謹んで解す、

 

 「解釈」

 「親父兼信朝臣の譲状のとおりに、経兼に田所文書執行職を勤めさせよ。」

 田所惣大判官代藤原朝臣兼信が願い申し出る、国司の裁許のこと。

  譲状の内容に任せ、また申状の道理により、裁定なされ、子息経兼朝臣を、田所文書執行職に補任なさってほしいと願い出た事情を記した解状。

   譲状一通を副進する。

 右の件について、事情を調べてみると、私兼信は幼少のころから、[  ]田所文書執行職を数代にわたって相伝し、奉公してきた。そうしているうちに、しだいに時が経って私の年齢も八十代になり、歩くことができなくなった。そこでここ数年、子息の経兼に、田所文書執行の仕事を勤めさせてきた、ということである。国司の印判を副えていただき、経兼に政務を執り行わせてほしい。[  ]もし経兼に執行職が決まり補任されるなら、ますます励んで奉公し、忠節を尽くします。以上、謹んで願い出ます。

 

*「注釈」は一号文書参照。

芸藩通志所収田所文書3

    三 藤原兼信譲状

 

  (渡)

 譲⬜︎

   (田所執)

   [  ]事

           (帯)               (雖)

 右件職、為相傳之所滞、而於[  ]經兼譲与如件、縦⬜︎有[   ]蒙

  (宣ヵ)      (状)

 國定之)、仍勒事⬜︎譲状如件、

      (保安)

     [  ]三年十二月九日

                        (兼信)

                田所惣大判官代藤原朝臣(花押)

 

 「書き下し文」

 譲り渡す

  田所執事

 右件の職、相伝の所帯たり、而るに[  ]経兼譲与すること件のごとし、

 縦ひ[  ]有りと雖も、国宣之を蒙るべし、仍て事状を勒す、譲状件のごとし、

 

 「解釈」

 譲り渡す田所執事職のこと。

 右の職は、相伝してきたものである。[  ]経兼に譲与するところである。たとえ[  ]あったとしても、安堵の庁宣をいただくべきである。そこで事情を書き上げた。譲状は以上のとおりである。

 

*「注釈」は一号文書参照。