周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

荒谷文書2

    二 小早川興景感状

 

 就小田高屋取合之儀、差遣候之処、去月晦日矢疵之段、神妙之至祝着候、

 弥於向後馳走肝要也、仍感状如件、

     (1536)

     天文五年卯月三日         興景(花押)

           (吉長)

         荒谷内蔵丞殿

 

 「書き下し文」

 小田・高屋取り合ひの儀に就き、差し遣はし候ふの処、去月晦日矢疵を被るの段、神妙の至り祝着に候ふ、いよいよ向後に於いて馳走肝要なり、仍て感状件のごとし、

 

 「解釈」

 小田と高屋を取り合っている件について、(あなたを)派遣したところ、去る三月晦日に矢傷を受けたことは、このうえなくけなげなことで満足しております。今後はますます奔走することが大切です。感状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「小田」

 ─現賀茂郡河内町小田、大和町箱川。宇山村の東南に位置し、北は椋梨村(現大和町)と接する。和木村(現大和町)から整流する椋梨川は当村東南部で西から支流小田川と合して南流。周辺の山地には緩傾斜面が発達し、小田川流域の平地は盆地状の景観を呈する。水利に関しては早くから椋梨村と関係が深く、椋梨村川の山頂に溜池を造り、灌漑用水を賄っていた。小田川北岸の嶽ヶ平古墳群、椋梨川沿いに深山古墳群があり、須恵器などが出土。当村は沼田新庄に属し、仁治四年(1243)二月日付安芸沼田新庄方正検注目録写(小早川家文書)に、小田の畝数三五町九反二四〇歩のうち、除田三丁一二〇歩・定田三二町九反一二〇歩、所当米五石二斗八合とみえる。正平二〇年(1365)四月五日の足利直冬御教書(熊谷家文書)により、熊谷直経は小田郷(小早川範平跡)地頭職を内部庄(現高田郡)内の本知行分の替地として宛行われている。鎌倉時代に小早川季平の子信平が一分地頭として当村に入り、小田を名乗っているが(小早川家系図)、嘉吉元年(1441)三月十六日付幕府奉行人連署奉書案(小早川家文書)の小早川有力庶子家のうちに小田出雲守、宝徳三年(1451)九月吉日付の小早川本庄新庄一家中連判契約状(同文書)の紙背傘連判には小田景信の名がみえる。室町時代の小早川氏一族知行分注文(同文書)に小田三七五貫文とあり、椋梨氏の四〇〇貫文に次ぐ勢力であった。村山家檀那帳(山口県文書館蔵)天正九年(1581)分の小田の項に、小早河又三郎・同藤松・恵明寺・真光寺・広法寺・正法寺などが見え、小早川家座配書立(小早川家文書)の同十一年分の筆頭に小田殿とある(『広島県の地名』平凡社)。

 

「取合」

 ─①互いに先を争って取ること。②たたかい争うこと。いさかい。けんか。闘争。③つりあっていること。とり合わせ。配合。④とりあげること。相手になること。話にのること。⑤とりもつこと。仲介すること。とりなすこと。⑥物と物とのつぎ目。接触点。また、さかいめ。関西地方でいう語(『日本国語大辞典』)。①なら「小田と高屋とを取り合っている件について」、②なら「小田と高屋とが争っている件について」、⑤なら「小田と高屋の仲介の件について」という訳になりますが、どの解釈を採用するべきか決めかねています。

荒谷文書1

解題

 荒谷保之家の系図によると、応永のころ源宗供の次男が荒谷善一郎吉信と称し、永享三年(一四三一)芸州へ下向する。文明三年(一四七一)本郷亀の城に移る。その後は尚之丞元信 彦二郎根吉 内蔵丞吉長 善五郎勝長となっている。

 荒谷斌幸氏所蔵の文書は本文書の写である。同家の系図によると、永享三年(一四三一)荒谷善一郎重良は備中国高松城下より安芸国へ下向し、竹原小早川氏に従う。重良が初代で、二代良右衛門重道 三代長左衛門重宗 四代喜一郎重長 五代内蔵之丞重高 六代善四郎重景と続いている。同家は中世以来の土居形式の屋敷を今に伝えている。

 

 

    一 小早川弘平預ケ状写

   尚々河内左馬助重而扶持候半名之事候、

                               (安芸賀茂郡

 就祝儀取替之事申候処、料足拾貫文卅俵給候、喜入候、為返弁三津之村太郎

              (マヽ)

 丸半名之事、預遣候、相当之さゐ取知行あるへく候、已後者為給所扶持申候

 也、諸公事者任先例其沙汰候、河内左馬助手次知行候へく候也、謹言、

     永正二年(1505)

       十二月二日          弘平(花押写)

           (根吉)

         荒谷彦二郎殿

 

 「書き下し文」

 祝儀取り替への事に就き申し候ふ処、料足拾貫文・三十俵を給はり候ひ、喜び入り候ふ、返弁として三津の村の太郎丸半名の事、預け遣はし候ふ、相当の財(ヵ)を取り知行あるべく候ふ、已後は給所として扶持し申し候ふなり、諸公事は先例に任せ其の沙汰有るべく候ふ、河内左馬助手次知行し候ふべく候ふなり、謹言、

   なほなほ河内左馬助重ねて扶持し候ふ半名の事に候ふ、

 

 「解釈」

 祝いの品物を取り替えることについて申し上げましたところ、銭十貫文と米三十俵をいただき、喜んでおります。お返しとして三津村の太郎丸半名を、そちら(荒谷殿)に預け遣わします。それ相応の得分を取り領有するべきです。それ以後は、給地として援助し申します。諸公事は先例のとおり上納しなければなりません。河内左馬助は、その地を引き継いで支配するはずです。以上、謹んで申し上げます。

   さらに申しますと、河内左馬助が今後援助します太郎丸半名のことでございます。

 

*解釈はよくわかりませんでした。

 

 「注釈」

「三津村」

 ─現安芸津町三津。三津湾に南面し、東は豊田郡木谷村、北は仁賀村(現竹原市)に接する。賀茂郡に属し、海上の藍之島が村域に入る。標高400─500メートルの山地が三方を囲み、仁賀村境近くの糸谷村付近に源を発する三津大川が、大峠川・蚊無川・岩伏川・正司畑川・隠畑川などの支流を合わせて南流し、その谷が古くから南北交通路となり、河口に港町が形成された。村名は正平十三年(1358)十月日付の小早川実義安堵申状(小早川家文書)に、「当知行安芸国三津村阿曾沼下野守跡間事」とみえる。ついで貞治二年(1363)三月十八日の小早川実義自筆譲状(同文書)に「三津村以木谷・三津・風早三ヶ村号三津村」とあり、三津村が広狭の両義に用いられていたことがわかる。広義の三津村については永享元年(1429)十一月八日の山名常熙施行状(同文書)に「三津三浦地頭職」の語が見え、小早川盛景がそれを領掌している。三津三浦とは木谷・三津・風早をさす。狭義の三津村については、文献的には徴証はないが、大炊寮領高屋保(現東広島市)の外港であったと推定され、南北朝時代には都宇竹原庄の中心であった下野(現竹原市)から仁賀峠を経てこの地に至る交通路が開発され、同庄の外交として往来が盛んであったと思われる(竹原市史)。室町時代末期と推定される正月祝儀例書写(小早川家文書)に「三つ(津)舟はんしやう(番匠)、とひ(問)により代をやり候、たいかい百文いて候」とあり、船作事に当たる船番匠が置かれ、港として賑わっていたことがうかがえる(『広島県の地名』平凡社)。

里見弴

 里見弴『私の一日』(中央公論社、1980年)より

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 

 親しくした人たちがどんどん死んで行く。年々歳々それが頻繁になるのは、こちらが人並よりいくぶん長く生き残ってゐる報ひとして甘受しなければならぬ自然の理ゆゑ、ウンもスンもないわけ。とはいへ、「死」といふ、この上なく厳粛な事実でも、永年に亘り、夥しい数に直面するうちには、馴れッこになる、といふか、麻痺してしまう、といふか、あのズシンと重い胸への響きにいくらかづつの緩みがついて来る……。ましてや、他家のはもとより、わが家の子孫であらうと、誕生を知らされての喜びなどは、正直なところ、もはやゼロにちかい。かういふ、老耄と同義語の不感症を、さも、生死の一大事を超越したかのやうに勘違ひはしないにしても、しかし時折、われながら「非人情」になつたものだ、と思ふことはある。生を祝ぎ、死を悼むのは、古今東西を通じての「人情」なのだから。……「非」か「不」か。「不」は感心しないが、「非」なら仕方なかろう、といつた風な、一種怠慢な考へ方だけれど……。

 そんなつまらぬ詮索はさて措き、実際問題として、ここ数年来の、親しくした人たちの死に方と来たら、「ちつと遠慮したらどうだ」とボヤキたくなるくらゐだ。「それは、お前が、あんまり大勢の人たちと仲よくした報ひで、自業自得ぢやないか」といはれて、「ああなるほどさうか」……まさかそれほどでもないし、第一、相手は死神だ、遠慮などさせてくれるものか。

 概して云つて、親しい者の死に際会する場合も稀な筈の、少・青年時代、まともに、すなほに、胸いつぱいに受け止める「死」の痛撃、……「死」の周囲には、不思議にすなほな空気が立ちこめるものだが、……あの、再び起ちなほれまい、と思ふほどの、あの、文字どほりのデッド・ボールをこの年齢になるまで、満身に浴びとほし2、生きて来られるものかどうか。万が一にもさうであつたとしたら、私は超人だ。万年でも横綱が張りとほせる。

 さうかといつて、死んだ人の死によつて、こちらの心身に受ける傷害で寿命を縮められてたまるか、といふやうな、打算的な顧慮から、なるべく控へ目に悲しんで置かうなどと、そんな器用なまねは、いかに世智辛くなつた今の世の中でも、ちよつとやり手があるまい。どだい意識にのぼらず、なほさら、さういふ思議は用ゐないでも、あらゆる生物に共通の、みづから衛る本能の然らしむる所で、是非おん範囲外だ。誰でもが大威張りで「別に工夫なし」と断言できる場合だ。

 ついこの数日来、広津和郎君、野田高梧君と続けさまに急逝の報を受けた。時間に縛られることない、たまにあればなんとかかんとかそれをひッぱづしてしまふ、早くいへば「怠け者」で「閑人」の私、ズシンと重い胸への響きも、まるで名鐘の余韻の如く、清らかに

静けく、遠く、遥けく薄れて行くに任せて、いつまでも黙つてゐられる。

 親しくした歳月の長い短いなどには関係なく、あの日のこと、あの時のこと、……私の性分のせゐか、必ず具象的に、……その場その場の光景で眼前に髣髴として来る。しかもどれ一つとして楽しく愉快な想ひ出でないものはない。告別式の祭壇の前で読まれる弔詞の多くがさうであるやうな、故人の業績とか、人と成りの美点とか、さういふ抽象的な面は少しも浮んで来ない。そのうち、「ズシンと重い胸への響き」など、あとかたもなく消え失せてしまひ、例へば、広津君の、まぬけな自分の失敗を、まるでひとごとのやうにくッくと可笑しがる、あの酸ッぱいやうな笑ひ顔とか、野田君の、自己流踊りで、ここぞとばかり片足で立つて見せるつもりが、ひよろけかかつたりする様子とか、その他等々が、瞑がない目の前の絵となつて現れたとすれば、ニヤニヤと、私の頬の肉はうごめきだすだらう。そこを糞真面目な男が見たら、「なんだ、友達の死を楽しんでゐやアがる。怪しからん奴だ」と怒号するかも知れず、歯に衣をきせぬ女だつたら、「いやアねえ、いい年齢をして、思ひ出し笑ひなんかして。みつともないわよ」と冷笑を浴びせることだらう。

 こんな風に、死んで行つた人たちとのつきあひで、楽しかつたこと、嬉しかつたことなど、特に選ぶのでもなんでもなく、おのづとさういふのばかりが思ひ出されるといふのも、前にいつた自衛本能の作用に違ひない。若い頃だつたら、厳粛な「死」を冒瀆するものだ、とか、友情を裏切る軽佻だ、とか、そんな反省、自責に苛まれたかも知れないが、いつかさういうふものとは、きれいさつぱりと手が切れてゐた。

石井文書(石井英三氏所蔵)21(完)

    二一 藏田秀信下地賣券寫

 

『半紙竪紙書付』

   永代賣渡申下地之事

    合三段分銭壹貫八百目足

       (安藝賀茂郡

 右之在所者、西条東村世帳田行富名之内田中三反之事、藏田先祖以来爲作職

 抱置候、依用有之ニ付而、代物米貳斗入四十俵、末代賣渡申所實正也、以

 此旨子々孫々ニ至迄、無相違知御行候、爲地頭役納所段銭三段ニ

 百目銭〈四十文」二十文口〉古銭也、但南京ニシテ九百文毎秋可御収納候、

 又三年ニ一度きほうせん是あり、其外まんゝゝそうい事有間敷候、此三段田用水之

 儀ハ、さかせかわ丁いて水十日壹はん先々より分水にて候条、向後共相替儀ハ有

            (若御瑞類ヵ)

 間敷候、於此上者[    ]、縦 天下一同之御徳政行候共、無相違

 於彼下地者、全可御知行候也、爲堅賣渡券之状如件、

   (1586)              藏田次郎右衛門尉

   天正十四年〈丙戌〉正月十一日        秀信

   正力財満孫右衛門尉殿兄龜子代仁参

 

*割書とその改行は〈 」 〉で記しました。

 

 「書き下し文」

   永代売り渡し申す下地の事

    合わせて三段分銭一貫八百目足

 右の在所は、西条東村世帳田行富名の内田中三反の事、蔵田先祖以来作職として抱へ置き候ふ、用有るにより之に付けて、代物米二斗入り四十俵、末代まで売り渡し申す所実正なり、此の旨を以て子々孫々に至るまで、相違無く御知行有るべく候ふ、地頭役として納所する段銭三段に百目銭〈四十文・二十文口〉古銭なり、但し南京にして九百文毎秋御収納有るべく候ふ、又三年に一度きほうせん是れあり、其の外万々相違の事有るまじく候ふ、此の三段の田の用水の儀は、さかせかわ丁井手水十日一番先々より分水にて候ふ条、向後共に相替ふる儀は有るまじく候ふ、此の上に於いては[若し御瑞類]、縦ひ天下一同の御徳政行ひ候ふとも、相違無く、彼の下地に於いては、全く御知行有るべく候ふなり、堅く売り渡さんがため券の状件のごとし、

 

 「解釈」

   永久に売り渡し申す下地のこと。

    都合三段。分銭一貫八百文。

 右の在所は、西条東村世帳田行富名のうち田中三反。蔵田が先祖代々作職を所持してきました。入り用によってこの下地を、二斗入りの米四十俵を代物として、永久に売り渡し申すことは事実である。この内容により、子々孫々に至るまで、間違いなくご所有になるべきです。地頭役として上納する段銭は、古銭(かつての基準額)ならば、三段で百目銭〈段別四十文を納入する土地と段別二十文を納入する土地がある〉である。ただし、南京銭に換算して九百文を毎年秋にご上納しなければなりません。また三年に一度きほうせんがある(を納めなければならない)。その他、さまざまに契約と異なることがあるはずもありません。この三段の田の用水の件は、さかせかわの人夫が、以前から井手の水の管理を十日ごとに分け、一番に水を利用してきましたことを、今後とも交替してはなりません。このうえは、[不明]たとえ国中で徳政令が施行されましたとしても、契約と異なることなく、この下地については、領有を全うなさるべきです。厳密に売り渡すための売券は、以上のとおりです。

 

 「注釈」

「分銭」─斗代に面積を乗じて算出された貢租の米の高。銭で納入すると分銭(「分

     米」『古文書古記録語辞典』)。後掲池論文によると、この史料の場合、

     「分銭」の捉え方は二通りあるそうで、どちらとも決められないようです。

     一つ目は、作職所持者の土地から徴収する総額が「一貫八百文」で、地頭役

     として上納した「九百文」を除いた残り「九百文」が、作職所持者の得分に

     なるという考え方です。二つ目は、土地からの徴収総額は二貫七百文で、地

     頭役段銭「九百文」を除いた「一貫八百文」が、作職所持者の得分になると

     いう考え方です。

「世帳田」─未詳。

「きほうせん」─未詳。「儀方銭」か。「儀方」とは「端午の節句の折、用いるまじな

        いの語」、「儀方を書く・書す」とは「中国で昔行われたまじない。

        五月五日の端午の節句に、儀方の二字を書いた札を家の柱などにさか

        さまにはると、蚊や蝿、あるいは、蛇やまむしを防ぐことができると

        信じられた」(『日本国語大辞典』)。端午節供の費用として徴収

        される公事の一種かもしれません。

「さかせかわ」─未詳。

「正力」─現東広島市八本松町正力。黒瀬川の河谷に位置し、北は篠村、南は米満村、

     西は飯田村に接する。天正十四年(1586)正月十一日付蔵田秀信下地売

     券写(石井文書)に「正力財満孫右衛門尉殿」とある。慶長四年(159

     9)八月十一日付安芸国賀茂郡寺家村石堂村篠村打渡坪付写(同文書)に石

     堂村の名がみえるが、当村西端に石堂の地名があり、飯田村北東部にも石堂

     谷・石堂山があるので、戦国末期に当村の西部から飯田村東部にかけて石堂

     村と称する村があったことが知られる。その頃当村は志芳庄内村から来住し

     た石井氏や賀茂郡に蟠踞した財満氏の勢力下に入った。村の木部にある城福

     寺は石井氏の菩提寺で、天正十三年石井勝家の弟の僧住道が再興したと伝え

     る(広島県川上村史)(『広島県の地名』平凡社)。

 

*池享「中世後期における『百姓的』剰余取得権の成立と展開─戦国大名領国支配の前提として─」(『日本史研究』226、1981・6、のちに『大名領国制の研究』校倉書房、1995所収、96頁、https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18661)や、本多博之「中近世移行期の貨幣流通と石高制」(『貨幣史研究会・東日本部会』第13回報告、2003・12、https://www.imes.boj.or.jp/japanese/kaheikenkyukai/kaheishi_index.html)を参考にして、書き下し文や現代語訳を作りましたが、わからないところも多いです。

 なお、本多博之「継承基準額と毛利氏の領国支配」(『戦国織豊期の貨幣と石高制』吉川弘文館、2006)は、この史料をとりわけ詳しく説明しているので、重要な箇所をそのまま引用しておきます。

 

 さらにこの史料は、蔵田秀信なる人物が三段の土地の「作職」を売却したことは示す売券である。この場合、売却地に付加されるのは、「地頭役納所段銭」として「三段ニ百目銭〈四十文・二十文口〉古銭」であり、これは「南京」九〇〇文として秋に収納するものとされていた。すなわち、「古銭」基準額のもと、実際は「南京」による収納が慣行であったことを示すものである。先に見たのは給地の事例であったが、この場合は「西条東村世帳田行富名之内田中三反」の「作職」売買に関する史料であり、これによって「古銭」基準─「当料」(南京銭など)納入の仕組みが在地・名レベルまで存在していたことが確認できた(90頁)。

 

 戦国大名毛利氏は、領国拡大に伴う新占領地の支配をおおむね先行権力の支配方式に則ることを領国支配の特色としていたが、同様に寺社仏神寺領や段銭などの額も、前代すでに成立していた基準額を「古銭」額もしくは「清料」額として継承し、領国支配を進めていくうえでの基礎とした。したがって、毛利氏領国内の継承基準額が存在していた地域では、その「古銭」(「清料」)額とそれに相当する通用銭貨での「当料」額とが併存していたはずで、大名権力はもとより、それ以外の諸階層の人々も当然それに直面し、日常生活のなかで関与せざるをえなかったと思われる。しかしその場合、基準額からの実際の通用額への換算値である「和利」は、本来そのときどきの銭貨相場の影響を受けるものでありながら、時には公権力によって設定されるような、きわめて政治的な数値という性格を持ち合わせていた(95頁)。

石井文書(石井英三氏所蔵)20

    二〇 安藝国高田郡中馬村打渡坪付寫

 

 一藝州高田郡中馬村〈打渡」坪付」之事〉

  田数三町大四十歩

   分米拾九石八斗壹升

  以上

   畑数三段

    代五百三拾九文米ニシテ

    五斗三升九合

             (ヵ)

      和市百文別壹斗宛

     (石脱)

  并米貳拾三斗四升九合

         屋敷四ヶ所

   右打渡如件、

  (1590)

  天正十八年五月三日       國司  (元信)

                    雅 楽 允

                  内藤  (元榮)

                    与三右衛門

       兒玉源兵衛尉殿

『裏書』

 今度御究相澄畢、

   (1597)               (元武)

    慶貳五月十五日         國司備後守『無印』

                     (周澄)

                    少 林 寺『同』

                     (元宗)

                    山田吉兵衛『在判』

 

*割書とその改行は〈 」 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略しました。