周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

本宮八幡神社文書1

解題

 創建は明らかでないが、永正十六年己卯、大檀越平朝臣千靏丸、願主藤原衛門大夫是空の再興棟札、慶長元年丙申拾一月吉祥日、大檀越平朝臣乃美三良兵衛元興、本願地蔵院教卯坊・同代官真弓田市助の再興札がある。乃美・別府・鍛冶屋・安宿・清武五村(いずれも賀茂郡豊栄町)の総氏神である。

 社宝として大般若経六百巻を有している。建久元年(1190)僧延増がかなりまとまった部分を入手し、欠巻を僧延増自らが補写したもののようである。保延四年(1138)書写の奥書を有するものがあるが、永久五年(1117)寄進の奥書を有するものも多い。鎌倉時代の補写や版本も交じる。文明九年(1477)則光幸福寺において経巻の修理をし、延享三年(1746)には乃美村庄屋児玉正勝以下の寄進によって補写した(1076〜1078頁)。 

 

 「本宮八幡神社」(『広島県の地名』平凡社より)

 豊栄町乃美 宮迫。乃美西部の丘陵上に鎮座。祭神は宗像三女神仲哀天皇応神天皇神功皇后・建内宿禰など四十二柱。本宮(もとみや)八幡とも称する。旧村社。社伝によると、もと高田郡坂村(現向原町)と乃美村の境にある宮ノ峠(みやのたお)に鎮座したのを現在地に移し、乃美・別府・鍛冶屋・清武・安宿(あすか)の惣社で宮の峠八幡宮とも称したが、乃美隆興が清武・安宿へ分祀して三社としたことから当社を本宮八幡神社と改称したといい、清武の畝山神社もよく似た伝承をもつ。永正十六年(1519)の棟札に、大檀越平朝臣鶴丸の再建中興とある。

 大永七年(1527)八月十五日と、天正七年(1579)八月吉日の乃美八幡宮流鏑馬次第注文(当社文書)によると、大永四年─天正十年頃まで、近郷の名主層や国人衆などによって流鏑馬が行われていることが知られ、天正五年八月吉日付の乃美八幡宮御祭御頭注文(同文書)には大檀那隆興とあり、四十の名と神主・祝師により、二名ずつ二十一年ごとに祭事の御頭を務めることとされている。慶長元年(1596)乃美元興が再建、延宝四年(1676)・元禄十四年(1701)には乃美・別府・鍛冶屋の三村で再建。明治四十三年(1910)乃美の厳島神社・白土神社・八和田神社、別府の新宮神社・竜田神社・冬梅神社を合併した。

 社蔵の大般若経600巻(県指定重要文化財)は奥書によると、大半は建久元年(1190)僧延増が商人から入手し、自ら欠巻を補って完本としたもので、永久五年(1117)細工所目代殿首山永継が寄進したものが多い。嘉慶二年(1388)政信が郷内に勧進して函を60個寄進し、文明九年(1477)には則光の幸福寺(吉原にあった光福寺のことか)で修復されている。江戸時代に散逸したが、延享三─五年(1746─48)乃美村庄屋などの寄進で100巻余りが補われている。社叢は杉・檜・榊などよりなるが、社伝前方の大スギのうち一本は県下有数の大樹で、県天然記念物に指定されている。

 

 

    一 乃美八幡宮御祭御頭次第注文

    乃美八幡頭文之事

 一番   さねもり名     宗延名

 二番   小松宗吉名     才年名

 三番   弘末名       助貞名

 四番   太郎丸名      為正名

 五番   是末名       宗近名

 六番   黒田名       擣原名

 七番   つねさね名     大塚名

 八番   安利名       とり打名

 九番   河原名       かね貞名

 十番   為貞名       貞安名

     寺さこの事也

 

 十一番  重森名       為末名

 十二番  為数名       行宗名

 十三番  為平名       則遠名

 十四番  おてほ名      神主

 十五番  久重名       □安名

 十六番  久国名       国貞為房名

 十七番  重かね名      行正名

 十八番  是貞名       西原名

 十九番  末弘名       為安名

 廿番   かわ原名      祝師

 廿一番  国友名       かね安名

 何茂廿一番ニまわり候て、廿一年ニあたる御まつり也、是ハむかし此分ニわきかつし

                       (貢)(枡)

 候ておく事也、暮々きう人ハかきとう也、百性ハ年具ますにて米八斗上よりたつ也、

 さん田ハ同年貢舛にて米壹石六斗上よりたつ事也、次とう米ハ四十石より貳石つゝ

 也、

     (め)

 一矢ふさ免之事

     (小陣)

  一番 こちん殿方ハ太郎丸ニあたる也、

      (方)

     大かたとのの方ハ為安名ニあたる也、

  二番 こちん殿方ハ久重名ニあたる、

     大かた殿方ハ重森名ニあたる、

  三番 こちん殿方ハ是末名ニあたる、

     大かた殿方ハ宗吉名ニあたる、

  四番 こちん殿方ハ是貞名ニあたる、

     大かた殿方ハ則正名ニあたる、

  五番 こちん殿方ハ為正名ニあたる、

     大かた殿方ハ弘末名ニあたる、

                          (公文)

  何茂如此きう人五番目をハる也、一番ハ上より、二番くもん、三番ハこちん殿、

  四番ハ大方殿、五番給人、以上五番なり、

 一八月一日ニよこしめおろしニ祝師神主宮地頭、友一人つれ候て出る也、大とうにて

 めし酒有也、わきのとうにてハ肴にて酒有也、何も如此ニ仕事也、

 一十日 めうけんちよ大とう仕也、

  十二日 こ口わきのとう仕也、

  十三日 米かし わきのとう仕也、

  十四日 もちつき 同わきのとう仕也、

  十四日 おりいわき之とう仕也、

  十五日 はゝのとう 大とう仕也、

  十五日 御祭りあそひ 大とう仕也、

  十六日 御はけ上 和き之とう仕也、

  十三日ニはゝにて中間衆 百性座ハりやうとうより合候て仕也、

 一渡物之事

  こ物黒米三升つゝ、合六升たなもりニ渡、

  白米貳斗りやうとうニ四斗渡、

  白米八升りやうとうニ壹斗□六升御はん、

  白米八升同一斗六升夜なかり、

  黒米八升同壹斗六升ふく水、

  あつき三升もちニ入、又壹升よなかりニ入、黒米三升大公ニ渡、

         (宮地とう)

  黒米貳升酒一升ミやちとうニ渡、同ふく水おけ一ツ、したみ一ツ、ひしやく一ツ、

  又松おしき八そく、合十六そく、ふく水おけ丸ほそき也、ちんし三ツ、なかさは三

  尺二寸、つまハ一尺三寸又けしよう也、六ツ二尺六寸、つま一尺二寸也、かわらけ

                                      

  八そく、りやうとうニ十六そく也、此内こかわらけ二そくつゝ合十六そく也、あつ

  かミ三ちやう合六ちやう渡也、あつかミすこしつゝ渡、きりぬき十五合卅渡、五と

                            (供僧)

  入九ツはうてしく物之事、御さんじきにはあつかりしく、くそうにはりやうとうニ

  たゝミ二ちやうしく、公文ニかねあしく宮座には弘末よりしく事也、

  のり十四日宮にて入物一ツ、くり一ツ、なし一ツ、かき一ツ、いものくき一ツ、こ

  物一ツ、かちとうふ一ツ、大こん一ツ、ゆす一ツ、せり一ツ、いね二わ、

   (門客神)

  かどまろうと之御まへニ一ツ、あらこも一まいつゝ有増しるしおく事如件、

  暮々此頭文之前よりなをこまゝゝしき事おはしるさす候之間、社人おのゝゝ

  (談合)

  たんこうして御まつりを可勤ト云々、

     (1577)

     天正五年〈丁丑〉八月吉日

        (マヽ)

       大壇那隆興(花押)

 

 一殿様御判於後日[    ]此云々、

               ]右衛門尉大夫常清(花押)

 

 「書き下し文」

    乃美八幡頭文の事

    (中略)

 何れも二十一番に回り候ひて、二十一年に当たる御祭なり、是れは昔此の分に分き割し候ひておく事なり、くれぐれも給人はかきとうなり、百姓は年貢舛にて米八斗上より立つなり、散田は同じく年貢舛にて米一石六斗上より立つ事なり、次に頭米は四十石より二石づつなり、

    (中略)

  何れも此くのごとく給人五番目をはるなり、一番は上より、二番公文、三番は小陣殿、四番は大方殿、五番給人、以上五番なり、

 一つ、八月一日に横注連おろしに祝師・神主・宮地頭、友一人連れ候ひて出るなり、大頭にて飯酒有るなり、脇の頭にては肴にて酒有るなり、何れも此くのごときに仕る事なり、

    (中略)

  黒米二升・酒一升を宮地頭に渡す、同じくふく水桶一つ、湑一つ、柄杓一つ、また松の折敷八足、合わせて十六足、ふく水桶丸細きなり、鎮子三つ、長さは三尺二寸、端は一尺三寸、また化粧なり、六つ二尺六寸、端一尺二寸なり、土器八足、両頭に十六足なり、此の内小土器二足づつ合わせて十六足なり、小紙三帖合わせて六帖渡す、厚紙少しづつ渡す、切幣十合を三十渡す、五斗入り九つはうてしく物の事、御桟敷には預かり敷く、供僧には両頭に畳二畳を敷く、公文にかねあ敷く、宮座には弘末より敷く事なり、

 のり十四日宮にて入れ物一つ、栗一つ、梨一つ、柿一つ、芋の茎一つ、小物一つ、かち豆腐一つ、大根一つ、柚子一つ、芹一つ、稲二把、門客神の御前に一つ、荒薦一枚づつあらましを記し置く事件のごとし、

 くれぐれも此の頭文の前よりなお細々しき事をば記さず候ふの間、社人各々談合して御祭を勤むべしと云々、

 

 「解釈」

    (前略)

 どれも二十一番ごとに回ってきて、二十一年に一度担当するお祭りです。これは昔、このように分割して取り決めたのであります。くれぐれも給人は(解釈不能)である。百姓は年貢枡で米八斗を上から順番に差し出すのである。散田も同じく年貢枡で米一石六斗を上から順番に差し出すのである。次に頭米は(解釈不能)。

    (中略)

 どれもこのように給人が五番目(解釈不能)。

 一つ、八月一日の横注連おろしに、祝師・神主・宮地頭は、供を一人連れて出るのであります。大頭の屋敷で酒飯の饗応をするのである。脇の頭の屋敷では、肴で酒宴をするのである。いずれもこのように執行するのである。

    (中略)

  黒米二升・酒一升を宮地頭に渡す。同じく福水桶一つ、湑一つ、柄杓一つ、また松で作った折敷八足、大頭と脇の頭の両方の分として、合わせて十六足。福水の桶は丸くて細いのである。鎮子は三つで、長さは三尺二寸、側面は一尺三寸で、飾りが施されているのである。他の六つは長さが二尺六寸で、側面が一尺二寸である。土器八足、両方の頭役分で十六足である。小紙三帖、合計で六帖を渡す。厚紙を少しずつ渡す。切幣十合を三十渡す。五斗入りは九つ渡す。(解釈不能)敷く物のこと。御桟敷では預が敷く。供僧に対しては、両頭が畳二畳を敷く。公文に対しては(解釈不能)が敷く。宮座では弘末名の者が敷くのである。

 (解釈不能)十四日、乃美八幡宮で、入れ物一つ、栗一つ、梨一つ、柿一つ、芋の茎一つ、小物一つ、かち豆腐一つ、大根一つ、柚子一つ、芹一つ、稲二把、門客神の御前に一つ、荒薦一枚づつ。頭役の概略は、以上のとおりである。

 この頭文作成以前の、さらに細々としたことは記載しておりませんので、くれぐれも、社人らが各々談合してお祭りを勤めなければならないという。

 

 「注釈」

「頭役」

 ─宮座で、神事舗設の責任者を当座・頭人・頭・頭屋といい、その役を頭役という。頭役遂行に伴う費用を番役として荘内の名田に均等に負担させたところもある(『古文書古記録語辞典』)。以下にあらわれる「大とう(頭)」は「中心的な頭役」、「わきのとう(脇の頭)」は「補佐的な頭役」のことと考えられます。

 

「かきとう」─未詳。

 

「散田」

 ─領主が、春時、請作農民に田を割り当てることをいう。したがって、その田を散田とも呼び、領主直属地の意ともなる。犯罪人や逃散百姓の耕地を領主が没収した場合、この田を散田と呼ぶ(『古文書古記録語辞典』)。

 

「横注連おろし」

 ─神社や頭屋に注連を張ることか(『ふるさと愛媛学』調査報告書、http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/9/view/1645)。

 

「友」─「供」の当て字、あるいは誤記か。

 

「祝師」

 ─「はふりし」。「祝(はふり)」のこと。神社に属して神に仕える職。また、その人。しばしば神主・禰宜と混同され、三者の総称としても用いられるが、区別する場合は、神主の指揮を受け、禰宜よりもより直接に神事の執行に当たる職をさすことが多い。その場合、神主よりは下位であるが、禰宜との上下関係は一定しない(『日本国語大辞典』)。その一方で、「ものもうし(物申)」と読んだ可能性もあります。意味は「祝詞などを奏すること」(『日本国語大辞典』)です。

 

「宮地頭」─未詳。祝師や神主のような神官とは異なり、俗人で社務に携わるものか。

 

「おりい」

 ─未詳。放生会で奉納される舞踊(獅子舞など)のようなものか。『久都内文書』2にも同じ表現があります(http://blog.hatena.ne.jp/syurihanndoku/syurihanndoku.hatenablog.com/edit?entry=8599973812296619080)。

 

「ふく水」─福水か。神に供える神聖な水か。

 

「したみ」

 ─枡(ます)やじょうごからしたたって溜まった酒。転じて、飲み残しや燗(かん)ざましの酒。したみ(『日本国語大辞典』)。

 

「ちんし」

 ─鎮子・鎮紙か。(「ちんじ」とも)調度品の一つ。室内の敷物・帷帳・掛軸などが風であおられたり、飛び散ったりしないようにおさえるおもし。風鎮や文鎮など。ちんす(『日本国語大辞典』)。

 

「黒米」

 ─もみを脱穀したままの米。精白してない米。玄米。生米(きごめ)。くろよね(『日本国語大辞典』)。

 

「厚紙」─鳥子紙の古名の事か(『日本国語大辞典』)。

 

「きりぬき」

 ─切幣・切麻(きりぬさ)の誤字か。麻または紙と榊(さかき)の葉とを細かに切って、米とかきまぜ、神前にまき散らすもの。神前をはらい清めるために使う。切木綿(きりゆう)。小幣(こぬさ)(『日本国語大辞典』)。

 

「預」

 ─①10〜11世紀ごろ、荘園現地で荘務をつかさどる者、荘預。荘検校・荘別当につぐ荘官の一種。預は平安末期には見られなくなる。②官職としての預は、太政官文殿・太政官厨家・後院庁・院庁・侍従所・進物所・御書所・一本御書所・作物所・画所・供御所・贄所・御厨子所・酒殿・氷室・穀倉院などに見られる。また、国司が校班田を行う場合、造班図預が置かれた。③神社の社務を管掌するもの。九世紀から平野社で見られ、寺院では10世紀から見られる(『古文書古記録語辞典』)。今回は、③に当たるか。

 

「かねあしく」─未詳。「かねあ」(未詳)を敷く、という意味か。

 

「のり」

 ─未詳。祝詞(のりと)の「のり」(宣ふ)と考えれば、神の託宣を聞く神事を意味したのかもしれません。

 

「有増」─「あらまし」の当て字か。

大多和泰作氏旧蔵文書1(完)

解題

 この家は毛利氏譜代の家臣の大多和氏と同族とみられるが、現在、当家及びこの文書の所在は不明である。

 

 

    一 平賀元相感状    ○東大影寫本ニヨル

 

          (包紙ウハ書)

           「大多和鐵炮助殿   元相」

 去月四日、於予州横松表延尾、大津衆打出シ合戦之時、於鑓下鐵炮敵

 数人討伏候之段、寔高名無比類候、弥可忠節者也、仍感状如件、

     (1585)

     天正十三年三月十八日       元相(花押)

 

 「書き下し文」

 去月四日、予州横松表の延尾に於いて、大洲衆打ち出し合戦するの時、鑓下に於いて鉄炮の敵数人を以て討ち伏せ候ふの段、寔に高名比類無く候ふ、いよいよ忠節を抽づべき者なり、仍て感状件のごとし、

 

 「解釈」

 去月二月四日、伊予国横松表の延尾山で、大洲衆が攻め寄せてきて合戦したとき、槍で戦い、鉄炮の敵を数人打ち伏せましたことは、実にこのうえない手柄です。ますます忠節を遂げなければなりません。よって、感状は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「横松表延尾」─大洲市長浜町〔中世〕南北朝期から見える地名。喜多郡のうち。観

        応3年6月15日の宇都宮蓮智(貞泰)寄進状に「横松山年貢事」と

        見え(西禅寺文書/編年史3)、宇都宮蓮智は年貢として33貫60

        0文を同士の菩提寺である西禅寺領として寄進しており、その寄進地

        は戎河にあった。西禅寺は永徳4年4月19日のれんしよう寄進状

        (西禅寺文書/伊集成6)に「よこ松の御寺」と記されており、戎河

        を含む西禅寺周辺の山地を指したもの。のち西禅寺の山号となる。戦

        国期には津々木谷氏の配下に横松衆がおり、活躍したという。特に天

        正13年2月、大津(洲)地蔵ケ岳城主宇都宮豊綱の軍勢は、横松表

        の延尾山下で毛利輝元の部将平賀元相と戦い敗れたという(平賀文

        書・大多和泰作氏旧蔵文書・大洲旧記)。現在の大洲市大字八多喜

        から長浜町大字戎川のあたりに比定される(『角川日本地名大辞典

        38 愛媛県』)。

天狗のイタズラ その2 (Tengu's mischief ─part2)

  永享八年(1436)三月二十三日条

        (『図書寮叢刊 看聞日記』5─254頁)

 

 廿三日、晴、予誕生日来廿五日祈禱疏大光明寺進之、書名字如例、浄喜馳申、行蔵庵

  小喝食庵付、已燃上之処見付消之、喝食則逐電、月見岡辺河泣、草刈

  童部見付庵帰、事子細尋之処、喝食申、小童二三人来、可付火之由申間、無

  何心付了、軈童同道河中入云々、道之間板敷之上如歩行之由申、惘然之体也、

  天狗所為歟、只付火如此申成歟、不審、庵無為先以珍重也、

 

 「書き下し文」

 二十三日、晴る、予の誕生日来たる二十五日祈祷疏大光明寺に之を進らす、名字を書くこと例のごとし、浄喜馳せ申す、行蔵庵小喝食庵に火を付く、已に燃え上がるの処見付け之を消す、喝食則ち逐電し、月見岡辺りの河に入りて泣く、草刈童部見付け庵へ帰る、事の子細を尋ぬるの処、喝食申すに、小童二、三人来たり、火を付くべきの由申すの間、何心も無く付け了んぬ、軈て童と同道し河中へ入ると云々、道の間の板敷の上を歩行するがごときの由申す、惘然の体なり、天狗の所為か、只付け火を此くのごとく申し成すか、不審、庵無為先ず以て珍重なり、

 

 「解釈」

 二十三日、晴れ。来たる二十五日の私の誕生日の祈祷疏を大光明寺に進上した。いつものように、祈祷疏に名前を書いた。政所の小川浄喜が急いでやって来て申し上げた。行蔵庵の幼い喝食が庵に火を付けた。すでに燃え上がっているところを見つけて、火を消した。犯人の喝食はすぐに逃亡し、月見岡辺りの川に入って泣いていた。草刈り童部がこの喝食を見つけて行蔵庵へ連れ帰った。事情を尋ねたところ、喝食が申すには、子どもたちが二、三人やって来て、火をつけようと申したので、何の考えもなく火をつけてしまった。そのままその子どもたちと同道して、川の中へと入ったという。道の間に敷いた板敷の上を歩いているかのようだった、と申した。茫然としているようである。天狗の仕業だろうか。ただ放火を、ことさらこのように申したのだろうか。疑わしいことだ。行蔵庵が無事であったことが、まずはめでたいことである。

 

 It was sunny on March 23rd. The official Ogawa Jouki reported to me. A young monk from Gyouzouan temple arsoned in the hall. The monks found it and extinguished the fire. The culprit, the monk, fled immediately and went into the river near Tsukimioka and was crying. Children cutting the grass found the culprit and took him back to Gyouzouan temple. When the monks asked the criminal about the circumstances, he said that a couple of children came to him and told him to arson together. So he thoughtlessly put on the fire. And he said he had entered the river with the children. He said he crossed the river as if he was walking on the board. He is stunned. Did Tengu do this? Or did he make such an excuse? It's suspicious. It is wonderful that Gyouzouan temple was safe. 

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「祈祷疏」

 ─「疏銘・䟽銘」のこと。祈祷の趣意を書き付けた文書に、願主の姓名を書いたもの(『日本国語大辞典』)。

 

「大光明寺

 ─正平七年(1352)の南朝の京都進出以降は広義門院西園寺寧子光厳天皇光明天皇の実母)がこの地に住み、大光明寺を建立している(智覚普明国師語録)。以降、この寺に光厳・光明・崇光の三院が入寺し、後光厳院のあと、伏見宮栄仁親王へと受け継がれることになるが、応永五年(1398)五月、足利義満は、この伏見殿を没収した(椿葉記)。これが原因してか、栄仁親王は同月二十六日落飾している(伏見宮御記録)。これは、「天の月・川の月・池の月・盃の月」という四つの月を一度にめでることができると言われたこの指月の景勝の地に、「五歩ニ一楼、十歩ニ一閣」(応仁記)という壮大な規模を有する伏見殿を利用して、北山殿(跡地は現北区)に次ぐ第二の山荘を造営せんとした没収であったと考えられているが、いかなる理由からか、この計画は突然中止され、翌六年には、伏見宮家に返却されている(椿葉記)。しかし、この伏見殿は、離宮的な機能を有していた大光明寺とともに応永八年七月四日に炎上した。「迎陽記」同日条は、

 今夜丑刻、伏見殿回禄、代々皇居、無念事也、此間入道親王御座也、此所修理大夫俊綱宿所也、進京極大殿、又被進白河院云々、弘安回禄、被再興御所也、一宇不残、〈庭田許」相残云々、〉禁裏仙洞回禄今年火災公家衰微歟、竹園御座法護院、〈御母儀故三品」山荘也云々〉

と記す。

 栄仁親王は、同十六年にその跡地に大光明寺塔頭大通院を建立、ここを常住の地とし、以後、この再建後の伏見殿は、領地としての伏見庄とともに、豊臣秀吉による伏見城築城まで伏見宮家代々の当主に受け継がれていった(伏見殿跡『京都市の地名』平凡社)。

 

「月見岡」

 ─明治天皇陵参道北の台地を宇治見山という。この高台から南方の宇治までを眺望することができたので、この名が生じたと伝える。別に月見岡ともよばれ、観月の名勝地になっていた(「伏見山」『京都市の歴史』平凡社)。

 

 

*天狗のイタズラ…。そんな無責任な言葉では許されません。

 以前に紹介した「天狗のイタズラ その1」では、軒先に挿した菖蒲を反対に挿し替えた、という些細なイタズラでしたが、今回は放火です。さすがにマズいでしょう。

 それにしても、何だかホラー映画のような展開です。まずは、幼い喝食の前に、怪しげな子どもたちが現れ、放火を唆します。ここまでなら、ただの少年犯罪事件になるのでしょうが、その後、放火犯の喝食は教唆犯の子どもたちに連れられ、川の中に入ってしまうのです。不思議なことに、道に敷いた板敷の上を歩いているかのように、川の中をザブザブと歩いていたようなのです。草刈り童部が発見したからよかったものの、そのまま川の中に沈んで水死していたかもしれません。

 この世ならぬものに導かれ、水辺に引きずり込まれる。古今東西を問わずよく聞く筋書きですが、幼い喝食に犯罪を唆し、そのうえその子を死に導こうとするなんて、なかなか背筋のゾッとする話です。

西品寺文書1(完)

解題

 高屋堀(東広島市高屋町)の城主平賀弘章の孫鶴丸が応永二十年(1413)僧となり周了と称し、この寺を建立した。はじめ杵原にあり西本坊と称したが、慶長六年(1601)教伝が中島の現在地に移した。この地域の真宗寺院としては古い由緒をもち、江戸時代もその中心的な立場にあった。

 境内には元亨三年在銘の水槽があり、付録(1205頁)に収めた。

 

 

    一 本願寺奉行人連署奉書(折紙)

 

   返々此度之儀候条、各御馳走肝要候、已上、

        (秀吉)            教如

 態令申候、仍 関白様御出馬付而、為御見廻新御所様被御下向候、然

     (沼隈郡)

 者昨日備後光照寺所迄被御座候、其表へ廿六日ニ可御下向候間、

              (僧)

 急度御馳走専用候、尚子細此□申渡候間、不詳候、恐々謹言、

      天正十五年)(1587)

       三月廿三日          粟津右近(花押)

                      松尾左近(花押)

      タカヤ

       専正御房

       同御門徒衆中

 

 「書き下し文」

 態と申さしめ候ふ、仍て関白様御出馬に付きて、御見廻りのため新御所様御下向に成られ候ふ、然れば昨日備後光照寺の所まで御座に成られ候ふ、其の表へ二十六日に御下向に成らるべく候ふ間、急度御馳走専用(専要)に候ふ、なほ子細此の僧申し渡し候ふ間、詳らかにする能はず候ふ、恐々謹言、

  かえすがえす此の度の儀候ふ条、おのおの御馳走肝要に候ふ、已上、

 

 「解釈」

 わざわざ申し上げます。関白様豊臣秀吉の九州へのご出馬について、お見舞いのため新御所様教如が御下向になりました。そして、昨日備後国光照寺までいらっしゃいました。そちらへ二十六日に御下向になるはずですので、急いで用意に奔走することが最も大切なことです。なお、詳細については、この使僧が申し渡しますので、詳しくは伝えません。以上、謹んで申し上げます。

  くれぐれも、この度の件について、各々が準備に奔走することが大切です。以上。

 

 「注釈」

光照寺

 ─現沼隈町中山南・上森迫。山南川(さんな)東方の山際にあり、金明山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。近世は近江本行寺(現滋賀県神崎郡能登川町)の末寺であった。

 寺伝によると鎌倉に最宝寺を創建した親鸞の法弟明光が西国布教を志して建保四年(1216)備後に来て当地森迫に一宇を建立、光照寺と名付けて布教に務めた。明光とともに山南に来た三人の僧のうち新屋は高田郡からのち三次に移った照林坊を、苅屋は神辺(現深安郡神辺町)に光善寺(現福山市寺町に移転)を、また弘角は最善寺(現福山市寺町に移転)を建立。寄力および随身の六名もそれぞれ寺を建立して布教の基礎を固めたとするが、当寺の開基は鎌倉末期の明光坊了円の法弟慶円とするのが正しいようである(「顕名抄」奥書、「存覚一期記」)。しかし当寺が西国布教の本拠地であったことは確かとされる。寺蔵の嘉暦元年(1316)五月の一流相承絵系図によると、慶円を中心とする尼10名を含む門葉20名が惣を結成し、それぞれ道場を構えて「光明本尊」と呼ばれる仏画をかけて有縁の人々に念仏をすすめ、惣以外の者が勝手に布教することを禁じている。こうして光照寺を中心とする教線は戦国時代には備後から安芸へ、さらには出雲・石見・長門にまで拡張されその数は「沼隈郡誌」によれば備後192、安芸58、備中16、出雲47、長門17の計371ヵ寺に及んだという。

 日蓮宗の大覚が鞆(現福山市)に法華堂(現法宣寺)を建て備前・備中・備後への布教を始めたため同宗との間に衝突が起こることなどもあり、暦応元年(1338)本願寺三世覚如の長子存覚が備後に下り、名を悟一と改めて備後国守護の前で日蓮宗と討論しこれを打ち破ったことが「存覚一期記」に見える。文明年間(1469─87)には山田一乗山城(跡地は現福山市)城主渡辺越中守兼が菩提寺常国寺(現福山市)を建立、付近の仏閣全てを常国寺末とすべく圧力をかけたので、常国寺の近くにあった浄土真宗光林寺は上山南の刈屋に逃れ、のち中山南村西の迫を経て山王谷口へ移転した。

 光照寺は最初鎌倉最宝寺の末に属したが、天文六年(1537)本願寺の直末になるべく運動したが、最宝寺の反対で叶えられなかった。しかし直末同様の待遇を受けている(「天文日記」天文六年七月十五日条)。また光照寺の仲介によって渋川氏や宮氏など備後の武士と本願寺との直接交渉が生じた(同書天文五年十二月七日条、同六年十二月十四日条ほか)。本願寺顕如の時代になると光照寺との交渉はいっそう緊密になったようで、年代は不明であるが五月二十三日付で顕如から備後の坊主衆中ならびに門徒中に対し、近年備後の信徒たちが法義をおろそかにしているのを戒めて念仏をすすめ、当流に定められた掟を守るように申し送っている(「本願寺顕如光佐書状」光照寺文書)。

 天文年間九世祐永の時、神辺城主山名理興が光照寺に放火、寺は灰燼に帰し、のち渋川頼基が旧に復したと言われる(沼隈郡誌)、ちなみに現存最古の建物は永禄元年(1558)に建てられた裏門である。寛永八年(1631)近江本行寺の末となった。「備陽六郡志」は「光照寺下寺六坊あり」として傾光山南光坊・宝石山宝福寺・紫光山観正坊・白雲山光林寺・正光山善徳寺・月高山福泉坊を記すが、宝福寺は福山最善寺の末、福泉坊は南光坊の末とする。寺蔵の絹本著色親鸞上人絵伝・同法然上人絵伝・同聖徳太子絵伝が県の需要文化財に指定されるほか文書多数が残る(『広島県の地名』平凡社)。

田原文書2(完)

   二 財満忠良散使四郎左衛門尉連署充行状

 

 西条原村八拾貫分極楽池水之儀、日水十日夜水十日者ひかん同杉原徳重へ可

 候、於此上者少申分有間敷候、仍如件、

    (1585)              財満市允

    天正十三年〈乙酉〉三月廿一日       忠良(花押)

                   さんし

                     四郎左衛門尉(花押)

       極楽ノ太郎次郎 まいる

 

*割書は〈 〉で記しました。

 

 「書き下し文」

 西条原村八十貫分極楽池水の儀、日水十日、夜水十日は、被官同杉原徳重へ遣はすべく候ふ、此の上に於いては少しも申す分有るまじく候ふ、仍て件のごとし、

 

 「解釈」

 西条原村八十貫分のうち極楽名の池水の件について、昼間と夜間に十日間ずつ水を使用する権利を、被官人の杉原・徳重へ与えるつもりです。このうえは、少しも申し上げることがあるはずもありません。充行状は以上のとおりです。

 

*書き下し文・解釈ともに、よくわかりませんでした。

 

 「注釈」

「さんし」─散使。荘園や戦国期の村落に置かれた村役人。番頭・名主の下にあって、

      通達や会計事務に従事した。給田を与えられ散使給・散仕免などと呼ばれ

      た(『古文書古記録語辞典』)。