周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

米山寺文書2

    二 小早川隆景書状(切紙)

 

 為爰許御音信御状、殊青銅百疋送給候、遥々御懇之儀畏入候、因州表之儀

 用瀬・吉岡令一味大利之儀候間、珍敷儀候者重畳可申入候、恐々謹言、

       十月廿九日         隆景(花押)

         (就安)

       長井治部太夫殿 御返報

 

 「書き下し文」

 爰許の為御音信の御状、殊に青銅百疋送り給ひ候ふ、遥々御懇ろの儀畏れ入り候ふ、因州表の儀用瀬・吉岡一味せしめ大利の儀候ふ間、珍しき儀候へば重畳申し入るべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 こちらのためにお便りと、特に銭百疋も送ってくださいました。遥か遠くからのご厚情に恐縮しております。因幡地方では、用瀬・吉岡方が力を合わせ、大勝利を収めました。この件はめでたいことですので、重ねがさね申し入れなければなりません。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「用瀬」

 ─現八頭郡用瀬町用瀬。現用瀬町北部の千代川東岸部沿いに位置する智頭街道の宿村。在郷町としても郡有数で、屋号に散岐屋・余戸屋・佐治屋など近隣の地名に由来するもののほか但馬屋・紀州屋・土佐屋・大津屋など他国名のものが見られた。南方、千代川西岸に古用瀬村があり、用瀬の地名は中世には同村を中心とした地名であったが、同地の松茸尾城主用瀬備前守天正八年(1580)に没落。のちその子孫が当地に転住して新たに集落を開き、やがて当地が用瀬の名で呼ばれるようになったと伝える(因幡志)(『鳥取県の地名』平凡社)。

 

「吉岡」

 ─吉岡庄(湖山川上流域の吉岡谷とその周辺を領域)を拠点としていた、鎌倉御家人の系譜を引く有力国人(「吉岡庄」『鳥取県の地名』平凡社)。

米山寺文書1

解題

 この寺は初め天台宗平安時代末の仁平三年(1153)に創建されたが、鎌倉時代に入り嘉禎元年(1235)小早川茂平によって、その境内に不断念仏堂が建立され、天台宗浄土教の寺院の巨真山寺となっている。

 小早川氏惣領家は巨真山寺を形成することで初めて庄園領主に煩わされない独自の氏寺をもつことができたと同時に、沼田川河口の広大な塩入荒野を干拓して得た新田をこの寺の寺用にあてるという名目で自家の富力を蓄積することができた。この寺の住職の歴代には小早川氏一族の出自をもつものが多かった。この寺が臨済宗に改められるのは鎌倉時代末で、茂平から三代目の小早川宣平の子息の禅僧応庵祖璿がこの寺の中興開祖として入寺してからである。

 「米山寺由来記」には天正年間、小早川隆景の時代に米山寺を称することになったと記されているが、すでに室町時代から在地名によって米山の寺と呼ばれていたようである。隆景時代までは、小早川氏と深く結びついており、仁王門・鐘楼門などのほかに十二坊を有するなど盛観であったが、慶長五年(1600)福島氏が入部するや寺領をことごとく没収され、ひきつづいて同七年には火災にあって衰退した。のち元禄年間の初めに三原宗光寺末の曹洞宗の寺院として再興された。

 所収した文書は隆景時代のもの九通である。このほかに当寺には文禄三年(1594)の賛のある小早川隆景の画像がある。この寺の寺域内本堂の全面の山手には小早川氏歴代の墓所があって二十基の宝篋印塔が二列に整然と並んでいる。そのうちの後列向かって左側の大型の一基には元応元年(1319)の刻銘があり付録(1211頁)に収めた。

 

 

   一 小早川隆景自筆書状(切紙)

          (千)

 態得尊意候、内々宗易御肝煎之故、一昨日可御帰寺之旨、 関白様

                        (京都)

 被 仰出候条、則時御迎舟進之候、於様子大徳寺并宗易ヨリ被仰下

 間、不詳候、恐惶謹言、

     天正十七年)      小早川左衛門佐

      七月十八日          隆景(花押)

       ○本文書宛名ヲ闕ク

 

 「書き下し文」

 態と尊意を得候ふ、内々に宗易御肝煎するの故、一昨日御帰寺有るべきの旨、関白様仰せ出だされ候ふ条、即時御迎への舟之を進らせ候ふ、様子に於いては大徳寺并びに宗易より仰せ下され候ふ間、詳らかにする能はず、恐惶謹言、

 

 「解釈」

 あらためて関白豊臣秀吉様のお考えを伺いました。千宗易の内々のお世話によって、一昨日、大徳寺(?)にお帰りになるつもりだ、と関白様がおっしゃったので、すぐにお迎え舟を差し上げました。その様子については、大徳寺と宗易から(あなた様に)おっしゃいますので、詳しくは説明しません。以上、謹んで申し上げます。

 

*解釈はまったくわかりませんでした。

 

 「注釈」

「米山寺」

 ─現三原市沼田東町納所米山。沼田川の南約1・3キロの谷奥にあり、東盧山(もと新盧山)と号し、曹洞宗。本尊華厳釈迦如来。寺蔵の米山寺書記に、元は仁平三年(1153)誓願開基の天台宗寺院とある。

 応永五年(1398)十月八日付の小早川宗順巨真寺置文案写(小早川家文書)によると、嘉禎元年(1235)小早川茂平が鎌倉幕府三代将軍を弔うため不断念仏堂を建立して巨真山寺と号し、小早川氏の氏寺とした。同四年十一月十一日付の小早川家文書によると、茂平は念仏堂の仏餉・灯油・修理料田として沼田川下流の塩入荒野を干拓し、寺を中心に小早川惣領家の強化をはかった(→沼田千町田)。前記巨真寺置文案写では、安直本郷内の十余名のうち在所不定の五町を巨真山給地下と号して反別四斗六升代の年貢としている。暦応四年(1341)十月十日付の小早川家文書は、寺の仏事・公事等は新田を譲得した人が各自の分限に応じて行うこと、修理・掃除は新田の百姓が行うこととある。米山寺書記によると、延文二年(1357)小早川宣平の七男応庵祖璿が中興開山となり臨済宗とし、三世琴江令薫(春平次男)、四世不白白英(則平六男)、五世寿倫殊椿(煕平三男)、六世宝州祖騮(敬平次男)など歴代住持が小早川惣領家から出ており、十一世西巌令周は小早川一族小泉左京の三男であった。

 天正四年(1576)には小早川隆景泉州堺から大工を呼んで「沼田庄米山新堂」を再建(棟札)。米山寺書記は隆景のとき寺名を米山寺に改めたといい、隆景は慶長元年(1596)古制によって講式の装束を新調したことがわかる。同二年六月一日付警固番帳(米山寺文書)によると、隆景病気平癒の祈祷が五日五夜行われた。当寺には文禄三年(1594)京都大徳寺塔頭黄梅院の玉仲宗琇賛の絹本着色小早川隆景像(国指定重要文化財)が残る。

 隆景没後の慶長二年八月十二日付泰雲様位牌免田畠打渡坪付写(同文書)では、田三町一反七畝二十歩・分米30.61石、畑一町四反四畝・分米4.443石が隆景の位牌免として付され、同年十月十五日付の泰雲様位牌免田給付状(同文書)によるとその内訳は安直村13.69石、同村のうち松江6.98石、同じく宗条(惣定)2.19石、真良12.193石、ほかに匡真寺(現宗光寺)よりの19.08石を合わせ、計54.133石である。欠年の三月十八日付の毛利氏奉行人連署寄進状(同文書)は、当寺に以前から田畠二十石余があったが、毛利氏が隆景の菩提所として五十石を加増寄進すると記す。しかし京都東福寺の輪住を務めた令周が、慶長五年毛利氏に従って山口に去ると寺は無住となり、同六年十一月付米山寺大寺分打渡坪付(同文書)では寺領もわずか1.104石とある。慶長七年には堂宇が焼けて荒廃、その後僧慈雲が再興し、宗光寺二世養山芳育を勧請開山として曹洞宗に改めた。

 「芸藩通志」は境内に安楽坊・日光坊(現曹洞宗日光寺)など十二坊があったが、日光坊だけが存すると記す。日光坊は米山寺東南に現存し、明治三十七年(1904)まで天台宗であった。米山寺東側丘陵西麓には小早川隆景の墓(県指定史跡)をはじめとして、二十基の宝篋印塔が並ぶ小早川家墓所があり、北東隅の宝篋印塔(国指定重要文化財)には「大工念心 元応元年己未十一月日 一結衆敬白」の刻銘がある。なお、500メートルほど北の山中に井上伯耆守春忠夫妻の墓二基があり、一基に「慶長三年十一月四日」と刻する(『広島県の地名』平凡社)。

 

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天狗のイタズラ その3 (Tengu's mischief ─part3)

  文明十一年(1479)正月二十二日条

         (『大乗院寺社雑事記』6─496頁)

 

    二十二日(中略)

 一吉野之山上ニ去朔日雷光鐘二出現、大鐘也云々、天狗所為也、不思儀事也云々、

 

 「書き下し文」

 一つ、吉野の山上に去んぬる朔日雷光り鐘二つ出現す、大鐘なりと云々、天狗の所為なり、不思儀の事なりと云々、

 

 「解釈」

 一つ。吉野の山上で、去る元旦に雷が光り、鐘が二つ出現した。大きな鐘であるという。天狗の仕業である。思いもよらないことであるという。

 

 On New Year's Day, two bells appeared at the same time as the thunder struck the summit of Mt. Yoshino. I hear it's a big bell. That's what the tengu did. It's unbelievable.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

「吉野(山)」

 ─大峰山脈の北端をなし、吉野川の左岸に位置する。青根ヶ峰(857・9メートル)から西北に続く尾根の総称。金峯山修験本宗の総本山金峯山寺蔵王堂をはじめ、源義経南朝の史跡で知られる。桜の名所としても有名で、下から順に下千本・中千本・上千本、さらに奥千本という。吉野熊野国立公園に属する(→金峯山→吉野町)。吉野山の名の文献上の初見は、「旧事本紀」に「茅渟県大陶祇女、随糸尋人、入吉野山、留三諸山」とある(『奈良県の地名』平凡社)。

 

 

*天狗のイタズラの紹介も、3度目となるとさすがに飽きてきます…。1度目は、軒先に挿した菖蒲を反対に挿し替えるという子どもじみたイタズラ。2度目は、イタズラでは済まされない放火教唆と殺人未遂。そして3度目が、大きな梵鐘の出現マジック。天狗とは、時に子どもっぽい振る舞いをする存在であり、時に凶悪な犯罪者であり、そして、時に一流のエンターテイナーでもあったようです。

極楽寺所蔵文書21(完)

    二一 上里領門田村役人五郎右衛門尉抱分畠坪付

 

      上里領

        門田村役人五郎右衛門尉抱分畠

 国兼                  役人

  屋敷小                五郎右衛門

 同所

  屋敷小 □屋              藤二郎

 同所

  畠参反       代五百文     五郎右衛門

 かねひろ同所               下作

  畠壹反       代貳百文     二郎兵衛

 同所二所合                下作

  畠壹反       代百文      彦五郎

 かずかミノ前

  畠半        代五十文     五郎右衛門

 水一ノ同所                下作

  畠三反       代四百五十文   源五郎

 行友 同所                下作

  畠壹反       代百文      弾介

 同所                  下作

  畠貳反大      代五百文     大郎右衛門

 同所                  下作

  畠二十歩      代十文      同人

 福光                  下作

  畠貳反       代三百文     三郎兵衛

 同所                  下作

  畠壹反半      代百五十文    同人

 (後闕)

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「丸門田村」

 ─まるもんでんむら。現御調町丸門田。上野村と今田村の東に位置する御調川流域の村。北岸の緩傾斜地に字本郷平があるところから御調本郷の地で郡衙の所在地とも考えられている。御調川沿いに古代山陽道が通っていたと推測され、条里制の遺構も認められる。「御調郡誌」によると、室町時代末期には栗原(現尾道市)の千葉氏の一族今田氏領であった。(中略)

 仁治二年(1241)千葉豊後入道直翁が建立、文保元年(1317)再造、延徳二年(1490)再建と伝える東中倉八幡神社(萩宮八幡宮・萩八幡神社)が御調川北岸山麓に鎮座。南岸の独立丘陵東麓には浄土真宗本願寺派の円玉山正典坊がある。同寺はかつて本庄村(現三原市)にあった禅宗願成寺で、はじめ村内の御調川北川山麓に移ったが、のち現在地に移転。享禄年中(1528〜32)尼子氏の一族近安源吾正房が出家して了念と号して願成寺に住み、三世了光が浄土真宗に改宗、元亀年中(1570〜73)に現在地に移寺して正典坊と号したという(芸藩通志)。正徳六年(1716)御調郡寺社縁起帖写(三原市立図書館蔵)には、元亀二年専西のとき禅宗から浄土真宗に改宗したとある。東中倉八幡神社の南、標高142メートルの独立丘陵に上里氏の居城丸山城跡がある。上里周防守実秀が明応年間(1492〜1501)に三次より来て在城、四代が居城し、天正十八年(1590)四月に落城したといい、一族の上里豊後守は天文十三年(1544)尼子氏が三吉氏を攻めたとき加勢して功があったという。上里氏の知行所は郡内では丸門田、丸河南・徳永・植野・今田・大原・綾目・野間・三郎丸の諸村であった(御調郡誌)。丸山城跡西南には千葉豊後の居城と伝える峠山城跡がある(芸藩通志)。

 御調川流域や支流の八幡川流域の微高地から弥生式土器や住居跡が発見されている。古墳には箱式石棺・人骨・刀などの出土した明神山古墳群があり、横穴式石室をもつ円墳のなかには市山一号古墳のように、刀・勾玉・須恵器・土師器の出土した例もある(『広島県の地名』平凡社)。

極楽寺所蔵文書20

    二〇 伊予国岩城島小泉一方分等天役浜数注文

 

 平松ノ浦

  岩城嶋小泉一方分天役浜数の事

 宮にしの浦

    名田弘延名内  はま  五ツ

                  (後筆)

    名田守恒名内  はま  六ツ「今一有ト西九申」

    散田貞末名内  はま  一ツ

  にしはま               (後筆) 

    名田田所名   はま  二ツ半「此内一ツ子細有」

  にしはま              (後筆)

    名田下司名   はま 五ツ「此内一ツ子細有」

                  (後筆)

    散田公文名   はま  一ツ「今一有ト西九申」

  そう路井ノ内(長ヵ)

    散田□善寺領  はま  一ツ

    散田物部井名内 はま  一ツ代貳百文

  公文名内

    散田寶蔵寺領  はま  一ツ代貳百文

  わきのはま

    散田御神田分  はま  三ツ代七百文

   并西部一松の分

    名田光利名内  はま  三ツ

    名田国宗名内  はま  二ツ

    散田公文名内  はま  一ツ代貳百文

      一松    はま  二ツ半代貳百五十文

   生名島天役はま数の事

 (後闕)

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

岩城島

 ─現岩城村。岩城島の初見は、保元三年(1158)十二月三日の官宣旨(石清水文書)である。その中に、石清水八幡宮領の伊予国分として「石城島 生名島 佐島 味酒郷」が記されている。鎌倉末期の頃には、本島に、いわゆる悪党と呼ばれる在地領主が蟠踞していたらしく、延慶(1308─11)頃のものと推定される弓削島庄雑掌法橋栄実注進状(東寺百合文書)に、弓削島庄地頭代が、近くの岩木島(岩城島)と高向禰島(高根島、広島県)の悪党を率いて弓削島の百姓家に押し入り、乱暴狼藉したと記されている。室町初期のものと思われる村上図書申状(東寺百合文書)に「生口嶋地下者共ハ、去年皆々対治候了、石城島公文者関立を相語候て、彼城籠て候を、今月廿四日、公文一類無残打殺候て、海賊一向罷籠之際、弥此辺事無正体候」とあり、岩城島の公文が海賊衆村上氏の攻撃を受けて壊滅させられている。当時、この付近の島々が村上氏の支配下に組み込まれつつあったものと思われる。天正十三年(1585)十月、俊成左京進は、村上武吉から岩城島一貫二百文等を知行地として充行われているが、戦国末期岩城島能島村上氏の支配するところであった(俊成文書)。なお、室町・戦国期頃のものと推定される伊予国岩城島小泉一方分等天役浜数注文(極楽寺文書)から、部分的ではあるが、中世末期の岩城島の名や塩浜の存在形態を知りうる。(中略)

 村の南岸中央に亀山(八幡山)城跡がある。伊予温故録」に八幡山城として「岩城嶋亀山にあり、一に亀山城といふ。明徳三年村上修理亮敬吉これを築き、天正年中に至る迄村上氏代々の居城たり」と見え、現在、海に臨む岩礁上には桟橋あるいは築城用の穴が約二十個残る。頂上には岩城八幡神社がある。島の西部にある祥雲寺(曹洞宗観音堂は永享三年(1431)の建立。桁行5・4メートル、本瓦葺の単層、小型ではあるが唐様を主体とした美しい建築で重要文化財に指定されている。なお岩城村教育委員会には、村政・土地・海運等に関する江戸時代の史料が多数所蔵されている(「岩城村」『愛媛県の地名』平凡社)。

 

「生名島」

 ─現生名村。生名島の初見は、保元三年(1158)十二月三日の官宣旨(石清水文書)である。その中に、石清水八幡宮領の伊予国分として「石城島 生名島 佐島 味酒郷」が記されている。おそらく隣島東寺領弓削島庄同様に塩の獲得を目的として立庄された塩荘園であろう。なお、広島県廿日市町の極楽寺文書の中に、前後闕、年月日未詳、おそらく室町・戦国期のものとみられる伊予国岩城島小泉一方分等天役浜数注文があり、生名島については後闕のため内容はまったくわからないが「生名島天役はま数の事」という事書がある。岩城島の場合「宮にしの浦 名田弘延名内 はま 五ツ」などが記され、塩浜が名に結ばれ、名経営の一環として製塩が行なわれていたと思われるが、生名島の場合も同じ形態であったと推測される。なお、天正十一年(1583)十二月、俊成左京進は、村上武吉から生那島(生名島)五百文を知行地として充行われている。戦国末期生名島は能島村上氏の支配するところであった(俊成文書)(「生名村」『愛媛県の地名』平凡社)。