解題
この寺は初め天台宗で平安時代末の仁平三年(1153)に創建されたが、鎌倉時代に入り嘉禎元年(1235)小早川茂平によって、その境内に不断念仏堂が建立され、天台宗系浄土教の寺院の巨真山寺となっている。
小早川氏惣領家は巨真山寺を形成することで初めて庄園領主に煩わされない独自の氏寺をもつことができたと同時に、沼田川河口の広大な塩入荒野を干拓して得た新田をこの寺の寺用にあてるという名目で自家の富力を蓄積することができた。この寺の住職の歴代には小早川氏一族の出自をもつものが多かった。この寺が臨済宗に改められるのは鎌倉時代末で、茂平から三代目の小早川宣平の子息の禅僧応庵祖璿がこの寺の中興開祖として入寺してからである。
「米山寺由来記」には天正年間、小早川隆景の時代に米山寺を称することになったと記されているが、すでに室町時代から在地名によって米山の寺と呼ばれていたようである。隆景時代までは、小早川氏と深く結びついており、仁王門・鐘楼門などのほかに十二坊を有するなど盛観であったが、慶長五年(1600)福島氏が入部するや寺領をことごとく没収され、ひきつづいて同七年には火災にあって衰退した。のち元禄年間の初めに三原宗光寺末の曹洞宗の寺院として再興された。
所収した文書は隆景時代のもの九通である。このほかに当寺には文禄三年(1594)の賛のある小早川隆景の画像がある。この寺の寺域内本堂の全面の山手には小早川氏歴代の墓所があって二十基の宝篋印塔が二列に整然と並んでいる。そのうちの後列向かって左側の大型の一基には元応元年(1319)の刻銘があり付録(1211頁)に収めた。
一 小早川隆景自筆書状(切紙)
(千)
態得二尊意一候、内々宗易御肝煎之故、一昨日可レ有二御帰寺一之旨、 関白様
(京都)
被二 仰出一候条、則時御迎舟進之候、於二様子一者大徳寺并宗易ヨリ被二仰下一候
間、不レ能レ詳候、恐惶謹言、
(天正十七年) 小早川左衛門佐
七月十八日 隆景(花押)
○本文書宛名ヲ闕ク
「書き下し文」
態と尊意を得候ふ、内々に宗易御肝煎するの故、一昨日御帰寺有るべきの旨、関白様仰せ出だされ候ふ条、即時御迎への舟之を進らせ候ふ、様子に於いては大徳寺并びに宗易より仰せ下され候ふ間、詳らかにする能はず、恐惶謹言、
「解釈」
あらためて関白豊臣秀吉様のお考えを伺いました。千宗易の内々のお世話によって、一昨日、大徳寺(?)にお帰りになるつもりだ、と関白様がおっしゃったので、すぐにお迎え舟を差し上げました。その様子については、大徳寺と宗易から(あなた様に)おっしゃいますので、詳しくは説明しません。以上、謹んで申し上げます。
*解釈はまったくわかりませんでした。
「注釈」
「米山寺」
─現三原市沼田東町納所米山。沼田川の南約1・3キロの谷奥にあり、東盧山(もと新盧山)と号し、曹洞宗。本尊華厳釈迦如来。寺蔵の米山寺書記に、元は仁平三年(1153)誓願開基の天台宗寺院とある。
応永五年(1398)十月八日付の小早川宗順巨真寺置文案写(小早川家文書)によると、嘉禎元年(1235)小早川茂平が鎌倉幕府三代将軍を弔うため不断念仏堂を建立して巨真山寺と号し、小早川氏の氏寺とした。同四年十一月十一日付の小早川家文書によると、茂平は念仏堂の仏餉・灯油・修理料田として沼田川下流の塩入荒野を干拓し、寺を中心に小早川惣領家の強化をはかった(→沼田千町田)。前記巨真寺置文案写では、安直本郷内の十余名のうち在所不定の五町を巨真山給地下と号して反別四斗六升代の年貢としている。暦応四年(1341)十月十日付の小早川家文書は、寺の仏事・公事等は新田を譲得した人が各自の分限に応じて行うこと、修理・掃除は新田の百姓が行うこととある。米山寺書記によると、延文二年(1357)小早川宣平の七男応庵祖璿が中興開山となり臨済宗とし、三世琴江令薫(春平次男)、四世不白白英(則平六男)、五世寿倫殊椿(煕平三男)、六世宝州祖騮(敬平次男)など歴代住持が小早川惣領家から出ており、十一世西巌令周は小早川一族小泉左京の三男であった。
天正四年(1576)には小早川隆景が泉州堺から大工を呼んで「沼田庄米山新堂」を再建(棟札)。米山寺書記は隆景のとき寺名を米山寺に改めたといい、隆景は慶長元年(1596)古制によって講式の装束を新調したことがわかる。同二年六月一日付警固番帳(米山寺文書)によると、隆景病気平癒の祈祷が五日五夜行われた。当寺には文禄三年(1594)京都大徳寺塔頭黄梅院の玉仲宗琇賛の絹本着色小早川隆景像(国指定重要文化財)が残る。
隆景没後の慶長二年八月十二日付泰雲様位牌免田畠打渡坪付写(同文書)では、田三町一反七畝二十歩・分米30.61石、畑一町四反四畝・分米4.443石が隆景の位牌免として付され、同年十月十五日付の泰雲様位牌免田給付状(同文書)によるとその内訳は安直村13.69石、同村のうち松江6.98石、同じく宗条(惣定)2.19石、真良12.193石、ほかに匡真寺(現宗光寺)よりの19.08石を合わせ、計54.133石である。欠年の三月十八日付の毛利氏奉行人連署寄進状(同文書)は、当寺に以前から田畠二十石余があったが、毛利氏が隆景の菩提所として五十石を加増寄進すると記す。しかし京都東福寺の輪住を務めた令周が、慶長五年毛利氏に従って山口に去ると寺は無住となり、同六年十一月付米山寺大寺分打渡坪付(同文書)では寺領もわずか1.104石とある。慶長七年には堂宇が焼けて荒廃、その後僧慈雲が再興し、宗光寺二世養山芳育を勧請開山として曹洞宗に改めた。
「芸藩通志」は境内に安楽坊・日光坊(現曹洞宗日光寺)など十二坊があったが、日光坊だけが存すると記す。日光坊は米山寺東南に現存し、明治三十七年(1904)まで天台宗であった。米山寺東側丘陵西麓には小早川隆景の墓(県指定史跡)をはじめとして、二十基の宝篋印塔が並ぶ小早川家墓所があり、北東隅の宝篋印塔(国指定重要文化財)には「大工念心 元応元年己未十一月日 一結衆敬白」の刻銘がある。なお、500メートルほど北の山中に井上伯耆守春忠夫妻の墓二基があり、一基に「慶長三年十一月四日」と刻する(『広島県の地名』平凡社)。