一五 そう四郎入道去渡状
永代をかきりさりわたし申候田の事
合二反者つほもとハそう三郎かりそんふん四百田一反五百田一反なり、
(筑紫立花) (陣)
右件の名田者、つくしたちはなの御ちんの時、御公事をゑつかまつり候ハす候によつ
(去渡) (若)(何)
て、永代をかきり候て同所のたうかくニさりわたし申候處實也、もしいつれの
(子孫)(出来) (兎角) (明文) (任)
しそんいてきたり候て、とかくの事申候とも、めいもんニまかせて御もちいあるまし
(新儀) (徳政) (沙汰)
く候、又何しんき御とくせい候とも、其時一口のきを申ましく候、仍爲後日のさたの
永代のさり状如レ件、
(1431)
永享三年かのとのヰ 三月廿七日
(1432)
永享二二年みつのへ祢 八月十日
(在)
さい所なかはらの そ う 四 郎 入 道
ゆ う け ん(花押) 五郎さへもん尉(花押)
同所のめんく し う し 大 夫(花押)
ひやうゑ四郎(花押)
け ん 二 郎(花押)
「書き下し文」 (可能な限り漢字仮名交じりにしました。)
永代を限り去り渡し申し候ふ田の事、
合わせて二反てへり、坪もとはそう三郎刈損分」四百田一反・五百田一反なり、
右件の名田は、筑紫立花の御陣の時、御公事をえ仕り候はず候ふによつて、永代を限
り候ひて同所のたうかくニ去り渡し申し候ふ處実なり、若し何れの子孫出で来たり候
ひて、兎角の事申し候ふとも、明文ニ任せて御用いあるまじく候ふ、又何の新儀御徳
政候ふとも、其時一口の儀を申すまじく候ふ、仍後日の沙汰の爲去状件のごとし、
「解釈」
永久に譲り渡し申し上げる田のこと。
合わせて二反。この田地は、もとはそう三郎が耕作していた土地で、現在は荒地に
なっている。
右の名田は、筑紫立花の御陣のとき、御公事を勤めることができなかったことにより、永久に同所のたうかくに譲り渡し申し上げることは事実である。もしどの子孫かが現れて、あれやこれやと申し上げたとしましても、この去渡状のとおりにその主張を取り上げてはなりません。またどのような新儀非法や徳政が行われたとしても、そのときに一言の反論も申し上げるつもりもありません。よって、後日の相論のための去状は以上のとおりです。
「注釈」
「筑紫立花の御陣」─周防・長門守護大内盛見が、大友持直や少弐満貞らと筑前の領有
について争った戦い。
「御公事」─合戦での夫役か、戦費の負担か。そう四郎入道が御公事を負担できなかっ
たため、代わりに「たうかく」が負担し、その代価として田二反を「たう
かく」に譲り渡したものでしょう。「徳政担保文言」が記載されているこ
とからも、「そう四郎入道」と「たうかく」の間には、貸借関係が生じて
いたと考えられます。