周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ファミリーヒストリー その2

 一 十二神祭講当番組帳

 

 (表紙) (1832)

 「  天保 三年

  十二神祭講當番組帳

           (ヵ)

    辰十一月十三日 代子神」

 

       申定之事

           (ヵ)

 一、十二神氏子中一同参會致評義、」當辰年分毎年十一月十三日」御神楽仕、

  社家案内、氏子」繁栄・寿命長久・五穀成就之」神酒・御神楽

  氏子中社参」可致候事、

  (貼紙抹消)

         [  ]

 一、銭三拾目也

    見申、氏子中評儀之上午年分相増参ツヽ」此銭三拾目申也、

  右者御神銭有之候付、當辰年分」當番組被附、是利足壱割半を以」神酒

                     (ヵ)

  を調、御神楽、氏子中一同神酒開難之敷祭禮」可致候事、

 一、御神銭是方之儀者、當辰年當番」組ゟ、十一月十三日右銭三拾疋調進」致、

  (ヵ)                             〔計〕

  至同日次年當番組相渡可申候、」尤次當請取之、前當同様取斗可

                      (ヵ)

  申候、」然上者、毎年無滞當番組⬜︎⬜︎」相是可申候事、

   〔勘〕

 右之通観定仕候上者、御神祭ハ不申、」縦外儀ニ付如何様之差縺等

 候共、」神事ニ付聊違乱致間敷候、依之」為後年之氏子中當番組観定」書

 如件、

 

             鼻田本家

  天保三年        作二郎

    辰十一月十三日   勘次郎

              (抹消)

             [   ]

             (抹消) 

   辰 年        幸二郎

              兼三郎

            (〆ヵ)

             ⬜︎

 

              新 蔵

   巳 年        九兵衛

              庄 助

               (〆ヵ)

             ⬜︎

              仙五郎

   午 年        幸 郎

              利 八

              (抹消)

              亀 蔵

 

              万次郎

   未 年        松兵衛

 亥十一月十五日

    ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎殿⬜︎⬜︎いも代     藤 蔵

                 以上⬜︎も    (〆ヵ)

             ⬜︎

 

              定 助

             (貼紙上ニアリ)

   申 年        己之助

  子十一月十五日       久 平

              (抹消)

   貳拾⬜︎まいる      嶋 吉

    共七より取了

     此七⬜︎三⬜︎相渡

         ⬜︎⬜︎⬜︎

 

              佐平次

   酉 年        初兵衛

            (貼紙上ニアリ)

              梅作郎

 

              好次郎

   戌 年        忠左衛門

              政兵衛

            (〆ヵ)

             ⬜︎

 

              (抹消)

              亀 蔵

              (ヵ)

   亥 年        筆二郎

              源 松

              新 吉

 

              作兵衛

   子 年        利 吉

              (ヵ)

              政 吉

 

   酉ノ年        松浦⬜︎⬜︎⬜︎

 

 

 「釈文」

    申し定むるの事

 一つ、十二神氏子中一同に参会し評議を致す、当辰年分毎年十一月十三日に御神楽を

  仕り、社家へ案内致し、氏子繁栄・寿命長久・五穀成就の神酒・御神楽を上げ、氏

  子中社参致すべく候ふ事、

 一つ、銭三十目なり、

    外に見え申す、氏子中評議の上は午年分を相増し参りつつ、此の銭三十目を申すなり、

  右は御神銭之有り候ふに付け、当辰年分當番組に付けらる、是れに利息一割半を以

  て神酒を調え、御神楽を上げ、氏子中一同へ神酒を開き、難しき祭礼を致すべく候

  ふ事、

 一つ、御神銭是方の儀は、当辰年当番組より、十一月十三日に右銭三十疋を調進致

  し、同日に至り次年当番組に相渡し申すべく候ふ、尤も次当之を請け取り、前当と

  同様に取り計らひ申すべく候ふ、然る上は、毎年滞り無く当番組□□相是申すべく

  候ふ事、

 右の通り勘定仕り候ふ上は、御神祭は申すに及ばず、縦ひ外の儀に付け如何様の差縺

 等之有り候ふ共、神事に付け聊かも違乱致すまじく候ふ、之に依り後年の氏子中当番

 組のため、勘定書件のごとし、

 

 

 「解釈」

    定め申し上げること。

 一つ、十二神の氏子中が一同に参会し、評議をした。当辰年分も、毎年のように十一月十三日に御神楽を勤め、社家へ取次を致し、氏子繁栄・寿命長久・五穀成就のため、御神酒と御神楽を差し上げ、氏子中は社参致すべきでありますこと。

 一つ、銭三十目である。

    他に見え申し上げる。氏子中で評議したうえは、午年分の元金を利殖して増やし申し上げつつ、この銭三十目を維持し申し上げるのである。

  右の講銭がありますので、当辰年分を当番の組に預ける。この銭の利息一割半を使って御神酒を調進し、御神楽を奉納し、氏子中一同へ御神酒を分け与え、運営しがたくなった祭礼を執行するべきでありますこと。

 一つ、講銭の件について、当辰年分は十一月十三日に右の銭三十疋を調進致し、当番の組から、同日に次年の当番の組に渡し申し上げなければなりません。当然、次の当番の組がこれを受け取り、前の当番の組と同様に取り計らい申し上げなければなりません。そのうえは、毎年滞りなく当番の組はこれを申し伝えるべきでありますこと。

 右の通りに考え判断し申し上げましたうえは、御神祭の件は申すまでもありません。たとえ他の件について、どのような混乱などがあったとしても、神事については少しも取り決めたことを破ってはなりません。これにより、将来の氏子中の当番の組のために、書き置いた勘定書の内容は、以上の通りである。

 

 

 「注釈」

(1)地元の市史を調べてみましたが、この史料は掲載されていませんでした。よって、新出史料ということになります。

(2)解釈できずに、翻刻したところが多々あります。難しくて読めませんでした。機会があれば、専門家にお願いして解読してもらおうと思います。

(3)説明注は( )、校訂注は〔 〕、改行は 」 で記載しています。

(4)理解できた範囲で要約してみます。毎年十一月十三日が祭礼日で、現在とは異なり、神楽を奉納していたようです。そして、社家(神主)にお願いをして、氏子繁栄・寿命長久・五穀豊穣を祈祷してもらっていました。どこの神社の神主かはっきりしませんが、おそらく村の鎮守の神主にでもお願いしていたのかもしれません。

 十二神講という組織は、共有財産として銭(講銭)を持っていたようです。おそらく、頼母子講や無尽講のような役割を果たしていたものと考えられます。従来、どのような負担の仕方によって祭礼を執行していたのかよくわかりませんが、この「勘定書」が作成された天保三年(一八三二)からは、次年に祭を担当する当番家に、講銭が一割半で貸し出され、その利息をもって祭礼の費用を負担したようです。

 さて、なぜ天保三年にこうした講の掟が定められたのか、という疑問が残ります。何らかの理由で講の運営に支障が生じたため、このような規則が定められたのでしょうが、その理由はよくわかりません。天保の大飢饉の始まりは翌天保四年(一八三三)ですが、ひょっとするとそれに先駆けて飢饉が起こり、慢性的な財源不足に陥っていたのかもしれません。

ファミリーヒストリー その1

 某NHKの番組ではないですが、今回、ちょっとした発見がありました。

 私が古文書を読む勉強を再開したご褒美か、試練かわかりませんが、つい最近一族に関する古文書を1点発見しました。発見というと大げさで、親族はその存在をずっと前から知っていました。ただ、誰も興味を示さず継承してきたようで、両親もその存在を知りませんでした。

 私の住んでいる田舎には、通称「御子神様」と呼ばれる氏神祭祀の講があります。地元に住んでいる同じ苗字の親族筋が集まり、交代で当番を務め、毎年12月の第1日曜日にお祭りを行っています。大げさな祭祀ではなく、お社に各家の代表者が集まり、般若心経を唱えるぐらいのことです。その後、当番家の家に集まって酒・食事をとり、当番の引き継ぎをして解散する。これが、一連の流れです。

 私は何年も実家を離れていたので、どんなものかよくわからなかったのですが、今年はその当番に当たっていて、いろいろと準備をしなければなりませんでした。これまでは両親がその準備に当たっていたのですが、父親の体調が優れないので、代わりに私がその祭に初めて参加したというわけです。その年の当番になった家には、前年の当番家から参加者の名簿などが引き渡されるのですが、そのファイルの中に江戸時代の書付があったのです。

 古文書を読むよい練習になると思って読んでみたのですが、これがさっぱりわかりません。言い訳になるのですが、くずし字を読むのがそもそも久しぶりですし、江戸時代の古文書を読んだ経験がほとんどないので、困り果てています。ひょっとすると、地元の『市史』にでも翻刻されているのではないかと思って確認してみたのですが、残念ながら掲載されていませんでした。よって、新出史料ということになります。

 とある田舎の氏神祭祀の掟書なので、「新出史料発見!」なんて言うのはかなりおこがましいですが、これも何かの縁だと思い、掲載してみます。何かの機会があれば、古文書に詳しい方に読んでいただこうかと思っています。このブログをご覧になられている方のご意見もお聞きしたいです。

 

f:id:syurihanndoku:20171203200410j:plain

f:id:syurihanndoku:20171203200421j:plain

f:id:syurihanndoku:20171203200436j:plain

f:id:syurihanndoku:20171203200447j:plainf:id:syurihanndoku:20171203200459j:plainf:id:syurihanndoku:20171203200511j:plain

実際寺文書4(完)

   四 實際寺領與一野年貢帳寫

 

  (表題)

   「實際寺領与一野年貢帳」

    實際寺領与一野年貢帳

     上名

 一所  参貫五百五十文目   名主道珎分

 一々  貳貫七百五十文目   岡分

 一々  五百五十文目     下垣内

 一々  貳貫七百五十文目   大原道孝

 一所  貳貫七百五十文目   中屋分

     已上

 一所  五百目        神田原

     已上

 

     圓原名

 一所  貳貫文目       名主近助分

 一々  壹貫文目       東垣内

 一々  壹貫八百十六文目   長 原

 一々  七百文目       下垣内宗近大夫分

 一々  百文目        白井谷

 一所  壹貫五百文目     西垣内与三五郎

 一々  貳貫七百五十文目   本垣内同人

     已上

 一々  参百文目       猿屋敷

 一々  四百目        堀 田

     已上

 

     神田名

 一所  貳貫文目       名主道民分

 一々  貳貫文目       白 谷

 一々  壹貫八百十六文目   程 原

     一貫ハ炭焼分、八百六十文ハ寺納分也、

 一々  参貫文目(割書)「内参百文ハ 三郎四郎様分」   鵰道與分

 一所  貳貫九百五十文目   削 山

 一々  五百文目       柳

 一々  五百目        金 口

 一々  壹貫五百文目     勢十郎

 一々  五百文目       神田平

 一々  八百文目       臺

 一々  五百文目       濱子田

     已上

 

     治田原

                  (ヵ)

 一所  参貫文目       名主道春分

 一々  五百文目       三郎衛門

 一々  三百文目       源大夫

 一々  三百文目       惣兵衛

 一々  三百文目       左近五郎

     已上

 一所  壹貫文目       壇助大夫

     已上

 一所  壹貫五百文目     大歳神田

 一々  壹貫貳百文目     諏訪神田

 一々  六百文目土居ニ在之    天神田

     已上

     (1366)

     貞治五年丙午八月三日   二郎大夫(略押)

                 いや二郎(略押)

                 孫 三 郎(略押)

                 願  行(略押)

                 法  善(略押)

                黒  田(花押)

     御寺納所様 御同宿御中

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

*「戸河内村」(『広島県の地名』より)

 貞治五年(一三六六)八月三日の実際寺領与一野年貢帳写(実際寺文書)によると、この与一野(よいちの)は上名・円原(えんばら)名・神田名・治田原(じたわら)の四つの名からなり、それぞれに名主がいて、道珎は三貫五五〇文、近助は二貫文、道民は二貫文、道春は三貫文の名主給を得ている。しかし年貢帳を実際寺の納所に宛てて差し出しているのは以上の名主ではなく、二郎大夫・いや二郎・孫三郎・願行・法善・黒田で、彼らが現地の管理と年貢の収納に当たっていた。また応永元年十二月十七日の大内義弘安堵状(同文書)に「安藝国太田郷實際寺領事、任(白ヘン+反)源寄附状之旨、停止萬雑公事、寺家領掌不可有相違之状如件」とあって、大内氏の勢力が及んでおり、実際寺領の課役が免ぜられている。

 

*なおこの史料は、東皓傳「中世における開発と環境」(『修道商学』41−2、2001・2、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180223110029.pdf?id=ART0007287112)で、詳細に分析されています。

実際寺文書3

   三 祖綱外四名連署寄進状

 

   安藝国山縣郡大田郷戸河内村内実際寺領理地庵屋敷事

 東 従開山塔佛殿之小庭ヲ限

 南 横路ヲ至西之谷

 西 従谷尾筋ヲ登大峰尾ヲ至瀧首

 北 従瀧首平ヲ下開山塔

  右付─二塔頭之事、以各評議─二定之、所寄附實也、至末代

  不相違之状如件、

     (1428)              住山

     応永卅五年戊申八月十九日       祖綱(花押)

               近江守     弾正忠

                清實(花押)  兼貫(花押)

              山祢       刑部少輔

               鬼大夫(花押)  經貞(花押)

 

 「書き下し文」

   安藝国山縣郡大田郷戸河内村内実際寺領理地庵屋敷の事

 東 開山塔より仏殿の小庭を限る

 南 横路を西の谷に至るを限る

 西 谷尾筋を登るより大峰尾を瀧首に至るを限る

 北 瀧首平を下るより開山塔に至るを限る

  右塔頭所に付け申すの事、各々の評議を以て之を相定め、寄附する所實なり、末代に至り相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

   安芸国山県郡大田郷戸河内村内の実際寺領理地庵屋敷のこと。

 東 開山塔から仏殿の小庭まで限る。

 南 西の谷に至る横道を限る。

 西 谷尾筋を登り大峰尾から瀧首平までを限る。

 北 瀧首平を下り開山塔までを限る。

  右の屋敷地を塔頭所に付け申すこと。各々の評議によって四至を定め、寄付することは事実である。将来に至るまで間違いがあるはずもない。

実際寺文書2

   二 雪舟寄進状

 

 藝陽無爲山實際寺之事、紀氏栗栖歸源禅門之開基也、 奉─二愛宕山勝軍地蔵

 大薩埵之尊像、爲武運長久一門堅固也、上与一野并屋敷、至末代寄進

 之者也、當寺佛法繁栄之状如件、

    (1375)

    永和元年九月十日

                  (葉ヵ)

                東福末柴實際寺住持

                        雪舟(花押)

        ○本文書、研究ノ余地アリ

 

 「書き下し文」

 藝陽無為山実際寺の事、紀氏栗栖歸源禅門の開基なり、愛宕山勝軍地蔵大薩埵の尊像

 を勧請し奉る、武運長久・一門堅固の為なり、上与一野并に屋敷、末代に至るまで之

 を寄進せらるる者なり、当寺仏法繁栄の状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国無為山実際寺のこと。紀氏栗栖帰源禅門の開基である。愛宕山の勝軍地蔵菩薩の尊像を勧請し申し上げた。武運長久と一門の結束を祈るためである。上与一野と屋敷は、将来に至るまで寄進されるものである。当寺の仏法は繁栄するはずである。

 

 「注釈」

「芸陽」─未詳。安芸国の意味か。

愛宕山」─京都市右京区嵯峨愛宕町愛宕神社本地仏は勝軍地蔵(『京都市の地

      名』)。

「上与一野」─広島県山県郡安芸太田町寺領。

 

*偽文書の可能性があるようです。