周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

田所文書1 その7

    一 安藝国衙領注進状 その7

 

       静印五反

      瀧宮免二丁

       御神楽免一丁

       仁王講免一丁

     水分社免五反

     八幡宮免三反

     即福王寺免二反

     感神院社免五反

     國廳社造立免五反      信家

     公廨田一丁二反

            (孫三郎ヵ)

      高清三反(佐西⬜︎⬜︎⬜︎)  貞重三反(右近[ ])

      兼重六反(割書)「今者道祖房丸」

    應輸田一丁六十歩       六斗二升七合代

  『中分以後依不治定丸以本丸備進之』

  佐東郡

   緑井郷三十四町五段百八十歩

             (マ丶)

    除不輸免二十四町卅歩

     馬上免二丁五反

      石屋寺二丁一反

      東明寺二反

      西明寺二反

     一御社免十二丁四反三百歩

      御供田五丁三反三百歩

       中御供田三丁五反

       日御供田八反三百歩

       新御供田一丁

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      御讀經免六丁一反大

       忠兼三反        永秀五反

       重尊三反        信覺八反大

       承珎五反        朝寛五反

       湛円五反        證覺一丁

       幸印五反        勢淂二反

       覺雅一丁

      戌免五反

      二季御祭田四反小

     八幡宮免二丁五反

      御神楽免一丁

      御供田九反

      上分田六反

     諸社免三丁九反

      惣社仁王講免三反     道寂

      新日吉免一丁

      感神院社免二丁

      日吉大宮六反

     國廳社造立免五反      信家

     華臺寺免五反

     公廨田七反小

      宗繼二反小        歓喜丸五反

     在廳屋敷六反八十歩 下地    信覺

・・・・・造符所免一丁大 ・・・・・・・宗清・・(紙継目裏花押)

          

   應輸田(九丁反卅歩) 九丁七反小卅歩

    別結解一丁八反小       六斗二升七合代

     定順一丁五反        同

     則末二反          同

     吉武一反          同

     重武小           同

    別府五反三反小

     久武四丁二反斗       例代

     乃米田一丁三百歩      四斗代

          

    郷分(二丁反小卅歩) 二丁五反大卅歩

     官米三斗代 二丁三反大卅歩

        

     例代反大) 二反

  佐東郡

  杣村二十五町五反

          

   除不輸免二丁六反六十歩 十三丁一反六十歩

    一宮免二丁七反

     御供田七反

     散米田一丁

     御讀經免五反        覺俊

     二季御祭御幣紙免五反    有光

    八幡宮大般若經免二丁

     一丁五反  照寂    五反  道寂(割書)「今者⬜︎⬜︎」

    即八幡宮免六反

    同新宮免五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「緑井郷」─現安佐南区佐東町緑井。正治元年(一一九九)十二月日付伊都岐島社政所

      解(新出厳島文書)によると、同社の中御供田八町四段のなかに「緑井郷

      三町五反」とあり、さらに日御供田十五町中に一丁四段六十歩、新御供田

      四町中に一町、外宮免田三町五段中に三段が見える。鎌倉中期と推定され

      る安芸国衙領注進状(田所文書)では、八木村に次いで緑井郷三十四町五

      段百八十歩が見えるが、不輸免二十四町八段三十歩と応輸田九町七段小三

      十歩からなり、不輸免は馬上免・一御社免(中御供田・日御供田・新御供

      田を含む)・御読経免・八幡宮免・諸社免・国庁社造立免・華台寺免五・

      公廨田・在庁屋敷・造符所免であった。元亨四年(一三二四)三月八日の

      佐伯親重譲状(野坂文書)には「みとろい(緑井) のりすへ(則末)

      名」とあり、貞和二年(一三四六)八月十三日付の佐伯重直名田畠譲状

      (新出厳島文書)では「いつくしまの御神りやうの内さんとう(佐東)の

      こうり(郡)みとろいのかう(郷)の内のりすへ名」と見える。なお康応

      元年(一三八九)十一月二十五日付の室町将軍家御教書(東寺百合文書)

      は、緑井郷などが品河近江入道らによって押領されているとの東寺雑掌の

      訴えにより、その排除を命じたもので、この頃京都当時に施入されていた

      ことが知れる。

      武田氏滅亡後の天文十年(一五四一)七月二十三日大内義隆毛利元就

      可部(現安佐北区)・温品(現東区)の代所として緑井四百貫・温井三百

      貫・原郷内一九〇貫などを預けた(毛利家文書)。毛利氏が緑井を所領と

      してからは、しばしば厳島神社の常灯料や造営料に充てている。天正十九

      年(一五九一)十二月二十六日付の毛利氏奉行人連署書状(厳島野坂文

      書)では、毛利輝元厳島棚守左近将監へ宛て、緑井など三ヵ所は武家

      官の綺を止め、一職に社家の進止とし、地下人納所難渋の時は輝元が糾明

      すると申し送っている。なお中世の読みは文書に「みとろい」「みそろ

      へ」「ミゾノ井」などがある(『広島県の地名』)。

「石屋寺」─「石屋神社」=現安佐南区佐東町緑井。権現山から南に延びた尾根の先

      端、神宮山(九二・四メートル)西麓にあり、祭神は応神天皇・宗像三女

      神。旧村社。「芸藩通志」は熊野新宮と記し、「安芸国神名帳」に佐東郡

      二〇前の一つとして見える石屋明神に比定する。鎌倉時代中期の安芸国

      領注進状(田所文書)の緑井郷不輸免のなかに「石屋寺二丁一反」があ

      り、当社との関係が推測される(『広島県の地名』)。

「東明寺」─未詳。

西明寺」─未詳。

「華臺寺」─未詳。

「乃米」─能米とも書く。玄米(黒米)のこと。また年貢米一般を指していうこともあ

     る(『古文書古記録語辞典』)。

「杣村」─現在の安佐南区沼田町全域と安佐北区安佐町の西部地域を範囲とする中世の

     村。

     鎌倉中期と推定される三月日付の安芸国衙領注進状(田所文書)に「緑井

     郷」に次いで杣村、続いて「阿土毛木村」が見え、国衙領であった。「杣村

     二十五町五段」の内容は、不輸免が十三丁一反六十歩でその内訳は一宮(厳

     島社)免二丁七反・八幡宮(松崎八幡宮大般若経免二丁・即八幡宮免六

     反・同新宮免五反・角振社仁王講免三反・諸寺勘料田一丁小・公廨田四丁四

     反大・一宮神官恪勤免一丁・梶取免四反六十歩・政所敷一反、応輸田が十二

     丁三反三百歩で、その内訳は別府六丁七反三百歩(久知村一丁四反六十歩・

     中伴四丁・大墓村一丁三反大)・本村五丁六反とある。「阿土毛木村」は杣

     村と並存しており、阿戸村は杣村外であったとも考えられるが、しかしのち

     に、「杣村七ヶ村」という場合には阿戸村を含める説が有力である。

     正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲状(田所文書)にも栗林二

     丁のうちに「杣村一丁五反」とあり、年未詳三月三日付の佐東郡杣村地頭代

     高階安家書状(巻子本厳島文書)によると、厳島社の神人が数多く地頭政所

     へ乱入したため、地頭代が宮政所に訴えている。建武元年(一三三四)三月

     日付の安芸国司庁宣写(厳島野坂家文書)では、杣村公文職同屋敷名田畠等

     が安堵されているが宛名は不明である。至徳四年(一三八七)七月二十一日

     付の室町将軍家御教書(東寺百合文書)は、東寺雑掌が幕府に対し安芸国

     領内杣村が武田遠江守に押領されている旨を訴えたのに対し、幕府が小早川

     春平にその排除を命じたもので、これ以前に杣村が東寺に施入されていたこ

     とが知れる。

     応永四年(一三九七)八月十八日付の室町将軍家御教書(厳島文書御判物

     帖)には「厳島社雑掌申安芸国杣村内大塚久知両村事、武田伴遠江五郎捧建

     武二年御下文至徳三年安堵等案、為杣七ヶ村内之由雖支申、去貞治年中雖拝

     領杣七村、為厳重神領之間、閣之由、大内左京権大夫入道進状上本社領

     云々、此上早止彼遠江五郎妨、可被沙汰付社家雑掌之由、所被仰下也」とあ

     り、貞治年中(一三六二〜六八)厳島社領となっていたのを武田遠江五郎が

     違乱したので、当時の安芸国守護渋川満頼に命じて停止している。このなか

     に「杣七村」が見える。しかしこの御教書の実行は疑わしく、以後も武田氏

     の勢力は伸長し、杣七ヶ村の名称も失われ、各村名が記されるようになる

     (『広島県の地名』)。