周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書22 その4

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その4

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 昔麓及左右–前–後寺有四–十八–宇、然レトモ境屬邊僻近智

 不來、所以及頽廢也、旣至數–百之歳–華而聞–尓トシテ

 絶スルニ人–迹、然トモ希–夷未尊–像猶、時一–樵–夫

 不此像而為朽木斧觸、像忽𥁃–血迸–流山–谷震–動

 岩–樹如クカ、觸ル丶者轉–仆目–心昏–沈、同–樵者驚見而恐–悔𥡴首シテ

 對シテ像請、夫者、自–業之所、救フハ物者聖–者之常–事

 故、旣得ル丶コトノ身全而去、邑–人相聞シマ焉、

                             (未)

  聞夫佛不自佛必感乎、然尚此時末

  一宇而奉スル禮誦之人

   つづく

 

 「書き下し文」

 昔は麓及び寺の左右前後に寺凡て四十八宇有り、然れども境辺僻に属し近智は来たらず、頽廃に及ぶ所以なり、既に数百の歳華を歴て聞尓として人迹を絶するに至る、然れども尚ほ希夷未だ滅びず尊像猶ほ存ず、時に一樵夫有り、此の像を知らずして朽木と為し斧を以て像に触る、像忽ちに𥁃血迸流し山谷震動すること岩樹を裂くがごとし、触るる者転仆し目心昏沈す、同樵の者驚き見て恐悔稽首して像に対して救ひを請ふ、夫れ罰は自業の受くる所、物を救ふは聖者の常事の故に、既に罰を免るることを得身全て去る、邑人相聞きて欽しまざる無し、

  聞く仏自ら仏ならず必ず物に感ずる者の蓋し此の謂か、然して尚ほ此の時未だ一宇有りて礼誦を奉ずるの人を聞かず、

   つづく

 

 「解釈」

 昔は、山麓や福王寺の左右前後に寺が全部で四十八宇あった。しかし、その場所は辺鄙なところにあり、近隣の僧侶たちはやって来なかった。これが衰退した理由である。すでに数百年の歳月を経て、人が訪れなくなったと聞いている。しかし、依然として仏道の道理はまだ滅びておらず、尊像も依然として現存している。ある時、一人の木こりがいた。この立ち木に刻まれた不動明王像の存在を知らず、朽木と思い斧で仏像に触れた。像からはたちまち血が溢れ流れ出し、山や谷が震動することは、岩や樹木が裂けるようであった。仏像に触ったものは転倒し、目はくらみ心は沈んでしまった。同じ木こりはその様子を驚き見て恐れ後悔し、頭を地につけて礼をし、仏像に対して救いを請うた。そもそも罸は自らの行いによって受けるもので、衆生を救うのは聖者の行ういつものことであるがゆえに、早くも罰を免れることができ、その身からすべて取り去られた。村人は互いに聞いて敬わないものはいなかった。

  聞くところによると、仏は自ら仏であることを示すものではなく、必ず物に感応する者に示すというのは、こういうわけかと思う。だから、依然としてこの時に一宇の寺院があって、礼拝し読誦し奉る人をまだ聞いたことはない。

   つづく

 

 「注釈」

「聞尓」─未詳。

「𥁃」─「孟」に同じ。

「聞夫」─未詳。

 

*最後の一段落がまったくわかりません。

福王寺文書22 その3

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その3

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 山絶–頂一–池、大–師相臨自撥藻–蘚、則清–華含天山–樹

 倒ニス、身–心凄–然トシテ煩–想金–色浮出

 延而三退、大–師感–見シテ金–龜山–号、本–尊

 福–智該–主之明–王ナルカ福–王–寺

  夫之爲ルヤ霊也、游コト三–千–歳ニシテ其域、安–平靜–正ニシテ

  動コト、壽蔽天地物變–化、四–時變色居而自匿シテ

  不、春蒼夏黄秋白冬、傳蓍生シテ満(寸)百–莖者下必

  有神–龜、其上常青–雲之、又曰

  獣無虎–狼草無毒螫焉、知之道於上–古利–害

  察禍–福、龜之神ナルコト也若此、豈ナル哉可敬歟、故

  藏シテ高庿神–寶焉、如之金–龜又不

  感也、

   つづく

 

 「書き下し文」

 山の絶頂に一池有り、大師相臨み自ら藻や苔を撥ふ、則ち清華天を含み山樹影を倒にす、身心凄然として煩想を疏くべき時に忽ち金色の亀有りて浮き出づ、頸を延ばして三たび前み三たび退く、大師感見して金亀を以て山号と為す、本尊福智該主の明王なるが故に福王寺と云ふ、

  夫れ亀の霊たるや、游すること三千歳にして其の域を出でず、安平静正にして動くこと力を用ひず、寿天地を蔽ひ、物と與に変化す、四時に色を変じ居りて自ら匿れ、伏して食はず、春は蒼く夏は黄に、秋は白く、冬は黒し、伝に曰く蓍生じて百茎に満たす者は下に必ず神亀有りて之を守る、其の上に常に青雲有りて之を覆ふ、又曰く亀の生ずる所、獣に虎狼無く、草に毒螫無し、天の道を知ること上古に明らかなり、利害を知り禍福を察す、亀の神なることや此くのごとし、豈に偉なるや敬はざるべし、故に高庿に蔵して以て神宝と為す、今の金亀のごとき又測るべからざるの感なり、

   つづく

 

 「解釈」

 山の頂上に一つの池がある。大師はそこに臨み、自ら藻や苔を取り除いた。すると、清らかな花々が天を覆い、山の木々がその姿を逆さまにした。心身は冷え冷えとして世事の煩わしい思いを除くことができたときに、すぐに金色の亀が現れ浮き出てきた。首を伸ばして三歩前進し三歩後退した。弘法大師は感動しながら見て、この金色の亀を理由に、金亀山を山号とした。本尊は福行と智行の功徳を併せ持つ不動明王であるがゆえに、福王寺と言う。

  そもそも亀のはかりしれない不思議な力とは、三千年のあいだ泳ぎ続け、その生存区域を出ることはない。動くことに力を使わない。その長寿は天地の長さを超え、物とともに変化する。四季ごとに体の色が変わり、自分からその身を隠し、隠れ潜んでいるあいだは物を食べることはない。春は青く、夏は黄色、秋は白く、冬は黒色になる。古い書物には、メドギが成長して百本の茎になったとき、その下には必ず霊妙なる亀がいてこれを守り、その上には常に青い雲があってこれを覆っているという。また、亀が暮らしているところには、虎や狼のような猛獣はおらず、草むらには毒虫もいない。亀が天の道を知っていることは、遠い昔から明らかなことだ。利害を知り、不幸や幸福を感じ取ることもできる。亀の霊妙なことは、このようなものである。亀の優れていることは、どうして敬わないことがあろうか、いや敬うべきである。だから、立派な祠にしまい、神聖な宝物としているのだ。この金色の亀のようなものは、やはり人知では測りきれない力があると感じる。

   つづく

 

 「注釈」

*この部分は、「亀策列伝」(『史記』巻一二八)を参考に書かれたものと考えられます。この縁起を作成したのは「寛雅」という僧侶と考えられます。彼がどこで修行をし、その知識を身につけたのかはよくわかりませんが、室町時代安芸国真言寺院に、『史記』の知識をもっていた僧侶がいたことは、これではっきりします。以下、参考までに「亀策列伝」における類似文章を記しておきます。なお、文章・書き下し文・解釈は、『新釈漢文大系』一一五(明治書院、2013)を引用しました。

 

①「夫龜之爲霊也」以降─『新釈漢文大系』一一五、319頁。

 [本文]

 游三千歳、不其域。安平靜正、動不力。壽蔽天地、莫其極。與物變化、四時變色。居而自匿、伏而不食、春蒼夏黄、秋白冬黑。

 [書き下し文]

 游すること三千歳、其の域を出でず。安平靜正(あんぺいせいせい)にして、動くに力を用ひず。壽、天地を蔽(おほ)ひ、其の極を知るもの無し。物と與(とも)に變化し、四時(しじ)に色を變ず。居りて自(みづか)ら匿れ、伏して食らはず、春は倉(あを)く夏は黄に、秋は白く冬は黑し。

 [現代語訳]

 三千年の間、遊歴して、その生存区域を出ることがありません。心は平静で正しく、動き回っても力を使いません。その寿命は天地をも超え、きわまるところを知りません。万物とともに変化し、四季ごとに体の色が変わります。ふだんは自分からその身を隠し、隠れ潜んでいる間は、物を食べません。春は青く夏は黄色、秋は白く冬は黒色になります。

 

②「傳曰」以降─『新釈漢文大系』一一五、304頁。

 [本文]

 聞蓍生満百莖者、其下必有神龜之、其上常有青雲之。

 [書き下し文]

 聞く、蓍(し)生(しやう)じて百莖(ひやくけい)に満つる者は、其の下(しも)に必ず神龜(しんき)有りて之を守り、其の上(かみ)に常に青雲有りて之を覆ふと。

 [現代語訳]

 聞くところでは、メドギは成長して百本の茎になった時、その下にはきっとこれを守る霊妙なる亀がおり、その上には常にこれを覆う青い雲があるという。

 

③「又曰」以降─『新釈漢文大系』一一五、300頁。

 [本文]

 又其所生、獣無虎狼、草無毒螫

 [書き下し文]

 又其の生ずる所、獣に虎狼無く、草に毒螫(どくせき)無し。

 [現代語訳]

 またメドギの生えている所には、虎や狼などの猛獣はおらず、毒虫のいる草はないとのことであった。

 

 *『縁起』では「龜所生」となっていますが、『史記』では「其所生」となっており、かつ「其」の指示先は「蓍」(メドギ)です。つまり『縁起』作者寛雅は、間違えて引用したか、あるいは「亀」で文章を作り変えたのかもしません。

中世のキラキラネーム ─女子の幼名はどう決まる? (How to decide the girl's name in the Middle Ages.)

  文安五年(1448)四月十五日条 (『康富記』2─274頁)

 

 十五日庚午 晴、

  (中略)

 鴨御蔭山祭也、祭儀如例、予密々伴山下親衛禅門見物、先過出雲路道祖神敬白之

                          (サイ)

 處、或女姓令懐兒女、可被付名之由、令申山下之間、卽道祖付了、其母堂卜

 小宿、令饗應山下予等了、不思寄嬖幸ニ遇者也、後聞、彼母者、細川野州

 官人吉良ト云者ノ妾也云々、

  (後略)

 

 「書き下し文」

 鴨御蔭山祭なり、祭儀例のごとし、予密々に山下親衛禅門を伴ひ見物す、先に出雲路

 の道祖神を過ぎり敬白するの処、或る女姓児女を懐かしむ、名を付けらるべきの由、

 山下に申さしむるの間、即ち道祖(サイ)と付け了んぬ、其の母堂小宿を卜し、山

 下・予等を饗応せしめ了んぬ、思ひ寄らざる嬖幸に遇ふ者なり、後に聞く、彼の母

 は、細川野州被官人吉良と云ふ者の妾なりと云々、

 

 「解釈」

 今日は鴨の御蔭山祭である。祭儀はいつものとおりである。私は密かに山下親衛禅門を伴って見物した。その前に出雲路道祖神社に立ち寄り、謹んで祈願していたところ、ある女性が女児を抱いていた。その母親は、女児に名を付けてください、と山下に申したので、すぐに道祖(サイ)と名付けた。その母親はちょっとした宿を占い定めて、山下と私たちをもてなした。思いも寄らない幸運にあったものである。後で聞いた。この母親は、細川下野守の被官人吉良という者の妾であるそうだ。

 

 Today, the Mikage Festival was held at Shimogamo Shrine as usual. I secretly watched it with Yamashita Shinezenmon. Before that, I stopped by at the Sainokaminoyasiro Shrine in Izumozi and prayed, and I met a woman who held a girl. Because she asked Yamashita to give her a name, he immediately named the girl "Sai." She chose a small restaurant by fortune telling and treated Yamashita and us. I met an incredible good luck. I heard it later. This woman is said to be the concubine of Hosokawa shimotsukenokami's vassal Kira.

 

 「注釈」

「鴨御蔭山祭」

 ─葵祭賀茂祭)に先駆け、前儀として賀茂御祖神社下鴨神社)の摂社・御蔭神社(左京区上高野東山)で行われる祭儀(新木直人『葵祭の始原の祭り』ナカニシヤ出版、二〇〇八)。

 

「山下親衛禅門」─未詳。

 

出雲路道祖神

 ─現上京区神町の幸神社(さいのかみしゃ)。近世以前は青竜町にあった(『京都市の地名』)。

 

「嬖幸」

 ─君主などに特別にかわいがられること。また、その人。お気にいり(『日本国語大辞典』)。ここでは「僥倖」と同じ意味で、「思いがけない幸運」ぐらいの意味と考えておきます。

 

「細川野州」─細川持春。

 

「吉良」─吉良七郎(桃崎有一郎『康富記人名索引』日本史史料研究会、二〇〇八)。

 

*一般化できるかどうかはさておいて、中世人はこんな名付け方をするようです。現代では到底考えられません。

 まず、記主中原康富・山下親衛禅門と、女児を抱いた女性の関係ですが、「後聞」とあるように、後で吉良の妾であると判明していることから、互いに初対面であったと考えられます。康富にしても山下にしても、どちらかの知り合いであれば、「後聞」という書き方はしないのではないでしょうか。また、「不思寄嬖幸」と記しているからには、彼女との出会いは、やはり偶然だったことになります。

 ですが、神前でのこの偶然の出会いが、名付け親になる機縁になったと考えられます。「道祖」と書いて「サイ」と読む。神の名をいただいたこの名前こそ、本当の意味での神がかったキラキラネームと言えそうです。やや、安直な気もしますが…。中世の女性は一部の高貴な人を除いて、幼名や実名がはっきりしません。庶民とは言えませんが、守護被官クラスの妻女の幼名が判明する、珍しい事例ではないでしょうか。

 さて、この記事を読んでいると、一つ違和感を覚える箇所があります。それは、「小宿を卜し」というところです。幼名を付けてくれたお礼に接待をするだけなら、近くにある適当な宿を自分の意志で選べばよいと思うのですが、この母親はわざわざ接待場所を占っているのです。単なる占い好きの女性だったということかもしれませんが、そうではない可能性があります。つまりこの記事は、当時の名付けの慣習を教えてくれているのではないでしょうか。幼名をつけるには、まず寺社に参拝する。次に見知らぬ人に名前を決めてもらう。そして、接待場所を占いによって決め、最後にそこでもてなす。これが当時の慣習だったのかもしれません。

 他の事例を知らないので推測に過ぎないのですが、幼名の決定は非常に呪術的な手続きによって行われていたと考えられます。新生児・乳幼児死亡率の高かった前近代の社会では、神仏のご加護以外に頼るべきものはなかったのでしょう。冥慮を尊ばざるを得ない中世びとだからこそ、このような慣習を生み出したのかもしれません。

 

 I do not know if it can be generalized, but it seems that medieval people have named their children in this way. It is a rare custom in modern times.

 By chance, Nakahara Yasutomi met a woman who held a girl. I think that he came to be a godfather by this casual encounter in front of God. This girl was named "Sai" after the god "Sainokami". This is the name of God's favor. We do not know the names of medieval women, except for those with high status. This is a rare example of finding out the names of common girls.

 Well, while reading this article, there is a part that feels strange. It is that this mother chose a small restaurant by divination. I think she should choose the restaurant according to her will if she only entertains Yasutomi as a thank-you for giving her the name, but she chose the restaurant according to a fortune telling. In other words, this article shows the practice of naming children in the Middle Ages. To name a child, medieval people first visit temples and shrines. Next, they ask strangers to decide their names. Then, by fortune-telling, they decide where to entertain the person, and finally they entertain there. This may be the custom of those days.

 Although we can not generalize it because we do not know other cases, it is thought that the child's name was determined by a very magical method. In pre-modern societies where neonatal and infant mortality rates were high, the people had no means to resort to anything other than divine protection. That is why they may have created such a convention.

 (I used Google Translate.)

 

 

*2020.4.11追記

 中世びとの名付け方に対する一家言を見つけたので、ここに追記しておきます。その人は、言わずと知れた兼好法師。この人、ホントどうでもいい、いろんなことにイチャモンをつけるもんだ、と心の底から感心します。

 鎌倉時代人の兼好法師が、上記室町時代の名付け方や、われわれ現代人の名付け方を聞いたら、いったいどんな評価をするのでしょうか? 想像すると楽しいです。

 

 『徒然草』第百十六段

          (『日本古典文学全集27 』小学館、1971、184頁)

 寺院の号、さらぬ万の物にも、名をつくる事、昔の人は少しも求めず、ただありのままに、やすく付けけるなり。この比は深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞こゆる、いとむつかし。人の名も、目なれぬ文字をつかんとする、益なき事なり。

 何事もめづらしき事をもとめ、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

 

 「解釈」

 寺院の名、そのほかすべての物にも、名をつけることは、昔の人は少しも奇を求めず、ただ、ありのままに気軽につけたものである。このごろは、深く思案し、才知の働きを人に示そうとしているように思われるが、これはまことにいやみなものだ。人の名も、見なれない文字をつけようとするのは、つまらないことである。

 何事でも、珍しいことを求め、珍奇な説を好むのは、あさはかな教養の人の必ずすることであると言う。

福王寺文書22 その2

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その2

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

  夫ルヤ物也法–界無外、法–然本–有コト一–事

  假–法トシテ而非當–躰卽–眞焉、是卽–事而–眞、凡

  法–門顕–密衍–門之行–者爲栖–心之所、然レトモニス

  其、如キハ顕–教則約スルカ攝–相–性–門、故卽–事而–眞

  義者古–賢論シテ密–家不–共者也、今不焉、既今非–情

  之樹–木直當–躰以不–動、是以我卽–事之爲一レ

                                  

  卽也、大師釋シテ卽–事卽–日義乎、是

  以今院–号取事–眞之二–字卽–而而已矣、

   つづく

 

 「書き下し文」

  夫れ物の物たるや法界外無し、法然本有りし故に事の仮法として当体即真に非ざる者有ること無し、是れを即事而真と曰ふ、凡そ此の法門は顕密衍門の行者栖心の所と為す、然れども尚ほ宗に隨ひ其の旨を異にす、顕教のごときは則ち摂相性門に約するか、故に即事而真の義は古賢論じて密家の不共と為す者なり、今悉くすべからず、既に今非情の樹木直に当体以て不動の真と為す、是れ乃ち我が即事の即たる所以なり、大師即の義を釈して曰く、常の即事即日のごとし、豈に其れ当の義か、是を以て今の院号事真の二字を取りて即而の字を略するのみ、

   つづく

 

 「解釈」

 そもそも意識の対象のなかでしか、物が物であることはできない。本来のあるがままの姿が本来固有の存在であるから、どんな実体のない仮の存在でも、あるがままの本性が真理でないことはない。これを、現実世界の事物がそのまま真理である、という。そもそもこの寺院は、顕教密教を広く学ぶ行者が暮らす場所である。しかし、依然として宗派に従い、その目的を別にしている。顕教のようなものは、現象と本体を捉える考え方をまとめたものだろうか。だから、現実世界の事物がそのまま真理である、という意味は、昔の賢人たちが論じて、密教者は考えを同じにしないものである。今極め尽くすことはできない。すでに今現前している、感情を持たない樹木のあるがままの本性を、そのまま不動の真理と見なす。これはつまり、自分の目の前の現実世界の事物が、現実そのものである理由である。弘法大師が即の意味を解き明かして言うには、いつもの現実世界の事物と、ある事柄のあったその日のようなものだ。どうして「当」(あるがまま)の意味であろうか。こういうわけで、今の院号は「即事而真」のうち「事真」の二文字を採用して、「即而」の字を省略しただけだ。

   つづく

 

*注釈は数が多すぎるので省略しました。解釈はしてみましたが、難しくてよくわかり

 ません。

福王寺文書22 その1

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その1

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

   藝州高宮郡綾谷邑金龜山福王寺縁起

 夫大–道之物タルヤ也、出無–名之始メニ有–物之上、無

 不、何窮–際焉、然レトモ群–彙而不知聖–道陰レテ而不感、

 大–権此出風–化高、我日–域粹–然タルコト矣、欽–明之御–宇西–天之

                                 空海

 玄–風初扇、自尒命–世之偉–人相逐邦二霊–區啓焉、茲當–寺弘–法

 大–師啓–迪也、大–師若シテ名山絶–巘孤–岸幽–渓修–歴、天–下殆、到

 此刕山之神–偉清嵐而攀登リ玉焉、爲

 状也、岡–巒崷–崒𡼏–戸寂–絶佳–木𥿋廡雲–霞流–蕩、不一–鳥之

 鳴–聲、可列–仙之區–陬焉、心–目自カニ塵–事都、大–師

 凝シテ幽–昧–觀、有一–奇–樹、烟–雲厚

 似タリ、大–師就而直シテ自–木不–改為ント不動明王

 雖トモ然若レハ儀–相則希世之凡–流不餘木

        

 焉、於是乎自援不–動明–王之尊様、不シテ而爲

 不根而爲足、威–容儼–然トシテ一–丈有–餘不–日ニシテンヌ焉、鎭

 以國家、人隨聞四–來雜沓シテ而拜–祈異–驗影–響也、遂

   淳和天皇

 達 天–長帝之叡–聞、勅シテ高堂而蓋、塔–婆僧–舎梵–制

 頗事–眞–院、且綾谷九–品–寺大–毛寺三邑

 寶–前之香–燭行–法之僧供

   つづく

 

 「書き下し文」

    芸州高宮郡綾谷邑金亀山福王寺縁起

 夫れ大道の物たるや、無名の始めに出で有物の上に高し、至らざる所無し、何ぞ窮際有らんや、然れども郡彙は踏みて知らず聖道陰れて感ぜず、大権此に出で風化高く揚ぐ、我が日域粹然たることは尚し、欽明の御宇西天の玄風初めて扇ぐ、爾れより邦の霊区を相逐ひ啓く、茲に当寺は弘法大師の啓迪なり、大師若くして名山の絶巘、孤岸、幽渓を修歴し、天下殆ど徧し、此の州に到る時に此の山の神偉を察して高く清嵐を踏みて攀じ登り玉ふ、山の状たるや、岡巒は崷崒として、𡼏戸寂絶の佳木𥿋廡し雲霞流蕩す、一鳥の鳴聲を聞かず、列仙の区陬と為すべし、心目自ずから朗らかに塵事都て捐つ、大師思ひを幽昧に凝らして潜かに掩し観じ所、一奇樹有り、烟雲厚く籠もり光に似たり、大師就きて直に拜して自木を改めず不動明王と為さんと欲す、然りと雖も若し儀相を具へざれば則ち希世の凡流以て余木と分かつべからず、是に於て自ら斧を援き、不動明王の尊様に擬す、枝を折らずして肘と為し根を伐らずして足と為す、威容儼然として長け一丈有余不日成んぬ、以て国家に鎮す、人聞こえに随ひて四来雑沓して拜祈し異験影響なり、遂に迺ち天長帝の叡聞に達し、勅して高堂を建て像を蓋ふ、塔婆・僧舎・梵制頗る備はり名づけて事真院と曰ふ、且つ綾谷・九品寺・大毛寺の三邑を以て宝前の香燭行法の僧供に寄附す、

   つづく

 

 「解釈」

    安芸国高宮郡綾谷村金亀山福王寺の縁起

 そもそも正しい道というものは、名もなき天地の始めに生まれ、万物の上に高く存在する。どこにでも存在する。どうして物事の極地にあるだろうか、いやない。しかし、民衆は正しい道を踏みつけてわからなくなり、仏の教えは隠れてしまい感じることができない。ここに、仮の姿で現世に現れた仏菩薩が現れ、人を教え導くという誓願を高く掲げた。我が日本は純粋に神を信仰して久しい。欽明天皇の御代に天竺の深遠な仏の教えが、初めて風のように吹き付けた。それ以来、名高い偉人たちが、国内の霊域を探し求め開いた。それで、当寺は弘法大師空海が開創したのである。大師は若くして名山の険しい峰や孤絶した岸壁、奥深い静かな渓谷を修行しながら遍歴し、国中ほとんどくまなく訪れた。この安芸国にやってきたときに、この山の神威を感じ取り、高く春霞を踏み分け、よじ登りなさった。山は高くそびえ、谷間の家は静寂で人里から隔絶し、立派な木々は馬のたてがみのように繁茂し、雲や霞は流れ揺れ動いている。一羽の鳥の鳴き声も聞こえない。仙人たちのすみかとみなすべきだ。心や目は自然と朗らかになり、世間の煩わしい俗事をすべて捨て去る。大師は思いを奥深く暗いところに集め、ひそかに覆い隠し仏法の真理を観察・熟考していたところ、一本の優れた木があった。雲のように高く立ちのぼる煙が厚く立ち込め、光に似ている。大師はその木に近寄り直に拝んで、自然のままの木を切らず不動明王にしようとした。しかし、もし規定どおりの尊いお姿を備えていなければ、末世の普通の人々は、他のただの木と見分けることができない。そこで自ら斧を引き寄せ、不動明王のお姿にしようとした。枝を折らずに肘とし、根を切らずに足とした。その堂々たるお姿は厳かで、像の高さは一丈(約三メートル)余り、すぐに完成した。その不動明王像を用いて国家を鎮護した。人々はその噂を聞いて四方から大勢やってきて混み合い、拝み祈ったことに応じて霊験が現れたのである。そこで、とうとうその噂が淳和天皇のお耳に達し、勅命を下して立派な堂舎を建立し、不動明王像を覆った。仏塔や堂舎、寺の制度もたいそう立派に整備され、名付けて事真院と言う。その上、綾谷・九品寺・大毛寺の三村を、仏前に供える香や蝋燭、修行僧へのお供えとして寄付した。

   つづく

 

*注釈は数が多すぎるので、ほぼ省略しました。

 

𥿋」=䋣。