周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

永井文書2(完)

    二 関東御教書

 

                 

 伊予国北条郷地頭多賀江入道申、守○使乱入事、訴状遣之、於篝松役所々者、

 被止使入部了、而被放入之条、甚無其謂、自今以後可停止

 之状、依仰執達如件、

     (1240)           北条泰時

     仁治元年後十月五日      前武蔵守(花押)

    宇都宮四郎判官殿

 

 「書き下し文」

 伊予国北条郷地頭多賀江入道申す、守護使乱入の事、訴状之を遣はす、篝松役の所々に於いては、使ひの入部を停止せられ了んぬ、而るに放ち入れらるの条、甚だ其の謂れ無し、自今以後停止せらるべきの状、仰せにより執達件のごとし、

 

 「解釈」

 伊予国北条郷地頭多賀江入道が申し上げる、守護使乱入のこと。多賀江の訴状をあなたに遣わした。篝火松の用途を負担する所領では、将軍九条頼経が守護使の入部をご停止になった。しかし、守護使を入部したことは、まったく根拠のないことである。今後は守護使入部を停止しなければならないことを、将軍のご命令によって下達する。

 

 「注釈」

「宇都宮四郎判官」─伊予国守護宇都宮(横田)頼業(巻末「鎌倉幕府諸職表 守護」

          『角川新版日本史辞典』)。

永井文書1

解題

 多賀谷(多賀江)氏は鎌倉時代に地頭として武蔵国から伊予国周桑郡北条郷に入部した東国武士である。南北朝時代末期には本拠を安芸国蒲刈島・倉橋島方面に移している。この文書はこの多賀谷氏に伝わった文書で現在は姻戚の永井氏に所蔵されている。

 一号の伊予国北条郷地頭多賀江二郎入道宛ての文書は、鎌倉幕府が京都警衛のために辻々に篝屋を設置したという『吾妻鏡』嘉禎四年(1238)六月十九日条の記事を裏付ける史料である。また二号の宇都宮四郎判官宛の文書によって当時の伊予国守護宇都宮氏の存在も確かめることができる。

 

 

    一 関東御教書

 

                          厚見郡

 為京中守護、可篝於辻々料松事、以美濃国日野村・伊予国周敷北条

 地頭得分内、辻一所松用途銭拾貫文、寄合多賀江兵衛尉、随分限毎年可

 致沙汰也、但不百姓也、且関東御公事并守護人使入部者、一向可

 被止之状、依仰執達如件、

     (1238)            北条泰時

     嘉禎四年六月廿日       左京権大夫(花押)

                    北条時房

                    修理権大夫(花押)

     たかへの二郎入道殿

 

 「書き下し文」

 京中守護のため、篝を辻々に懸けらるべき料松の事、美濃国日野村・伊予国周敷北条の地頭得分の内を以て、辻一所の松の用途銭十貫文、多賀江兵衛尉と寄り合ひ、分限に随ひ毎年沙汰致すべきなり、但し百姓を煩はすべからざるなり、且つ関東御公事并びに守護人の使ひの入部は、一向に止めらるべきの状、仰せにより執達件のごとし、

 

 「解釈」

 洛中守護のために篝火を各辻にかけるべき松の用途のこと。美濃国日野村と伊予国周敷郡北条地頭職得分の内をもって、辻一ヶ所の松の用途銭十貫文を、多賀江兵衛尉と談合し、所領の規模にしたがって、毎年負担しなければならない。ただし、百姓に負担をかけてはならないのである。また、関東御公事や守護使の入部は、すべて停止されなければならないことを、将軍九条頼経のご命令によって下達する。

 

 「注釈」

「日野村」

 ─岐阜市日野。長良川左岸、舟伏山付近一帯に成立したとみられる。嘉禎四年(1238)六月二十日多賀江二郎宛の関東御教書(永井直衛氏所蔵文書)によれば、京都の治安維持のために設置された篝屋で焚く篝火の薪のため「美濃国日野村・伊予国周敷北条地頭得分」に対して用途銭十貫文が課せられ、その代わりに関東御公事と守護使入部が停められている。長禄二年(1458)四月十六日の足利義政御教書写(北野神社古文書)では、京都北野社社家に還付された北野宮寺造営料所のうちに郷名がみえる。年月日未詳の足利義尚の袖判のある北野社社領目録写(同文書)で、室町期に当郷の地頭職・領家職を北野神社が所有していたことが知られる。

 当郷など北野宮寺造営料所の奉行職は、文正元年(1466)十一月七日に松梅院阿賀丸が領知を認められた(「足利義政御教書写」北野神社古文書)。長享元年(1487)妙蔵院祐繁が当郷の知行権を得たが、翌二年には松梅院禅予に返付されている(同年十二月十七日「足利義煕御教書写」同文書、「北野社家日記」)。延徳元年(1489)二月十日には松梅院禅予が鷲見修理亮に神用の五貫一五〇文の請取状を出している(北野社家日記)。同年十二月三十日、幕府は料所が有名無実になっているとの理由で宝成院に奉行職を与えたが、造営無沙汰のため、永正十五年(1518)六月二十六日に松梅院に返付された(同書、「室町幕府奉行人連署奉書写」北野神社古文書)。また後土御門天皇皇女の大慈光院岡姫宮も、当郷から「領家職年貢」を受け取っており、幕府は永正五年五月十八日に密乗院禅英に年貢の執進を命じている(北野社家日記)。その後、大慈光院の「美濃国日野郷月宛」は、明応七年(1498)十月十一日に京都竜安寺に沽却された(「大慈光院岡姫宮御領目録」竜安寺文書)。斎藤道三は「日野郷并大同寺領芥見領家方」のうち六十貫文を今枝弥八に与えている(年未詳七月二十日「斎藤道三書状写」金沢市立図書館所蔵文書)(「日野郷」『岐阜県の地名』平凡社)。

 

「周敷北条」

 ─東予市北条。周桑平野の中山川の左岸にある低地で、東は燧灘に面する。北は三津屋村と接する。条里制の遺構があり、集落は枡形を呈し、街路は直角に曲がっている。

 慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)の周布郡の項に「北条村」とみえ、村高は一千八七〇石四斗三升九合、うち田方一千七八八石九斗三升五合、畠方八一石五斗四合とある。江戸時代を通じ小松藩領。

 この地は戦国時代の豪族多賀谷修理之亮の本拠地であったので、それにちなんで明治二十二年(1889)の町村制施行の際、本村と三津屋村を合併して多賀村と称した。村の東部の北条新田は元禄時代(1688─1704)の開発と伝えられる(「北条村」『愛媛県の地名』平凡社)。

国家的要注意人物 ─中世的障害者観─(A loose cannon in Medieval Japan)

  嘉吉元年(一四四一)五月十六日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』6─280頁)

 

 十六日、晴、持斎如例、(中略)抑聞、異形之比丘尼自奥州上洛、此間徘徊云々、其

  形有目一云々、但片顔より大なるこふありて、おとかひまてさかる、其下

       分明

  有眼歟、不■■云々、片顔普通之人也、片顔異形如妖物、公方被召置、伊勢

  被預云々、

 

 「書き下し文」

 十六日、晴る、持斎例のごとし、(中略)抑も聞く、異形の比丘尼奥州より上洛す、此の間徘徊すと云々、其の形目一つ有ると云々、但し片顔に額より大なる瘤有りて、頤まで下がる、其の下に目有るか、不分明と云々、片顔は普通の人なり、片顔は異形の妖物のごとし、公方召し置かれ、伊勢に預けらると云々、

 

 「解釈」

 十六日、晴れ。持斎はいつものとおりだ。(中略)さて、聞くところによると、異形の比丘尼が奥州から上洛した。しばらくの間徘徊していたという。その容貌は目が一つだけだそうだ。ただし、顔の片側に額から大きな瘤があって、顎まで垂れ下がっている。その瘤の下に目があるのだろう。はっきりわからないという。顔の片側は普通の人である。反対側の顔は普通の姿とは異なった妖怪のようである。将軍足利義教はこの比丘尼を捕らえ、政所執事伊勢貞国にお預けになったそうだ。

 

 It was sunny on May 16th. Well, I heard that a deformed nun came from the Tohoku region to Kyoto. She walked around the city for a while. It looks like she has only one eye. However, there is a large lump on one side of her face, hanging from the forehead to the chin. The other eye may be hidden by the lump. I do not understand clearly. One side of the face is a normal person. The other side of the face looks like Yokai, which is different from the appearance of a normal person. I heard that the general Ashikaga Yoshinori captured this nun and detained it in the residence of Ise Sadakuni (Steward of the office of administration of Muromachibakuhu).

 

 

 「注釈」

*普通の人?一般の人?とは容貌の異なる尼僧(姿の女性)が徘徊していた。ただそれだけで、国政の中枢にいる将軍が国家権力を発動してこの比丘尼を捕らえ、政所にその身柄を預けたのです。いったい、どうして比丘尼はこのような扱いを受けたのでしょうか。

 中世びとはこうした相貌を、前世からの因縁や業に由来すると考えました。また、以前に「異形の捨て子と連続する怪異」という記事でも書きましたが、奇形児の出現は不吉な出来事の前兆とも考えられていました。今回の記事は子どもではありませんが、特殊な容貌が災いを引き起こすと考えられていたからこそ、わざわざ将軍自らが捕縛命令を発し、政所で監禁したのでしょう。ひょっとすると、中世における治安維持活動の一種だったのかもしれません。理由のわからない異質性・異常性に対して、中世びとは過剰に恐怖心を抱いていたようです。

 翻って、現代人はこうした相貌の異質性をどのように考えているのでしょうか。多くの場合、医学的な原因による奇形や障害だとみなすはずです。中世に比べれば、ずいぶんと科学的な思考をもてるように進歩したものだと感心しますが、「奇形」や「障害」という言葉に、差別的・侮蔑的意味を付加してしまうところに、まだまだ未熟さが見られるようです(「『奇形』を含む医学用語の置き換え提案   日本小児科学会から経過報告」日本医学会分科会用語委員会、http://jams.med.or.jp/dic/h30material_s5.pdf)。

 いったい、いつになったらこの未熟さを克服できるのでしょうか。それとも、言葉(記号)を使うかぎり、永遠にこの欠陥から逃れられないのでしょうか…。

 

 A nun who was different in appearance than a normal person was walking around. Only for that reason, the general captured her and detained in the residence of Ise Sadakuni. After all, why was she treated like this?

 The medieval people considered that karma in a previous life turned human beings into special appearances. Also, once, I wrote an article "Abandoned malformed child and weird phenomenon". And I pointed out that the medieval people considered the malformed child was a sign that bad events would occur. In the Middle Ages, it was thought that a special appearance would cause a disaster. That is why the general himself had ordered to capture her. It seems that medieval people were very afraid of heterogeneity that they could not understand.

 Well, how are modern people thinking of such heterogeneity? We often consider it to be malformation or injury due to medical causes. Compared to the Middle Ages, we admire that we have advanced so much that we can think things scientifically. However, it seems that we still have immaturity where we add discriminatory and insulting meanings to the words “deformation” and “disability” (“proposition to replace medical terms including“ deformation ” Progress report from the Japanese Association of Pediatrics, "Japanese Medical Association Subcommittee Terminology Committee, http://jams.med.or.jp/dic/h30material_s5.pdf). When can we overcome this immaturity? Or, as long as we use words (symbols), can we not escape from this defect forever?

 (I used Google Translate.)

竹林寺文書(小野篁伝説) その8(完)

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その8

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。

 

 

 ソノ チ テ   イウ  ヲ          (村)ノ ノ       ノ    ノ

 厥后経一百有余歳、而人皇六十二世邑上天王御宇天暦五年辛亥初夏比、

  ラ  シ フ       テ  ク  ハ レ     ノ  ツ    ノ  ナリ

 篁再現給歟、化僧一人来而曰、此山是観音大士浄刹十王薩埵霊屈也、

  テ  スキシ    ハ テ    ニ  シテ   ノ ヲ ク キ   ノ ニ

 依之過行基菩薩者登此山頭、為一天王化遠開万春之霞

  シ     ハ ニ シテ       ノ ルコト ヲ フシテ ラン  ノ ニ       レ ノ

 去宗帝大王者爰為再誕、三界利レ 生 久  到龍花之暁、就中彼等

  ニ     ヲ  ニ   ト玉テ ラ テ ヲ  テ    シ  ノ      ノ

 為悲願、今愚老来  自取斧、奉地蔵尊像一躰十王尊容九躰

  ニ    ノ  ヲ     ス  ノ  ニ  ル タ テ  ヲ  ク       ト

 並而山神像一尊而安置観音之傍、然間改寺号篁山竹林寺

     (絵25)

  シテ ニ ノ  ス    ク タ  セ玉ヒケリ   ス      ヲ ニ  ノマニ ノ

 然而後彼化僧不行方失給鳬、万人成奇特之思處、夜間十王尊像一躰

   シテ ハル ノ ニ  ニ ル      ノ  レ     テ ノ  ノ ハ チ   ノ ナリ玉フカ

 出現而加前九躰、故為首尾所十王是也、仍彼出現之像即小野篁

  ニ  ノ ニ  ノ       ト   キ   ノカ

 故、此中生身之十王一躰御座云事無疑物歟、

     (絵26)

  モ  ヲモンミレバ   コ クシテ シ   ニ     ケタ シテ ス       ル□

 抑寺内以、   庭池底深而比葬頭河、金橋桛高而類釈橋、依右種々

  ニ     ノ          タマヽヽ □       テ      ニ   ハ リ ト

 儀歟、悪業者不參詣、適  為參詣共、随罪業軽重而或従

 メ イ   ナヤンテ リ  カ カ  ニ    ヲ  シ    シテ リ  ハ シ  ニ テ

 目舞身心悩而帰、坂中路中大河波浪見出身心狂乱而帰、或橋爪門外来而

 アタル  ニ  シハ トモ ル   ニ  コ ニ クシテ ス     ヲ ルコト    ラノ シ

 中横死、若雖御宝殿、眼忽暗而不仏形見、如此等輩多之、

  シ ル     ヲ ハ      シテ リ   ノ  ヲ       シテ ル      ニ

 若遂一度參詣人、現世安穏千手之擁護、後生善處十王之引摂

    ユエニ       ノ  ニハ   テ ヲ  ケ  ヲ    ス

 而已、所以毎年正月九日修正、貴賤並肩而投珍財用牛玉宝印之

   ヲ       ノ  ニハ ク ヒテ  ノ  ヲ   ニ  ス ノ  ヲ   トニ レ

 福寿、林鐘十七会場、 普灑大悲甘露而忽出生菩提牙葉、寔是

     ノ      ノ  ノ  キ   レノ カ サラン  レノ カ ランヤ

 閻浮無変之霊地、日域規横聖跡也、誰 人 仰之、何輩 信之耶、

     (絵27)

     下巻畢、

 竹林寺常住寺門不出、

 (裏書)                (安芸賀茂郡

 「 奉寄進裏打            竹原下野村中通

                      茂登屋喜七敬白

       (1861)

     于時文久元年辛酉星五月吉祥日

                      印室三世本住代」

 

     下巻畢んぬ、

 竹林寺常住寺門より出出さず、

   おわり

 

 「書き下し文」

 厥の后一百有余歳を経て、人皇六十二世村上の天王の御宇天暦五年の辛亥初夏の比、篁再現し給ふか、化僧一人来たりて曰く、「此の山は是れ観音大士の浄刹十王薩埵の霊屈なり、之により過ぎし行基菩薩は此の山頭に登りて、一天の王化を為して遠く万春の霞に開き、去りし宗帝大王は爰に再誕して、三界の生を利すること久しふして龍花の暁に到らん、なかんづく彼らの悲願を表さんがため、今に愚老来たりと給ひて自ら斧を取りて、地蔵尊像一躰・十王の尊容九躰並びに山神の像一尊を造立し奉りて観音の傍に安置す、然る間寺号を改めて篁山竹林寺と名づく、

     (絵25)

 然して後に彼の化僧行く方知れず失せ給ひけり、万人奇特の思ひを成す、夜の間に十王の尊像一躰出現して前の九躰に加はる、故に首尾になる所十王是れなり、仍て彼の出現の像は即ち小野篁の成り給ふが故に、此の中に生身の十王一躰御座すと云ふ事疑ひ無き物か、

     (絵26)

 抑も寺内を以れば、庭の池底を深くして葬頭河に比し、金の橋桛高くして釈橋に類す、右の種々の儀によるか、悪業の者参詣する能はず、たまたま参詣すとも、罪業の軽重に随ひて或いは麓より目舞ひ身心悩んで帰り、坂中路中に大河波浪を見出し身心狂乱して帰り、或いは橋爪門の外来て横死に中たる、若しは御宝殿に参ると雖も、眼忽ちに暗くして仏形を見ること能はず、此れらのごとき輩多し、若し一度参詣を遂げる人は、現世安穏にして千手の擁護を蒙り、後生善処にして十王の引摂に預かるのみ、所以に毎年正月九日の修正には、貴賤肩を並べて珍財を投げ牛玉宝印の福寿を援用す、林鐘十七の会場には、普く大悲の甘露を灑ひて忽ちに菩提の牙葉を出生す、寔に是れ閻浮無変の霊地、日域の規模の聖跡なり、誰の人かこれを仰がざらん、何れの輩か之を信ぜざらんや、

     (絵27)

     下巻畢んぬ、

 竹林寺常住寺門より出さず、

   おわり

 

 「解釈」

 その後百有余年が過ぎ、人皇六十二世村上天皇の御代、天暦五年(951)辛亥の初夏のころ、篁が再び現れなさったのだろうか。権化の僧侶が一人やってきて言うには、「この山(もと桜山)は観音菩薩の浄土で、十王を祀った神聖な岩屋である。これにより、かつて行基菩薩がこの山頂に登って、帝の徳によって世の中をよくしようとし、遠く春霞のかかった地を開削し、かつて宗帝大王はここに再誕して、しばらく三種の迷いの世界の衆生を救済し、悟りの境地に達したのだろう。なかでも、彼らの悲願を広く知らせるために、いま愚僧が来た」とおっしゃって、自ら斧を取り、地蔵菩薩の尊像を一体、十王の尊像を九体、ならびに山神の尊像一体を造立し申し上げて、観音像のそばに安置した。そうして、寺号を改めて篁山竹林寺と名付けた。

     (絵25)

 その後、あの権化の僧侶は行方が知れず、消え失せなさった。人々は不思議だと思ったが、夜の間に十王の尊像一体が出現して、前の九体に加わった。だから、すべて揃った十王像はこれである。したがって、あの出現した像は小野篁がおなりになったために、この中に生身の十王像が一体いらっしゃるということは、疑いのないものだろう。

     (絵26)

 さて、寺内をよくよく見てみると、庭の池の底は深く、三途の川に比べると、金の橋桁は高く、釈橋に似ている。右のさまざまなことによるのだろうか。悪い行いをしたものは参詣することができない。たまたま参詣したとしても、罪業の軽重によって、ある人は麓から目眩がして心身ともに苦悩して帰り、ある人は坂や道の半ばで、大きな川の波を幻視し、心身ともに狂乱して帰り、ある人は橋爪門の外にやって来て、不慮の死に遭遇する。もしくは立派な本堂に参詣しても、目がすぐに暗くなって仏のお姿を拝見することができない。このような状態になる人々は多い。もし一度でも参詣した人は、現世では千手観音の擁護をいただいて安穏な生活を送り、来世では臨終に現れて極楽浄土に導く十王の救済を受けて極楽に生まれるのである。だから、毎年正月九日の修正会では、身分の高い人から低い人まで肩を並べて金銭を投げ入れ、牛玉宝印による福寿を促進する。六月十七日の法会の場では、広く大悲の甘露が注がれ、悟りを表す鋭い葉が生え出る。本当に現世において変わることない霊地であり、日本国内の優れた聖地である。誰がここに敬意を払わないことがあろうか、誰がここを信仰しないことがあろうか(この竹林寺に対して誰でも敬意を払い、誰でも信仰するはずだ)。

     (絵27)

     下巻終了。

   おわり

 

 「注釈」

「金橋・釈橋」

 ─金橋は身分の高い人が渡る橋、釈橋は仏が渡る橋か(小野寺郷「奈河と三途の川」『南山宗教文化研究所研究所報』第5号、1995年、28頁参照、https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/3819)。

 

「林鐘十七会場〜」

 ─この一文の解釈がほとんどわかりませんでした。毎年六月十七日に千手観音の縁日として、法要を行っていたのかもしれません。

 

「規横」

 ─未詳。「帰往」(=行ってたよること。帰属すること。『日本国語大辞典』)の誤字・当て字か。

 

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山門そばの石碑

 

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看板

 

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山門

 

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参道そばの竹林

 

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参道

 

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本堂1

 

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本堂2

 

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護摩

 

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篁堂

 

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十王堂

 

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境内

 

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山門越しの風景

竹林寺文書(小野篁伝説) その7

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その7

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。

 

 

  チ ハキヽ   キコト ヒ  テ    レ  リ  テ   ヲヨフ  ニ

 即良相聞之難有 思、随教而被申鳬、依名字呼功力

  ノ ニ サレ シル     ト    リ    ス     トテ  チ  エ サレ ウツ リ 

 善札被大般若経云文字鳬、然間発大願者也、則娑婆被移鳬、

  ノ ヲ ヘ玉フ ヲツラヾヽ ルニ カ ノ      ル ニ ノ    ニ テ ク レハ レ モ

 此由教給人  倩 見 我聟小野篁也、去程彼大王良相語曰、吾是雖

  リ   ノ     ニ       リニ ス       メニハ モ ヲ センカ

 為第三冥官、為衆生済度仮而為再誕、為下万民於度者、

   ノ セン ヒ ヲ  ム  ト   メニ ミ   センカ チニ ヒ ヲ ル   ニ

 田舎之賤女結縁而定悲母、為上一天於利、汝結縁奉主君仕

         ノ  ニハ テ        シ    ヲ    ノ ニハ テ

 依之昼夜三時覚遊、在娑婆而利益一切衆生、三時安寝、還冥途

    ス     ヲ   カ   シ  タヽシ ヲ     テ    ストヘ モ□ リ

 裁断罪業之軽重、吾悲願如此、只此事穴賢穴賢於娑婆不

  ク  クシシ リ   ニ  フ    ヨミガエリ

 深約束仕鳬、不思儀所念如夢 蘇  畢、

     (絵21)

  カテ          テ       リ       シテ   ヲ  シテ  シト

 軈而大般若経一部金泥奉書写而従叡山請寂光大師而為導師

  ヘ   ヲ ヘリ ノ ニ    ノ    ノ    シテ   キ  メテ テ

 展供養給、其時小野篁彼寂光大師弁舌無窮才覚難有讃而作

  ル    ノ ニ

 奉送、其句曰、

   タチマチニ キ テ   ス    ス    ヨリ ル     ノ ニ  ト     ノ

 明鏡乍   開随境照、白雲不着下山来云々、〈上句明鏡者、鏡上人智

  カニシテ テ ノ  ニ クコト  ヲ  テ ノ     ル  ノ ニ  トハ ノ

 明、  随人境界不審、開鏡箱顧□、下句白雲、彼上人

     リ フニ  モ ニ     ナリト

 自山下給、 雲不埋智恵明為云、〉

     (絵22)

 カヽリケル ニ   サノ ニ  テ     ノ リ ヲ  リ フ   ノ ハ  ノ

 斯  鳬所良相嬉余姫君奉対、冥途在様物語給時、彼篁第三冥官也、

    カ ル ヲロソカニ ヒ       ノ             ノ      ノ

 不二  踈  思云々、其後仁皇五十五代文徳天王御宇仁寿二年〈壬申〉

   ノ ロ    ニ テ ク  コトニ ハ ニテハ  ニテ  スカト ヒ

 初秋之比、姫君篁語曰、実  君冥途而宗帝王而御座歟 問奉、

  ラ ノ ヲ コシメシ  レ ノ ス ト 玉フ   ノ  ト  ヒ ヘリ リ

 篁此由聞食、  誰人申乎言、父大臣仰也答給侍鳬、

     (絵23)

  ノ ニ   ノ ヒヲ  レハ レ タリト   ノ     ニ    ノ  ク  ス

 其時小野篁思、 吾 是雖十天之大王、為衆生此為再誕

  マヒヤシクモ ノ  ト レン  カリケル ノ トテ ヒ    ノ   チ ノ  ヲ チ リ フ

 今鄙   小国之臣謂事口惜鳬 物 哉、 齢五十一歳剋、則彼御所立去給、

    ヒテ  ニ ケ  ス キ    シ セケリ  ハ クヽヽ ヒテ ヒ フ   ヲ テニケヘリ

 姫君騒而大臣告御座、可留奉由仰鳬、姫君泣々  続追給、東山指逃侍、

 ヲタキ ノ ニテ  ヲケハツテ ノ ニ リ ヌ ノ   リ  ニ    ニ  ハ キ ヘト

 愛宕寺之前而大地蹴破而地底入畢、彼霊穴在于今、終姫君歎給

  シテ    リ ヘリ  モ キシ リヲ シ ヘハ シ  ノ     リ  コノカタ ノ ヲ

 無甲斐帰侍、大臣過物語後悔給  無其之由、自其以降 彼所

  ク   ノ ト    チ     ノ ト シ エ ヘリ  ル タ  ノ          □ テ  ニ

 名六道之辻、是則炎魔王宮上申伝侍、 尓間洛中諸人、七月盂蘭盆此処

  リ レルコト    ス

 祭来、  于今不絶也、

     (絵24)

   つづく

 

 「書き下し文」

 即ち良相は之を聞き有り難きことと思ひ、教へに随ひて申されけり、名字を呼ぶ功力によりて、善の札に大般若経と云ふ文字を注されけり、然る間大願を発する者とて、則ち娑婆へ移されけり、此の由を教へ給ふ人をつらつら見るに我が聟の小野篁なり、去る程に彼の大王良相に語りて曰く、吾れは是れ第三の冥官たりと雖も、衆生済度のために仮りに再誕す、下万民を度せんがためには、田舎の賤女縁を結び悲母と定む、上一天を利せんがために、汝に縁を結び主君に仕へ奉る、之により昼夜三時の覚遊には、娑婆に在りて一切衆生を利益し、三時の安寝には冥途に還りて罪業の軽重を裁断す、吾が悲願此くのごとし、只し此の事をあなかしこあなかしこ、娑婆に於いて漏れ語るべからずと深く約束し仕りけり、不思議に念ふ所夢のごとく蘇り畢んぬ、

     (絵21)

 軈て大般若経一部金泥を書写し奉りて叡山より寂光大師を屈請して導師と為して供養を展べ給へり、其の時に小野篁彼の寂光大師の弁舌無窮にして才覚有り難きを讃めて詩を作りて送り奉る、其の句に曰く、

 明鏡乍ちに開き境に随ひて照らす、白雲着かず山より下り来たると云々、〈上の句に明鏡とは、鏡上人の智恵明らかにして、人の境界に随ひて不審を開くこと、鏡の箱を開きて顧みるがごとし、下の句に白雲とは、彼の上人山より下り給ふに、雲に埋もれざる智恵明らかなりと云ふ、〉

     (絵22)

 斯かりける所に良相嬉しさの余りに姫君に対し奉りて、冥途の在り様を語り給ふ時、彼の篁は第三の冥官なり、疎かに思ひ奉るべからずと云々、其の後仁皇五十五代文徳天皇の御宇仁寿二年〈壬申〉初秋の比、姫君篁に語りて曰く、実に君は冥途にては宗帝王にて御座すかと問ひ奉る、篁此の由を聞こし食し、誰人の申すかと言ひ玉ふ、父大臣の仰するなりと答へ給ひ侍りけり、

     (絵23)

 その時に小野篁の思ひを、吾れは是れ十天の大王たりと雖も、衆生を度せんがために此くのごとく再誕す、今鄙も小国の臣と謂れん事口惜しかりける物かなとて、齢五十一歳の剋、則ち彼の御所を立ち去り給ふ、姫君騒ひで大臣に告げ御座す、留め奉べき由仰せけり、姫君は泣く泣く続ひて追ひ給ふ、東山を指して逃げ侍り、愛宕寺の前にて大地を蹴破つて地の底に入り畢んぬ、彼の霊穴今に在り、終に姫君は歎き給へど甲斐無くして帰り侍り、大臣も過ぎし物語を後悔し給へば其の由無し、其れより以降彼の所を六道の辻と名づく、是れ則ち炎魔王宮の上と申し伝へ侍り、尓る間洛中の諸人、七月盂蘭盆此処に於いて祭り来たれること、今に絶えず、

     (絵24)

   つづく

 

 「解釈」

 そこで藤原良相はこれを聞き、ありがたいことだと思い、宗帝王の教えのとおりに申し上げなさった。名字を呼ぶ効力によって、善の札に大般若経という文字を記された。そうしている間に、大いなる願いを起こした者として、すぐに現世に戻された。この手立てを教えくださった人をよくよく見ると、自分の婿の小野篁であった。そうしているうちに、あの大王(宗帝王)が良相に語っていうには、「私は第三の冥官であるが、衆生済度のために、かりに現世に再誕し、下は民衆を悟りの境地に導くために、田舎の身分の低い女と縁を結んで慈悲深い母親と決めた。上は天下を救済するために、お前(良相)と縁を結び、主君としてお仕え申し上げた。これによって、昼夜の三時のうち目覚め活動しているときには、現世にいてすべての衆生を救済し、三時のうち安らかに眠っているときには、冥途に帰って罪業の軽重を裁決している。私の悲願はこのようなものだ。ただし、このことをけっして現世で語り漏らしてはならいと、かたく約束し申し上げた。不思議に思うことは夢であるかのようで、良相は蘇った。

     (絵21)

 すぐに金泥の大般若経一部を書写し申し上げ、比叡山から寂光大師円澄をお招きし、導師として法会を営みなさった。その時に小野篁はこの寂光大師の弁舌が止まることない様子と、才覚の素晴らしさを称賛して詩を作って送ってさしあげた。その句には、

 導師の知恵は鏡のように曇りなく、匣を開けて鏡を取り出すとどんな所でも照らし出すように我々を導いてくれる。また、白雲が無心でとらわれないように、師は俗世の我々のために、あっさりと山を下りてきてくれた、という。〈上の句に明鏡とは、鏡上人(未詳)の知恵が曇りなく、人々の認識の対象にしたがって不審を明らかにすることは、まるで鏡の箱を開けてふり返るかのようだ、という意味だ。下の句の白雲とは、あの鏡上人が山から降りていらっしゃるときに、その知恵が雲に埋もれずにはっきり現れているという意味だ。〉

     (絵22)

 こうしていたところ、藤原良相は嬉しさのあまり姫君に対面し申し上げて、冥途のありさまをお話しになったとき、「あの篁は第三の冥官である。いいかげんに思い申し上げてはならない」と言った。その後、人皇五十五代文徳天皇の御代仁寿二年(852)〈壬申〉の初秋のころ、姫君が篁に語っていうには、「本当にあなた様は冥途では宗帝王でいらっしゃるのですか」と尋ね申し上げた。篁はこの話をお聞きになり、「誰が申したのか」とおっしゃった。「父大臣がおっしゃったのです」とご返答になりました。

     (絵23)

 そのとき、小野篁が思ったことには、「私は十王の一人であるが、衆生を救済するためにこのように現世に再誕した。いま、かりにも小国の臣下と言われるようなことが残念であるなあ」と言って、五十一歳のときに、自分の邸宅を立ち去りなさった。姫君は大騒ぎをして藤原良相大臣にお告げになった。良相は篁を留め申し上げよと仰せになった。姫君は泣きながらあとを追いなさった。篁は東山を目指して逃げていきました。愛宕寺(旧愛宕念仏寺)の前で大地を蹴破って地の底に入ってしまった。この神秘的な穴は今も残っている。結局のところ、姫君はお嘆きになったが、どうすることもできず帰りました。大臣も、以前に篁の秘密を語ったことを後悔しなさったが、どうしようもない。それ以来、その場所を六道の辻と名付けた。ここは閻魔王宮のちょうど上だと申し伝えておりました。そうしているうちに洛中の人々が七月の盂蘭盆をここで祭ってきた風習は、今も絶えていない。

     (絵24)

   つづく

 

 「解釈」

「寂光大師」

 ─円澄。772─837 平安時代前期の天台宗の僧侶。宝亀三年(772)生まれる。俗姓は壬生氏、武蔵国埼玉郡の人。十八歳で鑑真の高弟道忠に従って、受戒し宝鏡行者と名づけられた。延暦十七年(798)二十七歳のとき叡山に登って最澄の門に入り、「澄」の一字を与えられて円澄と改名した。最澄が入唐すると同二十四年春円澄は詔によって紫宸殿で五仏頂法を修し、同年四月唐僧泰信大僧都に就いて具足戒を受けた。同年六月遣唐使とともに最澄が帰朝したので、八月高雄山寺において灌頂の秘法を修せしめ、九月にも桓武天皇のために同寺において毘盧遮那の秘法を修せしめたが、このとき円澄は南都の諸大徳とともに三摩耶戒(密教の戒)を受けた。大同元年(806)十一月叡山止観院で初めて円頓大戒を授けた際、戒を受けた者百余人の中で円澄が上首となった。同二年二月はじめて法華長講(期限をきらずに『法華経』を講讃する法会)を行なったとき円澄は最澄についで第二巻を講じ、翌三年三月の金光明長講のときも講師となった。弘仁八年(817)最澄から天台宗の奥旨を授けられ、この伝燈を永く絶たざるようにと告げられた。天長十年(833)天台座主に補せられ、寂光院・西塔院を創建した。かつて橘嘉智子太后に勧めて衲袈裟数百襲を唐の国清寺の大衆に施さしめたことがある。承和四年(837)十月二十六日高弟恵亮に遺命し、天台宗の深旨を入唐中の円仁に聴くように告げて、寂光院に寂した。年六十六。諡を寂光大師という。寂年は天長十年とする説(『続日本紀』『高野春秋』)もある(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

 

「明鏡乍〜下山来」

 ─「明鏡乍(たちま)ちに開けて境(きやう)に随つて照らす 白雲着かず山より(ヤマヲ)下(くだ)りて来(きた)る(オリキタル)」。この詩句は、小野篁の舅の右大臣清原夏野が金泥の『大般若経』を書写して供養した時、導師をつとめた寂光大師の説法に感激した篁が、大師の智徳を讃えて作ったものという(仮名注)。なお、篁の舅を藤原御守(三守)とするなど、この話には諸説がある(『和漢朗詠集』新編日本古典文学全集、小学館、1999年、318頁、小野篁)。

 

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六道の辻 その1

 

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六道の辻 その2

 

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六道珍皇寺

 

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冥土通いの井戸(社の右側)