解題
多賀谷(多賀江)氏は鎌倉時代に地頭として武蔵国から伊予国周桑郡北条郷に入部した東国武士である。南北朝時代末期には本拠を安芸国蒲刈島・倉橋島方面に移している。この文書はこの多賀谷氏に伝わった文書で現在は姻戚の永井氏に所蔵されている。
一号の伊予国北条郷地頭多賀江二郎入道宛ての文書は、鎌倉幕府が京都警衛のために辻々に篝屋を設置したという『吾妻鏡』嘉禎四年(1238)六月十九日条の記事を裏付ける史料である。また二号の宇都宮四郎判官宛の文書によって当時の伊予国守護宇都宮氏の存在も確かめることができる。
一 関東御教書
(厚見郡)
為二京中守護一、可レ被レ懸二篝於辻々一料松事、以二美濃国日野村・伊予国周敷北条
地頭得分内一、辻一所松用途銭拾貫文、寄二合多賀江兵衛尉一、随二分限一毎年可レ
致二沙汰一也、但不レ可レ煩二百姓一也、且関東御公事并守護人使入部者、一向可レ
被レ止之状、依レ仰執達如レ件、
(1238) (北条泰時)
嘉禎四年六月廿日 左京権大夫(花押)
(北条時房)
修理権大夫(花押)
たかへの二郎入道殿
「書き下し文」
京中守護のため、篝を辻々に懸けらるべき料松の事、美濃国日野村・伊予国周敷北条の地頭得分の内を以て、辻一所の松の用途銭十貫文、多賀江兵衛尉と寄り合ひ、分限に随ひ毎年沙汰致すべきなり、但し百姓を煩はすべからざるなり、且つ関東御公事并びに守護人の使ひの入部は、一向に止めらるべきの状、仰せにより執達件のごとし、
「解釈」
洛中守護のために篝火を各辻にかけるべき松の用途のこと。美濃国日野村と伊予国周敷郡北条地頭職得分の内をもって、辻一ヶ所の松の用途銭十貫文を、多賀江兵衛尉と談合し、所領の規模にしたがって、毎年負担しなければならない。ただし、百姓に負担をかけてはならないのである。また、関東御公事や守護使の入部は、すべて停止されなければならないことを、将軍九条頼経のご命令によって下達する。
「注釈」
「日野村」
─岐阜市日野。長良川左岸、舟伏山付近一帯に成立したとみられる。嘉禎四年(1238)六月二十日多賀江二郎宛の関東御教書(永井直衛氏所蔵文書)によれば、京都の治安維持のために設置された篝屋で焚く篝火の薪のため「美濃国日野村・伊予国周敷北条地頭得分」に対して用途銭十貫文が課せられ、その代わりに関東御公事と守護使入部が停められている。長禄二年(1458)四月十六日の足利義政御教書写(北野神社古文書)では、京都北野社社家に還付された北野宮寺造営料所のうちに郷名がみえる。年月日未詳の足利義尚の袖判のある北野社社領目録写(同文書)で、室町期に当郷の地頭職・領家職を北野神社が所有していたことが知られる。
当郷など北野宮寺造営料所の奉行職は、文正元年(1466)十一月七日に松梅院阿賀丸が領知を認められた(「足利義政御教書写」北野神社古文書)。長享元年(1487)妙蔵院祐繁が当郷の知行権を得たが、翌二年には松梅院禅予に返付されている(同年十二月十七日「足利義煕御教書写」同文書、「北野社家日記」)。延徳元年(1489)二月十日には松梅院禅予が鷲見修理亮に神用の五貫一五〇文の請取状を出している(北野社家日記)。同年十二月三十日、幕府は料所が有名無実になっているとの理由で宝成院に奉行職を与えたが、造営無沙汰のため、永正十五年(1518)六月二十六日に松梅院に返付された(同書、「室町幕府奉行人連署奉書写」北野神社古文書)。また後土御門天皇皇女の大慈光院岡姫宮も、当郷から「領家職年貢」を受け取っており、幕府は永正五年五月十八日に密乗院禅英に年貢の執進を命じている(北野社家日記)。その後、大慈光院の「美濃国日野郷月宛」は、明応七年(1498)十月十一日に京都竜安寺に沽却された(「大慈光院岡姫宮御領目録」竜安寺文書)。斎藤道三は「日野郷并大同寺領芥見領家方」のうち六十貫文を今枝弥八に与えている(年未詳七月二十日「斎藤道三書状写」金沢市立図書館所蔵文書)(「日野郷」『岐阜県の地名』平凡社)。
「周敷北条」
─東予市北条。周桑平野の中山川の左岸にある低地で、東は燧灘に面する。北は三津屋村と接する。条里制の遺構があり、集落は枡形を呈し、街路は直角に曲がっている。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)の周布郡の項に「北条村」とみえ、村高は一千八七〇石四斗三升九合、うち田方一千七八八石九斗三升五合、畠方八一石五斗四合とある。江戸時代を通じ小松藩領。
この地は戦国時代の豪族多賀谷修理之亮の本拠地であったので、それにちなんで明治二十二年(1889)の町村制施行の際、本村と三津屋村を合併して多賀村と称した。村の東部の北条新田は元禄時代(1688─1704)の開発と伝えられる(「北条村」『愛媛県の地名』平凡社)。