周梨槃特のブログ

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東禅寺文書6

    六 小早川仲義寄進状

 

  (端裏書)

  「竹原殿安芸四郎仲義寄進状号天[ ] 当寺院主頼真」

 奉寄進

         羽

 安芸国沼田庄梨子○郷

 東禅寺椎鐘免事

  合田貳段者〈梨子羽郷南方太郎丸名内」坪者六郎丸垣内二段〉

 右意趣者、奉為天地長久 国土泰平、永代奉寄進処也、仍寄進状如件、

     (1399)

     応永六年〈己卯〉三月廿七日    平仲義(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進し奉る安芸国沼田庄梨子羽郷東禅寺椎鐘免の事

  合わせて田二段てへり〈梨子羽郷南方太郎丸名内、坪は六郎丸垣内二段〉

 右意趣は、天地長久・国土泰平のおんため、永代寄進し奉る処なり、仍て寄進状件のごとし、

 

 「解釈」

 寄進し申し上げる安芸国沼田庄梨子羽郷東禅寺椎鐘免のこと。

  都合田二段。梨子羽郷南方の太郎丸名内にある。田地の所在地は六郎丸垣内で、面積は二段。

 右の事情は、天地長久・国土泰平のため、永久に寄進し申し上げるところである。よって、寄進状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「椎鐘免」─鐘撞き役の給分として免除された田のことか。

東禅寺文書5

    五 小早川仲好安堵料足免状

 

                    (継) (堵)

 安芸国沼田庄梨子羽郷南方内蟇沼寺院主職繾目安緒料足事

 右、於彼安堵料足者、自往古其沙汰、依各別宿願

 自仲好代始而至子々孫々、所止之者也、不異変之

 儀、然者守彼置文之旨、可其沙汰状如件、

    (1393)

    明徳四年五月 日       平仲好(花押)

 

 「書き下し文」

 安芸国沼田庄梨子羽郷南方内蟇沼寺院主職継目安堵料足の事

 右、彼の安堵料足に於いては、往古より其の沙汰を致さしむと雖も、各別の宿願有るにより、仲好の代始より子々孫々に至り、之を停止せしむる所の者なり、異変の儀有るべからず、然れば彼の置文の旨を守り、其の沙汰を致すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国沼田庄梨子羽郷南方のうち、蟇沼寺院主職の継目安堵料のこと。

 右、この安堵料に関しては、大昔から支払わせていたが、特別な宿願があることから、私仲好の代始から子々孫々に至るまで、安堵料の徴収を停止するものである。この取り決めを破ることがあってはならない。したがって、この置文の内容を守り、安堵料の徴収を停止するべきである。

 

 「注釈」

「継目安堵」

 ─①将軍・大名の代替わりに、その家臣や寺社の所領・所職を安堵すること。②例えば、農民がその所職(名主職)を相続するとき、荘園領主がこれを安堵すること(『古文書古記録語辞典』)。この史料の場合、蟇沼寺院主職を相続する者は、認定者である小早川家に安堵料を支払うことになっていたようですが、小早川仲好の代始徳政によって、以後永久にそれを免除したということになります。

東禅寺文書4

    四 小早川仲義充行状

 

 (端裏書)

  「竹原殿仲義 御判」

  充行

          (院)

 梨子羽郷南方内王子員主職事

 右、蟇沼寺之為末寺之条、代々無相違之処、聊転変刻彼員主職雖改、

 如元本寺へ所返付也、於員主職者、沼部僧令領知、有限寺役等、

 任先例勤仕之状如件、

     (1385)

     至徳二年五月 日       平仲義(花押)

 

 「書き下し文」

  充て行ふ

 梨子羽郷南方の内王子院主職の事

 右、蟇沼寺の末寺たるの条、代々相違無きの処、聊か転変の刻み彼の院主職改めらると雖も、元のごとく本寺へ返付せらるる所なり、院主職に於いては、沼部僧領知せしめ、限り有る寺役等、先例に任せ勤仕すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 蟇沼寺に給与する、梨子羽郷南方のうち王子院主職のこと。

 右、王子が蟇沼寺の末寺であることは、代々間違いないことである。だが、少しばかり騒動があったとき、この院主職は改められたのだが、元のように本寺蟇沼寺に返し渡すものである。院主職については、沼部僧が領知し、重要な寺役等を、先例のとおりに勤仕しなければならない。

 

 「中略」

「王子」

 ─未詳。蟇沼寺の末寺として、梨子羽郷南方内に「熊野若一王子」を祀った宗教施設があったのかもしれません。ここにも熊野信仰が伝播していたと考えられます。

 

「沼部僧」─未詳。

東禅寺文書3

    三 預所朝臣契状

 

  (端裏書)                          (作)

  「蟇沼寄進契約状 暦応三〈庚辰〉正十一  美作前司殿  上⬜︎分」

    (安芸豊田郷)

 契約 沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺寄進事

 右、捧宝治二年之寄進状、賢祐寂仏来善乃力寄進之事歎申間、任彼状

 下知畢、仍頼慶者出帯寄進状、賢祐者京都致労功云々、依其謂

 両人御年貢御公事米等半分宛相互無異論永代可知行、若為一方半分

 之儀、雖一塵留年貢公事米者、雖給下知状処無、

 如元可公方沙汰、且頼慶与賢祐契約之段、被聞食畢、仍於下知

 者被頼慶、至契約者、被行賢祐者也、将又請人於乱彼

 寄進者、両人致御公事沙汰、可行領家所務、仍契状如件、

     (1340)

     暦応三年〈庚辰〉正月十一日

    (橘)

    披朝臣(花押)

 

 「書き下し文」

 契約する沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺寄進の事

 右、宝治二年の寄進状を捧げ、賢祐寂仏・来善・乃力寄進の事歎き申すの間、彼の状に任せ下知せしめ畢んぬ、仍て頼慶は寄進状を出帯し、賢祐は京都に労功を致すと云々、其の謂れ有るにより、両人御年貢・御公事米等半分づつ相互に異論無く永代知行すべし、若し一方として半分の儀に背き、一塵たりと雖も年貢・公事米を抑留せしめば、下知状を充て給ふと雖も処せらるる無し、元のごとく公方の沙汰と為すべし、且つ頼慶と賢祐と契約するの段、聞こし食され畢んぬ、仍て下知に於いては頼慶に下され、契約に至りては、賢祐に充て行はるる者なり、将又請人彼の寄進を申し乱すに於いては、両人御公事沙汰を致し、領家所務を知行せしむべし、仍て契状件のごとし、

 

 「解釈」

 契約する沼田庄梨子羽郷内蟇沼寺寄進のこと。

 右、宝治二年の寄進状を捧げ、寂仏・来善・乃力名の寄進について、賢祐が訴え申したので、その寄進状のとおりに判決を下した。この訴訟のために、頼慶は寄進状を提出し、賢祐は京都で力を尽くしたという。そうした事情があったので、両人は年貢や公事米等を半分ずつ、お互いに異論を唱えることなく、永久に支配しなさい。もしどちらか一方が半分知行の取り決めに背き、わずかでも年貢や公事米を不法に留めるならば、たとえ下知状を与えたとしても、この取り決めのように処置することはない。元のように、領家の支配とするべきである。前もって頼慶と賢祐とが契約したことを、領家方はお聞きになっていた。だから、下知状については頼慶にお与えになり、契約状については賢祐にお与えになるものである。あるいはまた、保証人がこの寄進契約を破り申すならば、両人が訴訟を起こし、領家の所務を執行するべきである。よって、契状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「宝治二年寄進状」─未詳。領家方が蟇沼寺に与えた寄進状か。

 

「賢祐・頼慶」

 ─未詳。両名とも、一号文書にあらわれた楽音寺院主「頼賢」の弟子か。

 

「公方」─この場合は、領家を指すか。

 

「所務」

 ─年貢・雑公事の徴税や勧農などの務め(奥野義雄「荘園公領制における『荘務』と『所務』をめぐって」『佛教大学歴史学部論集』2、2012・3、https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0002/RO00020R021.pdf)。