周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ことばの文化史 その2

 『ことばの文化史』中世3(平凡社、1989年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

公方

 無用の物ども

 公方の語

 鎌倉中

 いかがわしき公方

法螺を吹く

 はじめに

 諸天善神歓喜せん

 罪障消滅

 仏敵降伏

 法螺貝と護摩の灰

 結言

赤口

 はじめに

 中世の聖なる公休日

  「赤口」の休日

  「赤口」の思想

 口の物忌

  陰陽師の占い

  「口舌」の示すもの

 まとめ

永宣旨

後家とやもめ

宛米

 はじめに

 宛米と石高

 自作地の宛米

 宛米と株

 宛米と庄屋

 宛米と下作

 宛米と領主

そふ・ソモ

 

 

五味文彦「公方」

P32

 (醍醐寺座主親玄)その日記を見てゆくと、異国降伏の祈祷にはじまってさまざまな手法を行なっているが、しばしば「何法ニテモ護摩一段可勤修」という風な、何の修法でもよいから適当にみつくろって祈ってくれといった依頼を受けている。いずれも得宗貞時からの依頼であった。ここに密教の修法がまったくの便宜主義に流されていることが知られるであろう。

 修法はメニュー化され、依頼主が供料をそえて注文すると、僧はこれに応じて供料に合わせ適宜修法を行なう、といった具合である。まことにいかがわしい。だが、その現実性、たくましさが京の世界をも捕らえてゆくことになった。『徒然草』八十段は「武を好む人」が法師・上達部・殿上人・上ざままで多くなったことを記している。鎌倉に生まれた公方はひたひたと京に侵入していったのである。

 

P35

 実はここに鎌倉に生まれた「公方」の歴史的意義が見出される。それは朝廷の「公」に対し、その独占を打ち破ったのであるが、公の相対化を促すにとどまって、朝廷の「公」を克服するには至らなかった。しかしその結果、明らかに公は多様化し、重層化への道を歩むことになったのであろう。下からの公の世界、下剋上の世界がかくて広がってゆくのである。

 

 

 西岡芳文「赤口

P93

 この(室町)時代の記録を見ると、例日(赤口)にあたる日は、公務を休み、試楽・連歌・遊山・風呂・酒宴を興行しているか、概して記事そのものがない日が多い。物忌というよりは、単なる休日としての性格が強かったようである。

 ところで、「赤口」と呼ばれる日取りは一様ではなかった。史料上では二通りの「赤口」があったことが検出できる。一つは、今まで述べた「例日」「赤口」あるいは「赤舌日」と称される系統で、もう一つは「大赤口」とも呼ばれた間隔の長い周期をもつ日取りである。

 

P97

 ともあれ、室町時代の「赤口」は、幕府・朝廷の公休日として機能していたことが理解されるのだが、このような周期的な休日が広く社会に受け入れられた背景には、赤口の慎みを破ることによって戦乱が起き、あるいは係争中の戦闘が敗勢となり、身の破滅を招くという因果関係が信じられていた事実がある。

 

P99

 誰ともなく、いつともなく広まった赤口の忌日は、当初は「軍陣を憚るばかり」の日であったらしい。六日周期の赤口(赤舌日・例日)が公休日として定着していったのに対し、八日周期の赤口(大赤口日)は、おもに合戦の日取りを決定するのに用いられた。敵・味方ともにこの日取りを遵奉していたとするなら、赤口は定期的な休戦日の機能を果たしていたともいえる。

 赤口の日取りは、おそらく鎌倉末期以来のうち続く内憂外患のなかで、民間から普及した生活の知恵のひとつであった。そして、いくつかの史料に記されるように、赤口の忌日に正統的な陰陽師が関与していなかったことは、逆にその習俗の底辺の広がりを思わせる。

 

P110

 南北朝時代以前の人間の行動様式を考えるとき、つい見逃しがちであるのは、その頃の人々が、空間的にも、時間的にも、陰陽道の世界観にがんじがらめに縛られていたということである。仏教に対する信仰が、個人の好みによる洗濯の余地がいくらでもあったのと比べると、陰陽道の世界観は、習俗として、また制度として、宗教・信仰というワクをこえて、個人と組織の行動を絶対的に規制していたのである。

 陰陽師の役割は、現代に置き換えると、あるいは気象予報官であり、あるいは医師であり、あるいは経済コンサルタントであった。およそ未来にかかわるすべてのことが、陰陽師に委ねられていたと言っても過言ではない。

 その良い例を、朝廷の陰陽寮が行なった「軒廊御卜(こんろうのみうら)」から知ることができる。

 京都の皇居正殿の丑寅隅(鬼門)、紫宸殿に向かって右側の回廊の一部「軒廊」では、朝廷にとって一大事と考えられる異変が起こったときに、陰陽寮神祇官の役人がそれぞれの方法を用いて卜占を執行した。ここで「異変」というのは、朝廷内・京都内・官幣大社級の神社・御願寺等々で発生した自然・人事に関する異常である。旱魃・霖雨・流行病・火災などは、現代の我々にも分かりやすいが、神社の屋根が壊れたとか、狂人が神域に侵入したとか、御陵や神殿の鳴動、羽蟻が出たなどというのは、何が長毛の一大事であろうかと、今の人は思うだろう。

 たしかに、こうした古人の行動を、迷信であると一笑に付すことはできる。しかし、何らの科学的・合理的アプローチの方法をもたなかった時代背景を考えるとき、こうした卜占に期待された判断は、心理的安定を求めるための唯一の便りでなかっただろうか。また、一見、不合理にみえる「異変」も、無意識的に科学的観測となっている場合がある。

 

 →今年のコロナ騒動を見ていると、古人の行動をまったく笑えない。科学教信者の現代人は、科学で解決できないトラブルが発生すると、パニックに陥るしかないのだろう。「アマビエ」を本気で信じている人間がいるとは思えないが、こうしたものの人気が高まるところに、日本人の呪術崇拝の根深さがうかがえる。

 

P133

 ところで、史料を追ってゆくと「口舌」には、文字通りの口論や悪口などを意味する場合よりも、闘諍・闘乱あるいはトラブルなどを示す用例が多い。

 

P134

 ともあれ、「口舌」「赤口」の物忌は、本来的には、顔を合わせれば対立・抗争に発展する可能性のある人々を、一定の期間、屋内に閉じ込めて口を封じ、騒乱を回避しようとする知恵であったようである。中世の社会を考える上で、当時の人々が、口を開き、物を言うことの背景には、こうした禍々しい「口舌」の観念があり、コミュニケーションを規制していたという事実を、たやすく看過できないのではなかろうか。

 

 

 永村眞「永宣旨」

P139

 つまり、古代・中世におけるなんと北嶺の寺院社会では、僧綱は寺僧の極位とされ、その員数は、僧綱に昇進していない凡僧と比べてはるかに少ない。たとえば鎌倉時代東大寺では、僧綱は寺僧全体の一割にも満たず、難関とされた凡僧から僧綱への昇進のために、寺僧は法会出仕をはじめ、さまざまな努力を重ねたのであった(東大寺続要録 諸会篇・仏法篇)

 

P145

 「永宣旨権律師」とは、「永代」にわたり「上奏を経」ずに、「定額凡僧一﨟」を「権律師」に補任できる権限であり、修法勤修の恩賞として、この補任権が東寺の賢俊に付与された。本来は公家に属した権能である僧綱の補任権が、「永宣旨」の付与により、一寺の長官である東寺長者に委譲され、以後は東寺長者の権能として、「定額凡僧一﨟」を権律師に補任することになる。

 

P148

 つまり南北両朝は、寺僧の「僧階」を昇進させることにより、寺院勢力の吸引をはかり、「永宣旨」もその一手段としての役割を果たしたわけである。いずれにしても、世俗権力の思惑とは別に、延文年中以降の法隆寺には、権律師三口・権少僧都二口の補任権が認められ、以後これらの「僧階」は、法隆寺内で独自に補任されることになった。

 

P150

 このように、院主に付与された「永宣旨」は、先に述べた東寺長者や法隆寺に寄進された「永宣旨」と同様に、院家と結集する門徒への給恩の拠り所となったと考えられる。

 

P152

 室町時代には、宮中内道場の供僧としての実質的任務を失い、職名の意味となった「内供」であるが、名誉ある学職として、東寺・山門の寺僧に与えられていた。そして「永宣旨」がある限り、「内供」は師資の法脈にしたがって弟子に相承される。そこで「永宣旨」を付与されることは、必然的に師僧としての高い学職を証することになったはずである。

 つまり「永宣旨」とは、「僧階」の補任権とその相承権を実体としており、それ自体が権威と名誉の象徴でもある。そして「永宣旨」を付与されたのが、寺家・院家・寺僧のいずれであっても、その恩恵にあずかる寺僧・門徒・弟子に対する影響力を高めるという、「永宣旨」の現実的な効果は看過しがたいところであろう。

 

P156

 東大寺では、貴種は「永宣旨」を用いず「口宣案」により、平僧のみが「永宣旨」により僧綱に昇進した。そこで寺家別当の権能としての「永宣旨」による昇進と、朝廷から直接下される「口宣案」による昇進を比較するならば、同じ「僧階」であっても、その権威には大きな差があったことであろう。そして寺家別当の「永宣旨」による補任が、朝廷からの「口宣案」による補任に比して、より低位に位置づけられる以上、中世の東大寺内における「永宣旨」への評価は、おのずから推し量られよう。しかし寺院社会における貴種・平僧という階層格差のもとで、維摩会に出仕する機会の乏しい平僧が、僧綱に昇進するためには、いかに低い権威であろうとも、「永宣旨」を唯一の拠り所とするほかなかったことも確かである。

 

 

 久留島典子「後家とやもめ」

P170

 つまり、二つをまとめると、男女の別なく配偶者のいない者を「やもめ」と表現したことがわかる。

 

P171

 以上のような「やもめ」の用例を見ていくと、次のような点に気づく。一つは、個人の状態として、配偶者の有無をのみ表すこの語は、のちに見る「後家」などと比べると、「家」の影の薄い言葉だということである。そして、第二には、用例の多くが文学作品であり、文書と言われるものにはほとんど出てこない点である。このことも後述するように「後家」とは対照的である。

 

P175

 以上のように、「やもめ」とは、配偶者のいない男女を指し、公的権力から保護されるべき存在というイメージを色こく持った言葉と言えよう。

 

P178

 このようにかなり遅くまで、「後家」は必ずしも夫を失った妻を意味しているわけではなかった。主人死後の家族・遺族を指し、そのなかには妻が含まれていないことさえあったと言えよう。

 

P180

 そして、11世紀末、院政期に入ると、中世的意味での用例が頻出するようになる。それは『平安遺文』の索引などをひいていってもわかる。「周防守後家尼妙智」「後家平中子」といった自称、他称としての「後家」が、本文中に、あるいは署名者のなかに、しばしば出てくるようになるのである。その使われ方を見ると、前述した「やもめ」が、配偶者のいないという個人の状態を指すのに対し、「後家」は、亡き夫との関係、その妻であるという関係や立場を示す語であるといえよう。

 

P181

 しかし、言葉の属性として、「後家」なる語も広く流布していく。村落社会にこの語が入ってくるのは、おそらく領主のつくる検注帳などの負担者名の記載からであろう。権利、義務を引き継ぐ者という意味は、ここでも変わらない。また、荘官級の家では、鎌倉期から「後家」を称し、使用しているから、それが村落社会に下降していった場合も当然あろう。こうして「後家」という言葉は、おそらくは百姓の「家」・「家財」の成立に伴って、武家・公家社会の法律用語から、しだいに村落社会で広く使用される語に至ったと考えられる。したがって、このような背景を持つこの語のイメージとは、亡き夫の権利そして義務を継承する妻、といった性格が強いとまとめられるのである。

 

P182

 以上のように、「やもめ」「後家」というそれぞれの語が持つ背景について見てきたわけだが、そのなかで「やもめ」は保護される存在、一方「後家」は権利・義務を継承する存在という、ある意味で正反対のイメージを背負っていることが明らかとなった。

 

 

 神田千里「宛米」

P227

 以上述べたように、宛米は田地所持者すなわち年貢負担者に対し、村によって公認された得分であり、宛米から年貢額を引いた残りが作得分となった。農民の間の土地売買は、この宛米のやりとりを内実としていた。宛米の決定は土地所有者個人によってではなく、庄屋等によって村の「公」の場で行われた。だがこうして決定された宛米は、石高と違って村の領主や代官に対しては内密のものとされており、領主や代官もそのような村のやり方を黙認するしかなかったのである。

 

 

 網野善彦「そふ・ソモ」

P252 付記

 本稿の成稿過程で、編集部を通じて小西正泰氏にここにあげた史料及びゲラを見ていただいたところ、おそらく、「そふ」は麦の病気で、当時の人々は、葉に病原菌がつく「銹」病と穂に病原菌がつく「黒穂病」を両方観察し、混同しているのではないか、また収穫を皆無にするのは後者であるとのお答えを得ることができた。この病気はどちらも胞子を「霧」のように弾き飛ばし、それが水面に浮く(「田渋」のように)ことがあるとも、小西氏は指摘されている。小西氏のご教示に熱く謝意を表する。なお、『農薬の科学と応用』(日本植物防疫協会、1972年)によると、大麦の小銹病は東海地方に多く、小麦赤銹病は日本海側や愛知県以北に多いといわれる。

 

 

 『ことばの文化史』中世4(平凡社、1989年)

中間

 一 御所中間

 二 中間と申次

 三 女房と中間

「内々」の意味するもの

「官底」

 はじめに

 一 「官底」の用例

  a 大夫史を上首とする弁官局下級事務部門

  b 申請・下達窓口    c 文書保管

  d 文書審査       e 証人尋問

  f 神祇官の「官底」

 二 「官底」と官文殿

 三 他の「─底」の用例

  a 局底    b 省底

  c 寮底    d 所底

  e 庁底    f 院底

  g 府底    h 国底

  i 寺底

 四 「底」の意味

 五 「官底」の変化─官底から官庭へ

下地

落堕

異名

 

 

 五味文彦「中間」

P16

 「中間なるおり」とはまさに、会議中といえよう。

 

P18

 ここにおいて「中間なるおりに」「御所中間」の言葉の意味と使われ方はほぼ明らかになったと言えるであろう。

 

P19

 「中間狼藉」という言葉がある。『日葡辞書』は「目下裁判で係争中の事柄に関して、乱暴を働き、害を加えること」としているが、ここでの「中間」とは裁判中、裁判の最中という意味であろう。実例を挙げれば、徳治三年七月の山城国曽束庄雑掌が禅定寺住人等の「中間狼藉」を訴えたなかで、これを「御沙汰之最中狼藉事」と言い換えている(禅定寺文書)。まさに「沙汰之最中」がこの中間の意味するところと言える。

 

P21

「中間」(来客中)

 

P23

 御所中間が直接に奏聞することの障碍となっていることが見てとれるであろう。兼実は女房を介する奏聞を忌避しており、「御所中間」と言われたならば、自らが直接奏聞しようとしている。では兼実はどうして女房の申次を嫌ったかのか。

 実はここに当時の奏聞のあり方をめぐる諸問題が伏在しているであろう。奏聞は院や天皇などに指示・決定を仰ぐ制度だが、そこに伝奏・奏者・申次などと呼ばれる人々が介在するのが普通だった。そのため時に奏の内容が曲げられたり、仰せが得られないこともあった。「御所中間」はそうした時にしばしば方便として使われたに違いない。

 

P24

 このうち二条天皇の申次だけが丹波内侍という女房であった。すでにみた(L)の記事も後鳥羽天皇の申次が女房であったことから見れば、天皇の場合に女房が奏を申し次ぐ例が比較的多かったと言えるのではなかろうか。

 

P27

 天皇における内侍の女房の役割と比較すれば、上皇の場合には女房の役割はそう高くはなく、男房である院近臣が伺候して申次となり、奏聞を取り次いだのである。ところが後鳥羽が院政を開始すると、事情はやや違ってくる。

 

P29

 このような職事・弁官、伝奏を経ずに奏を入れることを内奏というが、定家がその内奏をもっぱら利用していたことは『明月記』の記事にうかがえる。

 

P32

 ここに女房奉書の成立の画期としての後鳥羽院政期の位置を認めることができよう。また、そこに後鳥羽院政の性格の一端が認められるに違いない。それを一口で言えば女房囲繞の政権とでもいうべきものである。

 

P36

 この例のように卿二位は院の中枢と外部との通路の開閉に関わって、そこから後鳥羽のさまざまな政治的決定に大きな影響を行使したとみられる。

 

 

 筧雅博「『内々』の意味するもの」

P51

 外交交渉は、自らの対面を損なうことなく、相手方に実情を了解せしめるテクニックを、しばしば必要とする。「内々事ハ可承」という満済の約束は、両者がギリギリの均衡を保つ一点に於いて、実現されたのであった。以上要するに、永享3年夏における都鄙の和解は、東使─管領─室町殿、という純露ではなく、鎌倉府が東使に添えて差し向けた、一人の禅僧を中継点とする「内々」のルートによって、初めて可能になったのであり、ほぼ拮抗する力をもつ、二つの武家政権間の交渉・調停の場にも、「内々」の論理はたしかに介在し、交渉の成途は事実上、この論理によって制せられたといわなくてはならない。

 

 

 下向井龍彦「官底」

P70

 厳密には律令制以来弁官局の文書保管・審理・勘申機能を担当してきた「官文殿」のことを指し、けっして院政期に形成されたものではなく、また外記局を含む用法もない、と考えた。

 

P82

 〜太政官国司太政官と省・寮との行政上の問題ばかりである。かかる問題について、担当上卿が弁─史を通じて「官底」に調査を指示するのである。太政官の政務決裁における「先例勘申」「公文勘合」、これが摂関期における「官底」の基本的任務である。

 ところが殷世紀に入ると、文書審理における「官底」の用例のあらわれ方は一変する、すなわち、国司権門間・権門相互間相論において、両当事者が自己の主張を根拠づけるために訴陳状とともに提出する副進文書の書面審査・真偽鑑定を行う余震期間の相貌を呈するようになっていくのである。

 

P84

 個別相論を担当する上卿の指示を受けて「官底」が行なう「文書対決」「文書勘注」「文書沙汰」「文書比較」と呼ばれる書面心理は、「官底勘状」「官勘状」のかたちで史・弁を通して上卿に答申され、明法家の律令を根拠とする「「明法勘文」、論地に臨んでの「官使注文」とともに、裁定の一つの根拠とされた。

 

P89

 (神祇官の官底について)両者ともに「官庫」と言い換えられているように収蔵庫であり、前者では「幣帛」が収蔵されており、後者では収蔵物「盗難」防止のため「宿直」の「雑役」が「町之住人」に賦課されていたという。ここでは文書ではなく「幣帛」が収蔵されていることが、太政官の「官底」と異なるが、文書を収蔵していたことを否定するものではない。

 

P91

 以上の用例から、「官底」とは、どうやら弁官局内でも、とくに「官文殿」を拠点とする事務部門であったようである。

 

P95

 このように「文殿」は、大夫史が「別当」として統括し、左右抄符預史生─左右文殿使部という専属職員を有する機構だったのである。「官底」には大夫史を上首とする文書実務機構としての用法があったが、それは「官底」が「官文殿」そのものであったことを立証している。

 

P96

 第二に、「陣定」での政務審議、「政」での諸司諸国の申請事項(申文)の決済、恒例臨時の行事次第の決定において、上卿の指示を受けて、当該事項に関連する過去の決裁・手順(先例)についての官符宣旨案(文殿長案)や記文を抽出し書写して「続文」を作成し、「文殿」としての一定の判断を形成し、上卿に提出すること、すなわち先例勘申である。この先例勘申作業を「文殿勘申」と呼び、作成された答申を「文殿勘文」と呼んだ。そしてこの「文殿勘文」を受けて「大夫史」が上卿に答申することを「官勘申」といった。「官底」による先例勘申・相論文書審理が「官勘申」と呼ばれた例を挙げたが(30)(32)、「官勘申」は、具体的には「文殿」職員による文書勘申に依拠していたのであり、これも「官底」が「文殿」のことであることを裏付けるものである。

 

P104

 以上の考察によって、文書・記録に「官底」と表記される機構の実体が、弁官局内で文書保管、先例勘申、官符宣旨案の作成など広汎にわたる文書事務に専従する「官文殿」のことであったことが明らかになったと思う。

 

P105

 したがって「局底」も、外記局内で、「例文」「続文」「外記長案」を収蔵する「外記文殿」(江家次第 巻十八)を中心とする実務部門であったとみてよかろう。なお「官底」とは別個に「局底」が存在することは、「官底」概念が外記局を含まないことを端的に示すものである。

 

P116

 これまでの考察で、弁官局の「官底」だけでなく、外記局以下の諸官司にも広く「─底」と称する実務部門が存在したことを明らかにした。そしてすべての「─底」は、「官底」で検討したのと同様、「文殿」を拠点に⑴文書案の書写・保管、⑵保管文書を基礎資料とする先例勘申、⑶相論裁定のための書面審理(⑵の特殊なあり方)、⑷相論裁定のための訴論人の問注などを行なう日常的文書実務部門、と一般化してよさそうである。

 

P118

 「官底」以下の各官庁の「底」に共通するのは、文書案=「底」の書写・保管・利用という機能であった。すなわち、太政官(弁官・外記)以下、省・寮から大宰府・国、さらに寺家にいたるまで、文書案の書写・保管・利用を担当する部局であることから、その通称として、各級官司号プラス「底」が一般化していったのではなかろうか。

 

P120

 したがって、「─底」は律令制の出発点から存在した、各官衙の主典を上首とする文書行政の実務部門の通称ということになる。これまで説かれてきた、「官底」は11世紀後半に登場した実務範域であるという所説、また「官底」は弁官局と外記局を含むという所説は、退けられなければならないことにあろう。

 

P123

 院政期に入って、それまでの「官底」の語だけでなく「官庭」の語も使われるようになるのも、このことと関連する。「庭中」「大庭」など、訴訟が行なわれる場を表すのに「庭」字を使用することは中世には広くみられるが(網野氏前掲論文)、平安時代でも、たとえば「訊問之庭」「勘問之庭」(朝野群載 永久三年十二月二十日着鈦勘文)などのかたちで使われていた。「官底」が相論審理期間の相貌を呈するようになった11世紀中葉以降、「官底」の語が頻繁に使用されるようになるのはそのためであろう。

 

P126

 以上のように、「官底」=「官文殿」の専門家集団(大夫史・史生・文殿使部)は、行政上の先例勘申・公文勘合という文書実務の経験蓄積を基礎に、国司権門間・権門相互間相論の盛行という新たな事態に対し、「文書対決」=書面審理という新たに要請された任務に積極的に対応していったのである。それは、もっと抽象化した言い方をすれば、太政官権力が、下級官庁(国、省・寮・司、寺社)から提出される申請の許認可を中心とする行政権力から、国司と自立的諸権門あるいは諸権門間の紛争を裁定する調停権力へと、国家権力の性格を転換させたことの一つの表現であろう。「宣旨」「官宣旨」が訴陳を媒介する手続き文書(問宣旨)、裁定を告知する文書(裁定宣旨)という新たな機能をもって登場するのも、このことと関連する。

 

 

 安田次郎「下地」

P135

 それはともかく、ここでも「下地ハ」は、ほんとうは、じつは、という意味合いで使われており、このことばが、虚偽あるいは仮りの表被の下にある実態ないし真実をかたるさいに用いられていることは明らかであろう。

 

P136

 この「下地」は、ほんらい、もともと、などを意味するのではないかと考えられよう。いいかえると、ここでいわれている「下地被官」は、「根本被官」あるいは「譜代下人」ということと同じではないかと思われる。

 

P138

 すなわち、被官人たちは、つねにその主人の進退下にあって朝夕駆使されていたわけではなく、何らかの事情によって他人にいわば貸し出され、そこで使役され扶持されることが少なからずあった。はためには借主と貸し出しされた被官人は主従の関係にあるとしか見えないが、何かことが起きて被官人の扱いが問題となったときには、本主権が呼び起こされて作用させられる。このような被官人の存在が、かなり広く想定できよう。どうやら中世では、銭やものだけでなく、人も貸し借りされているようである。

 

P139

 以上みたように、何らかの事情によって主人のもとを離れて他人の身体・扶持下にある被官人、これを本主にひきつけて言ったのが「下地(誰だれ)被官」である。この「下地」を訳すとすれば、ほんらい、もともと、などが一般にはふさわしいが、ほんとうは、じつは、のほうが落ち着く場合もある。

 

P140

 愛満丸の父で「下人」研究史上よく知られている鵲又四郎は、大乗院方国民立野氏の一族である上田行春の所従であった(三浦圭一氏「中世後期の散所について」『立命館文学』377・378号)。彼は主人から独立して経済活動を行い、蓄財できるタイプの所従であったようで、嘉吉三年(1443)に十貫文の銭を主人夫妻に支払って自分の身を「請け抜い」た。そののち移り住んだのか、あるいは以前からそうであったのかわからないが、又四郎は奈良の大乗院領鵲郷に住み、大乗院坊官隆舜の悲観となった。そして寛正2年(1461)十一月二十八日に、十五歳になる子を尋尊に差し出したのであった。

 

P144

 愛満丸が解放されるに至ったのは、特殊なケースと言わねばなるまい。しかし、中世では、現実に支配・占有していることが所有の重要な契機となる。逆に言えば、手元に置いておかないと危ないのである。したがって、「下地被官」という言い方は、一見本主権の強さを語っているかに見えるが、実は被官が解放されていく一つの景気を示しているのかもしれない。少なくとも、離れていることによって、本主の影が薄くなっていくことは間違いあるまい。むやみに他人に人を貸すものではないのである。(中略)

 また、それらとはやや異なり、「そと」(「外様」「外聞」など)にたいして用いられる例がいくつかあり、「うち」のニュアンスを強調して、内心、内々、などと訳すべきかと思われるものも散見される。

 なお、付け加えておくならば、小学館日本国語大辞典』「下地」の項には、

 ⑤心の奥。本心。しんそこ。

 ⑥元来。もともと。もとより。副詞的にも用いる。

と、ちゃんと書かれている。ただし、中世の用例は引かれていない。

 

 

 今泉淑夫「落堕」

P149

 このことは、笠松宏至氏が「仏物・僧物・人物」で鮮明に指摘されたように、出家は人間の「人物」から「仏物」への転移であり、したがって「還俗」は「仏物」から「人物」への復帰であって、「もの」の境界を自由に行き来することは、一つの「異常な行為」として認識されていた、という中世の人々の観念と深く関わる物であったろう。

 「出家」に対して、「仏物」から「人物」への移行に「落堕」という文字が選ばれたことについて、大まかに人々の信仰の余韻を読み取るべきなのであろうし、勝俣鎮夫氏が本シリーズの「落ス」の論考で示されたように、「落」という字に、あるべき状態からの脱落または本来の機能の喪失を意味する語感を併せて読むこともできよう。

 

P172

 言い換えれば「落堕」は、彼らを育成した教団就社会なりが自らの手では開花させることのできなかった才能を、その集団の制約から解放することによって、開花を期待した擬態としての追い出し、縁切りだったとも言える。その結果として花開いた宗継や万里・南江などの、多様な分野での作品群は、体制内に残った人々の作品に伍して、ときにはそれらを凌駕して、十分に美しいものとして我々に残されているのである。

 

 

 今泉淑夫「異名」

P202

 かつて野村常重氏は「鹿苑日録雑話」(『史学雑誌』昭和13年7月)で、禅僧の日記に意味不明の言葉が出てくることに注目して、それらの言葉が隠語であることを示し、たとえば「山梁」は鳥のきじ、「月団」は茶、「丁々」は米、「東坡」は味噌、「早鶏」はこんにゃく、「天竜」は銭百文、「煙景」は銭五百文であることを明らかにされた。

 

P204

「楊花」は粥に菜っ葉などを入れた増水。

酒は、「竹葉」、「梨花」、「浮蟻」、「般若(湯)」、「欄干」、「玉闌」。また「緑」「碧」「紅」などの色名をつけたものもある。

 

P208

 「害馬」は分を過ごすこと、飲み過ぎ。

 

P209

 ほかに「九献」「歓伯」「三遅」「十分」「忘憂」「冝春」「替夏」「梨花」「碧友」

 

P210

「滹沱」は麦飯。碧眼は禅僧の敬称。「雲門」「雲門一字関」「雲門話」「雲門禅」「雲子」「白雲」「焼雲」は餅子。

 

P211

 「霞」は酒。

 銭貨は「孔方兄(こうほうひん)」「鵝珠」「鵝目」「青銅」「青蚨」は古辞書にも出る。「白水」。「仙花」は銭の額を特定しない異名。一朶=一枝=一杖頭は百文、一連=一結=一繦=一緡=円相=円通は一貫文(千文)を指す。「吾道」ともいう。「天竜」は一指=百文、「煙景」(遠景)は五百文。

 

P212

 「黄鳥」「黄鶯」「黄鸝」は二百文。「夏鶯」「秋鶯」も同じか。

 

P215

 「木毬」は五百文。

 

P217

 「引水」は麺。

 

P223

 雹、霰の異名は、稷雪、米雪、濇雪、湿雪、粒雪、雨冰。

 緑林は強盗。

 

P225

 上林は酒の肴、下若は酒の異名。

ことばの文化史 その1

 『ことばの文化史』中世1(平凡社、1988)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。 

 

高声と微音

 一 大声と小声

 二 微音─ささやき声

 三 忌避される高声

 四 高声の積極的役割

 五 「高声」をめぐる二つの立場

身の暇

落ス

村の隠物・預物

 はじめに

 一 隠物の習俗

  1 百姓の預物   2 隠物の村掟

  3 村の隠物    4 文書を隠す

  5 町場の隠物

 二 小屋籠り・城籠り

  1 隠物と小屋籠り   2 村の山小屋

  3 城籠り

 三 隠物・預物の作法

  1 隠す・退ける・預ける   2 預け先

  3 預り状・割符   4 預物の礼

 四 預物改め

 おわりに

得宗・与奪・得宗

時宜(一)

 一 室町時代前期の用例

 二 南北朝時代以前に遡って

 小括

 

 

網野善彦「高声と微音」

P19 二 微音─ささやき声

 日本の場合も、天皇、院、摂関、将軍などの貴人は、「聖なる存在」として、やはり「微音」の音声でその意志を語ったとしてよいのではなかろうか。

 

P20 三 忌避される高声

 このように、「聖なるもの」の音声が「微音」であることが認められるならば、復唱者の大声─「高声」は、「聖なるもの」の意志を俗界に伝える、まさしく境界的な音声ということになる。

 

P23

 このような「高声」に対する忌避、禁制が、さきにふれた「高声」の境界的な正確に起因していることは明らかであり、神仏の世界と世俗の世界を結ぶ音声である「高声」がみだりに発せられることにより、二つの世界の釣り合いのとれた関係がかき乱され、均衡が崩れることに対する忌避感がそこに強く働いていたのであろう。とくに、仏前、神前での「高声」が厳しく禁じられたことは、こう考えるとことによって、よく理解することができる。

 ときならぬ時の「高声」や、場所を選ばぬ「高声」がそれ自体「狼藉」とされたのも、もとより同じ理由によるといえよう。

 

P28

 注目すべきことは、前述したように仏前での「高声」の読誦は堅く禁じられるのが普通であったにもかかわらず、一方で、それこそが往生につながるとする見方が早くからあった点である。

 

 

 勝俣鎮夫「落ス」

P50

 このように「落ス」という語は、路次・海など特定の場所で荷物を奪取する語として多く使用されているが、また、次の用例のように中世後期の検断に際して、田畠・屋敷地・作毛など、本来的には「落ス」ことのできないものを没収・奪うなどの意味で一般的に利用している。

 

P52

 さて、以上のように「落ス」という語は、「奪う」・「取る」・「没収する」、さらには「落し取る」などと同意の語として用いられていることは確かであるが、そこには最後の用例からはっきりわかるように、これらの語と若干のニュアンスの相違が認められることも確実である。すなわち、「落トシ取ル」という語のなかには、「落ス」という行為独自の意味が存在したと思われるのである。(中略)検断によって家を検封し、屋内の雑物を落として取る行為を「拾ウ」・「拾ヒ取ル」と表現していることからも明瞭である。おそらく「落シテ」「拾ウ」行為が「奪う」・「取ル」ことにつながったのであり。「落ス」は、本来そのものの所有権を所有者から「落ス」ことによって切り離し、「落ちているもの」にする行為であったといえよう。

 

P53

 この点定は、(中略)その土地などに「神木を立てる」・「榊を立てる」・「点札する」などと表現される、その土地をいったん神のものにする手続きである。このような儀式的手続きを経たのち、その土地を収公したり、他人に与えたのであり、この手続きは、その土地の元の所有者の所有権を絶ちきるために行なわれるものであった。所有者の、また所有者の家の魂が染み込んでいる田畠・屋敷地─それが所有の根源と意識されていた─を、いったん神のものにして、その魂を抜き、所有者の所有の「跡を消す」行為が点定・「落ス」行為の具体的儀礼であった。今日でも柔道の締め技で気絶させることを「落ス」と云うが、これが身体に宿っている精神を分離させ、自分が自分であることを意識できない「落ちた状態」にする点で、この「落ス」の用法に近いものと言えよう。

 この「落ス」行為の儀礼的手続きから明瞭なように、「落ス」の本質は、ある所有物を所有者の手から完全に切り離し、神のもの、すなわち誰にものでもなくする、「落としもの」にすることにあったのである。それゆえ、「奪取る」と「落取る」の相違は、前者がAの所有からBの所有へ所有物を連続的に移動させるのに対し、後者は、その所有の移動の間にいったん落ちた状態のものにする過程が含まれていたのであり、この「切ル」という過程の意識が次第に薄れ、「落取ル」イコール「奪取ル」となったものといえよう。しかしこの「落ス」という語に含まれる「切ル」の意は鎌倉幕府の裁許状などにしばしば見られる「事切了」(こときれおわんぬ)という語が、戦国時代以降「落着了」(おとしつけおわんぬ・らくちゃくしおわんぬ)という語に変化していくことに典型的に現れているのであり、そこに一つのこのことばの本質があったのであろう。

 

P56

 「落シ物」は誰のものでもない状態にあると考えられたのであり、また拾った物を神からの授かりものと考える観念も広く見られることは、すでに瀬田勝哉氏が明らかにしているとおりである。前近代において広く見られた捨て子・拾い子の風習は、親の悪条件を子に移らぬようにするため、親子の縁を切り、子供のよき状態での生育を願う呪術的な風習と言われているが、この風習は自分の子であるという関係をいったん「落ス」ことによって切り、拾うことによって新しく神から授かったものにするという考え方に由来するものであろう。

 中世においては、このような落とし物の特性をよく示すものとして検断手続きとしての落書(らくしょ・おとしがき)がある。中世の寺社領荘園などでは、犯罪人が確定できない場合、しばしば荘民などに犯人を指名する匿名の起請文を書かせ、その一種の投票の多数決で容疑者を定める制度があったが、この無記名の投票文を落書と称したのは、書いた物を落とすことにより、書き手と書かれたことが切り離されたものになるという考え方に由来するものである。また落書が、容疑者を決定する力を持つとされたのは、落とされた落書が拾われたことにより、その書かれていることが一種の神意であると考えられたからに他ならない。

 

 

 『ことばの文化史』中世2(平凡社、1989年)

なりからし

募る、引き募る

恥辱と悪口 ─式目悪口罪ノート

 1 恥辱と悪口

 2 鎌倉幕府悪口罪の特徴

 3 悪態祭と社会的制裁

 4 紛争と悪口

 5 悪口と豊穣儀礼

上無し

ぼろぼろ

名を籠める

灰をまく

 はじめに

 1 神人と灰

 2 神灰による調伏

 3 御師と神灰

 むすび

 

 

 笠松宏至「なりからし

P14

 「成り枯らし」も恐らく、その源流をこの利倍法にもつ、その変種の一つではなかろうか。(1)〜(3)の例では、「成り枯らし」の法があるのだから、せめて元本の期限を伸ばしてほしいと歎願している。もし「成り枯らし」が文字通りに適用されれば、元本の返済も不要であったのではないだろうか。つまり「成り枯らし」とは、実(利子)が成った(元本の何倍にも成熟)以後は、その幹や根(元本)は枯れ果てる(新しい利子を生み出さない)という意味の、きわめて俗的な慣習法の呼び名であったのではないだろうか。

 

 

 山本幸司「恥辱と悪口 ─式目悪口罪ノート」

P37

 (中世における悪口の特徴的な傾向)それは、すでに笠松氏が「有罪と認定されたものの殆ど凡てが、〈乞食非人〉、〈恩顧の仁〉、〈若党〉、〈甲乙人〉などの社会身分上の蔑称」であると指摘しているように、盲目とか貪欲とか奸謀と行ったような、ごく一般的な罵詈雑言は少なく、相手の社会的な地位や身分を貶めたり、相手の名誉を傷付けるような発言が多くを占めるという点である。具体的な文言で言えば、断本鳥・還俗之身・小舎童・恩顧仁・代官・当浦住人・放埒乞食・法師・白拍子・当庄住人・本所恩顧・非分身・郎従・非御家人・下人・勧進法師・甲乙人・恩顧地頭・若党などの文言は、仮に言われた人間が御家人乃至は武士であった場合には、その社会的地位を不当に貶めることになる。また、こうした特定の文言が使われていない場合でも、「依勘気被追放」とか「為召人」といった発言は、言われた人間の名前を傷付けるものである。

 

P43

 すなわち武士社会は、何よりもまず戦闘を職能とする戦士社会であり、そうした社会に普遍的な現象として、名誉感情が極度に強いという特徴を持つ。こうした傾向については、鶴岡八幡宮放生会に際して的立役を拒否した熊谷直実のエピソードを挙げるまでもなく、すでに周知の事実である。先に例に挙げた波多野忠綱の場合も、米町の合戦での先登の功は異論がないのだから、政所前の功は(三浦)義村に譲って穏便に済ませておけば破格の行賞に預かれるのだという、北条義時の懐柔の言葉を、一時の賞のために万代の名を汚すわけにはいかないと言って振り切り、あくまでも真偽の決着を迫った結果の処罪であった。こういう武士階層にとって、もっとも感情を刺激するのは、自己の社会的地位や身分を不当に貶めたり、名誉に関する事柄で誹謗中傷するような発言であり、それだけにそうした類の言葉を投げ掛けられれば、当事者にとっては重大問題だと感じられたからこそ、訴訟の場に持ち出されることが多かったのであろう。

 勿論、名誉の観念が強烈であることは、必ずしも武士階層に限らず、前近代社会や部族社会には一般的傾向である。たとえばR・S・ラトレイは、アシャンティ族について、彼らはあらゆる種類の個人的な悪口に対して極度に神経質だと指摘している。また中田薫氏は、すでに「栄誉の質入」のなかで、借金の担保として自己の名誉をかけるという趣旨の文言(凌辱文言)を記載する習慣や、債務不履行者に公開の場で恥辱を与える凌辱法について、日本を含む世界各地の事例を集め、他人から人間として認識されたという意味で人の社会的倫理的価値である〈栄誉〉が、人間の社会的存在の基礎であり、それを喪失することは人間の社会的死滅ですらあることを論じていた。

 しかし武士階層にとって、この問題がとりわけ大きな意味を持つのは、武士というのが物理的な武力に直結する階層であるだけに、恥辱を蒙れば、武闘によって解決を図ろうとする可能性が高いからである。

 

P49

 悪口が事実か否かという認定が重要な要素である点でも、式目と対照して興味深いのはサリカ法の規定である。サリカ法にあっても、かげま・糞野郎・狐・兎といったいわゆる一般的な悪罵とは異なって、娼婦と呼んだ場合や楯を投げ捨てたという汚名を着せた場合、あるいは密告者・偽宣者と罵った場合など、背後に何かある具体的な事実の予想させるような発言をした場合には、それが事実であることを証明しなければならず、証明できなかったときにのみ罰金が課されている。逆に言えば、それが事実なら罪にはならないという点で、幕府法と同様なのである。

 

P59

 (広義の喧嘩・口論の禁止規定として悪口について)だが、すでに注(3)で引用した二つの事例も含めて、これらの史料はいずれも悪口を禁止する理由は明示されていないにせよ、庄・惣・寺社など特定の集団内における社会的な秩序を乱さないために、悪口を口にしたものの追放や処罰を規定しているのであって、その趣旨においては喧嘩・狼藉の一環としての悪口の禁止と一致するものと言ってよいだろう。

 

P60

 他方、問注=裁判という場を特定した悪口の禁止令は、室町幕府法や戦国家法などには事例が見当たらないが、寺院の集会や表情などの規定の中に、矜持的にそれに該当するものが見受けられる。

 

P62

 以上のように、式目悪口罪と式目以後の諸法におけるそれとを比較検討した結果を、要約的に言えば、前段の「闘殺之基」としての悪口の禁止は、喧嘩・口論を禁じた爾後の諸法の内に、かなり広い範囲で類似の規定を見出すことができるのに対して、悪口の発せられる場としての問注=裁判を強調した後段の方は、前段に比べれば限定された形で、寺院の集会・評定の際の規定の中に対応する規定を発見できるのみだということになる。

 

P72

 中山(太郎)氏は悪口祭に言い勝ということは、その人間の願いが神に聞き届けられたということであり、つまり悪口祭は、その結果その人が一年中福運に恵まれるという一種の年占であって、それに加えるに、平常の素行の悪い人間を戒めるという社会的制裁の要素も含まれていると主張している。

 

P100

 このように悪口が紛争解決の手段としては機能していないティブ族の例が、共同体的・自治的な紛争解決手段が、新たなあるいはより高次な権力による司法警察機構にとって変わられていくことを意味するものと解されるとすれば、同じことは式目の成立と、そこにおける悪口の禁止という過程についても妥当するのではなかろうか。

 さらに、この過程はまた、そこでやりとりされる言葉の内容に則して言えば、正当性の主張と罵詈雑言との混在から、事実に基づく理性的な正当性への主張への純化、すなわち言うなれば〈法廷弁論の成立〉へ途でもあったのである。

 鎌倉幕府の成立の意義の一つは、理性的に自己の正当性を陳述して第三者の判断を仰ぐ場としての〈法廷〉が、京都のそれも貴族層を中心とする狭い社会から、地域的にも社会層のうえでも、より拡大した点にある。そこにおいては、それ以前の在地社会における紛争で、一定のルールの下での紛争解決手段としての悪口祭的な集会で言葉の果たした役割は、もはや不要となってしまう。あるいは単に不要となるばかりか、在地社会の慣習的な紛争解決の際には、必ずしも理性的な弁論ばかりではなく、時には猥雑な悪口雑言をも交えて、とにかく相手を言葉によって屈服させればよかったものが、口頭であれ文書であれ、そうした発言は法廷における対決にとってむしろ有害なものとして排除されるに至るのである。これが式目における悪口禁止の背後の事情であり、それ故にこそ、とりわけ問注の場における悪口が問題とされたのであった。

 

P110

 そして本稿で特に問題とした社会的制裁という側面と、ここで取り上げた豊穣儀礼という側面とは、相互に排斥し合うものではなく、本来一つのものであった。前近代社会における人間と自然との関係は、主体と客体といった二分法で対立的に捉えられるものではない。人間の社会・共同体の秩序と農作物や狩猟の獲物の豊凶とは深く関連しており、凶作とか飢饉のような自然災害は、我々が理解しているような、人間社会から切り離された固有の因果連関に従う自然現象ではなく、人間社会の在り方とそれを取り巻く周囲の自然環境の双方を貫通する全体としての〈秩序〉の何らかの変調に由来するものと考えられていたのである。したがって人間共同体の秩序を撹乱する行為は、それによってより大きな全体秩序に影響を与え、ひいては凶作などの災厄をもたらすものとして排撃されなければならなかった。

 そのために、豊穣を祈る儀礼の場である祭にあっては、一方における秩序を強化するための儀礼と、他方における秩序を侵害・撹乱する行為の排斥とが、表裏一体となって行なわれたのである。悪口祭にもまた、この両種の意義が併存している。そして後者の排斥的な機能の側面が比重を増し、発展を遂げていった結果として成立したのが、これまで取り上げてきたような社会的制裁の諸制度であったということになる。

 

P113

 日本の社会における無礼講の意味もまた、このニャクサの speak out と同様である。無礼講というのは一時的に日常的な社会の秩序から離れた、カオスの場であり、そこにおける日常的な不平・不満・憎悪の噴出が、結果として日常的な社会秩序の再確認・再強化に役立つという点では、ニャクサ社会の speak out とまったく同様であると言ってよい。悪口祭とか悪態祭とか呼ばれる行事もまた、社会的制裁という機能と同様に、あるいはむしろそれ以前に、この無礼講と共通した社会的機能を果たしていたと考えられる。

 そして悪口祭の多くが、夜間に行われたり、誰とも分からぬように面を隠したりするのも、本来は世俗的な意味で発言の匿名性を保証するというよりは、こうした場での発言が、全体秩序の統合者の投影としての〈神〉の託宣と考えられていたことを意味している。そのことはザットナの際に、子どもの口を借りて非難の言葉が語られていることに現れている。これは神の託宣が多くの場合、童女童子に神が憑依することによって示されるのと同じなのである。

 

 

 桜井英治「上無し」

P124

 ところで、『日本国語大辞典』は右の二例を引いて、「上無し」に「(ものごとをする程度に)際限がないさま。きりがないさま。」という語義を与えている。だが、これは明らかに誤解と言わねばならない。というのは、『日本国語大辞典』の解釈によれば、「上」は「際限」・「きり」を意味することになるが、右の二例を見るかぎり、「上」は人でなければならないからである。具体的にはAでは今川氏が、Bでは一家衆が「上」にあたるが、それが「上無し」という言葉の中でどれほど抽象化されていようと、上位者としての人が「上」として観念されていることには変わりがない。だから、『日本国語大辞典』の解釈は、少なくともA・Bの用例に関して言えば、「上無し」という言葉の構成を取り違えていることになるのである。

 「上無し」の「上」を人と解釈するのは、井上鋭夫・勝俣鎮夫の両氏である。すなわち、井上氏は日本思想史大系『蓮如一向一揆』においてBの「ウヘナシニ」に「自分より偉いものがないと思って」という注を付し、勝俣氏は同『中世政治社会思想 上』においてAの「うへなし」に「上を恐れざる・傍若無人の」という注を付している。ここに、「上無し」の「上」を人と見る正当な解釈辿り着くわけだが、次に、「上無し」という言葉がいったいどのような脈絡で用いられるのかという問題に立ち入ってゆかねばならない。

 

P135

 今まで迂遠な手順で明らかにしようとしてきた公方年貢の吸収→「上無し」という関係が、ここに最も簡潔な形で説明されていると言ってよい。「二段 フカ田」のうちの一段は、公方年貢収取権の買得によって「上無し」になったのである(なお、公方年貢の消滅を意味する「上無し」の場合、カミナシと訓じた可能性が出てくるが、これをウエナシとまったく別の語と考えるべきではあるまい。後述のように両者は深い内的連関を有しているのである)。

 

 

 細川涼一「ぼろぼろ(暮露)」

P154

 『嬉遊笑覧』がぼろぼろを古事記の一つとして捉えていたことは既に述べたが、ぼろぼろが社会体制から脱落・阻害された広義の中世の非人身分に属することは中世の史料からも窺えるからである。次に、この点を示す史料を掲げておくことにしたい。

 『徒然草』によれば、ぼろぼろは九品の念仏を称えるのをこととしていたという。九品の念仏とは、極楽浄土の上品上生から下品下生までの九階級にかたちどり、九とおりに調子を違えて念仏することであり、彼らの九品の念仏とは、顕密主義的浄土教の一種と考えていいであろう。

 

P156

 以上、ぼろぼろが非人と同列視されてみられていたことをここでは確認しておきたいと思う。

 

P169

 このように、ぼろぼろは、「闘諍をこととす」といわれたような目標を失った暴力と、旅をする女性をして「心の外なる契りを結ぶ」といわしめたような静的な淪落をもって鎌倉末期の社会を破滅的に生きた、ある意味ではアウト・ロー集団とも規定できる人々であった。

 

P180

(補注)この『今物語』では、賤しい法師が、髪を剃らずに長く乱れ伸び、ほころびた紙衣を着ているさまが「ほろほろ」と形容されている。このことに鑑みるならば、ぼろぼろの語源は、後述するようにぼろぼろが服装の標識とした紙衣が、貧窮のため破れているさまから来ている可能性が高いと言えるであろう。

 

 

 酒井紀美「名を籠める」

P186

 このように、「名字を籠める」というのは、その人の名字を書いて、それを籠め、呪詛することであった。

 名前を書いて籠める場所は、ここでは東西両金堂の手水所の釜の中であったが、他の記事によれば、「五社七堂」の内陣や「(春日)社頭」などに籠めた例が多い。興福寺や春日社の仏神の宝前に籠めて、その人を呪詛したわけである。

 ところで、「名を籠める」とき、その決定は学侶や六方などが「神水集会」をし、「連署神水」してなされている。単なる評定ではなく、連署神水をくみかわして、神に誓約するかたちをとらなければ、決定できないものだったと思われる。

 

 

 網野善彦「灰をまく」

P226

 憶測を逞しゅうすれば、おそらく「神灰」は神人たちによってまかれたのではあるまいか。その「神灰」の及んだところは、「神木」の立てられた場と同様、「聖地」として人の立ち入り難い場になったものと思われ、無差別な「神灰」の飛散によって、その影響が「神敵」そのものだけでなく、広域に及ぶため、「在所」の「亡所」、「民百姓」の「不便」という状況がおこったのであろう。神宮側がなかなか「神灰」の行使に踏み切れなかったのはそのためであろうし、実際、「神灰」の威力が人々によって信じられていたとすれば、これは大変な事態と言わなくてはなるまい。

 また、「正神灰」の「正」が何を意味するのかは不明であるが、一応これは「神灰」が正真正銘のものであることを強調した語と見るのが自然であろう。それは「神灰」と称するいわば偽の灰がしばしばまかれたことに対する神宮側の対応を示すとも、またすでに「神灰」の威力の低下しつつあることに対する強調とも考えることができる。たしかに、羽津氏が「神札」「神木」を海に流し、恬然としている状況から見て、これも大いにありうることであろう。

 それらはいずれにしても、この「神灰」が、鎌倉中期、神人あるいは「児女子」が「蒔い」た灰とつながることは確実であろう。おそらくは民間の中にあった灰に関わる習俗、とくに神の直属民である神人の所持する灰の呪力を、二百年の間に、神宮は「神宮の法」としてその制度の中に取り入れ、「調伏」の手段としたものと思われる。

 

P229

 注目すべきは、「光明真言」とともに「神灰」を錦に包んで小甕に入れ、屋敷の鬼門である丑寅の方に埋めよとの指示が付されている点で、「神灰」はここでは災厄の屋敷に入るのを防ぐ威力を持つものとされているのである。

 これが、「神敵」を調伏した「神灰」と同じ呪力であることは明らかであり、「神灰」がこのような形で広く世に拡がっていた点も注目すべき事実と言えよう。

蟇沼寺文書9

    九 源内覚右連署譲状并沙弥西道証判

 

 (端裏書)

 (を)

 「□とやさとのゝゆつりしやう」

  ゆつりわたす元末名之事

    合一反六十歩者むかい田なり

     半卅歩後家分  但後家一期後さやくそ女

     下人さやくそ女後家 半卅歩田ハをとやさとのにつくへき也、

     をうとしの林後家

     (味原)

     あちはらの小林をとやさとのをかハりゆつる也、

       (譲渡)                   (懈怠)

 右件田・下人ゆつりわたすところ実也、所当御公事ニをいてハけたいなくつと

                   (領知)

 へき物也、但後家一期後ハをとやさとのりやうちすへきなり、仍為後日

 譲状如件、

     (1327)

     正中四秊正月廿七日        源内(花押)

                      覚右(花押)

               (証判)

               「沙弥西道(花押)」

 

 「書き下し文」

 「をとやさ殿の譲状」

  譲り渡す元末名の事

    合わせて一反六十歩てへり むかい田なり

     半三十歩後家分 但し後家一期の後さやくそ女

     下人さやくそ女後家 半三十歩田はをとやさ殿に付くべきなり

     をうとしの林後家

     味原の小林をとやさ殿を代はり譲るなり、

 右件の田・下人譲り渡す処実なり、所当御公事に於いては懈怠無く勤むべき物なり、但し後家一期の後はをとやさ殿の領知すべきなり、仍後日の為譲状件のごとし、

 

 「解釈」

 譲り渡す元末名のこと。

   都合一反六十歩。むかい田である。

    半三十歩は後家分。但し後家が一期領有した後は、下人さやくそ女とこの田地は、をとやさ殿に渡さなければならないのである。

    をうとしの林は後家分。

    味原の小林はをとやさ殿へ代わって譲るのである。

 右のこの田地と下人を譲り渡すことは事実である。所当御公事については、怠ることなく納めなければならないのである。但し、後家一期の後は、をとやさ殿が領有しなければならないのである。よって、後日の証拠のため、譲状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「所当」

 ─その土地からの所出物として領主に上納されたもの。所当官物、所当地子、所当年貢、所当公事などと用いられたが、平安末期から所当、所当米などと用いられ、室町期には年貢を意味する語となる(『古文書古記録語辞典』)。

蟇沼寺文書8

    八 某安堵状

 

 梨子羽郷楽音寺免田内午所田地五段者、頼賢相伝由申之、然者早如元令

 安堵、有限御年貢等可其沙汰之状如件、

     (1318)

     文保貳年四月十日        (花押)

 

 「書き下し文」

 梨子羽郷楽音寺免田内午所田地五段は、頼賢相伝の由之を申す、然れば早く元のごとく安堵せしむ、限り有る御年貢等其の沙汰致すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 梨子羽郷にある楽音寺免田のうち午所田地五段は、頼賢が相伝したと申請してきた。したがって、早々に元のとおり安堵する。重要な御年貢等を徴収するべきである。安堵状は以上のとおりである。

蟇沼寺文書7

    七 沙弥眞阿売券

 

 (端裏書)

 「□やしきのうりけん      おきの五郎入道 正和三」

 売渡屋敷之事

  在壹所  四至〈限東万才家 南限大道」限西小路  限北大道〉

  宛直銭五貫文者〈在四郎太郎売券案」是ノ通候」但正文ハ眞阿ニ留此、〉

 右件於地者、相互ニ依用要、限永代沽渡処実也、但彼地ニ違乱妨

 候ハヽ、設雖御徳政他妨、仍為後日沙汰証文之状如件、

     (1314)

     正和三年〈才次」甲寅〉八月廿二日

                      沙弥眞阿(花押)

 

 「書き下し文」

 売り渡す屋敷の事

  在り一所 四至〈限る東は万才の家 限る南は大道 限る西は小路 限る北は大道〉

  宛つ直銭五貫文てへり〈在り、四郎太郎売券案は是の通りに候ふ、但し正文は真阿に此れを留む〉

 右件の地に於いては、相互に用要有るにより、永代を限り沽り渡す処実なり、但し彼の地に違乱・妨げ候はば、たとひ御徳政有りと雖も他の妨げ有るべからず、仍て後日の沙汰の為証文の状件のごとし、

 

 「解釈」

 売り渡す屋敷のこと。

  一箇所。その場所の境界であるが、東は万才助の家を限り、南は大道を限り、西は小路を限り、北は大道を限る。

  銭五貫文を代価に当てる。四郎太郎の売券案はこのとおり渡します。ただし、正文は私真阿のもとに留めます。

 右、この屋敷地については、互いに必要があるので、永久に売り渡すことは事実である。ただし、この屋敷地に違乱や妨害があるならば、たとえ徳政令が執行されたとしても、売買契約を取り消すような妨害があってはならない。そこで、後日の訴訟のために証文の内容は以上のとおりである。

 

*「四郎太郎売券案」は『蟇沼寺文書』五号文書を指します。