周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ことばの文化史 その1

 『ことばの文化史』中世1(平凡社、1988)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。 

 

高声と微音

 一 大声と小声

 二 微音─ささやき声

 三 忌避される高声

 四 高声の積極的役割

 五 「高声」をめぐる二つの立場

身の暇

落ス

村の隠物・預物

 はじめに

 一 隠物の習俗

  1 百姓の預物   2 隠物の村掟

  3 村の隠物    4 文書を隠す

  5 町場の隠物

 二 小屋籠り・城籠り

  1 隠物と小屋籠り   2 村の山小屋

  3 城籠り

 三 隠物・預物の作法

  1 隠す・退ける・預ける   2 預け先

  3 預り状・割符   4 預物の礼

 四 預物改め

 おわりに

得宗・与奪・得宗

時宜(一)

 一 室町時代前期の用例

 二 南北朝時代以前に遡って

 小括

 

 

網野善彦「高声と微音」

P19 二 微音─ささやき声

 日本の場合も、天皇、院、摂関、将軍などの貴人は、「聖なる存在」として、やはり「微音」の音声でその意志を語ったとしてよいのではなかろうか。

 

P20 三 忌避される高声

 このように、「聖なるもの」の音声が「微音」であることが認められるならば、復唱者の大声─「高声」は、「聖なるもの」の意志を俗界に伝える、まさしく境界的な音声ということになる。

 

P23

 このような「高声」に対する忌避、禁制が、さきにふれた「高声」の境界的な正確に起因していることは明らかであり、神仏の世界と世俗の世界を結ぶ音声である「高声」がみだりに発せられることにより、二つの世界の釣り合いのとれた関係がかき乱され、均衡が崩れることに対する忌避感がそこに強く働いていたのであろう。とくに、仏前、神前での「高声」が厳しく禁じられたことは、こう考えるとことによって、よく理解することができる。

 ときならぬ時の「高声」や、場所を選ばぬ「高声」がそれ自体「狼藉」とされたのも、もとより同じ理由によるといえよう。

 

P28

 注目すべきことは、前述したように仏前での「高声」の読誦は堅く禁じられるのが普通であったにもかかわらず、一方で、それこそが往生につながるとする見方が早くからあった点である。

 

 

 勝俣鎮夫「落ス」

P50

 このように「落ス」という語は、路次・海など特定の場所で荷物を奪取する語として多く使用されているが、また、次の用例のように中世後期の検断に際して、田畠・屋敷地・作毛など、本来的には「落ス」ことのできないものを没収・奪うなどの意味で一般的に利用している。

 

P52

 さて、以上のように「落ス」という語は、「奪う」・「取る」・「没収する」、さらには「落し取る」などと同意の語として用いられていることは確かであるが、そこには最後の用例からはっきりわかるように、これらの語と若干のニュアンスの相違が認められることも確実である。すなわち、「落トシ取ル」という語のなかには、「落ス」という行為独自の意味が存在したと思われるのである。(中略)検断によって家を検封し、屋内の雑物を落として取る行為を「拾ウ」・「拾ヒ取ル」と表現していることからも明瞭である。おそらく「落シテ」「拾ウ」行為が「奪う」・「取ル」ことにつながったのであり。「落ス」は、本来そのものの所有権を所有者から「落ス」ことによって切り離し、「落ちているもの」にする行為であったといえよう。

 

P53

 この点定は、(中略)その土地などに「神木を立てる」・「榊を立てる」・「点札する」などと表現される、その土地をいったん神のものにする手続きである。このような儀式的手続きを経たのち、その土地を収公したり、他人に与えたのであり、この手続きは、その土地の元の所有者の所有権を絶ちきるために行なわれるものであった。所有者の、また所有者の家の魂が染み込んでいる田畠・屋敷地─それが所有の根源と意識されていた─を、いったん神のものにして、その魂を抜き、所有者の所有の「跡を消す」行為が点定・「落ス」行為の具体的儀礼であった。今日でも柔道の締め技で気絶させることを「落ス」と云うが、これが身体に宿っている精神を分離させ、自分が自分であることを意識できない「落ちた状態」にする点で、この「落ス」の用法に近いものと言えよう。

 この「落ス」行為の儀礼的手続きから明瞭なように、「落ス」の本質は、ある所有物を所有者の手から完全に切り離し、神のもの、すなわち誰にものでもなくする、「落としもの」にすることにあったのである。それゆえ、「奪取る」と「落取る」の相違は、前者がAの所有からBの所有へ所有物を連続的に移動させるのに対し、後者は、その所有の移動の間にいったん落ちた状態のものにする過程が含まれていたのであり、この「切ル」という過程の意識が次第に薄れ、「落取ル」イコール「奪取ル」となったものといえよう。しかしこの「落ス」という語に含まれる「切ル」の意は鎌倉幕府の裁許状などにしばしば見られる「事切了」(こときれおわんぬ)という語が、戦国時代以降「落着了」(おとしつけおわんぬ・らくちゃくしおわんぬ)という語に変化していくことに典型的に現れているのであり、そこに一つのこのことばの本質があったのであろう。

 

P56

 「落シ物」は誰のものでもない状態にあると考えられたのであり、また拾った物を神からの授かりものと考える観念も広く見られることは、すでに瀬田勝哉氏が明らかにしているとおりである。前近代において広く見られた捨て子・拾い子の風習は、親の悪条件を子に移らぬようにするため、親子の縁を切り、子供のよき状態での生育を願う呪術的な風習と言われているが、この風習は自分の子であるという関係をいったん「落ス」ことによって切り、拾うことによって新しく神から授かったものにするという考え方に由来するものであろう。

 中世においては、このような落とし物の特性をよく示すものとして検断手続きとしての落書(らくしょ・おとしがき)がある。中世の寺社領荘園などでは、犯罪人が確定できない場合、しばしば荘民などに犯人を指名する匿名の起請文を書かせ、その一種の投票の多数決で容疑者を定める制度があったが、この無記名の投票文を落書と称したのは、書いた物を落とすことにより、書き手と書かれたことが切り離されたものになるという考え方に由来するものである。また落書が、容疑者を決定する力を持つとされたのは、落とされた落書が拾われたことにより、その書かれていることが一種の神意であると考えられたからに他ならない。

 

 

 『ことばの文化史』中世2(平凡社、1989年)

なりからし

募る、引き募る

恥辱と悪口 ─式目悪口罪ノート

 1 恥辱と悪口

 2 鎌倉幕府悪口罪の特徴

 3 悪態祭と社会的制裁

 4 紛争と悪口

 5 悪口と豊穣儀礼

上無し

ぼろぼろ

名を籠める

灰をまく

 はじめに

 1 神人と灰

 2 神灰による調伏

 3 御師と神灰

 むすび

 

 

 笠松宏至「なりからし

P14

 「成り枯らし」も恐らく、その源流をこの利倍法にもつ、その変種の一つではなかろうか。(1)〜(3)の例では、「成り枯らし」の法があるのだから、せめて元本の期限を伸ばしてほしいと歎願している。もし「成り枯らし」が文字通りに適用されれば、元本の返済も不要であったのではないだろうか。つまり「成り枯らし」とは、実(利子)が成った(元本の何倍にも成熟)以後は、その幹や根(元本)は枯れ果てる(新しい利子を生み出さない)という意味の、きわめて俗的な慣習法の呼び名であったのではないだろうか。

 

 

 山本幸司「恥辱と悪口 ─式目悪口罪ノート」

P37

 (中世における悪口の特徴的な傾向)それは、すでに笠松氏が「有罪と認定されたものの殆ど凡てが、〈乞食非人〉、〈恩顧の仁〉、〈若党〉、〈甲乙人〉などの社会身分上の蔑称」であると指摘しているように、盲目とか貪欲とか奸謀と行ったような、ごく一般的な罵詈雑言は少なく、相手の社会的な地位や身分を貶めたり、相手の名誉を傷付けるような発言が多くを占めるという点である。具体的な文言で言えば、断本鳥・還俗之身・小舎童・恩顧仁・代官・当浦住人・放埒乞食・法師・白拍子・当庄住人・本所恩顧・非分身・郎従・非御家人・下人・勧進法師・甲乙人・恩顧地頭・若党などの文言は、仮に言われた人間が御家人乃至は武士であった場合には、その社会的地位を不当に貶めることになる。また、こうした特定の文言が使われていない場合でも、「依勘気被追放」とか「為召人」といった発言は、言われた人間の名前を傷付けるものである。

 

P43

 すなわち武士社会は、何よりもまず戦闘を職能とする戦士社会であり、そうした社会に普遍的な現象として、名誉感情が極度に強いという特徴を持つ。こうした傾向については、鶴岡八幡宮放生会に際して的立役を拒否した熊谷直実のエピソードを挙げるまでもなく、すでに周知の事実である。先に例に挙げた波多野忠綱の場合も、米町の合戦での先登の功は異論がないのだから、政所前の功は(三浦)義村に譲って穏便に済ませておけば破格の行賞に預かれるのだという、北条義時の懐柔の言葉を、一時の賞のために万代の名を汚すわけにはいかないと言って振り切り、あくまでも真偽の決着を迫った結果の処罪であった。こういう武士階層にとって、もっとも感情を刺激するのは、自己の社会的地位や身分を不当に貶めたり、名誉に関する事柄で誹謗中傷するような発言であり、それだけにそうした類の言葉を投げ掛けられれば、当事者にとっては重大問題だと感じられたからこそ、訴訟の場に持ち出されることが多かったのであろう。

 勿論、名誉の観念が強烈であることは、必ずしも武士階層に限らず、前近代社会や部族社会には一般的傾向である。たとえばR・S・ラトレイは、アシャンティ族について、彼らはあらゆる種類の個人的な悪口に対して極度に神経質だと指摘している。また中田薫氏は、すでに「栄誉の質入」のなかで、借金の担保として自己の名誉をかけるという趣旨の文言(凌辱文言)を記載する習慣や、債務不履行者に公開の場で恥辱を与える凌辱法について、日本を含む世界各地の事例を集め、他人から人間として認識されたという意味で人の社会的倫理的価値である〈栄誉〉が、人間の社会的存在の基礎であり、それを喪失することは人間の社会的死滅ですらあることを論じていた。

 しかし武士階層にとって、この問題がとりわけ大きな意味を持つのは、武士というのが物理的な武力に直結する階層であるだけに、恥辱を蒙れば、武闘によって解決を図ろうとする可能性が高いからである。

 

P49

 悪口が事実か否かという認定が重要な要素である点でも、式目と対照して興味深いのはサリカ法の規定である。サリカ法にあっても、かげま・糞野郎・狐・兎といったいわゆる一般的な悪罵とは異なって、娼婦と呼んだ場合や楯を投げ捨てたという汚名を着せた場合、あるいは密告者・偽宣者と罵った場合など、背後に何かある具体的な事実の予想させるような発言をした場合には、それが事実であることを証明しなければならず、証明できなかったときにのみ罰金が課されている。逆に言えば、それが事実なら罪にはならないという点で、幕府法と同様なのである。

 

P59

 (広義の喧嘩・口論の禁止規定として悪口について)だが、すでに注(3)で引用した二つの事例も含めて、これらの史料はいずれも悪口を禁止する理由は明示されていないにせよ、庄・惣・寺社など特定の集団内における社会的な秩序を乱さないために、悪口を口にしたものの追放や処罰を規定しているのであって、その趣旨においては喧嘩・狼藉の一環としての悪口の禁止と一致するものと言ってよいだろう。

 

P60

 他方、問注=裁判という場を特定した悪口の禁止令は、室町幕府法や戦国家法などには事例が見当たらないが、寺院の集会や表情などの規定の中に、矜持的にそれに該当するものが見受けられる。

 

P62

 以上のように、式目悪口罪と式目以後の諸法におけるそれとを比較検討した結果を、要約的に言えば、前段の「闘殺之基」としての悪口の禁止は、喧嘩・口論を禁じた爾後の諸法の内に、かなり広い範囲で類似の規定を見出すことができるのに対して、悪口の発せられる場としての問注=裁判を強調した後段の方は、前段に比べれば限定された形で、寺院の集会・評定の際の規定の中に対応する規定を発見できるのみだということになる。

 

P72

 中山(太郎)氏は悪口祭に言い勝ということは、その人間の願いが神に聞き届けられたということであり、つまり悪口祭は、その結果その人が一年中福運に恵まれるという一種の年占であって、それに加えるに、平常の素行の悪い人間を戒めるという社会的制裁の要素も含まれていると主張している。

 

P100

 このように悪口が紛争解決の手段としては機能していないティブ族の例が、共同体的・自治的な紛争解決手段が、新たなあるいはより高次な権力による司法警察機構にとって変わられていくことを意味するものと解されるとすれば、同じことは式目の成立と、そこにおける悪口の禁止という過程についても妥当するのではなかろうか。

 さらに、この過程はまた、そこでやりとりされる言葉の内容に則して言えば、正当性の主張と罵詈雑言との混在から、事実に基づく理性的な正当性への主張への純化、すなわち言うなれば〈法廷弁論の成立〉へ途でもあったのである。

 鎌倉幕府の成立の意義の一つは、理性的に自己の正当性を陳述して第三者の判断を仰ぐ場としての〈法廷〉が、京都のそれも貴族層を中心とする狭い社会から、地域的にも社会層のうえでも、より拡大した点にある。そこにおいては、それ以前の在地社会における紛争で、一定のルールの下での紛争解決手段としての悪口祭的な集会で言葉の果たした役割は、もはや不要となってしまう。あるいは単に不要となるばかりか、在地社会の慣習的な紛争解決の際には、必ずしも理性的な弁論ばかりではなく、時には猥雑な悪口雑言をも交えて、とにかく相手を言葉によって屈服させればよかったものが、口頭であれ文書であれ、そうした発言は法廷における対決にとってむしろ有害なものとして排除されるに至るのである。これが式目における悪口禁止の背後の事情であり、それ故にこそ、とりわけ問注の場における悪口が問題とされたのであった。

 

P110

 そして本稿で特に問題とした社会的制裁という側面と、ここで取り上げた豊穣儀礼という側面とは、相互に排斥し合うものではなく、本来一つのものであった。前近代社会における人間と自然との関係は、主体と客体といった二分法で対立的に捉えられるものではない。人間の社会・共同体の秩序と農作物や狩猟の獲物の豊凶とは深く関連しており、凶作とか飢饉のような自然災害は、我々が理解しているような、人間社会から切り離された固有の因果連関に従う自然現象ではなく、人間社会の在り方とそれを取り巻く周囲の自然環境の双方を貫通する全体としての〈秩序〉の何らかの変調に由来するものと考えられていたのである。したがって人間共同体の秩序を撹乱する行為は、それによってより大きな全体秩序に影響を与え、ひいては凶作などの災厄をもたらすものとして排撃されなければならなかった。

 そのために、豊穣を祈る儀礼の場である祭にあっては、一方における秩序を強化するための儀礼と、他方における秩序を侵害・撹乱する行為の排斥とが、表裏一体となって行なわれたのである。悪口祭にもまた、この両種の意義が併存している。そして後者の排斥的な機能の側面が比重を増し、発展を遂げていった結果として成立したのが、これまで取り上げてきたような社会的制裁の諸制度であったということになる。

 

P113

 日本の社会における無礼講の意味もまた、このニャクサの speak out と同様である。無礼講というのは一時的に日常的な社会の秩序から離れた、カオスの場であり、そこにおける日常的な不平・不満・憎悪の噴出が、結果として日常的な社会秩序の再確認・再強化に役立つという点では、ニャクサ社会の speak out とまったく同様であると言ってよい。悪口祭とか悪態祭とか呼ばれる行事もまた、社会的制裁という機能と同様に、あるいはむしろそれ以前に、この無礼講と共通した社会的機能を果たしていたと考えられる。

 そして悪口祭の多くが、夜間に行われたり、誰とも分からぬように面を隠したりするのも、本来は世俗的な意味で発言の匿名性を保証するというよりは、こうした場での発言が、全体秩序の統合者の投影としての〈神〉の託宣と考えられていたことを意味している。そのことはザットナの際に、子どもの口を借りて非難の言葉が語られていることに現れている。これは神の託宣が多くの場合、童女童子に神が憑依することによって示されるのと同じなのである。

 

 

 桜井英治「上無し」

P124

 ところで、『日本国語大辞典』は右の二例を引いて、「上無し」に「(ものごとをする程度に)際限がないさま。きりがないさま。」という語義を与えている。だが、これは明らかに誤解と言わねばならない。というのは、『日本国語大辞典』の解釈によれば、「上」は「際限」・「きり」を意味することになるが、右の二例を見るかぎり、「上」は人でなければならないからである。具体的にはAでは今川氏が、Bでは一家衆が「上」にあたるが、それが「上無し」という言葉の中でどれほど抽象化されていようと、上位者としての人が「上」として観念されていることには変わりがない。だから、『日本国語大辞典』の解釈は、少なくともA・Bの用例に関して言えば、「上無し」という言葉の構成を取り違えていることになるのである。

 「上無し」の「上」を人と解釈するのは、井上鋭夫・勝俣鎮夫の両氏である。すなわち、井上氏は日本思想史大系『蓮如一向一揆』においてBの「ウヘナシニ」に「自分より偉いものがないと思って」という注を付し、勝俣氏は同『中世政治社会思想 上』においてAの「うへなし」に「上を恐れざる・傍若無人の」という注を付している。ここに、「上無し」の「上」を人と見る正当な解釈辿り着くわけだが、次に、「上無し」という言葉がいったいどのような脈絡で用いられるのかという問題に立ち入ってゆかねばならない。

 

P135

 今まで迂遠な手順で明らかにしようとしてきた公方年貢の吸収→「上無し」という関係が、ここに最も簡潔な形で説明されていると言ってよい。「二段 フカ田」のうちの一段は、公方年貢収取権の買得によって「上無し」になったのである(なお、公方年貢の消滅を意味する「上無し」の場合、カミナシと訓じた可能性が出てくるが、これをウエナシとまったく別の語と考えるべきではあるまい。後述のように両者は深い内的連関を有しているのである)。

 

 

 細川涼一「ぼろぼろ(暮露)」

P154

 『嬉遊笑覧』がぼろぼろを古事記の一つとして捉えていたことは既に述べたが、ぼろぼろが社会体制から脱落・阻害された広義の中世の非人身分に属することは中世の史料からも窺えるからである。次に、この点を示す史料を掲げておくことにしたい。

 『徒然草』によれば、ぼろぼろは九品の念仏を称えるのをこととしていたという。九品の念仏とは、極楽浄土の上品上生から下品下生までの九階級にかたちどり、九とおりに調子を違えて念仏することであり、彼らの九品の念仏とは、顕密主義的浄土教の一種と考えていいであろう。

 

P156

 以上、ぼろぼろが非人と同列視されてみられていたことをここでは確認しておきたいと思う。

 

P169

 このように、ぼろぼろは、「闘諍をこととす」といわれたような目標を失った暴力と、旅をする女性をして「心の外なる契りを結ぶ」といわしめたような静的な淪落をもって鎌倉末期の社会を破滅的に生きた、ある意味ではアウト・ロー集団とも規定できる人々であった。

 

P180

(補注)この『今物語』では、賤しい法師が、髪を剃らずに長く乱れ伸び、ほころびた紙衣を着ているさまが「ほろほろ」と形容されている。このことに鑑みるならば、ぼろぼろの語源は、後述するようにぼろぼろが服装の標識とした紙衣が、貧窮のため破れているさまから来ている可能性が高いと言えるであろう。

 

 

 酒井紀美「名を籠める」

P186

 このように、「名字を籠める」というのは、その人の名字を書いて、それを籠め、呪詛することであった。

 名前を書いて籠める場所は、ここでは東西両金堂の手水所の釜の中であったが、他の記事によれば、「五社七堂」の内陣や「(春日)社頭」などに籠めた例が多い。興福寺や春日社の仏神の宝前に籠めて、その人を呪詛したわけである。

 ところで、「名を籠める」とき、その決定は学侶や六方などが「神水集会」をし、「連署神水」してなされている。単なる評定ではなく、連署神水をくみかわして、神に誓約するかたちをとらなければ、決定できないものだったと思われる。

 

 

 網野善彦「灰をまく」

P226

 憶測を逞しゅうすれば、おそらく「神灰」は神人たちによってまかれたのではあるまいか。その「神灰」の及んだところは、「神木」の立てられた場と同様、「聖地」として人の立ち入り難い場になったものと思われ、無差別な「神灰」の飛散によって、その影響が「神敵」そのものだけでなく、広域に及ぶため、「在所」の「亡所」、「民百姓」の「不便」という状況がおこったのであろう。神宮側がなかなか「神灰」の行使に踏み切れなかったのはそのためであろうし、実際、「神灰」の威力が人々によって信じられていたとすれば、これは大変な事態と言わなくてはなるまい。

 また、「正神灰」の「正」が何を意味するのかは不明であるが、一応これは「神灰」が正真正銘のものであることを強調した語と見るのが自然であろう。それは「神灰」と称するいわば偽の灰がしばしばまかれたことに対する神宮側の対応を示すとも、またすでに「神灰」の威力の低下しつつあることに対する強調とも考えることができる。たしかに、羽津氏が「神札」「神木」を海に流し、恬然としている状況から見て、これも大いにありうることであろう。

 それらはいずれにしても、この「神灰」が、鎌倉中期、神人あるいは「児女子」が「蒔い」た灰とつながることは確実であろう。おそらくは民間の中にあった灰に関わる習俗、とくに神の直属民である神人の所持する灰の呪力を、二百年の間に、神宮は「神宮の法」としてその制度の中に取り入れ、「調伏」の手段としたものと思われる。

 

P229

 注目すべきは、「光明真言」とともに「神灰」を錦に包んで小甕に入れ、屋敷の鬼門である丑寅の方に埋めよとの指示が付されている点で、「神灰」はここでは災厄の屋敷に入るのを防ぐ威力を持つものとされているのである。

 これが、「神敵」を調伏した「神灰」と同じ呪力であることは明らかであり、「神灰」がこのような形で広く世に拡がっていた点も注目すべき事実と言えよう。