周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その12

 「仏通寺住持記」 その12

 

 (1434)

 六 甲寅 四月十八日、真田心智之妻理貞大姉死去

 七 乙卯 千畝住

         真田俊英心智滅二月九日、名乗定久

         職替于家弟石見守桂叟

 八 丙辰  当寺回録(記)「歟」 納所幻観庵主

       一咲住于丹金

       (記)「再歟」   〈当年八月迄幻観納」

 九 丁巳 宗綱住再三也   所、来年八月廿四 納所全機

                日迄全機納所〉

 十 戊午 中和住

      向上春育    含暉玄貴    納所惟超

 十一 己未  今仏殿立、自二月六日至十二年三月一日

                 (記)「歟」

                諾渓遷化○七月廿六日

                宗綱示寂十二月廿七日

 十二庚申 冬、千畝遷金山

       六月廿七日小早川煕平本源家督定云々

 

 「書き下し文」

 六甲寅、四月十八日、真田心智の妻理貞大姉死去、

 七乙卯、千畝住す、

         真田俊英心智滅す、二月九日、名乗りは定久、

         職は家弟石見守桂叟に替はる、

 八丙辰、当寺回録(記)「歟」、納所幻観庵主

     一咲丹金に住す、

 九丁巳、秋に宗綱住す、再三也(記)「再び歟」、〈当年八月まで幻観納所、来年八月二十四日まで全機納所〉、納所全機

 十戊午、中和住す、

      向上春育、含暉玄貴、納所惟超、

 十一己未、今の仏殿立つ、二月六日より十二年三月一日に至る

                 (記)「歟」

                諾渓遷化○七月二十六日

                宗綱示寂十二月二十七日

 十二庚申、冬、千畝金山に遷る、

       六月二十七日小早川煕平本源家督に定まると云々、

 

 「解釈」

 永享六年(1434)甲寅。四月十八日に、真田心智の妻理貞大姉が亡くなった。

 七年乙卯。千畝が住持を勤める。

         真田俊英心智が亡くなった。二月九日。名乗り定久。

         心智の所職は弟の石見守桂叟に交代した。

 八年丙辰、当寺で火災があったか。納所幻観庵主。

     一笑禅慶が天寧寺の住持を勤める。

 九年丁巳、秋に宗綱が住持を勤める。たびたびである(記)「二度目か」。〈当年八月まで幻観納所。来年八月二十四日まで全機納所〉。納所全機。

 十年戊午、中和周徳が住持を勤める。

      向上寺住持春育、含暉院院主玄貴、納所惟超。

 十一年己未、今の仏殿が建造される。二月六日より始まり、十二年三月一日までかかった。

      諾渓清唯が亡くなったか。七月二十六日。

      宗綱恵統示寂十二月二十七日。

 十二年庚申、冬、千畝周竹が天寧寺に移った。

       六月二十七日小早川煕平本源が家督に定まったという。

 

 「注釈」

「丹金」─丹波国紫金山天寧寺。

 

「本源」

 ─小早川煕平の法名、宝心院本源常立。http://hongoukankoukyoukai.com/img/file12.pdf

 

 

 つづく

 

山伏の秘術

  文明十七年(1485)五月十五日条

        (『大乗院寺社雑事記』8─302頁)

 

    十五日 雨下、自日中晴、 (中略)

 一雑説云、山伏数十人猿沢池之西辺ニ出来、於茶屋茶呑之、至太刀辛ヲ辺則不見云々、彼茶銭ハ木葉以下者也云々、近日事也、

 

 「書き下し文」

 一つ、雑説に云く、山伏数十人猿沢池の西辺りに出来し、茶屋に於いて茶之を呑む、手力雄辺りに至り則ち見えずと云々、彼の茶銭は木の葉以下の者なりと云々、近日の事なり、

 

 「解釈」

 一つ、根も葉もない噂によると、山伏が数十人、猿沢池の西のあたりに現れ、茶屋でお茶を飲んだ。山伏たちは手力雄神社にやってくるとすぐに、その姿が見えなくなったという。彼らの支払ったお茶代は、木の葉などのものであったとそうだ。最近のことである。

 

 According to unsubstantiated rumors, dozens of yamabushi appeared around the west of Sarusawa Pond in Nara and drank tea at a teahouse. I heard that the yamabushi disappeared as soon as they arrived at the Tajikarao shrine. I heard that the coins they paid were turned into leaves when they checked. This incident happened recently.

(I used google translate.)

 

 

 「注釈」

「太刀辛ヲ」─現奈良市橋本町の手力雄神社春日大社の境外末社

 

 

*まるで、「まんが日本昔ばなし」のようなエピソードです。そういえば、以前にも同じような書き出しで、あるエピソードを紹介しました。それは「酒好きの狸」という記事で、下女に化けた古狸がお酒を買い、飲んで帰ろうとしたところ、正体がバレて殺害される、という悲惨な話でした…。

 今回の史料は、狸ではなく山伏。厳しい修行でやっと手に入れたであろう験力。それを偽造通貨行使なんていうしょうもない犯罪行為に使うなんて…。いや、厳しい修行で手に入れたのは験力などではなく、マジックの技術だったのかもしれません。

 それにしても、偽造通貨行使というエピソードが、庶民の語る与太話のなかに現れているのをみると、貨幣経済室町時代の社会にどれだけ広まっていたのかがよくわかります。そういえば、経済苦による自殺が見られるようになるのも室町時代でした(「自殺の中世史3─10」)。貨幣の浸透度を測る基軸はいろいろあるのでしょうが(桜井英治『交換・権力・文化─ひとつの日本中世社会論』みすず書房、2017年)、知らず知らずのうちに人間の思考の内側に入り込み、経済活動とは直接結びつかないような事象にも影響を及ぼして初めて、真の意味で貨幣経済にどっぷり浸かったと言えるのかもしれません。

 なお、この史料については、先行研究で触れられているので、以下に該当箇所を引用しておきます。

 

 文明十七年(一四八五)五月十五日に、山伏数十人が猿沢池の西辺に現れて、茶屋において茶を飲み、手力男命社の辺で見えなくなった。彼らが払った茶銭は木の葉であった。これは近日の事件であったと噂された(『大乗院寺社雑事記』第八巻三〇二頁)。猿沢池のほとりには、不思議な者たちが出現してもおかしくないとの意識が当時の人びとの間にあったからこそ、このような噂が立ったのであろう(笹本正治猿沢池が血に染まる ─伝承と場のイメージ─」『中世文学』52、 2007・6、37頁、https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/52/0/52_52_34/_pdf/-char/ja)。

 

仏通寺住持記 その11

 「仏通寺住持記」 その11

 

 四月廿七日改元

 (1428)

 正長戊申 十月四日昔山門始杣、構閣欲十六羅漢木像、未功而

      炎上、故一尊残在含暉客殿壇上

 (記)「一百四代後花園院」覚隠和尚住 番衆惟超

 九月五日改

 (1429)

 永享己酉

      二月七日午時、昔山門立柱

 二 庚戌        今年含暉祠堂観音安置

 三 辛亥 宗綱和尚住

 四 壬子 向上寺塔本尊開光安座并上棟六月三日、導師一笑、十月初九日同

      塔供養、導師宗綱和尚

 〈千畝住丹金  一咲和尚住 聖僧龕并椅子造立、祥雲寺納所祥澤

  向上住持華林〉       派而直焉、納所祥澤、享徳

                四歳乙亥六月十三日造畢、

                大工藤原宮内右衛門尉

 五 癸丑 正月廿六日大言逝焉、齢六十一、治世三十二年、此代真田長門守任

      政所、三度十五年云々、時代未審、法字月渓、諱則通、

      年中帳天心建当寺幾而逝、嗣其家造当寺実大言之功也、

 

 「書き下し文」

四月二十七日改元

 正長戊申、十月四日、昔の山門杣を始む、閣を構へ十六羅漢の木像を安置せんと欲す、未だ功を終えずして炎上す、故に一尊残りて含暉客殿の壇上に在り、

 (記)「一百四代後花園院」覚隠和尚住す、番衆惟超、

九月五日改む

 永享己酉、

      二月七日午の時、昔の山門立柱す

 二庚戌、今年含暉祠堂に観音安置す、

 三辛亥、宗綱和尚住す

 四壬子、向上寺の塔本尊、開光・安座并びに上棟六月三日、導師一笑、十月初九日同塔を供養す、導師宗綱和尚

  千畝丹金に住す、向上住持華林、一咲和尚住す

  聖僧龕并びに椅子造立す、祥雲寺納所祥澤派にて直す、納所祥澤、享徳四歳乙亥六月十三日造り畢んぬ、大工藤原宮内右衛門尉

 五癸丑、正月二十六日大言逝く、齢六十一、治世三十二年、此の代真田長門守を政所に任ず、三度に十五年と云々、時代未だ審らかならず、法字(な)は月渓、諱則通、

     年中帳に天心当寺を建て未だ幾ばくならずして逝す、其の家を嗣ぎて当寺を興造す、実に大言の功なり、

 

 「解釈」

四月二十七日改元

 正長元年(1428)戊申、十月四日、昔の山門用の材木伐採が始まった。仏殿を造立して十六羅漢の木像を安置しようとした。まだ完成しないうちに炎上した。だから一尊だけ残り、含暉院客殿の壇上にある。

 (記)一百四代後花園院のとき、覚隠和尚が住持を勤めた。番衆惟超。

九月五日改元

 永享元年(1429)己酉、二月七日午の時、昔の山門の立柱を行なった。

 二年庚戌。今年含暉院の祠堂に観音安置した。

 三年辛亥。宗綱和尚が住持を勤める。

 四年壬子。向上寺の塔本尊の開眼・安座ならびに上棟が六月三日に行なわれた。導師は一笑禅慶。十月初九日同塔を供養した。導師宗綱和尚。

  千畝が丹波国天寧寺の住持を勤める。向上寺の住持は華林。一咲和尚が仏通寺の住持を勤める。

  聖僧の厨子や椅子を造立した。祥雲寺納所祥澤派が担当として直した。納所祥澤が享徳四歳(1455)乙亥六月十三日に造りおわった。大工は藤原宮内右衛門尉。

 五年癸丑。正月二十六日小早川則平が逝去した。年は六十一、治世三十二年。この代は真田長門守を政所に任命した。三度十五年という。年代はまだはっきりしない。法名は月渓、諱は則通。

      年譜によると、先代の小早川春平が当寺を建て、ほどなく逝去した。その跡を継いで当寺の造営を続けた。まことに、春平の功績である。

 

 「注釈」

「大言」

 ─小早川則平。肯心院大言常建。http://hongoukankoukyoukai.com/img/file12.pdf

 

「天心」

 ─小早川春平。仏通寺天心宗順。http://hongoukankoukyoukai.com/img/file12.pdf

 

「年中帳」─仏通寺に伝来した年譜のようなものか。

 

「真田則通」─『仏通寺正法院文書』1号参照。

 

 つづく

 

仏通寺住持記 その10

 「仏通寺住持記」 その10

 

 (1425)

 卅二乙巳 諾渓和尚住 〈番衆幻観等、八月昔方丈立

             千畝自立同勘〉

 卅三丙午 三月六日昔東司立、十月十五日昔庫院始杣

 卅四丁未 心源和尚住       八月昔庫裡開堂

       宗綱録、心源和上有退仏通首席、故記于此

 

    禁制

 仏通・天寧并諸末寺之住持、不叢林出頭之輩、若有違犯者、門中

 同心永可罰擯者也、

  (1427)

  応永三十四年正月日

               安心

               玄胤字覚伝

               真知〈字覚隠、耆旧侍者」飛州人〉

               清唯〈南禅侍者」字諾渓〉

 

 当寺入牌之本銭四十貫文之外、若有入牌銭重出現者、宜彼本銭番々

 度上レ之、雖然或換殿堂之上葺、或企新造之大事之時、住持番衆相共評議

 而取彼本銭之外所加之余分以可之、然後以某人入牌銭某殿堂修造

 用之、 之言宜于入牌帳以貽功於不朽矣、或復称小破之修理

 号斎供之闕乏、以至歳節祖忌之費煩塩醤油麻之不足等一々不之、

 何況於余瑣細之事乎、故以衆評議永為当寺不易之規式、若有違犯者

 宜擯罸者也、

       (三十四年)

  衆悉 応永〈丁未〉八月廿五日       安心

                       玄胤

                       真知

                       清唯

 

 「書き下し文」

 三十二乙巳、諾渓和尚住す、番衆幻観ら、八月に昔の方丈立つ、千畝自ら立て同じく勘ふ、

 三十三丙午、三月六日昔の東司立つ、十月十五日昔の庫院の杣を始む、

 三十四丁未、心源和尚住す、八月昔の庫裡開堂す、宗綱録に、心源和上仏通首席を退くの語有り、故に此に記す、

 

 仏通・天寧并びに諸末寺の住持、叢林出頭の輩を請ずべからず、若し違犯する有らば、門中同心に永く罰擯すべき者なり、

 (後略)

 

 当寺入牌の本銭四十貫文の外、若し入牌銭重ねて出で現るること有らば、宜しく彼の本銭に加へて番々之を渡すべし、然りと雖も或いは殿堂の上葺を換へ、或いは新造の大事を企てしの時は、住持・番衆相共に評議して彼の本銭の外加ふる所の余分を取りて以て之を用ふべし、然して後某(なにがし)人の入牌銭を以て、某(そこ)の殿堂の修造に之を用ふる、之の言は宜しく入牌帳に載せて以て功有ることを不朽に貽すべし、或いは復た小破の修理と称し、斎供の闕乏と号し、以て歳節・祖忌の費煩、塩・醤油・麻の不足等に至るまで一々に之を用ふることを許さず、何に況んや余の瑣細の事に於いてをや、故に衆の評議を以て、永く当寺不易の規式と為す、若し違犯の者有らば宜しく擯罸を加ふべき者なり、

 (後略)

 

 「解釈」

 三十二年(1425年)乙巳。諾渓和尚が住持を勤める。番衆は幻観らであった。八月に昔の方丈が建立された。千畝周竹が自ら設計して建立した。

 三十三年丙午。三月六日に昔の東司が建立された。十月十五日に昔の庫院用の材木伐採が始まった。

 三十四年丁未。心源和尚が住持を勤める。八月に昔の庫裡で開堂した。宗綱の記録に、心源和上が仏通寺の首席を退いたという記載があった。だから、ここに記した。

 

 仏通寺・天寧寺ならびに諸末寺の住持は、五山派寺院の出身者を招請してはならない。もし違反することがあれば、われら愚中門派は団結し、永久に違反者を罰して追い出さなければならないものである。

 (後略)

 

 当寺入牌の本銭四十貫文以外に、もし入牌料が重ねて納められることがあれば、この本銭に加えて各番にそれを渡すのがよい。そうではあるが、殿堂の屋根を葺き替えたり、あるいは新築の大事業を計画したりしたときには、住持と番衆がともに評議して、この本銭のほかに加えられた余分の銭も取り、それを使用するべきである。その後、誰かの入牌料をもって、どこそこの殿堂の修理・造営に用いる、という言葉を入牌帳に載せ、修造の功績があることを永久に残すのがよい。一方ではまた、ちょっとした破損の修理と称したり、斎食が欠乏したと主張したりして、歳末や節日、祖師の忌日の出費、塩・醤油・麻の不足などに至るまで、一々これを用いることを許してはならない。ましてその他の些細なことについては、なおさら用いることを許してはならない。したがって、評定衆の評議により、永久に当寺不変の規則とする。もし違犯する者がいれば、追放して罰するのがよいのである。

 (後略)

 

 「注釈」

「千畝周竹」

 ─千畝周竹は、京都の近衛家に生まれ、安芸国(現在の広島県)の三原にある仏通寺の開山愚中周及のもとで臨済宗を学んだ。当時、井原の善福寺に在住していた足利義将が彼の徳を慕い、自ら重玄寺の開基となり周竹を招いて重玄寺の開山としたとあるが、重玄寺はそのころすでに存在しており、嘉吉の乱で亡くなった義将を弔うために周竹を招いて重玄寺を改めて開山した可能性もある。画聖雪舟は、この周竹と親交があり、その縁がもとで重玄寺を訪れたとされ、雪舟終焉の地の候補のひとつとなっている。周竹は近衛家出身ということで、重玄寺には近衛家ゆかりの資料が多く残されている(「いばら歴史館」条件検索http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/search_b.php、「井原歴史人物伝」平成24年度放映http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/movie_list.php参照)。

 

*三十四年の記事に引用された文書は『仏通寺文書』13・14号を参照。

 

  つづく

岡山県井原市芳井町天神山「大月山重玄寺跡」

 

岡山県井原市芳井町「大月山重玄寺」

仏通寺住持記 その9

 「仏通寺住持記」 その9

 

 (1423)

 三十癸卯

    安心庵主  道文書記  咸一侍者

                字東谷

    聖崗庵主  案捴上座  聖日庵主

    字笑花    字宝林

    祖間上座  真琢上座  真璨侍者

    永存蔵主  周竹侍者  禅慶上座

 仏通・天寧両寺住持老僧四員交代十二年後、此十二人次第可住持者也、

 依衆評議老僧四人加判、

 応永三十年三月十四日         玄胤 字ハ覚伝

                    〔慧〕

                  字宗綱 恵統 〈耆旧侍者」作州人〉

                    真知

                    清唯

 

 安心上座  道文書記  咸一侍者

    〔主〕

 永存蔵司  周竹侍者  禅慶上座

  仏通・天寧両寺住持、老僧四員交代十二年後、此六人次第可住持者也、

  依衆評議、老僧四人加判、

 応永三十年三月十四日

                    玄胤

                    〔慧〕

                    恵統

                    真知

                    清唯

 

 一 当寺住持可三年之規式

                〔二〕

   始於当年三月、至来々年三月、凡三十六月、

 一 番衆不懈怠

   若怠慢者不両寺門中出入

 一山中僧不無伴而出入

 一山中諸庵除含暉昭堂之外、不尼女出入

 一寺家自今以後、不自買田畠、但有檀方之置文其旨

  右件々以衆評議、永為仏通寺不易之規式

     応永三十年三月十四日     玄胤

                      〔慧〕

                    恵統

                    真知

                    清唯

 

 卅一甲辰  含暉塔主一咲

 

 「書き下し文」

  (前略)

 仏通・天寧両寺の住持、老僧四員交代する十二年後、此の十二人次第に住持せしむべき者なり、衆の評議に依りて老僧四人判を加ふ、

  (後略)

 

 仏通・天寧両寺の住持、老僧四員交代する十二年の後、此の六人次第に住持せしむべき者なり、衆の評議に依りて老僧四人判を加ふ、

 

  (前略)

 一つ、当寺住持三年の規式を守るべき事、

   当年三月に始まつて、来々年の二月に至る、凡そ三十六月、

 一つ、番衆懈怠有るべからざる事、

   若し怠慢せば両寺并びに門中の出入りを許すべからず、

 一つ、山中僧無伴にして出入るを許さざる事、

 一つ、山中の諸庵含暉昭堂を除いて外、尼女の出入りを許さざる事、

 一つ、寺家今より以後、自ら田畠を買ふ事を許さず、但し檀方の置文有らば、其の旨に随ふを許す、

 右の件々衆の評議を以て、永く仏通寺不易の規式と為す、

  (後略)

 

 卅一甲辰、含暉塔主一咲、

 

 「解釈」

  (前略)

 仏通寺・天寧寺両寺の住職は、我ら老僧四人(清唯ら3名・各任期3年)が交代で勤めた十二年後、この十二人が順次住持となるべきである。評定衆の評議により、我ら老僧四人が判を加える。

  (後略)

 

  (前略)

 仏通寺・天寧寺両寺の住職は、我ら老僧四人(清唯ら3名・各任期3年)が交代で勤めた十二年後、この六人が順次住職となるべきである。評定衆の評議により、我ら老僧四人が判を加える。

  (後略)

 

  (前略)

 一つ、当寺の住職は、在任三年間の規則を守らなければならないこと。

   当年三月から始まり再来年二月に至るまで、およそ三十六ヶ月。

 一つ、番衆は怠けてはならないこと。

   もし怠けたら、仏通寺・天寧寺両寺ならびにその門派の出入りを許してはならない。

 一つ、山中の僧侶は、供なく出入りするのを許してはならないこと。

 一つ、山中の諸庵は、含暉院・昭堂を除いて、尼女の出入りを許してはならないこと。

 一つ、寺家は今後、自ら田畠を買うことを許してはならない。ただし、檀那方の置文があれば、その取り決めに従うことを許す。

 右の条項は衆議によって、永久に仏通寺不変の規則とする。

  (後略)

 

 三十一年甲辰。含暉院塔主には一笑禅慶が就任した。

 

 「注釈」

*三十年の記事は、『仏通寺文書』9・10・11号とほぼ同文。

 

  つづく