周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 参考史料1の4

  小童祗園社由来拾遺伝 その4

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

  又山かつの昔語ニ素盞嗚尊ハ」伊弉議尊の第四の御子也、其御行」状甚無道、御父

                       あち  こち

  母太タ促徴して」遠く根之国へ適との御事ニ而西風」東風と経廻り給時、大山祇

  娘」磐長姫と云あり、其性質」甚醜、此故ニ余神愛し給はす」妹之木花開耶姫甚美

  神」余神の寵愛不浅候而、妹ならハ」好らんと思召て日夜怨念」積り玉ひて、終に

  は其面体悪鬼と」変して、初ハ女人を取り」後にハかうかけ山に住追々人を」害す

  る事夥し、時に素盞嗚尊」其由を聞給ひけれハ、素よ」り達徳するどき御神ゆ

  へ、」所帯の十握の剣を以壱刀」きり給へハ弐つとなり、弐刀」斬給へハ四つと

  成、又切玉へバ」八頭となり、虚空を凌安芸」国江の川といひて水無川へ」飛来ル

  と聞玉ひて追かけ来」り玉へハ、其所には見ず雲州」簸の川に居ると聞玉ひて」天

  より彼の処へ行玉ふて大雨」のふるに蓑笠着て当村」の布留屋に来り玉ふ、巨旦」

  蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦」にかり給へともゆるさす、夫」のミならす勇士の三

  郎と」いふ者をしていた追はしむ」其時木瓜の垣に懸りこけ玉へり」仍而今時胡瓜

  を忌といへり」又蘇民にやどりて其夜を」明し玉へり、夫より雲州ひの」川へ進み

  玉ふて見玉へハ」老翁姥あり中に小童を居へて」なき居たり、其故を問ひ給へハ」

  我に小童八にんあり、皆蛇の」めにのまれき、又此小童も」呑れなんとすとてなき

  か」なしむ、さあらハ此小童を」我にくれよとの玉へハ、とにもかくにも従ひ奉ら

  んと」いへハ、其侭酒を造りて八所」に居へて蛇の来るを待玉ふ、」はたして蛇来

  り姫のすかたの酒の中ニうつるを」見て、其の姫かとおもひ」ことくく呑尽し、酔

  ひ」ひちて眠所を十握剣にて」きり給ふ、夫よりして其童」女と夫婦になり玉ふて

  住」給ふ、其後、根の国へ行西風」東風と漂泊して、終ニ天笠へ」渡り牛頭川原と

  いふ所ニ居」給ふ、仍而牛頭の名あり、又」祇遠精舎に居玉ふ、其時ハ」金毘羅神

  とも、又摩訶羅神」ともいふ、から国ニ而ハ青龍寺の」鎮守となり給ふ、其後又」

  吾が日の本へ帰り、蘇民将来の」元江来り玉へハ、巨旦将来も」蘇民将来もともに

  処をかへて」ゆゝしき長者たり、其時巨旦」をバ亡し、蘇民には茅の輪を」帯さ

  せ、秘文を授て助け給ふ、」また後世疫気流行せば」茅の輪を帯て汝が子孫と」い

  はゝ、其災必まぬかるへしと」懇に教玉ひて、我ハ是はや」すさのうの神との玉ふ

  て」此里来り給ふと申伝ふ、」疑ふらくハ此こともありし」事歟、今聞当村に

  布留屋」といふ所あり、又たん田と」いふ所あり、此辺に小たん田と」いふ所あ

  り、今ハ寺町分の安田」分なるべし、此ふるやハ巨旦」蘇民の旧居と申伝ふ、且

  又」品治郡に蘇民古旦の旧跡」ありと、また備中国かや郡」今市村にも蘇民の御

  跡」ありと聞伝ふ、何を是と」し、何れを非とせん、後の」君子をまつことはり玉

  へ」

   つづく

 

 「書き下し文」

  又山賤の昔語りに素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四の御子なり、其の御行状甚だ無道、御父母太だ促徴して遠く根の国へ適くとの御事にてあちこちと経廻り給ふ時、大山祇の娘に磐長姫と云ふあり、其の性質甚だ醜し、此の故に余神愛し給はず、妹の木花咲耶姫は甚だ美神、余神の寵愛浅からず候ひて、妹ならば好むらんと思し召して日夜怨念積もり給ひて、終には其の面体悪鬼と変じて、初めは女人を取り、後にはかうかけ山に住み、追々人を害すること夥し、時に素盞嗚尊其の由を聞き給ひければ、素より達徳鋭き御神故、所帯の十握の剣を以て一刀に斬り給へば二つとなり、二刀に斬り給へば四つとなり、又切り給へば八頭となり、虚空を凌ぎ安芸国江の川と云ひて水無川へ飛び来ると聞き給ひて追ひかけ来たり給へば、其所には見ず、雲州簸の川に居ると聞き給ひて、天より彼の処へ行き給ふて、大雨の降るに蓑笠を着て当村の古屋に来たり給ふ、巨旦・蘇民とて兄弟あり、宿を巨旦に借り給へとも許さず、夫れのみならず勇士の三郎といふ者をしていた追はしむ、其の時木瓜の垣に罹り転け給へり、仍て今時胡瓜を忌むと云へり、又蘇民に宿りて其の夜を明かし給へり、夫れより雲州日野川へ進み給ふて見給へば、老翁姥あり中に小童を据へて泣き居たり、其の故を問ひ給へば、我に小童八人あり、皆蛇の目に呑まれき、又此の小童も呑まれなんとすとて泣き悲しむ、さあらば此の小童を我にくれよと宣へば、とにもかくにも従ひ奉らんと云へば、其の儘酒を造りて八所に据へて蛇の来るを待ち給ふ、果たして蛇来たり姫の姿の酒の中に映るを見て、其の姫かと思ひ悉く呑み尽くし、酔ひ漬ちて眠る所を十握剣にて切り給ふ、夫れよりして其の童女と夫婦になり給ふて住み給ふ、其の後、根の国へ行き西風東風と漂泊して、終に天竺へ渡り牛頭川原といふ所に居給ふ、仍て牛頭の名あり、又祇園精舎に居給ふ、其の時は金毘羅神とも、又摩訶羅神とも云ふ、唐国にては青龍寺の鎮守となり給ふ、其の後又吾が日の本へ帰り、蘇民将来の元へ来たり給へば、巨旦将来も蘇民将来も共に処を変えてゆゆしき長者たり、其の時巨旦をば亡ぼし、蘇民には茅の輪を帯びさせ、秘文を授けて助け給ふ、また後世疫気流行せば、茅の輪を帯びて汝が子孫と云はば、其の災ひ必ず免るべしと懇ろに教へ給ひて、我は是れは速須佐男の神と宣ふて此の里へ来たり給ふと申し伝ふ、疑ふらくは此の事もありし事か、今聞く当村に古屋といふ所あり、又たん田といふ所あり、此の辺りに小たん田といふ所あり、今は寺町分の安田分なるべし、此の古屋は巨旦・蘇民の旧居と申し伝ふ、且つ又品治郡に蘇民・古旦の宮跡ありと、また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の御跡ありと聞き伝ふ、何を是とし、何れを非とせん、後の君子を待ち理り給へ、

   つづく

 

 「解釈」

 また山で暮らしている村人の昔話によると、素盞嗚尊は伊弉諾尊の第四子である。そのお振る舞いはとてもひどいものであった。ご父母がひどく懲らしめたため、遠く根の国へと行くとのことで、あちこちを廻りなさったとき、大山祇の娘に磐長姫という姫がいた。その姿はとても醜い。このために、ある神は愛しなさらなかった。妹の木花咲耶姫はとても美しい神で、その神のご寵愛は浅くはありませんで、妹なら愛そうとお思いになって、日夜その思いがお積りになって、とうとうその容貌は悪鬼に変わった。初めは女性を奪い取り、その後はかうかけ山に住み、次第に人に害を及ぼすことが多くなった。その時に、素盞嗚尊はその事情をお聞きになったところ、もともと優れた能力をお持ちの神だから、持っていた十握の剣を使って、その神を一刀のもとにお切りになると、その神の頭が二つになった。二太刀目を当てると四つとなり、またお切りになると八つの頭となった。「その神は虚空を飛び越え、安芸国江の川という水無川へ飛んできた」と素盞嗚尊はお聞きになり、追いかけて来なさったところ、そこにはその神の姿は見えず、出雲国斐伊川に居るとお聞きになって、天空からそこへ行きなさろうとして、大雨の降る日に簑笠を着て当村の古屋にお出でになった。巨旦・蘇民という兄弟がいた。素盞嗚尊が宿を借りなさろうとしても、巨旦は許さず、そればかりか勇猛な奉公人の三郎というものにひどく追い払わせた。その時、素盞嗚尊は木瓜の垣に引っ掛かり転びなさった。だから、いま胡瓜を恐れ避けると言った。それから、蘇民の家に宿泊して、その夜を明かしなさった。それから出雲国斐伊川へお進みなってご覧になると、老夫婦がいてその中に幼い姫を置いて泣いていた。その訳をお尋ねになると、「私には幼い子どもが八人います。みな蛇の目に飲まれた。またこの子も飲み込まれようとしている」と言って泣き悲しんでいる。素盞嗚尊は「それならこの姫を私にくれよ」と仰るので、「とにかく従い申し上げよう」と言うと、素盞嗚尊はそのまま酒を作って八箇所に置き、蛇が来るのをお待ちになった。思ったとおり蛇がやって来た。姫の姿が酒の中に映っているのを見て、その姫かと思い、すべて飲み干し、酔い潰れて眠っていたところを十握の剣で切りなさった。それからその姫と夫婦になりなさってお住みになった。その後根の国に行き、あちこちに漂泊し、とうとうインドに渡り、牛頭川原というところにお住みなった。だから、牛頭の名をもっている。さらに祇園精舎にお住みになった。その時は金毘羅神とも、また摩訶羅神とも言った。中国では青龍寺の鎮守となりなさった。その後また我が日本に帰り、蘇民将来のもとへいらっしゃったところ、巨旦将来も蘇民将来もともに居所を変えて、たいそうなお金持ちになっていた。その時、巨旦を滅ぼし、蘇民には茅の輪を身に付けさせ、秘密の呪文を授けてお助けになった。また「今後疫病が流行した場合、茅の輪を身に付けてお前の子孫と言えば、その災いを必ず逃れることができる」と丁寧に教えなさって、「私は速須佐男の神である」と仰って、この里へお出でになったと申し伝えている。おそらく、このようなこともあったのだろうか。いま聞くところによると、当小童村に古屋というところがある。また反田というところがある。この辺りに小反田というところがある。今は寺町分の安田分であるはずだ。この古屋は巨旦と蘇民の旧居と申し伝えている。さらに品治郡に蘇民と古旦の旧跡があると。また備中国賀陽郡今市村にも蘇民の旧跡があると伝え聞いている。何を是とし、どれを非としようか。後世に学識の高い人が現れるのを待ち、判断してください。

   つづく

 

 「注釈」

「布留屋」─現広島県三次市甲奴町小童字古屋。

 

「品治郡」

 ─福山市北西部、新市町にあたる。おそらく、現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社のことと考えられます。

 

「かや郡今市村」

賀陽郡は現岡山県加賀郡吉備中央町・総社市に当たりますが、『岡山県の地名』(平凡社)を見るかぎり、「今市村」という地名は存在しません。したがって、郡の名前を間違えている可能性もあります。『岡山県の地名』で立項されている「今市」は、新見市井原市西江原町(今市宿)の二箇所で、後者の近隣には武塔神社(小田郡矢掛町小田)があります。推測にすぎませんが、この「今市村」は井原市西江原町のことかもしれません。

 

 

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矢掛町 武塔神社鳥居

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神門

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拝殿

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本殿

「かうかけ山」─未詳。

須佐神社文書 参考史料1の3

  小童祗園社由来拾遺伝 その3

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

 人王四十九代」光仁天皇御宇宝亀二年辛亥」詔を以、国々に牛頭天王を祭らしめ」給

                  (園)

 ふ、当社ハをや御の御神にて、本朝」祇遠の本元也、八王子を産み玉ふ、」太郎王子

 は讃岐国瀧の社、本地」日光菩薩大歳神也、二郎王子は」播州広峯天王、本地勢至菩

 薩」大陰神也、三郎王子倶摩羅天王」因幡国高岡天王、本地地蔵菩薩」大将軍神也、

 四郎王子ハ得達天王」安芸国佐東天王、本地観世音菩薩」歳刑神也、五郎王子ハ即侍

 天王越中国」少尾天王、本地月光菩薩歳破神なり」六郎王子ハ侍神相天王、大和国

 野天王」本地釈迦如来歳殺神なり」七郎王子ハ亀神相天王下総国蘇達」天王、本地薬

 師如来黄幡神也、」八郎王子ハ山城国二ツ鳥居之天王、」本地虚空蔵菩薩、豿尾神

 也、」蛇毒気神と申ハ五條之天神是也云云」古記に江の熊の国之神社と云ハ」当社の

 事歟、伝を失ふのみならず」剰昔尽焼して有も無か如く」たえくニ而年久しき事と見

 へたり、」

   つづく

 

 「書き下し文」

 人王四十九代光仁天皇御宇宝亀二年辛亥(七七一)詔を以て、国々に牛頭天王を祭らしめ給ふ、当社は親御の御神にて、本朝祇園の本元なり、八王子を産み給ふ、太郎王子は讃岐国瀧の社、本地日光菩薩・大歳神なり、二郎王子は播州広峯天王、本地勢至菩薩大陰神なり、三郎王子は倶摩羅天王、因幡国高岡天王、本地地蔵菩薩・大将軍神なり、四郎王子は得達天王、安芸国佐東天王、本地観世音菩薩・歳刑神なり、五郎王子は即侍天王、越中国少尾天王、本地月光菩薩歳破神なり、六郎王子は侍神相天王、大和国吉野天王、本地釈迦如来歳殺神なり、七郎王子は亀神相天王、下総国蘇達天王、本地薬師如来黄幡神なり、八郎王子は山城国二ツ鳥居の天王、本地虚空蔵菩薩豹尾神なり、邪毒気神と申すは五條の天神是れなりと云々、古記に江の熊の国の神社と云ふは当社の事か、伝を失ふのみならず、剰え昔尽焼して有も無がごとく、絶え絶えにて年久しき事と見えたり、

   つづく

 

 「解釈」

 人王四十九代光仁天皇御宇宝亀二年辛亥(七七一)、勅命によって各国に牛頭天王を祭らせなさった。当社は親御の神で、我が国の祇園の本社である。八王子を儲けなさった。太郎王子は讃岐国瀧の社に鎮座し、本地は日光菩薩・大歳神である。二郎王子は播州広峯天王のことで、本地は勢至菩薩大陰神である。三郎王子は倶摩羅天王で、因幡国の高岡天王のことである。本地は地蔵菩薩・大将軍神である。四郎王子は得達天王で、安芸国の佐東天王のことである。本地は観世音菩薩・歳刑神である。五郎王子は即侍天王で、越中国の少尾天王のことである。本地は月光菩薩歳破神である。六郎王子は侍神相天王で、大和国の吉野天王のことである。本地は釈迦如来歳殺神である。七郎王子は亀神相天王で、下総国の蘇達天王のことである。本地は薬師如来黄幡神である。八郎王子は山城国二ツ鳥居の天王である。本地は虚空蔵菩薩豹尾神である。邪毒気神と申すのは五條の天神のことであるという。古い記録に江の熊の国の神社というのは、当社のことか。所伝を失っただけでなく、あろうことか以前に悉く焼けてしまって、かつてあったものも、もともとなかったかのようで、途切れ途切れに年月が長く経過したように見えた。

   つづく

 

 「注釈」

「瀧の社」─滝宮天満宮のことか。香川県綾歌郡綾川町滝宮。

 

「広峯」─廣峯神社姫路市広嶺山。

 

「高岡」─高岡神社。鳥取市国府町高岡。

 

「佐東」─安神社。広島市安佐南区祇園

 

「少尾」─未詳。

 

「大和の国吉野」─奈良県吉野郡吉野町吉野山牛頭天王社跡。

 

「蘇達」─未詳。

 

「二ツ鳥居」─未詳。

 

「五条の天王」─五条天神社か。下京区天神前町。

 

「江の熊」

 ─現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社。ここでは、小童の祇園社が江隈国社ということになっています。

須佐神社文書 参考史料1の2

 小童祗園社由来拾遺伝 その2

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

 時に前なる」松の樹小鳩壱つがひ来り、是より」南海に龍宮あり、彼の処に頗梨采

 女」といふ姫宮あり、行て幸し給へと」囀りて飛去リぬ、其鳩の行へに随ひ」て龍宮

 に入八王子を生み玉ふ、各」八万四千六百五十四神の御眷属」出来給へり、夫より人

 王四十弐代」文武天皇の大宝四年、江州栗本郡」へそ村につき玉ふて、一夜の間に」

 千本の杉苗を植給ふ、時に御湯」献上の宣下あり、其時我ハ是東王父天王の王子牛頭

 天王也、父に不幸を蒙り天笠震旦を廻り」此穐津洲に渡り、東西守護の神」たらんと

 の御託宣にて、其所には」大(宝+壬)天王と奉仰とかや、同慶雲元年甲辰四、ちゝ

 蛇毒気神天王を」召して、古旦を亡すべしとて数万」の御眷属を倶立出させ玉ひて」

 また蘇民将来が方へ来り給へハ」変してゆゝしき長者たり、なに」事にやをわすと驚

 き申けれバ、」此山のあなたなる古旦将来は、」昔むかし旅の労を息んため宿を」求

 しにをしみてゆるさず、甚不仁也」此故に眷属とも打入て今より」七日七夜に亡べし

 との玉ふ、蘇民」将来大に驚き、予に娘壱人あり、」巨旦が太郎ハ我がむこ也、いか

 にも」して此ふたりを助けたまへと」なみだながらに願ひけれバ、根を切」葉をから

 すべしと思へとも、汝に」宿の恩あり、さあらバ助くべしとて」茅の輪を帯しめ」南

 無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶」南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶と秘文」を授てとらしめ、

 後世疫気天下に」流行せば又茅輪を帯て蘇民将来」子孫といふべし、其災必 まぬか

 れん」吾は是速須佐ノ雄の神也との玉ふ」其巨旦が苗代変して藪となる、」今早苗天

 王とて戸手村の天王」是なりとぞ、夫より当村へ来らせ給」とき当国芦田郡荒谷と云

 所にて」御食めさせ玉ひて立せ給ふ時」めうがの芽の残りを捨させ玉ひし跡」変して

 原となる。其所を今は」めうがの丸といふ、夫より漸すゝませ」給ふて甲怒郡本矢野

                               みそぎ

 村に着せ」たもう、其所の路上に少し水の出る」所あり、其水にて潔身し給、其後」

 行来の旅人其わけを知らすのむ者ハ」何の障もなし、又神慮恐れず」みだりに穢すも

 のは病を得ること」有り、依而此水を今ハ若水とも又祗園」水ともいふ、末世の今に

 至迄六月」御祭御輿すましにハ必此水を用、」夫より当村へ入らせ給ふ故五月晦日

 村堺に忌の木を立る祭有、其時分矢」野堺に立ざるハ此遺風なり、夫より」当村へ御

 越在らせられ、初而御腰を」かけさせられしか所おごせといふ」舎し給ふ所をとうの

 宮いひて」宮跡あり、今養生大明神の祠」のこれり、夫より西南に当り半里許」

 にして連枝の桜あり、此桜ハ忝も天王」御手つから植させ玉ふとなん、然とも」伝へ

 あやまつて曽我の十郎の植流」所とも伝ふる人まゝあり、我聞所と」異なりいづれ

 も旧きことにて」真偽わからす、我所伝を以正として」ここに記す、されハ右歌に祇

 園の」御うたとて、我宿にちもとの桜」花さかは、うへ置人の身も栄えなん」との御

 神詠思ひ合されたり、今」壱株残れり、星霜しばく転じて」幾とせを経とも更に分明

 ならず」土俗の唱に古く過にし事をとうと」いふにや、とうの宮いふ歟、また」武

 塔天神の上略にや、

   つづく

 

 「書き下し文」

 時に前なる松の樹に小鳩一番来たり、是れより南海に龍宮あり、彼の処に頗梨采女という姫宮あり、行きて幸し給へと囀りて飛び去りぬ、其の鳩の行方に随ひて龍宮に入り八王子を生み給ふ、各々八万四千六百五十四神の御眷属出で来たり給へり、夫れより人王四十二代文武天皇の大宝四年(七〇四)、江州栗本郡綣村に着き給ふて、一夜の間に千本の杉苗を植え給ふ、時に御湯献上の宣下あり、其の時我は是東王父天王の王子牛頭天王なり、父に不幸を蒙り天竺震旦を廻り、此の秋津洲に渡り、東西守護の神たらんとの御託宣にて、其の所には大宝天王と仰せ奉るとかや、同慶雲元年(七〇四)甲辰四、ちち邪毒気神天王を召して、古旦を亡ぼすべしとて数万の御眷属を倶に立ち出ださせ給ひて、また蘇民将来が方へ来たり給へば、変じてゆゆしき長者たり、何事にやおはすと驚き申しければ、此の山のあなたなる古旦将来は、昔むかし旅の労を息めんため宿を求しに惜しみて許さず、甚だ不仁なり、此の故に眷属ども打ち入りて今より七日七夜に亡ぼすべしと宣ふ、蘇民将来大いに驚き、予に娘一人あり、巨旦が太郎は我が婿なり、いかにもして此の二人を助け給へと涙ながらに願ひければ、根を切り葉を枯らすべしと思へども、汝に宿の恩あり、さあらば助くべしとて茅の輪を帯びしめ、南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶、南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶と秘文を授けて取らしめ、後世疫気天下に流行せば又茅の輪を帯びて蘇民将来子孫と云ふべし、其の災ひ必ず 免れん、吾は是れ速須佐ノ雄の神なりと宣ふ、其の巨旦が苗代変じて藪となる、今早苗天王とて戸手村の天王是れなりとぞ、夫れより当村へ来たらせ給ふとき当国芦田郡荒谷と云ふ所にて、御食召させ給ひて立たせ給ふ時、茗荷の芽の残りを捨てさせ給ひし跡、変じて原となる、其の所を今は茗荷の丸と云ふ、夫れより漸く進ませ給ふて甲奴郡本矢野村に着かせ給ふ、其の所の路上に少し水の出る所あり、其の水にて禊し給ふ、其の後行き来の旅人其の訳を知らず飲む者は何の障りも無し、又神慮を恐れずみだりに穢すものは病を得ること有り、依りて此の水を今は若水とも又祇園水とも云ふ、末世の今に至るまで六月御祭の神輿澄ましには必ず此の水を用ゐる、夫れより当村へ入らせ給ふ故に、五月晦日村境に忌みの木を立つる祭り有り、其の時分矢野境にに立てざるは此の遺風なり、夫れより当村へ御越し在らせられ、初めて御腰をかけさせられしか所をおごせと云ふ、舎し給ふ所をとうの宮と云ひて宮跡あり、今養生大明神の祠残れり、夫れより西南に当たり半里ばかりにして連枝の桜あり、此の桜は忝くも天王御手づから植ゑさせ給ふとなん、然れども伝へ誤って曽我の十郎の植うる所とも伝ふる人ままあり、我が聞く所と異なりいずれにも旧きことにて真偽わからず、我が所伝を以て正としてここに記す、されば右の歌に祇園の御歌とて、「我が宿に ちもとの桜 花咲かば 植ゑ置く人の 身も栄なん」との御神詠思ひ合わされたり、今一株残れり、星霜しばしば転じて幾年を経とも更に分明ならず、土俗の唱に古く過ぎにし事をとうと云ふにや、とうの宮と云ふか、また武塔天神の上略にや、

   つづく

 

 「解釈」

 その時、門前にあった松の木に小さな鳩のつがいが飛んできた。「ここから南の海に龍宮がある。そこに頗梨采女という姫宮がいる。お出かけになってください」と囀って飛び去った。その鳩の飛び行く方向に付いていって龍宮に入り、八人の王子を儲けなさった。それぞれ八万四千六百五十四神の御眷属が現れなさった。そもそも人王四十二代文武天皇の大宝四年(七〇四)、近江国栗本郡綣村にお着きなって、一晩のうちに千本の杉苗をお植えになった。その時にお湯献上の宣旨が下された。その時、「私は東王父天王の王子牛頭天王である。父に義絶され天竺震旦を巡り、この日本にやってきて、東西守護の神になろう」とご託宣になって、そこでは大宝天王と呼び申し上げているとかいう。同慶雲元年甲辰(七〇四)四月、蛇毒鬼神をお呼びになって、「古旦を滅ぼせ」とご命令になり、数万の御眷属とともに出立させなさった。また、牛頭天王蘇民将来のもとへお出でになると、蘇民はたいそうお金持ちになっていた。「何事でいらっしゃいますか」と驚いて申し上げたところ、「この山の向こうにいる古旦将来は、以前旅の疲れを癒すために宿を探していたときに、惜しんで宿を貸さなかった。たいそう思いやりのないものである。だから眷属どもが討ち入って、今から七日七夜のうちに滅ぼすはずだ」と仰った。蘇民将来は大いに驚いて、「私には娘が一人いる。巨旦の長男は私の婿である。なんとかしてこの二人を助けてください」と涙ながらに願ったので、牛頭天王は「根を切り葉を枯らすように、ことごとく巨旦一族を滅ぼさなければならない」と思ったが、「お前には一宿の恩義がある。それなら助けよう」と仰って、茅の輪を身につけさせ、「南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶、南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶」という秘密の呪文を授けて取らせ、「将来、疫病が国中に流行したなら、また茅の輪を身につけ、蘇民将来の子孫と言え。その災いをきっと避けることができるだろう。私は速須佐男の神である」と仰った。その巨旦の苗代は変化して薮となった。今早苗天王といって、戸手村の天王がこれであると言う。そこから当村へお出でになるときに、備後国芦田郡荒谷というところでお食事を召し上がりご出立になったとき、茗荷の芽の残りをお捨てになったあとが変化して野原となった。その場所を今は茗荷丸という。そこからしばらくお進みなって甲奴郡本矢野村にお着きになった。その路上に少し水の出るところがあった。その水で禊をなさった。その後、往来の旅人でその事情を知らずに飲んだものは、何の差し障りもない。他方、神の御心を恐れず、みだりに水を汚すものは病気になることがある。そこで、この水を今は若水ともまたは祇園水ともいう。末法の世の今に至るまで、六月のお祭りで神輿を清めるには、必ずこの水を用いる。そこから当小童村へお入りなったから、五月晦日に村境に結界の木を立てる祭があるけれども、その時分に矢野村との境に結界の木を立てないのは、この理由による風習である。それから小童村へお越しになり、初めて腰をおかけになった場所を「おごせ」という。お泊りになったところを「とうのみや」と言って宮跡がある。いま養生大明神の祠が残っている。そこから西南半里ほどの場所に、枝の連なった二本の桜がある。この桜は畏れ多くも牛頭天王が御自らの手でお植えになったという。しかし、伝え間違って曽我の十郎祐成が植えたものとも伝える人がまれにいる。私の聞いたことと異なるが、どちらにしても古いことで真偽はわからない。私の伝え聞いたことを正しいものとしてここに記しておく。さて、次の祇園のお歌という、「我が社に多くの桜の花が咲くなら、植え置いた人の身も栄えるだろう」との牛頭天王の御詠歌が思い当たる。いま一株だけ残っている。歳月が転変して何年過ぎてもまったくはっきりしない。この土地の民衆の言葉に、古く過ぎ去ってしまったことを「とう」と言うのだろうか。だから、とうの宮と言うのか。また武塔天神の上の「武」を略したのだろうか。

   つづく

 

 「注釈」

「江州栗郡へそ村」─現滋賀県栗東市綣に鎮座する大宝神社。

 

「不幸」─「不孝」で義絶のことか。

 

「(宝+壬)」─「宝」の異体字か。

 

「ちゝ」

 ─未詳。牛頭天王の「父」は「東王父」なので、「父」ではないと思います。牛頭天王の眷属、あるいは王子の意味でしょうか。

 

「荒谷」─現広島県府中市荒谷町。

 

「めうがの丸」─茗荷丸。現広島県府中市荒谷町。

 

「本矢野村」─現広島県府中市上下町矢野。

 

「曽我の十郎」─曽我十郎祐成。

 

以下は、「祇園水」の写真です。

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須佐神社文書 参考史料1の1

 【参考史料1】 小童祗園社由来拾遺伝 その1

 

 「解説」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)

 この記録は小童祇園(現在の須佐神社)の神宮寺別当(貧道か)が小童祇園社の由来にかかわる種々の伝承を書き遺したものである。「二、須佐神社縁起」と同じ内容の、牛頭天王諸国臨幸説話や、蘇民将来、巨旦将来の説話などの外素盞嗚命の八岐の大蛇退治の伝承、小童の地名の由来についてもふれている。

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたところがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した箇所があります。

 

  備後国世羅郡小童亀甲山感神院

  祗園社由来拾遺伝

 当山牛頭天王ハ由来旧記焼失して」今はさだかに知れず、然して土俗之」言の葉に

 残を拾ひ集めて縁起と」す、夫れ御本地ハ薬師如来我朝ニ而は」素盞嗚尊、異国ニ而

 ハ牛頭天王申」奉りて、天の神の不幸を蒙り」玉いて、天笠震旦等の異国迄」を

 さすらへ給ふて我朝」用明天皇五畿七道をめぐり」すみ所を求め給ふに、御意

 叶せ」玉ふ所なしとて、同年四月八日」当国江の隅云所に着せ給ふ」其所に巨旦

 長者いふ者あり、立寄て一宿を乞ひ玉ふに情なく」阿りて借し参らせす、かの

 勇士之」三良云者をして箒にて打擲」せしか、いたく追ハしむ時に、天王」逃

 玉ハんとして木瓜の垣に懸らせ」玉ふて転ひ玉ひしとなん、其事の」縁にて今の世

 に信仰のものは」胡瓜を食ふ事なしと申伝ふ、」又其三良妻子数多亡しとなん、」

 此ゆへに、世に箒にて人を打ことを」嫌ふハ此縁とかや、かくてせんかた」無く

 赤ねのたわを越へて同州かやと」いふ所へ越玉ふに、わつかなる浅ぢふ」宿とぼそ

 あり、名つけて蘇民」将来といふ翁夫婦あり、宿を乞」玉へは、安き事なれ共、

 我貧賤」にして饗に奉るへきものなし、」いかにといらへけれハ、苦しからす」

 とて内に入らせ玉へハ、老女門前の」木のしづへより両かんこの粟三ば」持来り、

 からをば席に備え実をば」炊て柏の葉にもり黄蘗の箸を」添へ饗応し奉り候れば、

 巨旦がし」わざにたくらへ思召合させられ」其歓喜し玉ふ事無限、

   つづく

 

 「書き下し文」

  備後国世羅郡小童亀甲山感神院

  祗園社由来拾遺伝

 当山牛頭天王は由来・旧記消失して今は定かに知れず、然して土俗の言の葉に残りを

 拾い集めて縁起とす、夫れ御本地は薬師如来、我が朝にては素盞嗚尊、異国にては牛

 頭天王と申し奉りて、天の神の不幸を蒙り給ひて、天笠(天竺)震旦等の異国までを

 さすらえ給うて、我が朝用明天皇未(五八七)五畿七道を廻り住む所求め給ふに御意

 に叶はせ給ふ所なしとて、同年四月八日当国江の隅と云ふ所に着かせ給ふ、其の所に

 巨旦長者と云ふ者あり、立ち寄りて一宿を乞ひ給ふに、情けなく阿りて借し参らせ

 ず、彼の勇士の三郎と云ふ者をして箒にて打擲せしか、いたく追はしむる時に、天王

 逃げ給はんとして木瓜の垣に懸からせ給ふて転び給ひしとなん、其事の縁にて今の世

 に信仰のものは胡瓜を食ふ事なしと申し伝ふ、又其の三郎の妻子数多亡ぼすとなん、

 此の故に、世に箒にて人を打つことを嫌ふは此の縁とかや、かくてせん方無く赤ねの

 撓を越へて同州賀屋といふ所へ越し給ふに、わづかなる浅茅生の宿枢あり、名付けて

 蘇民将来といふ翁夫婦あり、宿を乞ひ給へば、安き事なれども、我貧賤にして饗に奉

 るべきものなし、如何にと答へければ、苦しからずとて内に入らせ給へば、老女門前

 の木の下枝より両かんこの粟三把を持ち来たり、殻をば席に備へ実をば炊いて柏の葉

 に盛り黄檗の箸を添へ饗応し奉り候へば、巨旦が仕業に比べ思し召し合はさせられ、

 其の歓喜し給ふ事限り無し、

   つづく

 

 「解釈」

 当山牛頭天王は由来・旧記を焼失して、今ははっきりわからない。だから、民衆の言葉に残っている伝承を拾い集めて縁起とした。そもそも御本地は薬師如来である。日本では素盞嗚尊、異国では牛頭天王と申し上げて、天の神の義絶を蒙りなさって、インドや中国等の異国をさすらいなさって、我が朝用明天皇未(五八七年)に五畿七道を廻り、住むところを探しなさったが、御心に叶うところがなくて、同年四月八日備後国江の隅というところにお着きになった。そこに巨旦長者というものがいた。牛頭天王は立ち寄って一夜の宿をお求めになったが、巨旦はそっけない態度でへつらって貸し申し上げなかった。その勇ましい奉公人の三郎というものに箒で叩かせた。ひどく追わせたときに、牛頭天王がお逃げになろうとして、胡瓜の垣に引っ掛かりなさってお転びになったそうだ。そのことが原因で、今の世で牛頭天王を信仰するものは、胡瓜を食べることはないと申し伝えている。また、奉公人の三郎の妻子らを数多く滅ぼしたそうだ。このゆえに、今の世で箒で人を叩くことを嫌うのは、これが理由であるというのだろうか。こうしてどうしようもなく赤ねの撓を越えて、同国加屋というところへお越しになったところ、わずかに茅萱の生えている荒れ果てた家があった。名を蘇民将来という老夫婦がいた。一夜の宿をお求めになると、「簡単なことですが、私は貧乏で食事として差し上げるのによいものがない。どうしようもありません」と答えたところ、「差し障りはない」といって、家にお入りになったので、蘇民将来の妻は門前の木の枝にかけてあった粟三把を持ってきた。その殻を座に敷き、実を炊いて柏の葉に盛り、黄檗の箸を添えてもてなし申し上げましたところ、巨旦の仕業と比べてお考え合わせになり、たいそうお喜びになることこの上なかった。

   つづく

 

 「注釈」

「不幸」─「不孝」で、義絶のことか。

「当国江の隅」─現広島県福山市新市町戸手の素盞嗚神社

「賀屋」─広島県福山市津之郷町大字加屋か。

「巨旦がしわざにたくらへ」─「た」は衍字か。

この〜木、何の木? 餅のなる木〜♪ ─室町時代の餅花史料─

  文安五年(一四四八)五月二日条 (『康富記』2─289頁)

 

 二日丁亥 晴、

  (中略)

 一昨日室町殿祗候了、其時分、自大方殿、椿枝ニ餅之生タル被送進之間、人々稱奇異

 見了、同於御前拜見之由令語給、此椿樹ハ嵯峨雲居庵之庭之椿也、赤キ餅ノちいさき

 が出生也云々、(割書)「一寸よほう程也云々、やわらかなる餅の如云々、」勝定院

 贈太相国御代、此樹ニ餅なりける也、帰宅之後、於家中語之處、山下将監入道云、先

 年美濃国ニ椿ニ餅なりたり、其ハ色白之由見及云々、言語道断奇特事共也、

 

 「書き下し文」

 二日丁亥、晴る、

  (中略)

 一昨日室町殿に祗候し了んぬ、其の時分、大方殿より、椿の枝に餅の生えたるを送り

 進らせらるるの間、人々奇異と称して見了んぬ、同じく御前に於いて拜見の由語らし

 め給ふ、此の椿の樹は嵯峨雲居庵の庭の椿なり、赤き餅のちいさきが出で生ゆるなり

 と云々、(割書)「一寸よほう程なりと云々、やわらかなる餅のごとしと云々、」勝

 定院贈太相国の御代、此の樹に餅なりけるなり、帰宅の後、家中に於いて語るの処、

 山下将監入道云く、先年美濃国に椿に餅なりたり、其れは色白の由見及ぶと云々、言

 語道断奇特の事どもなり、

 

 「解釈」

 一昨日、室町殿足利義政のもとに祗候した。その時大方殿日野重子から、椿の枝に餅の生えたものを進上されたので、人々は奇妙だと言って見ていた。「同じように私(室町殿)の御前で拝見せよ」とお話になった。この椿の木は、嵯峨の雲居庵の庭の椿である。赤い餅で小さいものが生え出したそうだ。(割書)「一寸(約三センチ)四方ほどの大きさであるそうだ。やわらなか餅のようであるという。」五代将軍足利義持の御代、この木に餅がなったのである。帰宅後に家中で話したところ、山下将監入道が言うには、「先年美濃国で椿に餅がなっていた。色の白いものを見ることができた」という。言葉で表現できないほど不思議なことである。

 

 「注釈」

「室町殿」─八代将軍足利義政

「大方殿」─日野重子

「嵯峨雲居庵」─天龍寺境内塔頭か(『京都市の地名』)。

「勝定院贈太相国」─五代将軍足利義持

 

室町時代の椿には、餅のようなものが実っていたようです。その色は赤や白。京都や岐阜で、この現象は起きていたそうです。いったい何が生えてきた、あるいはくっ付いていたのでしょうか。何かの虫の卵でしょうか。いずれにせよ、不思議な現象です。これまでの記事を読んでくると、不思議現象には必ず吉凶の評価が付きまとっていたのですが、今回は何も書いていません。ただ単に、不思議だと思っていたのでしょう。

 

 

*2018.10.22加筆

「餅花」

 ─正月、小正月、節分などに各家で行う予祝行事の一つ。藁や柳・竹・桑などの木の枝に餅をちぎってつけ、花の咲いたようにしたもの。神棚や室内に飾る。養蚕の盛んな地方では繭玉といって、繭の形のだんごをつけたり、他の飾りもつける。ふつう十一日か二十日正月におろし、煎って食べる。二月十五日の涅槃会、六月一日の氷の朔日、初雷の時に食べるところもある。《季・新年─冬》*宗長手記─下「冬の梅は一輪二輪かすかに咲きて匂ふこそあはれ深からめ、余りに正月の童の餅花つけたるやうに咲きたるを、ふさはしからず見ての事なり」(『日本国語大辞典』)。

 

 「餅花」という風習があるのをすっかり忘れていました。上記『日本国語大辞典』の引用史料『宗長手記』は、大永2〜7年(1522〜27)ごろに書かれた連歌師宗長の旅日記です。これが餅花の最古の史料かどうかわかりませんが、今回の史料はそれよりも70年ほど前になります。記主中原康富らが餅花を不思議がっているところ、また「餅花」という用語で説明されていないところをみると、これはもともと民間の風習で、公家や武家の風習ではなかったと考えられます。どこがその発祥地はわかりませんが、近畿・中部地方では広く行われていたようです。「天狗のイタズラ その1」でも書きましたが、中世では地域や身分の差によって、いくぶん文化や風習が異なるようです。現代とは違って、物流や人の動きはそれほど活発ではないでしょうし、インターネットもありませんから、当然といえば当然なのでしょうが…。こういうのを流行りの言葉でいえば、日本国内の「異文化交流」という言うのでしょう。