周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

荒谷文書3

    三 小早川隆景充行状

 

 於三永村、吉長作職拘分地頭納所之内、夫銭貳貫文并石立宿之事、為給地

 充行候、全可領知之状如件、

     (1554)

     天文廿三年十二月十三日      隆景(花押)

             (吉長)

           荒谷内蔵丞とのへ

 

 「書き下し文」

 三永村の吉長作職拘ふ分に於いて地頭に納所するの内、夫銭二貫文并びに石立宿の事、給地として充て行ひ候ふ、全く領知すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 三永村の吉長(あなた)が関与している作職分で、地頭に納める分の内、夫銭二貫文と石立宿のこと。給地として(吉長・あなたに)与えます。領有を全うしなさい。

 

 「注釈」

「三永」

 ─「上三永(みなが)村」。東広島市西条町上三永。西条盆地の東端に位置する。東西に長く北向きにゆるく傾斜する谷を三永川が西流。南北とも標高四〇〇メートル(比高二〇〇メートル)の山が連なるが、北部谷あいをを山陽道西国街道)が走る。北と東は豊田郡田万里村(現竹原市)。中世は西の下三永村とともに三永村と称され、元弘三年(一三三三)十二月八日付後醍醐天皇綸旨(福成寺文書)に福成寺領三永のことが見え、正平十三年(一三五八)十二月八日付後村上天皇綸旨(同文書)には「東条郷之内三永村」を福成寺に寄進するとある。文明七年(一四七五)以前に三永の地は大内政弘から毛利豊元に与えられたが(毛利家文書)、大永三年(一五二三)頃には三永村三百貫のうち半分が福成寺領、半分が大内方諸給人の知行となっている(同年八月十日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。なお、このほか「三永方」として四十貫の「小郡代領」があり(同知行注文)、「三永方田口村」の用例もあるので(永正六年八月十三日付「大内義興下文」千葉文書)、より広義の地域呼称もしくは所領単位として「三永方」があったことも考えられる

 天文二〇年(一五五一)以後西条盆地の大半は毛利氏の支配下に入ったが、三永を含む東辺部や南部は小早川氏の影響力が強かった、天文二十三年小早川隆景から荒谷吉長に対して「於三永村、吉長作職拘分地頭納所之内、夫銭貳貫文并石立宿」(同年十二月十三日付「小早川隆景宛行状」荒谷文書)が給地として宛行われ、田万里村境に近い石立には宿が形成されていた。三永に給地を得ていた武士として荒谷氏のほかに田坂氏・勝屋衆の名が知られるが(田坂文書、浦家文書)、「芸藩通志」には細井信濃・長谷内蔵助・胡麻大内佐・石橋力矢らの屋敷跡が上三永村にあったとし、いずれも村南西にあった茶臼城主の家人と伝える(『広島県の地名』平凡社)。

 

「夫銭」

 ─夫役のかわりに銭で上納させるもの。夫役の代納は農民側からの要求が強かった(『古文書古記録語辞典』)。

 

「石立宿」

 ─田万里村(現竹原市田万里町)との境に形成された、上三永村(現東広島市西条町上三永)の宿場(「上三永村」『広島県の地名』平凡社)。

正村俊之著書 その3

  正村俊之『秘密と恥』(勁草書房、1995)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第5章「情と無私」

P307、この説が正しいとすれば、日本人が単一民族であるという従来の見方は、根底から覆されることになる。実際、東日本と西日本の人間では、さまざまな形質的な違いが確認されている。頭骨のみならず、血液型に関しても、A型遺伝子の分布頻度は、西から東に移動するにつれてA型遺伝子の割合が低下することが知られている。青木健一のシミュレーション・モデルによれば、およそ二千年前(弥生中期)に、現在の岐阜市あたりを境にして、A型遺伝子の異なる二つの集団が交流し始め、一定の継続的な移動が行われると、現在のような分布パタンが発生するという(佐々木高明「畑作文化と稲作文化」『岩波講座日本通史1』、『日本文化の基層を探る─ナラ林文化と照葉樹林文化』日本放送出版協会)。

 

P355、鎌倉幕府の体制的な基盤は、御家人制という主従制にあったが、その主従道徳の核心をなしていたのが、無我や無私である。

 武家社会が誕生した鎌倉時代には、「無心」という言葉の意味が変化したが、その言葉の意味変化は、当時進行した精神世界の転換を象徴している。今日「無心」という言葉は、肯定的な意味で使われることが多いが、鎌倉以前には、「思慮分別がない」「情趣を解する心のない」「人情のない」といった否定的な意味で用いられていた。例えば、鴨長明の作品にある「無心なる女房」とは、「思慮分別のない女官」のことであった(源了圓『型』創文社[1989])。古代の貴族社会では「情」が心の中核をなしていた以上、情を通わし、情趣を解する心が「有心」であり、「無心」は「有心」を欠いた状態であった。ところが、このような心の捉え方は、鎌倉時代から室町時代にかけて根本的な転換を遂げることになった。すなわち「有心」が否定され、「無心」が肯定されたのである。

 一遍の歌が示すように、「こころのなき」状態がいまや「こころ」とされ、自己を捨てようとする意志をも捨てることが理想とされた。情感豊かな古今的世界から、哀愁を秘めた新古今的世界への移行は、すでに「有心」から「無心」への転換を予兆していたが、自然の色を生かした山水庭園から、石組を主とした枯山水庭園への変化、また色彩艶やかな大和絵から、モノクロ的な水墨画への変化─これら鎌倉時代から室町時代にかけて本格的に見られる変化─は、すべて「有心」から「無心」への転換を物語っていた((源了圓『型』創文社[1989])。

 

P357、死は、他者の死である限り、現実的なものとして体験しうるが、事故の死を体験することはできない。自己が死ねば、それを体験する自己も存在しないからである。有・生・現在性が「現実的なもの」として現れるのに対して、無・死・未来性は、つねに「可能的なもの」に止まっている。誰にとっても、死は不可避であるにもかかわらず、誰一人として自己の死を現在的・現実的なものとして体験した者はいない。自己の死は、本来的で不在なものとしてあり続ける。この「未来性」「無」の極致としての「死」に向き合うには、可能的世界を開示する否定の論理に依拠しなければならない。

 中世の段階でこうした否定の論理が発展したのは、「家」の創設に伴って、祖先を祭り(過去の想起)、子孫の繁栄(未来の想定)を願うようになったという一般的な理由のほかに、武士の抬頭が考えられる。武士の抬頭が「無心」に価値をおく精神世界を誕生させたのは、単に武士が戦闘従事者として死の可能性に直面しなければならなかったことによるだけではない。否定の論理を発達させ、「無心」を肯定させる契機は、武士の主従関係のなかに埋め込まれている。なぜなら、この時代の東国武士団の主従道徳の核心をなしていたのは、ほかならぬ無私(無我)であり、無私は、私性の発達を前提に、その私性に対する否定であったからである。

 

P358、内済制度が取り入れられた近世以降、訴訟を回避し、内々に事を処理しようとする傾向が広がったが、鎌倉武家社会は、権利の主張に満ちた社会であった。幕府は、膨大な件数の訴訟を処理する必要に迫られたこともあって「御成敗式目」を制定したが、その末尾には、北条泰時らの起請文が添えられている。そこでは「無私」の精神に即して道理が解釈され、親疎・好悪の感情を離れて、権門を恐れることなく道理を推すことが説かれている。「道理思想は、武士階層の形成期から鎌倉中期に至るまで、系譜的に引き継がれているが、その内容は、「私」の主張からはじまって、ついにその反対の「無私」の理想にまで発展している。それは、おもに武士階層の社会的地位の上昇にともなう意識の変化によるのである」(河合正治『中世武家社会の研究』吉川弘文館[1973]:88)。

 

P359、和辻の「献身の道徳」説が、主従関係を片務的で非利己的なものとみなしたのに対して(和辻哲郎『日本倫理思想史』岩波書店[1979])、家永の「双務契約」説は、主従関係を双務的で、利己的打算的なものとみなした(家永三郎『日本道徳思想史』岩波全書[1954]。論争はこのように主に二つの争点にわたっていたが、今日では一方の説を全面的に支持する人は少ない。

 まず、利己的/非利己的な性格に関していえば、武士は、たしかに利己的な動機に基づいて功なり名を遂げようとする面をもっていたが、そのことから主従道徳の内容が無我の実現にあったということが否定されるわけではない。「無我の実現」を示す証拠が多数あげられるだけでなく、そもそも武士の利己的な性格と没我的な性格は、必ずしも相矛盾する事柄ではないからである。無私が私性の発達を前提にしていたことを考慮に入れるならば、この二つの側面は、むしろ重なり合っている。

 武士の共同体において主君は、具象化された全体であり、主君の命令に従う武士たちは、石田一良が指摘しているように、「時には他を欺いてまでも、われ「一人ぬけ出て」(『承久軍物語』)、「一騎討」に「抜け駆け」に「功名不覚も紛れぬ」ように(『保元物語』)、矢に自分の姓名を記し(『吾妻鏡』)、昼は赤い布衣、夜は白い布衣をかけて戦場を馳駆して、「殊恩」「抽賞」を求めた。こうした強烈な自我の主張は、「武略の本意」(『吾妻鏡』)、「いくさのならひ」(『承久軍物語』)として、武士団の「一揆」(共同団結)を強め、全軍を勝利に導くものとして、是認せられ推奨せられている。一方、主君つまり集団全体のために貢献しない個我の主張は、「雅意」(我意)として厳しく処罰されたのである(『吾妻鏡』)(石田一良『日本文化史─日本文化の心と形』東海大学出版会[1989:118-9]。

 また主従関係の片務性/双務性に関しても、鎌倉武家社会のなかには、主君の強い身分的拘束を受ける主従関係とそうでない主従関係が存在し、双方の主張が二者択一的なものでないことが明らかにされている。御家人、将軍の家人であったが、同時に「惣領」としてそれぞれの武士団を統率する主君でもあった。鎌倉前期、「惣領制」という形態をとっていた武士団の組織は、血縁関係を結合原理にしており、先祖伝来の所領は、惣領を中心に一族の間で分割相続されていた。外部に対しては、惣領が一族を代表していたが、惣領(本家)・庶子(分家)は、それぞれ家子・郎党・所従を率いて所領の経営にあたった。

 鎌倉幕府の体制は、このように①将軍と御家人の関係、②御家人と従者の関係という二段階の主従関係によって構成されていたが、この二つの主従関係は、若干性格を異にしていた(佐藤進一「時代と人物・中世」『日本人物史大系』2朝倉書店[1959])。すなわち、将軍と御家人の関係は、御家人が将軍に対して比較的自由な立場に立ちうることから双務契約的な関係に近いが(「家礼型」)、御家人と従者の関係は、一方的な隷属を強いられるような片務的な関係に近かったのである(「家人型」)。

 →本当か?

 

 和辻のように「無我の実現」と「献身の道徳」として捉えるならば、無我や無私は、惣領に対する従者の態度を規制している道徳規範にすぎない。しかし「無我の実現」は、惣領(御家人)と従者との関係のなかでのみ妥当する規範ではない。家、武士団、武士団全体の存続をはかるためには、それぞれのレベルの主君も、無我(無私)の態度をとらねばならない。下位の集合的目標は、それだけ全体社会に対して私的な性格をもつが、「無我(無私)の実現」は、主君、従者を問わず、集団の構成員すべてに要求されるのである。

 無私の精神は、武士団の組織が血縁的な性格を脱却するにつれて、消滅するどころか、逆に重視されていった。武士団の組織を支えていた「惣領制」は、鎌倉後期には崩壊し、分割相続が長子相続に移行するとともに、惣領と庶子の関係が主従関係へと変質した。そして、武士団の組織は、全体としてみれば血縁組織から地縁組織へと変化した。武士団が血縁組織である限り、「家族の情」は、成員を結びつける紐帯として不可欠であるが、武士団の血縁性が薄まるにつれて「家族の情」に取って代わるものが必要になってくる。無私の精神は、主従関係が純化する過程を通じて発達してきたのであり、例えば、北条泰時は、承久の乱の事後処置について「聊モ私シ無ク、理ノマヽニ行候ハバ、罪ニハナルマジキニテ候ヤラン」(『明恵上人伝記』上)と述べている。

 このように「無我の実現」は、和辻の側から主張されたが、和辻と家永の説は、二者択一的な性格のものではない。主従関係において血縁性が薄まり、双務契約的な性格が強まるにつれて、主君と従者にとって選択の幅が広まり、それだけ利己的な行動をとることが可能になるが、無私(無我)は、そうした主従関係を支える道徳的規範であったといっても過言ではないだろう。

 

P391、義理に関しては、第二章で述べたように、武士階級の上下関係的な社会意識であるのか、それとも町人階級の水平関係的な社会意識であるのかを巡って意見が分かれていたが、いまやこの論争に決着をつけることができる。この二つの認識は、それぞれ事の一面を捉えていたとはいえ、義理(心情規範としての義理)の本当の意義は、武士階級の上下関係を支えた無私と町人階級の水平関係を支えた情を結合させたところにある。この二つの社会意識の結合を図った点で、義理は、近世に止まらず、近代日本のあり方を指し示す基本理念として、近代日本の根本規範たり得たのである。

 もちろん、無私と情という二つの精神的形象は、東国と西国、幕府と朝廷(将軍と天皇)、武士と貴族、武士と町人(百姓)といった社会的対立を背景にした以上、容易に統合できるものではなかった。そうだからこそ、心情規範としての義理は、理念として措定することはできても、現実には崩壊せざるを得なかったのである。そして近松の場合にも、無私と情の結合は、ニュートラルな意味での結合ではなく、情の復権を通じてもたらされた。近松も、情を重視していた点で、仁斎や宣長と文化的土壌を共有していたのである。

 武家文化・貴族文化・町人文化の境界領域のなかで生きた近松は、とりわけ個人的に有利な立場に立っていたとはいえ、近世の畿内には、情と無私の結合を可能にするような社会的条件が備わっていた。政治権力の面では、幕府が朝廷の存在を前提せざるを得なかったこと、社会経済の面では、太平の世が続くなかで、京都・大坂を中心とした都市における町人階級の勢力が伸張したこと、そして親族組織の面では、百姓・町人のレベルでも、タテ関係とヨコ関係が交錯した「家」が成立したこと、これらは、近世的な社会基盤のもとで情を復権させ、無私を情によって基礎づける働きを高めた。心情規範としての義理は、そうした社会的・思想的な動向の一つの結晶形態であった。

 

 

第6章 秘密の社会技術

P404、西欧と日本の謝意を問題にするならば、むしろ表現と隠蔽という、コミュニケーションに内在する二つの普遍的な位相に着目する必要がある。いかなる社会であれ、秩序形成の基礎は、内部と外部の差異を確立することにあるが、社会構成の原点に主体的・自律的な個人を据えた近代社会では、自己と他者の差異がとりわけ顕在化されている。このような差異は、社会的対立の源泉となる以上、そうした対立を解決するための社会的装置が開発されている場合にのみ維持されうる。一方、自他の差異の顕在化可能性に対して、日本社会が採用した戦略は、隠蔽メカニズムを発達させ、雑賀作用を中和するという戦略であった。差異の隠蔽というのは、差異を抹殺することではなく、差異を顕在化させることなく潜在的なレベルで働かせることである。

 いかなる社会であれ、自己を構成する過程で一定の矛盾やパラドックスを抱いているゆえに、社会が自らの再生産を継続するためには、そうした矛盾やパラドクスを隠蔽しなければならないが(Luhmann・佐藤勉監訳『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣1984=1993])、日本では、隠蔽の技術が社会を構成するうえでひときわ重要な役割を演じてきた。日本社会が秩序形成に払ってきた努力は、内部と外部の差異を隠蔽することに集中的に向けられてきた。個体的・集団的・国家的なレベルを問わず、各種の境界が「あると同時にないような境界」として曖昧さを帯びているのは、この内外差異に対する隠蔽メカニズムに負うている。

 個体レベルの差異を隠蔽する働きは、情と無私をはじめ、「なる」的言語としての日本語や「なる」的世界観によって担われてきた。これらは、人間の意志そのものを隠蔽することによって、自己と他者の差異、そして人間と自然の差異が顕在化するのを抑えてきた。また転写の論理は、擬制や代表・代行の機能を作動させることによって、集団レベルの差異を潜在化させ、集団間の有機的連結をはかってきた。そして「日本人の均質性」の神話は、日本人の形質的な差異や日本社会の地域的・階層的レベルの差異を覆い隠してきた。こうした各種の隠蔽を通じて、それぞれの差異に導かれた境界を曖昧な境界として設定し、内部と外部の相互浸透性を高めてきたのである。

 本音と建前の区別、以心伝心、根回しといった、いわゆる「日本的コミュニケーション」の方法は、どれも隠蔽の技術と関連している。社会的コミュニケーションを行うことは、一般に他者との差異を顕在化させ、社会的対立を惹き起こす原因にもなる。本音と建前の区別、以心伝心、根回し等々は、そうした差異や対立を潜在化させておくための社会的工夫にほかならない。例えば、「本音と建前」は、以前においては「内緒と建前」といわれ(中野卓「内と外」『講座 日本思想3 秩序』東京大学出版会[1983])、「本音」は「内緒」(秘密)にしておかねばならないものを指していた。本音と建前の区別は、「本音」の隠蔽によって社会的対立の発生を防止するためのコミュニケーション技術であった。これらコミュニケーション技術は、日本社会を構成する隠蔽メカニズムの部分装置として機能してきたのである。

 

P408、周囲を眺望できる凸型景観は、山頂・独立丘・独立峰などに象徴され、「眺望のイメージ」「支配のイメージ」「意志のイメージ」を表している。高い尖塔を戴く教会が丘の上に建てられている西欧の景観は、典型的な凸型景観である。そして「眺望のイメージ」「支配のイメージ」「意志のイメージ」という凸型景観の特徴は、西欧近代社会の特徴でもある。さきに近代に内在する支配関係と、無私に基づく支配関係の違いについて述べたが、そこには、もう一つ重大な違いが存在している。それは、支配関係が「見る/見られる」という一方公的な視線によって構成されているか否かという点にある。

 

P410

 一方、山の辺や水の辺といった日本人の偏愛する景観は、凹型景観にあたり、谷・洞窟・入り江などによって象徴される。日本にも、五重塔のような塔状建築は存在したが、それらは上に登ることなはできず、上から眺望するための建物ではなかった。自分の身を隠せる凹型景観は、「隠れ場所のイメージ」「休息のイメージ」を表している。樋口は、日本の景観の原型を「盆地」「谷」「平野」という三つの類型に分類したが、そのなかでも谷は、凹型景観の典型である。谷は、周囲を山で囲まれた「隠れ場所」であり、隠された中心である。

 滾々と水が湧き出す谷は、生命の根源であり、二重の意味での境界でもある。上流への遡行と下流への下行という二つの方向性をもった谷は、第一に、現世と来世を繋ぐ境界になっている。谷は「この世からあの世に至る通路の性格をもち、谷の奥は、現世とあの世との二つの世界の境目と考えられていた(樋口忠彦『日本の景観』筑摩書房[1993:97])。

 そして第二に、山と山に挟まれた谷は、水平的な二つの領域を結びつける境界でもある。例えば、伊勢神宮二荒山神社という二つの聖なる建物は、それぞれ伊勢と日光という、西国と東国、坂東(関東)と奥州(東北)の境界領域にあり、ともに谷間に建立されている。古代において伊勢国がアヅマに入られたり入れられなかったりしたこと、さらにこの地域が日本列島を東西に二分しているフォッサマグナの延長線上にあることは、伊勢が東国と西国の境界に位置していることを示している(大野晋・小浜基次「ことば・身体」『東日本と西日本』日本エディタースクール出版部[1981])。一方、源義朝が日光山を造営した頃、東北には、奥州藤原氏が栄華を誇っており、独自の領域をなしていた。頼朝が藤原泰衡を滅ぼして以来、奥州は鎌倉幕府支配下に組み入れられたが、祖霊以後も、関東と東北は一定の緊張感を孕み続けてきた。伊勢・日光は、そうした二つの異なった境界に位置していたのである。

 原広司は、谷を日本人にとっての「空間の祖型」として位置づけたうえで、次のように述べている。「負の中心にして境界である谷は、微地形に富んだ日本の地理にとっては、どこにでも見られる場所である。…谷の位置は、仲介者、調停者、判断者などの位置、総称すれば媒介者の位置となろう。つまり、ふたつの出来事の渦中にあって、両者の同時存立を可能にする消極的な中心、両者の衝突の境界に立つ媒介者となる。仮に二つの出来事が相互滲透するとすれば、谷は相互滲透部分、重畳部分の中心となる(原広司『空間〈機能から様相へ〉』岩波書店[1987:152])。

 このように凹型景観としての谷は、「見る」に対して「隠す」ことを本質的な契機にしており、二つの世界を相互に浸透させる境界機能を果たしている。このような谷の景観的な特徴は、隠蔽作用を通じて曖昧な境界を設定し、ふたつの領域を相互に浸透させる日本社会の構造的な特徴に通じている。谷が山と山の媒介者として二つの世界の出来事を相互に浸透させるように、中間者には、上位集団の原理と下位集団の原理を相互に浸透させることが期待されている。代表者としての中間者は、下位集団の中心をなしており、その代表機能は、順次より上位の中間者に引き継がれるが、代行者としての中間者は、上位集団の中心性を覆い隠す効果を及ぼしている。なぜなら、代行者が上位集団の代表者を代行する場合には、上位集団の代表者は、自らの中心性を顕在化させずに済むからである。したがって、媒介機能としての代表・代行は、権力ハイアラーキーのなかで中心を拡散・隠蔽し、ウチとソトの相互浸透的な境界を設定するための装置となっている。

 要するに、隠蔽技術は、日本社会を構成する不可欠な技術として、さまざまな社会的・文化的装置のなかに張り巡らされている。ただし、日本では、表現に対して隠蔽が優位を占めているといっただけでは十分正確ではない。というのも、例えば、無私は、隠蔽することによってのみ表現可能であるからである。

 隠蔽を消極的表現としてではなく、積極的表現として捉え直すという発想は、中世文化のなかで培われて以来、脈々と受け継がれてきた。世阿弥足利義満の庇護を受けてから武家文化として発展してきた能は、「かくすことによって現わす文化」(増田正造『能の表現─その逆説の美学』中公新書[1971:26]であり、そこでは「極度に抑制し、かくそうと意図することは、実は高度に現わすことであった」(増田[1971:25])。能舞台には、背後に「松」が描かれているだけだが、それは「松」以外の一切を隠すことによって世界の豊穣さを表現するためである。また、能面お表情は、一見「無表情」であるが、「無限表情」とも呼ばれ、表情を隠すことによって多様な表現を生み出している。空白な能舞台が能役者の演技とのコンテクスチュアルな関係を通じて豊穣な世界へ転成しうるように、無表情に見える能面の表情も、微妙な傾きを加えることによって豊かな表情へと変化しうる。

 『花鏡』のなかで世阿弥は、舞台の上で演者が「なにもしないところ」が面白いといわれる理由を次のように説明している。「なにもしないところ」とは、舞、謡いなどの一切の技を止めた部分であり、技と技の間隙である。演者は、この空白部分においても少しも気を緩めず、内心の緊張を持続するが、この意識の奥底の充実が自ずと外に滲み出るゆえに面白い。もっとも、意識の奥底の充実をありありと見せてしまっては、それ自体が一個の技となってしまい、技と技の間隙ではなくなってしまう。それゆえ、演者は「無心の位にて、わが心をわれも隠す」(世阿弥[1970:220])ことが必要になる。つまり、「なにもしないところ」の面白さは、表現しようとして表現できるものではなく、隠蔽することによってのみ表現可能なのである。

 このような能は、無上の上手(演者)と高度な目利き(観客)との関係のうえに成り立っている。高度な鑑賞眼をもった観客であってこそ、技と技の間隙においても配慮を怠らない演者の意識の奥底を読み取ることができる。演者と観客─ヒョリ一般化して言えば、送り手と受け手─の間に、高度な読みを可能にする了解の地平が共有されている場合にのみ、隠蔽は表現に転化しうるのである。

 したがって、コミュニケーションの過程で隠蔽が積極的表現に転化するためには、自己と他者がまったく異質な存在として対峙するようであってはならない。「日本ほど均質な社会は少ない」という言説は、日本人のなかに存在する形質的・地域的・階層的・文化的な差異を隠蔽する働きを担ったが、自他の差異の隠蔽は、さまざまなレベルの差異の隠蔽と結びつくことによって完成されたのである。

 

P414、「隠蔽することによって表現する」というコミュニケーションの逆説は、別の言い方をすれば、「無が有を生む」という逆説でもある。送り手の隠蔽は、受け手にとっては、メッセージの不在として現象するにもかかわらず、受け手の「察し」によってメッセージの能動的な理解がなされる。受けてから見れば、この顕在的なメッセージの不在は「無」に相当し、能動的に理解されたメッセージの存在は「有」に相当する。世阿弥は、あらゆる表現の根底にあるのが無であることを強調した。『遊楽習道風見』のなかで「有を現はすものは無なり」(世阿弥『日本の思想8 世阿弥集』筑摩書房[1970:277])と語っているように、無が有の本源であり、能においては、本来は無である演者の心の内面的な緊張が多彩な表現を生み出すとした。

 西欧では、古代ギリシャパルメニデスが「有のみが有り、非有は有らず」という矛盾律を唱えて以来、有と無を対立的に捉える見方が根強いが、禅の思想的な影響がみられた日本では、むしろ無は有の根源とみなされてきた。この逆説的な論理を存在論的な次元で展開したのが、西田幾多郎の「場所の論理」である。西田は、主語的基体としての個物を第一実体とみなしたアリストテレスの考え方に対して、無としての場所が一切の有を包含していることを主張した。

 西田によれば、判断というのは、特殊なものとしての主語が一般的なものとしての述語に包摂される構造をもっており、主語がより特殊なものとしての主語に対する述語となりうるように、述語も、より一般的なものとしての述語に対する主語となりうる。主語となりうるものをより特殊化する方向で限定していくと、「主語となって述語となりえない」ものとしての個物に辿り着くが、逆に、述語となりうるものをより一般化していくと、「述語となって主語となりえない」ものに行き着く。述語の一般化を徹底的に推し進めると、述語は、他の述語によって限定されることのないもの、すなわち一切の有を包含した無となる。

 西田のいう「場所」とは、一切の区別を包摂し、一切の有を成り立たせる根源的な地平を指している。述語は、主語を「〜において」という地平的構造のもとで主語を規定するが、その述語が他の述語によって限定されないということは、主語を包含する述語の地平が無限に拡張されていることを意味する。「真の無はかかる有と無とを含むものでなければならぬ、かかる有無の成立する場所でなければならぬ。有を否定し有に対立する無が真の無ではなく、真の無は有の背景を成すものでなければならぬ」(西田幾多郎『場所・私と汝 他六編(西田幾多郎哲学論集Ⅰ)』岩波文庫[1987:77])。

 世阿弥と西田が「無が有を生む」という発想を共有していたのは、単なる偶然ではなく、両者がともに禅的思考の影響を受けていたからである。禅の思想を積極的に受容したのは、個人主義的な思考性の強かった武士層であったが、その武士の主従道徳から発展した無私の精神にも、そして恥の無化作用にも「無が有を生む」という論理が貫徹していた。

 無私は、私心(私利・私欲・私情)を隠蔽することによってのみ表現しうるゆえに、ここでは隠蔽が表現に転化するかたちで無が有を生み出している。日本社会が依拠してきた「秘密の社会技術」というのは、消極的表現としての隠蔽技術のみならず、積極的表現としての隠蔽技術をも含んでおり、秘密を構成する一切の隠蔽技術を総称している。

 隠蔽が積極的表現になりうる可能性を最も探求した中世文化の背景には、積極的表現としての隠蔽技術の発達を促す社会的基盤が存在していた。無私は、隠蔽することによってのみ表現可能であるゆえに、無私の精神に裏打ちされた道徳的規範は、「無が有を生む」という論理を内包していた。そして「無が有を生む」という論理は、無私の道徳規範を実現する過程で働いていただけでなく、この種の規範から逸脱が起こり、逸脱に対する制裁が発動される際にも働いていた。それが恥の「無化作用」である。

 一切の有が無に回帰するとともに、無が有を蘇生させるという反転の論理は、日本の文化・自然・社会に共通して見いだせる。空白の能舞台には「無に回帰して再び有を生む、無限の時間への思惟がこめられている」(増田[1971:55]。日本の谷も、活力が停止した場所としてではなく、抑えられた活力がある場所として存在する。谷には「下向する空間感覚」「始源への回帰の感覚」があるが、始源への回帰は、新たな出来事を生成流出する原点でもある。谷は、「周辺の出来事を重ね合わせ吸収し、そしてまた他の場所へと出来事を生成流出する場所」であり、「母胎であると同時に全世界である」(原[1987:151-2]。そして、恥の無化作用も、規範から逸脱性によって社会関係を無に還元するが、その逸脱性が規範を反射的に指示することによって、恥を体験した者を理想的有の実現に向けて動機づけている。「恥を知れ」といった制裁様式が発動される時、恥も「無に回帰しつつ、無が有を蘇生させる」という論理に依拠していたのである。

 

P417、自他の差異を隠蔽し、そこに曖昧な境界を設定することは、近代日本を構成するための基本的な前提をなしてきた。秘密の社会技術を駆使したコミュニケーションは、そうした前提を創出するとともに、その前提のもとで機能してきた。西欧が自他の差異を表現したうえで、その協調的な関係を確立しようとしたのに対して、日本は、自他の差異を可能な限り隠蔽し、他者をもう一人の自分とみなすことによって、社会的対立の防止をはかってきた。

 しかしここで注目しなければならないのは、差異の隠蔽という、近代日本を構成するための基本的な前提が今日急速に崩れつつあり、従来のコミュニケーション様式が限界に直面しているということである。

 もちろん、将来においても隠蔽技術の価値が消滅するわけではない。情報技術の発展は、伝達不能性という障壁を取り除く反面、これまで隠蔽が保証されていた事柄までも伝達可能性にしてしまうゆえに、表現(伝達)と隠蔽をめぐる選択の自由を保障するには、伝達技術と平行して隠蔽技術が発達しなければならない。高度情報社会における表現技術や伝達技術の進歩は、隠蔽技術の発達を促すことになるだろう。また、日本がこれまで築き上げてきた思想・文化のなかには、いわゆる「ポストモダン」と称される現代的状況のなかで再評価されるべきものもあるだろう。けれども、こうしたことは、近代日本の社会秩序がポストモダン的であり、将来の状況に対して適合的であるということの証しにはならない。

 西欧近代と近代日本がともに揺らぎつつあるなかで、「自他関係において何を表現し、何を隠蔽するのか」というコミュニケーション秩序の問題は、根底から問い直されねばならない。これまで日本の近世と近代、戦前と戦後の連続性を非連続性以上に強調してきたが、近代日本は、いまや根本的転換を迫られつつあるように思われる。

 現代日本の変容に関しては(機会を改めて詳述したいと思うが)、ここでは次の一点を指摘しておこう。それは、日本を取り巻く国際関係の変化である。島国日本とはいえ、これまでの日本の歴史が示すように、日本の社会状態を規定する規定的な要因の一つは、日本を取り巻く国際関係であった。具体的にいえば、中国や西欧との関係であった。日本の歴史には、これらの国から強い影響を受けた時期とそうでない時期とがあったが、いずれにせよ、国内状態のあり方は、国際関係の変数になっている。戦後の高度成長を通じて日本は、複雑な国際関係に巻き込まれ、他国と緊密な関係をもつようになったが、そうした対外関係の変化は、対内関係にもはねかえってくる。

 近代国家というのは、理念的には他国からの影響を受けることなく自国の内部状態を決定できる国家のはずであるが、今日の国家は、そうしたあり方から大きく逸脱しつつある。近代国家のゆらぎは、一方では、国内的な統一を弛緩させ、他方では、国家を媒介することなく、国内地域と他国地域との直接的なつながりを強化するかたちで進行している。こうした二重の運動は、近代日本を構成するための基本的な前提─「日本は均質な社会である」という言説に裏打ちされながら、自他の境界を曖昧にしてきた隠蔽メカニズム─にも甚大な影響を及ぼしている。すなわち、一方では、日本国内における地域差とそれに関連した社会的・文化的な差異を隠蔽する必要が減ずるとともに、他方では、同地つかの対象から外れた他国とのコミュニケーション機会が拡大することに伴って、他国との差異を隠蔽することの困難さが増大してきている。

 今日、国際的コミュニケーションの場面で、他国(他者)と自国(自己)の同一性を仮定し、相互理解の達成をアプリオリに想定することは、大きな危険を孕んでおり、それ自体がディスコミュニケーションの原因となりうる。自他の差異に対する隠蔽メカニズムが効力を発揮するしうるのは、自他の同一性に対する信念が自他の間で受容され、この信念が行為に対する規範的な統制力をもちうる限りにおいてである。その条件が維持されるためには、自他の差異が極端に開いていないことが必要であるが、将来日本が体験するであろう国際コミュニケーションの過程は、そうした限界を超えてしまう可能性をはらんでいる。そして、このような国際関係の変化は、おのずと国内のあり方にも影響を及ぼすことになる。

 伝統的な日本論に対する近年の反省も、このような日本社会の現代的な変容を背景にしている。伝統的な日本論が近代日本の社会的な再生産を担い、ある種のイデオロギー性を帯びていることを暴露することは重要であるが、しかしそうした反省的な営みは、日本社会の再生産から離脱した「客観的・絶対的」な地点に立脚しているのではない。イデオロギー批判を行う言説は、往々に自らを脱イデオロギー的な言説として了解しがちであるが、自覚されねばならないのは、過去の日本論を批判する立場も、日本社会の再生産過程から完全には離脱し得ないということである。むしろ、日本社会がそうした反省的営みの可能性を提供しているのであり、過去の日本論が近代日本の自己意識であったように、(本書も含めて)過去の日本論を批判する言説も、極言すれば、現代日本の社会的再生産の変容の現れにすぎないのである。

 全勝で述べたように、日本人のなかに均質性の観念を定着させることは、長期的に見れば、危険な企てでもあった。均質性の観念がひとたび内面化され、自他の相互行為に対する規範的な統制力を及ぼすようになると、この観念は、たとえ虚偽であったとしても、社会的な均質性を高めていくことになる。

 (→太平洋戦争に突入した日本人意識がまさにそう。間違っていても批判できない、批判しようとも思わない。)

 

 このような働きは、近代日本の建設にとっては適合的であったとはいえ、日本社会のダイナミズムを衰退させる危険性を孕んでいた。しかし現代日本が直面している問題は、まさにその枯渇しかけた社会的ダイナミズムを発動させることができるか否かという点にある。本書が描いてきた日本の姿は、戦前から戦後にかけて消滅したのではなく、むしろ今日の時点で消え去ろうとしている。そして、これまでの体制が崩壊しようとしているにもかかわらず、それに変わるべく新しい体制は見出されてはいない。その意味で、日本社会は大きな曲がり角にきているように思われる。

 →現代の日本人には、共通の価値観がない。多様化を推奨しすぎた弊害か。だから、差異を隠蔽しようにもできない。結局、差異が顕在化、隠蔽・中和潜在化できないから対立するだけになってしまっている。このままでは、アメリカのような訴訟大国になってしまう。自己の権利ばかりを主張する中国や韓国のような国になってしまう。かといって、隠蔽しすぎると、忠君愛国者ばかりになって、また大戦争に突入してしまう。どちらかに振り切れたらアウト。いつもバランスが大切。隠蔽という言葉に否定的なニュアンスがつきまとって使いたくないなら、現代バージョンの差異・対立の「中和・潜在化」技術を考えなければならない。言葉の問題ではないが…。

正村俊之著書 その2

  正村俊之『秘密と恥』(勁草書房、1995)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第3章「ウチとソト」

P135、中根が日本社会を「場の社会」として位置づけたとき、「場」は、集団構成のもう一つの原理である「資格」と対比されていた(中根1967)。資格は、性や身分のように個人が先天的に備えている属性や、学歴・地位・職業などのように、個人が後天的に獲得した属性を指しているが、場は、個人の資格の違いを越えて集団を構成する枠を刺している。場によって構成された集団は、生活共同体=経営体として、次のような二つの特徴を有している。

 まず第一に、場は、体面的関係を基礎にしており、包括的な機能を担っている。例えば、インドでは、兄弟姉妹の強い絆が永続的に保たれているのに対して、日本の家では、いったん独立して家を出れば、実の息子・娘であっても他家のものとして認識され、外から入ってきた嫁よりも疎遠になる傾向がある。このことは、日本では、対面的な関係にあることが血縁という資格以上に重要であることを意味している。(中略)つまり、インドと欧米がいずれも資格を強調するのに対して、日本は場を強調する社会になっているわけである。

 

P136、したがって場は、いわば完結した「小宇宙」をなしており、その完結性(自律性と包括性)のゆえに、ウチとソトを分節する基本単位になっている。場は、場の外にいる同一の資格者との間の溝を深める一方で、場の中にいる資格の異なった者との距離を縮めることによって、ウチとソトの区別を際立たせている。「この感覚が先鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以外は、人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる」(中根1967:47)こうして場としての家や企業は、ウチとソトの間に厚い壁を設けることによって、ウチとソトを区別する強い指向性を生み出す、と中根はいう。

 →(ウチとソトを区別することも、ウチの内部の対立を緩和するのに役立つか?)

 

P139、(明治の)このような対外的契機と対内的契機を孕んだ状況のなかで、ほぼ時を同じくして二つのイデオロギーが登場してきた。それが「家族国家観」と「経営家族主義」であった。この二つのイデオロギーは、国内の統合をはるかために戦略として権力の側が打ち出されてきたものであり、これらのイデオロギーが描き出した「家族・企業・国家」の関係と現実の「家族・企業・国家」の関係を同一視するわけにはいかない。とはいえ、どのようなイデオロギーであれ、社会の実態を無視してはイデオロギーとしても機能しえない以上、これらのイデオロギーを支配権力が産み出した観念的虚構として片づけるわけにもいかない。まず、この二つのイデオロギーがどのような論理に基づいて秩序の再編成を企てたのかをみてみよう。

 家族国家観と経営家族主義は、同時期に出現しただけでなく、二つの共通点を含んでいた。それは、第一に、家族に擬制するかたちで国家や企業が構成されていたということであり、第二に、家族関係に擬制された国家内の関係や企業内の関係が、いずれも無私と情という二つの精神的要素によって構成されていたということである。

 「家は小なる国にして国は大なる家なり」という言葉に象徴されるように、国家と家の間にはアナロジカルな関係が設定された。このアナロジーによって、国家は家に擬制され、天皇は大家長、国民は天皇の赤子、天皇家は国民の宗家であるとされた。国家は家の拡大延長として観念されたので、親に対する子の「孝」と天皇に対する国民の「忠」は同一であるという「忠孝一致」の原則が打ち立てられた。

 

P142、経営家族主義は、企業を一大家族に見立て、企業内の雇用関係を親子関係に擬制した。経営家族主義のねらいは、労使関係を親子関係に擬制することによって、労働者と経営者との利害対立を抑えることにあった。そのため、近代的な契約関係から成り立っている欧米企業との違いが強調され、「我が国の伝統的な美風」が解かれた。しかし、「我が国の伝統的な美風」そのものが、当時の社会状況に対処するための人為的な創造物であった。こうして農民層の分解・武士層の窮乏化・職人層の没落・都市民の貧民化といった多様な契機のもとで創出された多数の賃労働者は、企業家族の成員という共通のカテゴリーでくくられることになった。

 

P144、家族国家観や経営家族主義といったイデオロギーに支配された戦前の社会は、戦後と比べて強力な統合を達成した社会であるようにみえる。けれども、そのような見方をすることは、ある意味でこれらのイデオロギーの内容に惑わされており、しかもその医龍は、単にイデオロギーと現実との間に落差が存在したということにあるのではない。むしろ、このようなイデオロギー統合を必要としたという事実にこそ、日本社会の統合力のある種の「弱さ」が潜んでいるのである。

 家族国家観や経営家族主義は、法や契約といった観念に頼ることなく、社会を道徳的に編成することを企てたが、このことは、すでに大きな困難を物語っている。なぜなら、抽象的な行為連関を規定することによって、社会構造を形成しうる法に対して、道徳というのは、対人的な交際様式─例えば、相手に対して尊敬をもって接するといった対人的な行動様式─を定めているからである。ミクロ規範によってマクロ構造を形成することの困難さを克服するために、国家や企業が家に擬制されたが、ここにはマクロ構造を一挙に創出しえない統合力の「弱さ」が潜んでいる。

 →(西欧社会は法や権力、日本はイデオロギーによって統合した。)

 

P145、西欧の全体主義は、家族をはじめとする中間集団を破壊することによって民衆を掌握しようとした。そのために、例えば子供たちに自分の親を監視させ、古い信念を持ち続ける親の裏切り行為を報告するように、子供たちを学校や青年組織などで訓練した。つまり、秘密の密告が家族関係を破壊するための手段として利用されたわけである。

 これに対して、日本の全体主義は、中間集団を破壊するどころか、中間集団を積極的に活用することを通じて民衆を掌握しようとした。日本では、西欧国家が保有していたような強大な権力や強力な法は不在であった。このことが、先に述べた意味での統合力の「弱さ」につながっていたのである。

 

P146、擬制の論理は、「家・企業・市町村・国家」の間に認識論的なアナロジーを打ち立てたが、それだけで社会を組織しえないことはいうまでもない。戦前の天皇制国家体制を築くうえで、家族国家観と並んで大きな役目を果たしたのが地方自治制度である。山県有朋が創設した地方自治制度こそ、家と国家の擬制的な関係に実質的な裏づけを与える制度であった。

 家族国家観は、天皇を頂点とするヒエラルヒー構造のなかに、すべての人間を位階的に配置したが、家や市町村の中心的存在である家長や地主は、そのなかで中間的な位置を占めていた。「国が大なる家」となり、「家が小なる国」となるためには、家の論理と国家の論理が相互に融合しなければならないが、その媒介的な機能を果たしたのが、これら中間者たちであった。

 ヒエラルヒー構造のなかで、中間者は、上位集団と買い集団の両方に属しており、二重の意味で媒介的な役割を演じている。すなわちは、中間者は、上位集団のなかでは買い集団の代表者として振る舞い、また下位集団のなかでは上位集団の代行者として振舞っている。中間者は、代表者として、下位集団の意思を上位集団に伝達することが期待されているが、反対に代行者として、上位集団の意思を買い集団に伝達することが期待されている。つまり、中間者の媒介機構というのは、上位集団のなかに下位集団の原理を持ち込んだり、下位集団の中に上位集団の原理を持ち込んだりすることにある。

 

P150、西欧的な公(パブリック)と私(プライベート)が「公共性(公開性)vs個人性(秘密性)」を基準にして区別されているのに対して、日本的な公(おおやけ)と私(わたくし)は、「集団の代表者vs非代表者」を基準にして区別されていた。有賀喜左衛門(1967)によれば、パブリックが公共性という抽象的な観念を表すのに対して、「おおやけ」は、「大宅・大家」を原義とし、集団の代表者を(も)指していた。集団の公と集団の代表者は同一視され、そのために公集団を構成する個人を越えた公共性の意味をもつことはなかった。一方、「私(わたくし)」という言葉は、元来民衆や家のことを指していた。

 

P153、したがって、このような公のヒエラルヒー構造のなかでは、公となる権力者は、自らの自由意志に基づいて行使できるような絶対的・専制的な権力を握っているわけではない。しかし、それでいて、権力とヒエラルヒーと(地域)共同体という二つの側面が構造的にリンクしているために、多数の中間的な存在を媒介にして権力の意思を社会の隅々に浸透されることができる。この位階的かつ共同体的な関係を支えていたのが、代表と代行という二つの媒介機能である。そして、興味深いことに、前章で述べた成人の甘えと、この二つの媒介機能の間には、一定の共通したコミュニケーション様式が認められるのである。

 

P160、つまり、個人間の関係にせよ、家同士の関係にせよ、関係を形成するにあたって、同族が家の存続・繁栄を最優先しているのに対して、家の拘束力が同族ほど強くない親類は、個人間の親密さを重視している。

 

P174、したがって、中間者の媒介機能を通じて二つの集団を連結するには、ここでも代表機能と代行機能との対立を隠蔽することが必要であるが、二つの機能がどの程度両立するするのか─また両立しない場合には、どちらの機能が優勢になるのか─は、その時々の社会的条件に規定されている。

 

P187、このように転写の論理には、いくつかのパタンが存在するが、転写の論理が日本社会のなかで作用し続けた根本的な理由は、おそらく「場の社会」という日本社会の特質に求められよう。日本社会が「場の社会」であるということは、対人関係を規制しているミクロ規範が社会構造をかたちづくるマクロ規範に優位していることを意味している。

 

P191、代行機能においては、上位者の権力行使が中間者によって代行されるか、それによって、上位者は権力の直接的な行使を行わずに済む。中間者による代行機能が強力であればあるほど、上位者は、それだけ権力を直接行使する必要がなくなり、それでいて上位者の権力が底辺へ浸透するという、驚くべき事態が生じてくる。最高権力者は、実質的な権力をもたない「空虚な中心」であっても、その支配権力を目立たない方法で堺の隅々にまで浸透させることができるのである。

 しかも中間者は、実際には単なる上位者の代行者ではない以上、権力行使には、上位者の意思以外に、権力行使を媒介するさまざまな中間者自身の意思が介在してくる。そうなると、権力の実質的な主体が上位者(権力の発動者)なのか、それとも中間者(権力の遂行者)なのかがわからなくなってしまう。こうして代行機能が何段階にも働くと、それだけ権力過程は不透明なものになる。

 日本社会には、権力の行使や責任の所在が覆い隠されていることは、これまで多くの論者によって指摘されてきた。例えば、K・ウォルフレンは、日本には、究極的な統治権を有する国家が形の上では存在しているものの、明確にそれとわかる権力集団は存在していないと主張した。形式上の権力と実質上の権力が剥離し、司令の流れる経路、責任の中心は、すべて曖昧模糊としている。現存しているのは、政治的中心としての国家ではなく、〈システム〉であるという。

  この〈システム〉は、明らかなパラドックスをいろいろとみせてくれる。采配をふるう強力な指導者さえいないのに、世界の経済征服を狙う巨人がいるような印象を与えてしまう。政治的中核が存在しないのに、国内の反対勢力をほとんどすべて抱き込んでしまう力がある。…その参加者の大半に、そうとはっきり意識されないまま、〈システム〉は存在する。姿も形もない。それどころか、法に照らした正当性もないのである(Wolferen[1989=1990:110-1]。

 いささか一面的な誇張を含んでいるとはいえ、権力が不可視的な形態を取るというウォルフレンの見解は、日本社会の権力構造の核心をついている。そして、権力の不可視化や政治的責任の不明確さは、代行機能を組み込んだ日本社会の制度的構造に起因している。例えば、稟議制は、意思決定における共同性を確保する代わりに、意思決定の責任を拡散させる効果を及ぼしている。意思決定に参画したものにとって、稟議書に目を通したという事実は自覚できても、自己のとるべき責任の範囲や程度は、容易に自覚できない。起案者(代行者)から見れば、自分の行為は、上位者の代理行為に過ぎないし、一方、決済者(上位者)から見れば、自分の行為は、起案者の行為の承認に過ぎないからである。

 →井原論文の天皇制論と同じ見方。

 

P198、言い換えれば、日本では、社会的対立の可能性を最初から前提にして社会的対立を解決するという欧米的な紛争処理様式とは対照的に、社会的対立の可能性を最初から表面化させないような紛争処理様式が確立されているのである。

 こうした紛争処理を可能にしていた要因の一つが、代理機能を内蔵したコミュニケーション様式であった。権利主張や権利行使を代理するという代理者の行動様式と、「隠蔽しつつ表現する」という被代理者の行動様式は対をなしているゆえに、「隠蔽と表現の結合」という恥の発生条件は、社会構造の編成原理にも組み込まれていたのである。

 

P200、ただし、「〝公〟と〝私〟の領域の区別をしないという伝統が日本にはある」(Wolferen[1989=1990:285])というウォルフレンの認識は正確ではない。「公私混同」と見える現象は、公と私を区別する基準が欠落しているために起こっているのではなく、公(おおやけ)と私(わたくし)という別の基準に従っているために、欧米的な意味での公私(パブリックとプライベート)の「混同」が生じているのである。欧米的な公私は、権力のハイアラーキカル(ヒエラルキー)な構造から独立している。人々は、誰しも公的空間と私的空間に属する機会をもつとはいえ、公的空間のなかでは公的原理に、私的空間のなかでは私的原理に従えばよい。理念的には、公的空間と私的空間は、それぞれ別個の原理に基づいているために直和分割されている。例えば、家の個室の発達と都市の広場の発達は、公的原理と私的原理の分化が空間的な分割を伴っていたことを示している。

 一方、日本の公私(おおやけとわたくし)は、権力のハイアラーキカルな構造に密着しており、この権力構造のなかで中間者は、下位集団の公を体現していると同時に、上位集団の私に相当している。中間者は、公と私、代表者と代行者という二重性格を帯びており、この二重性格によって上位集団と下位集団の媒介機能を果たしうる。それによって、上位集団と下位集団の各原理は相互に浸透し、どちらの集団から見ても、集団の内部と外部は、二つの交錯する原理に支配される。こうして、位階的な人間関係を規定する権力構造が、公(おおやけ)と私(わたくし)の分節機能を果たすとき、内部と外部の境界は定かでなくなるとともに、欧米的な意味での公と私は混淆するようになる。

 そして、このような社会領域の相互浸透的な状態が恥を構造的に発生させる基盤となる。というのも、内部と外部のいずれの領域においても二つの原理が混在しているため、予期の期待面と隠蔽面が交錯する可能性が構造的に設定されるからである。二つの領域が完全に同質化した状態においては、いずれの領域に位置していようと、内部と外部をともに支配する一個同一の原理に従えばよく、また内部と外部が明確に分節された状態においても、それぞれの領域に固有な原理に従えばよい。こうした状態のもとでは、秘密の露見は、偶発的に起こっても、構造的に惹き起こされることはない。

 ところが、内部と外部の相互浸透的な状態においては、内部領域と外部領域のいずれに位置していようと、二つの異質な原理に拘束されるために、秘密の露見が構造的に起こりうる。二つの異質な原理に支配されると、予期の期待面と隠蔽面の分節の仕方がずれてくるが、その結果、一方の原理のもとで表出されるべき事柄が、他方の原理のもとでは隠蔽されねばならないといった事態が構造的に惹き起こされる。こうした構造的なズレが、自分の予期に反するかたちで他者の予期を裏切ってしまう「予期の二重の違背」─シェーラー的な言い方をすれば「志向性のズレ」─を誘発する。したがって、転写の論理に基づく「場の社会」の構成は、恥の構造的な発生可能性を孕んでいるのである。

 →日本には「公」と「私」という分類が存在しなかった。大きな家(公)と小さな家(私)の階層性と代理機能があっただけ。公もプライベートの一種で、私もプライベートの一種だった。影響力を及ぼす範囲の大きいプライベートが「公」だった。日本には純粋な公的空間が存在しない。内裏は政庁であるとともに、天皇の私的な家でもある。幕府御所も役所であると同時に将軍のプライベートスペースでもあった。現代的・西洋的な意味での公私分類が存在しない。井原論文との共通点・相違点を考える必要がある。

 

 

第4章「行為の意図性と非意図性」

P225、日本では、自然と人為を問わず、出来事を「おのずからなる」ものとして捉える発想が強いが、そうした発想を支える一つの規定的な要因となっているのが日本語である。池上嘉彦によれば、どの言語にも、「場所の変化」と「状態の変化」を表現する言葉があるが、それらの変化を表現する際、英語と日本語では対照的な転用形式が見られるという(以下、池上[1981]をもとにして述べるが、池上のいう「場所の変化」は、位置の変化に該当するので、ここでは「位置の変化」と記す)。

 英語の場合、「go」や「come」のような動詞は、本来「行く」「来る」という「位置の変化」を表しているが、「なる」という「状態の変化」を表す言葉にもなる。(中略)一方、日本語の場合、「なる」という動詞は、本来「状態の変化」を表すが、「御殿様ノオ成リ(御殿様が来る)」という文章からもわかるように、「位置の変化」を表す言葉にもなる。

 

P230、必然性と偶然性は、確かに概念的には対立しており、相互否定的な関係にある。必然性は、存在が自らのうちに十分な根拠をもち、必ず有ることを指すのに対して、偶然性は、存在が自己のうちに十分な根拠を持たず、たまたま有ることをいう。そして、世界のなかに必然性を読み取った場合には、必然性は「法則」「原理」「摂理」として立ち現れるのに対して、世界を偶然性の集積としてみた場合には、偶然性は「宿命」「運命」として立ち現れる。

 けれども、完全な必然性と完全な偶然性─言い換えれば一切の偶然性を排除した必然性と一切の必然性を排除した偶然性─は、どちらも外部からの介入を許さない点で一致している。現象の過程が必然性によって完全に支配された場合にも、また全くの偶然性に委ねられた場合にも、外部からの統制可能性は排除されてしまう。九鬼は、運命を偶然性と必然性の異種結合として位置づけたが(九鬼九周造『偶然性の問題』岩波書店[1935])、運命(宿命)は、むしろ必然性へと転化した偶然性と言えるだろう。

 

P232、一定の必然性と一定の偶然性が存在する限り、人間は、その過程に対して統制的な介入を行えるが、必然性と偶然性がともに働く限り、それらは、異なった意味で意志の介入を打ち砕くようにも作用する。対象に対して選択的に働きかけようとする人間の意志は、絶えず裏切られる危険性に直面している。それゆえ、自由と不自由は、一定の必然性と一定の偶然性との共存という、同一の存在基盤のうえに成り立っているのである。

 このことは、自然と人間との関係のみならず、自己と他者の関係という社会領域においても妥当する。社会的予期の不確定性(コンティンジェンシー)─すなわち予期された事柄が別様でありうること─は、単に自己と他者との相互行為に内在する偶然性のみに起因しているのではない。相互行為の過程が偶然性に満ちているならば、そもそも他者の行為を予期することは不可能であり、また逆に「他者は何をするのかわからない」という予期に関しては、確実に的中することになる。ここでも完全な偶然性は、一種の空虚な必然性へと転化しうる。何れにしても、予期の違背可能性は、同時に予期の充足可能性でもある以上、「他者は何をするのかわからない」という予期は、厳密な意味で充足可能=違背可能であるとは言えない。

 一方、社会的次元において、行為の必然性を生み出す要因には、①自己と他者との相互行為を規制する「社会的規制」と、②その相互行為を営む自己および他者の「個体的同一性」─それは、必ずしも近代的主体としての個体的同一性ではなく、近代的主体を一つの特殊なケースとして含む広義の個体的同一性─という二つの要因がある。

 

P241、社会的規則というのは、自己の人格性と他者の人格性をともに捨象しつつ、自己と他者がどのような人格であれ、二人の行為の必然的な連関を生み出している。自己と他者がそれぞれ社会的規則に従って相互行為を営む場合には、この規則に則って相手の行為を予期することができる。これに対して、自己と他者がそれぞれ人格的主体として対峙する場合には、それぞれの人格的同一性から派生する行為の必然性に基づいて相手の行為を予期することができる。

 

P249、人間が自然に内属しているということは、人間が自然の原理に従属させられる反面、自然に対して能動的に参与するための根本条件でもある。人間が物質的存在でもあるからこそ、自らの物質性を介して物質的対象に働きかけることができる。つまり、「自然への随順」こそ「人間の自由」を可能にしているのである。

 

P257、②無私。本居宣長が儒仏の思想とともに武士の精神を嫌ったのは、それらが「本情ヲ隠シツクロフ」ことを強いる抑圧的な性格を備えていたからである。討ち死に前にして「古里の父母を恋しく思い、妻子にいま一度会いたいと願い、命も少しは惜しいと思う気持ち」を抑えること、これこそ無私の精神にほかならない。無私の精神は、中国から入ってきた禅(鎌倉仏教)と深い結びつきを保ちながら、(東国)武士団の主従関係を成り立たせる精神的な支柱となってきた。武士の主従関係は、情宜的であるとはいえ、けっして「もののあはれを知る心」によって結ばれた関係ではない。それは、この主従関係が(少なくとも一定の)情に対する抑圧のうえに成り立っていたからである。宣長は、武士的精神の本質が本心を隠すという隠蔽性にあることを見抜いていたのであり、それゆえ武士的精神への批判を通じて「もののあはれを知る心」を擁護したのである。

 

P275、要するに、西欧近代社会は、意志に対して意志を以て対処するという方法を選択したのである。意志の自律は、自然と人間の分離のみならず自己と他者の分離と相関しており、自然的世界から切り離された社会的世界に固有な問題を発生させる。カントにとって意志の自律は、意志の働きを規定する道徳法則を意志自らが規定することを指していたが、このことは、医師が自己と他者の分離を通じて惹き起こした問題を意志自身の働きによって解決するということにほかならない。

 

P282、こんどは、戦後日本の保険制度に目を向けてみよう。久枝浩平によれば、日本でも「講」のように、先の見通しが立たないという理由で不時に備えることはあったし、今でも保険の契約は「何が起こるかわからないから保険をかけておこう」という考え方で交わされることが多い。ところが、西欧世界で発達した「近代的保険システム」というのは、そうした発想に基づいているのではなく、合理的な確率計算(場合の数を数えること)によって〝予測しうる損失〟を補填する、という明確な目的をもっている(久枝[1976:21])。

 

P286、一方、日本社会の歴史的発展は、「みずからする」という作為的な契機を増大させてきた。作為的な契機の増大は、近世以降において著しく進行したとはいえ、その萌芽は、すでに中世的な段階に見られる。中世封建社会は、近代個人主義に先行する「封建的個人主義」を育んだ社会であった(桜井庄太郎『名誉と恥辱─日本の封建社会意識』[1971])。「わたくし」という言葉が一人称としての自分を指すようになったのは室町時代であり(安永寿延「公と私の観念の変遷─異文化との接触を軸として」『年報社会心理学』23[1982])、この時代には、家屋空間の内部分節も進んだ(井上充『日本建築の空間』[1969])。そして「〜ならば(必然仮定)」「〜たらば(偶然仮定)」といった仮定表現が多様化したのも、鎌倉時代から室町時代にかけてであり、とくに室町時代において一般化した(阪倉篤義『日本語表現の流れ』[1993])。こうした一連の事実は、日本でも早くから自他の分離が進み、社会的不確定性が高まったことを意味している。

正村俊之著書 その1

  正村俊之『秘密と恥』(勁草書房、1995)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章「秘密と恥」

P8、自己提示を行う際、他者に対して表現される側面と隠蔽される側面の関係は、ヘーゲルが述べた「規定(肯定)と限定的否定」の関係に相当する。あるものを規定(肯定)するとは、諸々の限定的否定を加えることにほかならず、行為の世界も、同じ判断の構造のうえに成り立っている。「私は高潔な人間である」という自己呈示は、「私は泥棒ではない、ペテン師ではない、殺人者ではない…」といった諸々の限定的否定を加えることでもある。もし、それらの限定的否定に反する自体が一つでも他者に発覚されれば、自己呈示は失敗に終わるだろう。

 自己提示を成功させるためには、呈示したい自己像に反する一切の側面、いいかえれば自己提示という価値実現の外側に立つ一切のハンカチ的な行為や自体を隠蔽しておかねばならない。自己を「陽気な人間」として提示するためには、他者に対して「陽気な自分」を表現すると同時に、「陰気な自分」を隠蔽することが必要であり、「陰気な自分」が秘密として構成されねばならない。それゆえ、自己呈示行為と反価値的秘密は、機能的には適合的だが、内容的には対立的な関係にある。

 戦略的秘密(戦略的行為を成功させるために隠蔽しておかねばならない秘密、P8)と反価値的秘密(自己呈示を成功させるために隠蔽しておかねばならない秘密、P8)は、いずれも非措定的秘密(あらかじめ銘菓になっていない)として現象することもあれば、措定的秘密(あらかじめ明確になっている)として現象することもある。

 また反価値的秘密にも二つのタイプがある。呈示したい自己像に反する可能的な事態は、往々に予期しないかたちで出現するゆえに、それらの多くは、非措定的秘密になっている。自己呈示を成就するためには、こうした可能的な事態を現実化させてはならず、非措定的秘密が保持されねばならない。しかし、隠蔽の対象となる事柄がすでに起こっている場合には、隠蔽の必要性が比較的自覚されやすく、措定的秘密となる可能性が高い。

 

 →社会に対して呈示したくない自己(反価値的秘密)を呈示することを避けるために自害する。このまま生きていると、理想的な自己像と矛盾する事態を提示してしまう。生きていること自体が、反理想的自己の証明になってしまう。それを避けるには、反価値的事実を秘密として隠蔽するか、隠蔽できないなら、そうではないことを証明するしかない、つまり、自殺するしかない。そうなると、自殺を止めるには、その価値観を捨てる以外に方法はない。価値観というものが、可変的で不変でない。

 

P10、それに対して、遂行的秘密は、相互行為の種類が何であれ、対面的な相互行為そのものを成り立たせるために要請された秘密である。遂行的秘密は、行為者の目標とは無関係に、相互行為の展開に即して発生するので、この秘密には、状況の進展とともに現れては消えていく状況的秘密が多いが、なかには、いかなる状況にも伏在している構造的秘密もある。いずれにせよ、遂行的秘密は、主体の目標との連関のなかで反省的に捉えられうるが、その時には戦略的秘密や反価値的秘密に変質してしまう。

 例えば、今二人の人物(X氏とY氏)が会話している場面を想定し、X氏がY氏の話に憤りを感じたと仮定しよう。X氏の心に芽生えた怒りは、徐々に膨れ上がるが、怒り心頭に発しようとした時、X氏は後々のことを考えて、平静さを装ったとする。ここで遂行的秘密が発生している。なぜなら、怒りを秘めておくことは、対人関係の維持に役立つとともに、最初の時点では、怒りを秘めておく必要性が本人にも自覚できていないからである。相手との関係を維持することが自分にとって得策であると判断された時点で、この秘密は意識化されるが、同時に、対人関係の維持という個人的目標を遂行するための戦略的秘密に変わっている。

 

 

P13、自然現象が予測可能であるのは、自然現象が「原因/結果」という因果的連関に服しているからであるが、社会的行為は、自然現象とは違って、価値的(規範的)な規制のもとにおかれてもいる。そのため、行為に内在する因果的連関だけでなく、価値的連関を把握することによって相手の行為を予期することができる。つまり、予期は、「予測(因果性)」と「期待(価値性)」という二つの側面をもっており、予測されると同時に期待されるわけである。期待の原初的な形態は、「〜してほしい」という「願望(感情性)」であるが、社会的行為において期待の核をなすのは、役割期待のように「〜すべきである」という「当為(規範性)」である。価値を広義に解釈するならば、願望は「感情的価値」であり、当為は「規範的価値」であるといえよう。

 

P30、対人恐怖が恥と秘密との関連性を裏付ける一つの傍証になるとはいえ、恥の現象は、秘密と同様に多様である。日本語には、恥を表現する数多くの語彙がある。①みっともない、②きまりが悪い、③はずかしき(相手が立派な)、④間(バツ)が悪い、⑤照れる等々。これらの語彙からもわかるように、恥には、一般に理解されている「恥」以外に、はにかみ、照れ、さらには人見知りと言ったものも含まれる。人に褒められたときの「照れ」も恥の範疇に入るのであり、この照れが自分の弱点の現れでないことは確かである。しかし、このような現象的多様性にもかかわらず、恥はすべて秘密の露見になっている。

 

P36、「見知られる不安」(人見知り)とは、見知らぬ人物のなかに投影された「悪い(嫌いな)母親」(子ども自身の思い通りにならない母親)が「悪い(嫌いな)自分を発見するのではないかという不安、言い換えれば、自分は人から嫌われるのではないかという不安である。この不安が恥の意識の原型をなしている。恥が「逆立ちした愛」(向坂1982)と言われるのも、この点からうなずける。

 愛という感情的価値は、人格形成の初期的な段階において自他関係の良否を判別する基本的な基準であるが、認知能力や評価能力の発達に伴って、各種の規範的価値が感情的価値のうえに積み上げられていく。個人の内面的世界のなかで規範的価値が新たに構築されると、期待面と隠蔽面の分節構造も変化して、恥辱や羞恥といった新たな恥の形態が出現する。人見知り・恥辱・羞恥のいずれであれ、価値・秘密・恥の間には共通の構造が存在しているが、恥は、価値意識のあり方に対応して、人見知り・恥辱・羞恥という三つの形態に大別される。人見知りが感情的レベルの価値意識に支えられていたのに対して、恥辱や羞恥は、規範的レベルの価値意識に支えられており、恥辱と羞恥の違いも、予期の期待面を規定する規範の違いに関連している。

 規範には、①社会の全域を網羅する「マクロ規範」と、②局所的な場において成立する「ミクロ規範」がある。マクロ規範の代表的なものが法であるが、ミクロ規範には、さらに①会話規範のように、あらゆる対面的相互作用の場面で要請される「一般性・普遍性」の高い規範と、②特的の集団・組織・階層の内部で妥当する「特殊・個別的」な規範がある。マクロ規範や、会話規範のようなミクロ規範は、社会の全構成員にとって内面化の対象となるが、それだけに自己と他者を種別化する働きが弱く、自我理想の実質的な成分にはなりにくい。これに対して、特殊・個別的なミクロ規範は、当の集団・組織・階層の構成するメンバーによって内面化されるだけだが、その規範を内面化した人間とそうでない人間を種別化することによって自我理想を容易に担いうる。同じミクロ規範といっても、行為者の内面的世界のなかで果たす役割は、必ずしも同一ではない。

 そこで、①自我理想をかたちづくるミクロ規範の総体を「自我理想的価値」、②対面的な相互作用を成り立たせるミクロ規範の総体を「相互作用的価値」と呼ぶならば、価値と秘密の関係は、次のように定式化することができる(図1・4)。すなわち、自我理想的価値の裏面をなすのが反価値的秘密であり、相互作用的価値の裏面をなすのが遂行的秘密である。これらの秘密が露見した時に生ずる恥が、それぞれここでいう「恥辱」と「羞恥」である。羞恥は後回しにして、まず恥辱について説明しよう。

 

P37、ここで恥辱とは、日常的な恥辱の概念より広いが、単なる「間の悪さ」「照れくささ」とは違って、「みっともない」「きまりが悪い」といったダメージ的な要素を含んだ恥を指している。そのなかには、恥辱性の薄いものから屈辱的なものまで、様々な恥が含まれるが、いずれにしても、恥が自我理想からの失墜に由来し、自己の劣位性を意識させる点で共通している。そして恥辱には、①人前でかく恥と、②一人ひそかに抱く恥がある。作田啓一(1967)や井上忠司(1977)らの用法にならって、①前者のタイプを「公恥」、②後者のタイプを「私恥」と呼ぼう。

 

P39、要するに、公恥と私恥の違いは、自己提示の評定者が他者なのか自己なのか、また自我理想を構成する価値が所属集団の価値なのか準拠集団の価値なのかという点に帰着する。だが、どちらにおいても、恥は自我理想からの失墜として体験されており、その失墜は、自己提示における反価値的秘密の露見という点で構造的には同型なのである。

 

P45、このように羞恥の核心は、遂行的秘密の露見にある。遂行的秘密によって逆照射された相互作用的価値とは、次のような諸規範の複合体をなしている。①他者の面前で困惑しないこと、②他者を困惑させないこと、③他者に対する攻撃性(反感や敵意)を抑えること、④自分に誇りをもち、かつ他者に対して謙虚になること、⑤第三者の相互行為を撹乱しないこと等々。

 これらの規範は、コミュニケーション理論のなかで「会話規範」として分析されたものに近い。G・リーチ(1983=1987)は、会話の原理を「協調の原理」と「丁寧さの原理」に区分したうえで、「丁寧さの原理」として、①気配りの原則(他者に対する負担を最小限にせよ)、②寛大性の原理(自己に対する利益を最小限にせよ)、③是認の原則(他者に対する非難を最小限にせよ)、④謙遜の原則(自己の賞賛を最小限にせよ)、⑤合意の原則(自他の意見の相違を最小限にせよ)、⑥共感の原則(互いの反感を最小限にせよ)をあげている。丁寧さの原理も、自己と他者の共存的な関係を作り出すことに役立っている。

 

P46、以上のことから、秘密と恥の関係について次のことが言えよう。すなわち、恥辱(公恥と私恥)との羞恥の違いは、露見する秘密の種類にあり、また秘密と対をなす価値の種類にある。自我理想的価値は、地位・身分・階層・集団に含まれる社会的な種別性をもとにして個体の固有名性を規定しており、相互作用的価値は、個体の匿名的・社会的な存在性を規定している。

 どのタイプの恥も、秘密の露見として現象するが、秘密の露見のすべてが恥を発生させるわけではない。秘密のなかで戦略的秘密は、恥には関与しない。戦略的行為が不成功に終わったとしても、自分(たち)の目標が遂げられなかったにすぎない。戦略的秘密の露見は、反価値的秘密の露見となる限りにおいて、恥を生む。例えば、重大な企業秘密をうっかり漏らして恥を掻くのは、自分のうかつな面が露呈したからである。戦略的秘密は、戦略的行為の成否を規定する要因であるが、戦略的行為は、単独の行為として現象しうるゆえに独我論的な構造をもっている。しかし、恥は、つねに現実的な他者もしくは想像的な他者としての自分に志向するような相互行為の過程で発生し、とりわけ羞恥は、社会関係のそのものを成り立たせる相互作用的価値の裏面をなしている。秘密と同様、恥も本質的に社会的なのである。

 

P55、恥の無化作用は、社会関係の粉砕を意図するような破壊作用ではない。破壊作用は、一定の意志の働きに根ざしているが、恥の無化作用には、そうした意志は介在していない。秘密の露見は、自分の意志に反して他者の予期を裏切ってしまうことであり、そこでは自分自身の予期も同時に裏切られている。社会的な秩序を樹立しようとする行為者の試みは、本人の意志をも超えた偶発的な出来事に直面して挫折させられ、それまで社会関係を築くために払ってきた努力は水泡に帰す。その意味で、恥は秩序の運動を停止させるようなカオスの力が発現した状態でもある。

 とはいえ、恥の無化作用は、単なるネガティブな作用ではない。それはちょうどカオスが秩序と一見対立するようでいて、秩序を生成する原動力になるのと類似している。恥は、「有るべきものが無く、無いはずのものが有る」という点で「理想的有」からの逸脱であるが、恥は、この逸脱を通して本来のあるべき状態を逆照射してもいる。現実の世界というのは、理想的有が不完全なかたちで実現しているのが常である。予期の相補性を支える諸規範も半ば無自覚のうちに遂行されている限り、これらの規範は、侵犯されていないかわりに完全に自覚化されることもない。ところが、恥は、その逸脱的な事態を通じて本来何が価値として成就されねばならなかったのか、そして何が秘密として保持されねばならなかったのかを指し示すのである。

 

P63、恥は、それ自体が社会的逸脱であると同時に、社会的逸脱に対する制裁様式でもある。そのため、一見逆説的だが、「恥を掻いてはいけない」という恥の制裁様式は、逸脱としての恥を多発させる社会においてこそ意義を有している。というのも、恥が例外的に起こる現象であるならば、そうした逸脱に対する制裁を加えても、その効果はおのずと知れているからである。恥に対する強い制裁様式を働かせる社会というのは、実は恥に構造的に発生させる社会でもある。このような社会のなかでこそ、「人に笑われないように」とか「恥を知れ」といった恥固有の制裁様式が秩序形成に役立つのである。

 

 →恥を構造的に発生させる社会とはどんな社会か?

 

P65、社会は、それぞれの境界をもった集団・組織を多層的に包含した体系として、重層的な境界構造をなしているが、秘密は、そうした社会的境界の設定にも関与している。秘密の保持は境界を設定し、秘密の共有は境界を取り払う効果をもつゆえに、この二つの作用が合体すると、境界を設定する力と境界を解除する力がともに働き、「あると同時に内容な境界」が確立される。

 このような境界状態こそ、恥を発生させる構造的な基盤となる。なぜなら、境界のないところでは、秘密を保持する必要がなく、また明確な境界があるところでは、秘密の漏れる可能性が少ないが、恥が発生しやすいのは、秘密を保持する必要がありつつ、秘密の漏れる可能性が高いところであるからである。日本社会が恥を構造的に発生させるならば、社会の内部的な境界構造にも、「あると同時にないような境界」という構造的な特徴が見出されるはずである。

 

 →自殺に当てはめるとどうなるか?自殺に至らしめる恥はどんな恥か?

 

 

第2章「義理と甘え」

P69、秘密と恥は、社会的コミュニケーションのいわば「負の側面」をなしている。秘密は、隠蔽されたメッセージであり、恥は、隠蔽されているはずのメッセージが伝達されることによって、社会的予期の相補性が裏切られる逸脱的な事態である。もっとも、いかなるメッセージが秘密として構成されるのか、またいかなる逸脱的な事態が恥として現象するのかは、社会的予期を構造化している規範のあり方に依存している。

 

P72〜74、義理=意地説(一分説)。義理=「他への配慮」説。義理=「好意の交換」説。そして武士にとっては、恥辱を受けた時には、恥を雪ぐこと自体が義理となっており、この義理が「道義としての義理」である。「恥、名、体面は武士の義理行為の動機であり、義理の至上命令者であるが、恥を思ふことが義理の心理的な衝動力に止まらず、やがて武士的な恥を雪ぐこと自體が義理」(姫岡1944:194)となった。この「道義としての義理」は、自らの体面(一分)を保つことを規範化している点は、《意地(一分)説》の主張した義理と重なる。

 

P77、義理は、「正しい筋道」を表していたが、この原義に即して解釈したのが《道義(規範)説》である。守随憲治によれば、義は孟子によって発見・制定されたが、義理は、その義の直系的な形式にあたる。ただし、義が正義や道義に言い換えられる点で、一般性や包括性をもち、抽象的な内容を表しているのに対して、義理は、はるかに具象性に富んでいる。「道或いは誠という名目を、最も具體的な對人関係の性質において一一の条理として解説したものが義理といはれるのである」(守随1941:13)。

 一方、有賀喜左衛門の場合には、「義理とは、日本の社会関係を規制する一定の生活規範」(有賀1955=1967:211)のことであり、「社会関係が上下関係であっても、平等関係であっても、あるいは個人的関係であっても、家関係であっても、さらに多人数の集団であっても、集団のもつ生活規範」(同:211)を指している。そして、人情が私的な事柄であるのに対して、義理は公的な性格をもち、公が私に優先されるように、義理は人情に優先されるという。

 

P81、作品(西鶴諸国ばなし)に登場する武士たちは、自分自身に対する「誇り」と他者に対する「配慮」をもって相手と接している。相互作用儀礼論のなかでゴッフマンは、行為者が自分の面子を救おうとする動機の一つとして、「自己イメージに対する情緒的固執」をあげているが、誇り高き自己イメージに対する情緒的固執こそ、《意地(一分)説》が主張した「意地(一分)」に相当する。《意地(一分)説》が把握した義理は、「名聞を思い、末代の恥辱を思う念」を発するものであり、義理行為は、自己の面子を保とうとする動機に突き動かされている。自らに誇りをもち、面子を保とうとすることは、さまざまに変化していく社会状況のなかで、自己イメージに合致する仕方で一貫した行動を取り続け、社会的期待に継続的に応えることを可能にしている。《意地説》が着目したのは、このような仕方で行為者の個体的な自立性を支える義理の側面であった。

 

P82、したがって、義理の本質をそれぞれ「自己の意地(体面)」と「他者への配慮」に求めた《意地(一分)説》と《「他への配慮」説》は、「自己の誇り」と「他者への思いやり」という、相互作用儀礼に内在する二つの局面を洞察していたことになる。義理は、その意味では「自尊心と思いやり」あるいは「誇りと謙虚さ」に基づいて相互作用を成立させる相互作用儀礼規範の一種であった。

 一方、残りの《「好意の交換」説》と《交際説》は、別種の相互交換(相互贈与)を主題化していたとはいえ、どちらも義理が相互交換(相互贈与)を促す規範であることを示している。義理は、社会的共存の仕組みとして「他者への配慮」を義務づけていただけでなく、贈与に対する返礼をも義務づけていた。なかでも《「好意の交換」説》は、「言葉に対する義理」「契約(約束)に対する義理」「信頼への呼応としての義理」といったさまざまな義理の存在を提示したが、自分の言いだした言葉を厳格に実行したり、相手と交わした約束や契約を忠実に履行したり、相手の信頼に誠意をもって応えたりすることは、どれも体面的な相互作用に欠かせないものばかりである。

 

P85、恥が「恥辱」と「羞恥」に分節されたように、義理も、個体的な自律性と社会的な共存性にそれぞれ関与した二つのタイプに大別される。それぞれを「体面規範としての義理」「返礼規範としての義理」と呼ぶことにしよう。

 

P90、この(桜井)文章は、武士の対面意識を論じたものであり、義理を町人階級の社会意識として捉えた桜井にとっては、義理を説明したものではない。しかし、先に述べたような意味で、義理と体面意識との関連を認めるならば、櫻井の指摘は、逸脱に対する制裁様式としての恥が、体面規範としての義理にどのように関与したのかを示している。すなわち、体面を保つことが規範化されている武士にとっては、「武勇」が自我理想的価値であり、その対立物である「臆病・卑怯」が反価値的秘密を構成している。武士における恥辱は、この秘密の露見として生じている。「臆病・卑怯」な面が露呈した事態は、本人の意に反しているだけでなく、勇敢な武士として振る舞うことを期待していた他者にとっても意外さを生んでおり、この予期の違背が他者の笑いを誘っている。恥と笑いは、ここでも社会的予期が裏切られた逸脱的な事態として現象している。

 

 →嘲笑のなかに自己否定の意味を付け加え、汲み取るから。

 

P91、体面規範としての義理は、恥の制裁機能に助けられながら、体面(面子・名)の維持を義務づける規範であった。自己の体面を維持するには、体面(面子・名)と結びついた役割や規範を完遂しなければならず、恥は、そうしたかたちで規範の遂行を導く原動力となっていた。姫岡の言葉を借りれば、「「武士たるものの恥辱とはただ一雫の濁り水も、名字にかかるは洗ふに落ちず濯ぐに去らず」(女殺油地獄)、「大事の武士の名をよごし先祖子孫の恥辱と成」(日本西王母)っては、武士の一分が立たないから、「恥と云ふ字に命を捨てて」(国性爺合戦)義理を立てなければならない」(姫岡勤「義理の観念とその社会的基礎」『社会学研究』1高山書院[1944:194])。義理は、また自己の面子を失った際には、恥を雪ぐこと自体をも義務づけており、「道義としての義理」は、義理のこのような側面を表していた。このように体面規範としての義理は、恥の回避を要請しつつ、恥に動機づけられながら機能する規範であった。

 

P92、なお、武士の倫理は、従来「封建的・前近代的な倫理」として捉えられてきたが、武士の恥が個人主義的な態度を助長したということに改めて注目する必要がある。というのも、「日本の思想で西欧近代の個我の思想に最も近いのは、武士の独立の思想であった」(相良1984:62)からである。相良亨によれば、武士には「自敬の精神」が強く流れており、自らを敬うに値する武士として自己を持そうとした。武士を心がけるものは、恥辱を受ければ、自らの生命を投げ捨ててでも恥を雪ごうしたが、また他人に恥辱を与えれば、ただでは済まないことを知っているゆえに、他人を不用意に辱めることを謹んだ。武士は、ゴッフマン流に言えば、自己と他者の双方に対して「敬意」を払う態度をとっていたのであり、「恥や名を重んじる姿勢も、この自らを持し他を敬う姿勢とのかかわりにおいて理解されねばならない」(相良1984:48)。このような武士の精神が明治時代における「独立の思想の素地」を築いたと、相良はいう。

 恥は、私恥・公恥・羞恥を問わず、個人主義集団主義のいずれの方向にも原理的に進みうるが、右にあげた事実は、私が本質的に集団主義的な制裁様式でないことの証左といえよう。

 

P102、西欧近代社会は、さまざまな法的・倫理的な諸条件を整備することによって近代的な契約関係を根幹に据えた制度的体系を構築したが、一方、徳川幕藩体制のもとでは、近代的な契約関係を全面的に開花しえないまま、新しい社会問題に対処しなければならない社会状況が存在した。心情規範としての義理は、このような社会状況のなかで誕生したのである。

 人情という、他者に対する共感的な心情が自然に湧き出るは、家族に代表されるような非契約的な関係である。ところが、義理は、擬制のメカニズムによって、契約関係と非契約関係との擬似同一性を確立することによって、非契約関係のなかで発生する共感的な心情を契約関係に転移させている。義理は、「擬制された情緒で支えられ」(川島武宜)、「擬制された共感関係である」(源了圓)といわれるように、擬制のメカニズムを利用することによって、本来共感的な心情が湧きにくい契約関係のなかで共感的な心情を息づかせようとしている。つまり、相手を裏切ってでも自己の利益を追求しようとする利己的な行動を抑止し、契約関係に孕まれる危険を取り除くのである。擬制はここでも古い枠組によって新しい問題を解決するための方法になっている。

 

P110、ルーマンによれば、義理は、予期のコミュニケーションに内在する危険を取り除くために予期のコミュニケーションを回避している。ここで予期のコミュニケーションとは、単に他者の行為を相互に予期するだけでなく、自分の行為に対する他者の予期を予期することが相互に行われること指している(「予期の社会的再帰性」)。予期が社会的再帰性を帯びると、自分の予期が裏切られる危険性も高まってくる。予期が裏切られた際には、現実に即して予期を修正する場合(「認知的予期」)と、現実に抗して予期を堅持する場合(「規範的予期」)があるが、西欧では、この二つの予期様式が分化した。それに応じて、交際と法も分化し、予期様式の相互の安定化が可能になった。例えば、法規範が破られた時に、法を修正するのではなく、法を破った者が罰せられるという事態は、法的予期が規範的予期として位置づけられたことによって生まれた。ところが、義理は、予期が表明される以前に充足されることを要求しており、それによって予期のコミュニケーションに伴う危険性を回避している。このことは、別の言い方をすれば、義理が交際と法の分化を回避していることでもあると、ルーマンはいう。

 義理は、正確に言えば、予期のコミュニケーションを単純に回避しているわけではない。なぜなら、「察し」に依存したコミュニケーションは、「予期の予期」に基づいているからである。送り手は、受け手が自分の心中を察することを察知しながらメッセージを伝達している。そこでは、行為者は、自分の立場から相手の意図を察知するだけでなく、相手の立場から自分(相手の相手)の意図を察知しており、相手の「察し」をあてにしながら行為している。その意味で、このコミュニケーションは「予期の再帰性」を前提にしているのである。

 にもかかわらず、義理は、ルーマンが指摘するように、予期の違背可能性を事前に封じ込め、予期のコミュニケーションに内在する危険性を排除している。義理は、擬制的なメカニズムを通じて異質な社会関係の間の差異を隠蔽し、疑似同一的な関係を確立することによって、すべての他者に対して等しく献身的に振る舞うことを要求している。このように道徳的要請のもとで、義理は、予期のコミュニケーションに孕まれる危険性を取り除いているのである。

 義理が社会関係全般を帰省する根本規範になると、「交際と法の分化」─より正確にいえば、ミクロ規範とマクロ規範の分化─は回避されることになる。本来、交際と法は、それぞれの社会のミクロ的次元とマクロ的次元を構成している。日常的な交際に関与するミクロ規範は、望ましい対人関係を定めており、一方、法のようなマクロ規範は、社会構造を構成する行為連関を定めている。法的な領域では、規範的予期を貫徹させられるのに対して、日常的な交際の場面では、規範的予期を貫徹させることは難しい。例えば、会話のルールを破って、相手の予期を裏切ったからといって、そのものを処罰するわけにはいかない。

 ところが、義理は、恥の社会的制裁機能を強化し─例えば、恥辱を受けた場合には、恥辱を晴らすことを義務づけ─、相手の如何にかかわらず、相手に対する律儀な振る舞いを道徳化することによって、規範的予期の貫徹をはかろうとしている。こうして義理が日常的な交際を統御するだけでなく、社会構造を存立させるという二重の課題を課せられると、ミクロ規範とマクロ規範の分化は回避されることになる。そして、このような義理の戦略が「潜在的な社会的緊張をもたらす」ことは明らかである。社会状況が複雑化すればするほど、このような戦略は、社会的緊張を顕在化させることになる。内面的な葛藤状態としての「義理と人情の板ばさみ」は、同一の原理に基づいて異質な社会関係を編成することの社会的矛盾を反映していた。

 

P116、社会を特徴づける基本的な現象がたとえ幼児的性格を呈していても、それは外見上の類似性にすぎない。

 したがって、ここでは母子関係に内在する通文化的概念としての「甘え」と、日本社会を構成するコミュニケーション様式としての「甘え」を区別しよう。もちろん、この二つは単なる別物ではない。というのも、星人のコミュニケーション様式としての甘えは、母子関係に内在する甘えを犠牲したものにほかならないからである。

 

P118、社会関係と社会的行動の間には、一方を原因とし、他方を結果とするような因果関係が存在しているわけではない。Aという関係とA‘という行動との間に一定の照応関係がある場合、「Aという関係が成り立っているから、A’という行動をとれる」ともいえるが、また「A‘という行動をとれるから、Aという関係が成り立っている」ともいえる。行動は、それ自身が関係の定義づけとして機能することによって関係の成立を導いてもいる。幼児の勝手気ままな振舞は、木村が言うように自他一体的な関係を前提にしているが、自他の完全な一体性が崩れた段階において、このような振舞をすることは、母親との関係を擬似一体的な関係として定義してもいる。つまり、勝手気ままな振舞をすることによって、その行動の前提となる擬似一体的な関係を創り出してもいるのである。

 

P125、先の二つの事例からもわかるように、甘える側は、勝手気ままに振舞うのとは対照的に、自己抑制的な態度をとっている。自分の欲求を表明したり、自分の利益を守ろうとしたりする自己本位的な行動は抑えられている。もちろん、どちらの場合にも、甘える側は、自分の欲望や利益を完全に放棄しているわけではなく、それどころか、相手が自分のために利他的に振舞ってくれることを内心は期待している。欲望充足や利益追及を抑制するような態度は、一般に他者への配慮から生まれるが、ここでは、そうした自制的な振舞は、相手の情を引き出すための交換条件になっている。つまり、ここでは「自己抑制」を給付、そして「他者の情」を反対給付とする社会的交換が行われているのである。

 

P126、成人間の甘えの関係は、こうした母子関係に擬制するかたちで構築されている。まず自制的な態度をとることは、事故の選択権を相手に譲渡したことを意味している。この選択権は、母親の生殺与奪の権に比較すれば、微々たるものであるが、ともかく相手は、選択権を譲り受けたことによって上位者の立場に立つことになる。一方、選択権を譲渡した者は、従属的な立場に立たされるが、同時に相手が自分に情を寄せることを期待することができる。なぜなら、選択権の譲渡はそれを期待するためのいわば「前払い」であるからである。ここで自分に情を寄せるとは、自分の心中を察して、自分を配慮してもらうことである。相手が自分に対して情を抱くことによって、譲り渡した選択権は、自分のために行使される。この相手の情にもたれかかることが甘えである。したがって、母子関係に擬制された甘えとは、「選択権の譲渡」に基づいて、他者による「選択権の利他的な行使」を期待することである。

 

 →選択権の譲渡が甘えとして機能するには、それが機能する社会関係ができあがっていなければならないし、そうした社会関係(擬制的母子関係)があるからこそ、選択権の譲渡が甘えとして機能する。因果関係は逆転する。自殺・恥・名誉・義理・人情もこの考え方で分析する必要がある。

 

P127、無私とは、本来私心(私利・私欲・私情)を超越することであるが、私心の隠蔽を拡張解釈するならば、無私にも二つのタイプがある。すなわち、私心の隠蔽には、①私心が自己と他者の双方に対して隠蔽される場合と、②私心が他者に対してのみ隠蔽される場合である。①を「狭義の無私」、①と②をあわせて「広義の無私」と呼ぼう。

 心情規範としての義理と成人の甘えには、「広義の無私」と「情」という二つの共通な要素が認められる。無私を実現する際、心情規範としての義理と甘えのいずれにおいても、メッセージ・レベルでは、指針を意味するメッセージが隠蔽され、メタメッセージ・レベルでは一定のメッセージが表現されている。ところが、メタメッセージ・レベルにおいて伝達される内容を比較してみると、そこには大きな違いがある。

 義理の場合には、「私心を捨てるという事実」がメタメッセージとして伝達されているが、甘えの場合には、「私心を隠し持っているという事実」がメタメッセージとして伝達されている。この違いは、「隠蔽することによって表現する」という方法と、「隠蔽しつつ表現する」という方法との違いとして捉えることもできる。甘えにおいては、私心を抑制する態度がとられており、その限りで無私的であるが、しかし他者を介して私心を満たそうとする願望が潜んでいる。心情規範としての義理に比べれば、甘えは、はるかに利己的な要素を含んでいる。

 義理と恥も、規範と逸脱というかたちでポジとネガの関係にあり、義理は、いかなる逸脱的な振舞が恥となるのかを定義するとともに、恥の社会的な制裁機能に依存している。恥は、人見知りという原初形態の段階を越えると、恥辱と羞恥という二つの基本形態に分化するが、恥辱と羞恥は、それぞれ体面規範としての義理と返礼規範としての義理に呼応している。つまり、義理と恥(甘えと恥)の間には「地」と「図」のような関係が成り立っており、ひとたび「図と地」の転換を行えば重なるような共通の構造が存在しているのである。

 

 →恥辱⇄体面規範としての義理、羞恥⇄返礼規範としての義理。

 

P129、これまでの日本の社会は、しばしば集団主義的といわれてきたが、自己と他者の間には(恐らく我々が意識している以上の)差異が存在している。けれども、このことは日本が西欧流の個人主義を発達させてきたことを含意しているのではない。個人主義の進展は、どのような形態であれ、自他の差異を顕在化せることによって社会的対立を引き起こす可能性を孕んでいる。西欧社会は、そのことを前提にしつつ、近代的な法・権利・権力といった制度的機構を確立することによって社会丁対立の解決をはかり、個人主義を定着させてきた。

 ところが、日本社会の歴史的発展は、そうした方向には進まなかった。自他文節が進むに連れて、むしろ自他の差異を隠蔽する仕組みが発達してきた。義理が社会的予期の違背可能性を封じ込めようとしたように、社会的対立の可能性を事前に防止する工夫が開発されてきた。個人主義と無私の精神は、一見矛盾しているようにみえるが、決して矛盾ではない。それどころか、自他の差異を顕在化させる作用は、自他の差異を潜在化させる作用によって中和されねばならなかったのであり、この二つの事象は、並行して発達してきたのである。その意味では、差異を隠蔽するコミュニケーション様式は、集団主義の産物どころか、日本的な個人主義化の産物であったといっても過言ではないだろう。

 何れにしても、自他の差異を顕在化させる作用と潜在化させる作用が働くと、自他の境界は「あると同時にない」ような曖昧な境界になる。義理と甘えは、秘密の保持と秘密の漏洩という二つの操作を同時に働かせることによって、自他の間に曖昧な境界を設定している。境界が曖昧であってこそ、他者をもう一人の自己として認識し、他者に対して共感的な心情を抱くことが容易になる。そしてこの境界の曖昧さが、また恥を発生させる構造的条件にもなっている。このように義理と甘えは、逸脱形態としての恥を発生させつつ、恥を制裁様式にして自らの規範性を維持しているのである。

 

 →個人主義の発達による社会的対立を、西洋は法・権利・権力によって抑制し、日本は無私の精神(義理)によって抑制した。

一ノ瀬正樹著書

 一ノ瀬正樹『原因と理由の迷宮』勁草書房、2006

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序章 不確実性の認識論

P5

 ⑴「原因」は時間的推移を包含した概念であるのに対して、「理由」は無時間的である。よって、痙攣して倒れたという時間的推移を有す出来事に対しては「原因」が適用されるが、友達に意地悪をする根拠は、意地悪をすることを納得させる正当化の論理が問われているのであって、そうした論理はいつ誰が誰に意地悪をしようと当てはまるという意味で時間性から独立なので、「理由」概念が当てはめられる。

 ⑵「原因」は自然的出来事に適用されるのに対して、「理由」は意味的内容に当てはめられる。意味的内容とは人為的・言語的なものであり、よってそこには、意味それ自体以外に、認識、信念、意図、欲求などの内容が含まれる。こうした対比は、「因果性」と「志向性」という哲学での基本的対比とおおよそ対応している。

 ⑶原則的に、「原因」は外延的であり、「理由」は内包的である。このことは⑵からの帰結である。すなわち、「原因」は出来事を指示するので、その出来事を指しているのであればどういう表現でそれを記述しても自体としては同じことが指示されている。よって、同じ対象を指示する表現(外延を等しくする表現)によって、交換可能である。それに対して、「理由」は本質的に言語依存的なので、出来事として同じであったとしても、どう表現するによって(内包によって)異なることを意味していることになる。

 

第1章 確率の原因

P26

 迷いから意思決定というプロセスが私たちの認識と行為のすみずみまで行き渡っているということ、それゆえ私たちの生活の骨組みを形成しているということ、このことを確認することによって、一つの重大な論点が導かれてくる。すなわち、迷った上で選択するとき、そうした選択はそれぞれの選択肢の欲求・願望を実現させる「確からしさ」に基づいて行われるしかないということ、これである。

では、「確からしさ」とは何か。添えはまさしく「確率」にほかならない。

 

P55

 原因の指定というは、もともとから「風が吹いて桶屋が儲かる」風の任意性のもとにある。私のくしゃみの原因を人が私の噂をしていることだ、とすることを完璧に誤りであるとすることは理論的にできないので、まさしく「確率」概念を持ち出して一定の合理的秩序づけを図ることが目論まれているのであり、そうした探求の方向性の根幹をなす「確率」概念そのそのものについていま論じているのである。

 

P87

 明らかにこれは、第二の発光を私たちが見るということが、第一の発光から第二の発光に至る発光点の運動という過去の出来事を生み出す原因になっているという仕方で、逆向き因果の一例として解釈することが可能である。

 

 →過去に火をつけたという原因で、現在火を見ているという結果が生じる。逆に、現在火を見ているという原因は、過去に火をつけたという結果を導く。

 

P97

 私たちが後ろ向きに過去を眺めることが過去的出来事の生起確率の遡行的崩壊の虚構的な原因となり、それから私たちはその過去の時点から後の時間へと前向きに眺め返すという、そうした過程から立ち上がる決定論である。この過程は、最初は過去的出来事についての現在的現前化によって引き起こされ過去へと遡行するが、それからその過去的出来事を現在の状態を決定づけたものと捉えることによって現在へと復帰してくる。それゆえ、ここには一種の決定論が現れる。こうした決定論は、確率が遡行し崩壊したところの過去の観点からすれば、未来に関わっていると述べることができるだろう。私はこうした決定論を、無時制的決定論と退避させるため、「ブーメラン決定論」と呼ぶことにする。

 

 →リストラという過去事象が現前化して過去へと遡るが、それが現在の自殺を決定づけたものとして、現在へと復帰する。現在とは過去の時点からすると未来に当たる。リストラという現在(過去)の原因が未来(現在)の自殺という事態を決定づけた。これがブーメラン決定論

 

 

第2章 曖昧な理由

P173

 「ソライティーズの因果説」を提示することで私は、曖昧性を消去しようとしているのでは断じてない。曖昧性が曖昧性として実在的に世界に浸潤していると認識すること、これが私の基本的スタンスだからである。では、ベイズ的理論の応用によって何が行われるのか。それを私は、「各章」ではなく、暫定的な境界線の「創造」であると、そのように捉えたい。

 

P174

 こうしたことは、曖昧な概念や述語を用いた私たちの認識・言語表現全般についても、程度の多少はあれ、間違いなくいえる。「呼びかけと応答」による私たちの認識そして理解実践はそのようにいつもゆらぎゆく。Vibrante(ヴィブラートをつけて)、私たちの理解実践はゆらぎ震えながらそのつど響き渡り、一定の説得力を持つ「理由」づけとして「創造」されて行く。そしてそうした「創造」は、現在の文脈に沿った暫定的なものである限り、文脈のさまざまな変遷・ダイナミズムに沿いながら、さらに再「創造」されていく。そうした変遷を絶えず引き受けているという事実、それこそが曖昧性の実在性の証しである。つまりは、「ソライティーズの因果説」とは、概念や言葉の意味の変化が時とともに「創造」され続けていくこと、こうした(実はありふれた)事態をベイズ的理論を取り込むことで把握しようとしている理論なのである。

 

 →曖昧性が解決されたら、最初から基準があったことになり、曖昧ではないことになる。曖昧性がいたるところにあるということは、基準など最初からないことになる。

 

 

第3章 歴史の認識

P181

 過去のなかの、人間の言語的記述によって現在と結びつけられる出来事のあり方、それが「歴史」である。

つまり、「歴史」は過去のなかの一部を指すのだが、それはほんの一部である程度から、ほぼ全過去を覆うまでの、極めて融通性に富んだ概念なのである。

 

P188

 歴史の客観性が次の点、すなわち、「合理的に受容可能かどうか」に掛かっていて、そしてそこでの合理性は「歴史家たちによって普遍的に合意され、そして実際に機能している、彼らの共同体の目的に由来する」こと、あるいは「普遍的に受容可能であるような帰結が達成されること」、そうした点に存するということにおよそ異論はありそうにないからである。あるいは、過去が私たちの世界理解に広く含意されている以上、おしなべて実在あるいは客観性とはむしろそうした共同了解的なものであるといえるかもしれない。そしてそうなら、過去は実在していることが含意されているとしても、そこに私たちの共同了解が媒介する限り、絶対確実な身分・内容が保証されているわけではないことになろう。歴史学の基礎についての哲学的探求が要請される余地がここに生まれる。

 

P190

 「出来事レベル」の因果関係について。歴史的説明という問題の源泉は、歴史的出来事を理解可能なものとして記述するときに私たちは一般的な法則性をそこに適用しているのか否か、という問題にあった。歴史的出来事はある意味で一回的である。よって、繰り返して現れることも観察することもできず、法則性とは対極にあるように思える。そもそも歴史の対象たる過去は原理的に不在なので、観察も検証も原理的にできないはずなのである。だとすると、歴史的な事件を理解するとは何を求めていることになるのか。私はこの問題を見るに当たって、歴史的説明は総じて因果的説明である、というダントの示唆するテーゼを前提したい。というのも、歴史的出来事の説明とは、被説明項たる出来事を近接する時期に生じた他の説明項たる出来事に言及することによって理解可能にすることであり、そうした時間経過のなかで現れる出来事間の結びつきを示すことは、(時間が関わる以上)論理的関係でもなく、(三人称的な出来事を問題にする以上)志向的関係でもなく、因果関係に最もふさわしい役割であると思うからである。そのように捉えた上で、もし歴史的出来事の一回性を重んじ、かつそれら出来事間の関係を因果関係だとすると、ここで働く因果とは「単称因果」であるということになる。単称因果とは法則性を含意しない因果のことだが、私の知る限り、これは結局はかつてデュカスが規定したような、特定の時間と空間において契機する二つの変化へと帰着し、ひいてはそうした変化の観察へと切り詰められる因果関係であろう。しかし、やはりこれは継起の知覚に基づく、純粋に現象的なレベルでの関係性である。なので、真の原因は別にあって、単に見せかけの継起が現出しているだけの場合と、本当の因果関係とを区別する機制をもたない。だとすれば、単なる現象ならぬ歴史的出来事の因果的説明は、それが成功し説得的であるなら、単称因果としてではなく、何らかの一般的な法則性を事実上呼び込んでいると、そう考えねばならない。少なくとも、説得的であるためには法則性を呼び込むべきであるという規範的主張はここで確認できるだろう。

 

 →歴史学は因果関係の法則性の説明であり、そこには合理性がなければならない。その合理性とは歴史家による合意、共同了解によって証明される。

 

P204

 過去と未来の非対称性をどう説明するか。⑴過去時制言明には「完璧なあきらめ感」が伴うが(たとえ理論的には「逆向き因果」が可能だとしても、感覚的には諦観が伴う)、未来時制言明はそうではない。⑵過去時制言明に宿る偶然性は顕在化された偶然性だが、未来時制言明の偶然性は潜在的なものにすぎない。⑶過去時制言明には責任や行為者性の帰属を行う働きがあるが、未来時制言明にはそれはない、という三つである。

 

P205

 歴史物語を語り、歴史認識を表明するのは、国と国との間に緊張関係が生じたりしたときのような、何らかの危機や日常のゆらぎに直面したときに、自らの正当性や存在理由、あるいは進むべき道を示すためである、ということである。

 →人間が存在すること、生きることの正当性や理由を示すため、自殺という生命の危機を分析しているのか。生死一如。生きるとは何かを理解するためには、命を自ら絶つことを分析しなければならない。

 

P207

 歴史認識は本性的に「呼びかけ」に対するアドリブの即興的な「応答」なのである。以上のことは、私たちの行為一般の説明や理解に対して妥当する。私たちの行為を理解したり説明したりするとうことは、過去の事柄を認識することにほからないからである。そもそも行為の説明・理解ということをするのは、何か説明や理解をしなければならないことがすでに行われたからである。しかも、これは大抵は日常性を逸脱した行為であり、典型的には犯罪行為などがそれに当たる。日常的な何の不思議感ももたらさない行為は、説明も理解もことさら必要でない。しかし、日常を逸脱した行為の典型である犯罪行為に対しては、私たちは説明や理解を求め(つまり、「呼びかけ」る)、裁判などに至る。そして、そこで検討される行為理解はまさしく歴史認識なのである。

 

P208

 私たちは行為を理解したり説明したりするとき、日常性ということで私たちが暗黙に受容している文脈や文化を何らかの意味で正当化しているのだという、そうした真相の事態を(あまりに染み付き固着しているので気づかれにくいかもしれないが)主題化しなければならない。

しかし、説明を要する行為とは何らかの意味で日常性を逸脱したと捉えられる行為であり、行為一般に関する説明などというニュートラルな問題はリアリティがないこと、そしてそうした問題化される行為とは、過去に生じたものであり、よって行為論は歴史認識の問題と本性的にリンクしていること、そうした当たり前の観点からなされるべき問題設定が等閑に付されているように思われる。

 

 →日常を逸脱した行為の説明をするということは、自分たちが日常・当たり前だと思っていることを相対化し、顕在化することになる。結局、問題の原因や責任の所在を確定したいという「呼びかけ」に対する「応答」行為が、歴史学という学問。

 

 

第4章 仮説の確証

P215

 ベイズ的確証理論。証拠が仮説の確率を高めるという関係こそ、確証にとって重要であると解されるのである。

 

P233

 以上の考察によって、もう少し根底的なレベルでも同様な意思決定負荷的アスペクトが存在すること、それを容易に見取ることができるようになる。すなわち、満足のいく診断を下すために、どの背景理論に頼るべきかについての意思決定をしなければならないということ、この点である。先の虫垂炎の例を再び使えば、おそらく、漢方医は診断を下すに当たってまったく異なる見立てをするであろう。たとえば、それは腹直筋の緊張によって引き起こされていると判断するかもしれない。もしそうなら、使用医学と東洋医学の両方の教育を受けた医師は(近頃はそうした医師は決してまれではない)、どちらの体系が適用するのにより適切かについて意思決定しなければならないはずである。同様な点はもう少し表面的な次元でも確認できる。眼精疲労の例に戻ってみよう。眼視疲労として分類される症状は、脳腫瘍や心身症の場合にも同様に出現する。それゆえ医師たちは、その症状を訴える患者を診察するとき、厳密にいえば、眼下、脳外科、心療内科のうち、どの医療かがその患者を診るべきかについての意思決定をしなければならない。これは、諸理論に関する選択の一種であるとみなすことができるだろう。こうした考え方をさらに突き詰めて行くなら、すでに論じた、どのようにデータを収集するか、どのように確率を算定するか、についての意思決定もまた、諸理論に関する意思決定の一種であると捉えることもできるだろうと思われる。

要するに、診断を支持する証拠やデータは背景仮説と不可分なのであり、そのことは、グリモアの基本的着想について言及しながら私が先に確認したことにまさしく対応しているのである。

すなわち、仮説や診断を支持する証拠やデータは背景知識と不可分、よって知識のより分けと不可分だということである。

 

 →すべての説明は意思決定による。背景知識や仮説の選定も、意思決定による。証拠やデータ集めにも、背景知識や仮説の選定が知らず知らずに入り込んでいる。証拠を証拠として選んでいる時点で、何らかの常識で証拠とみなしている。その常識選定は、本当に妥当なのかを考えておく必要がある。現代人の先入観なのかもしれない。

 

P237

 古証拠による新仮説の確証は、次の二つのことを考慮することによって遂行される意思決定に基づいている。すなわち、⑴背景理論と確率や尤度の算定とを通じて新たに提起される古証拠と新仮説との間の連関性、⑵そのようにして新たに提起された連関性によって新たに問題とされることになった効用、である。換言するならば、いわゆる古証拠は、純粋に古証拠として現れているのではなく、新たに提起された連関性と新たに問題とされてきた効用との絡みのなかで現在行われている意思決定の経過において、いわば現在的証拠として現れているのである。

 

P247

 こうして、「原因」と「理由」の迷宮の探索は、「不確実性の認識論」という主題設定の元、「なぜならば」文を「呼びかけと応答」という場面で捉え返しつつ「確率」と「曖昧性」という二つの不確実性の位相をめぐって、あるいはその二つの位相の絡み合いをめぐって、ついに「責任」の問題へと収斂してきた。desiso(決然と)、過去物語を提示すること、意思決定をしてその責を潔く担うこと、責任のありかを決然と断ずること、そうした「応答」の響かせ方が理解実践の核をなす歴史認識と仮説確証の両面から浮かび上がってきた。しかし、これは考えてみれば自然な成り行きであろう。というのも、不確実性のなかで判断し行為し意思決定していくということは、それが不確実性である以上、結局は「そうであるはずだ」という断定を「ジャンプ」して行ってしまうこと、つまり飛躍して創造してしまうことになるからであり、そのことは、意思決定をして飛躍・創造をしていく人に「責任」(あるいは「功績」)が発生するということと同義であろうからである。

このようにして、「呼びかけ」への「応答」は、「応答可能性」すなわち「責任」を見越しているという自然な事態の有り様が私たちの理解実践の分析を通じて露わとなってきた。こうした事態には、おそらく、「責任」が「説明責任」という「理由」として発現するという事情も自然に包摂されているが、それだけでなく、「責任」が「原因」ともともと同義であったという事情への連結可能性も組み込まれている(ギリシャ語の「アイティア」、日本語の「何々のせい」という表現は「原因」と「責任」の両方を表す)。

 

 →自殺の歴史的研究は、人間を自殺に至らしめる原因(責任)のありかを決然と断ずること。自殺という日常性を逸脱した行為を危機とみなし、なぜそうするのかという動機を問いかけ、動機を生じさせた原因・理由に答えていく「応答」こそが、歴史学の役割?。

 

 

*2020.8.14追記

「原因と理由の違い」

 (小坂井敏晶『増補 責任という虚構』ちくま学芸文庫、2020年、44頁参照)

 

 行動や判断を実際に律するのが原因で、行動や判断に対して本人が想起するのが理由。

 

①車のバッテリー切れが原因で、出発を取りやめた。 ◯

②車のバッテリー切れを理由に、出発を取りやめた。 ◯

 →実際に行動が制限されているし、本人も想定しているので、どちらも適切な表現になる。

 

③私は植物に興味がある。こうした原因によって農学部を志望する。 ×

④私は植物に興味がある。こうした理由によって農学部を志望する。 ◯

 →③の場合、植物に興味をもっていることが、必ずしも農学部の志望につながるとはかぎらないので不自然になる。園芸学部や生命・生物学部を志望することだってある。つまり、実際の行動や判断を規定しない。一方、④の場合、本人が想起しているだけだから、適切な表現になる。