周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

荒谷文書3

    三 小早川隆景充行状

 

 於三永村、吉長作職拘分地頭納所之内、夫銭貳貫文并石立宿之事、為給地

 充行候、全可領知之状如件、

     (1554)

     天文廿三年十二月十三日      隆景(花押)

             (吉長)

           荒谷内蔵丞とのへ

 

 「書き下し文」

 三永村の吉長作職拘ふ分に於いて地頭に納所するの内、夫銭二貫文并びに石立宿の事、給地として充て行ひ候ふ、全く領知すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 三永村の吉長(あなた)が関与している作職分で、地頭に納める分の内、夫銭二貫文と石立宿のこと。給地として(吉長・あなたに)与えます。領有を全うしなさい。

 

 「注釈」

「三永」

 ─「上三永(みなが)村」。東広島市西条町上三永。西条盆地の東端に位置する。東西に長く北向きにゆるく傾斜する谷を三永川が西流。南北とも標高四〇〇メートル(比高二〇〇メートル)の山が連なるが、北部谷あいをを山陽道西国街道)が走る。北と東は豊田郡田万里村(現竹原市)。中世は西の下三永村とともに三永村と称され、元弘三年(一三三三)十二月八日付後醍醐天皇綸旨(福成寺文書)に福成寺領三永のことが見え、正平十三年(一三五八)十二月八日付後村上天皇綸旨(同文書)には「東条郷之内三永村」を福成寺に寄進するとある。文明七年(一四七五)以前に三永の地は大内政弘から毛利豊元に与えられたが(毛利家文書)、大永三年(一五二三)頃には三永村三百貫のうち半分が福成寺領、半分が大内方諸給人の知行となっている(同年八月十日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。なお、このほか「三永方」として四十貫の「小郡代領」があり(同知行注文)、「三永方田口村」の用例もあるので(永正六年八月十三日付「大内義興下文」千葉文書)、より広義の地域呼称もしくは所領単位として「三永方」があったことも考えられる

 天文二〇年(一五五一)以後西条盆地の大半は毛利氏の支配下に入ったが、三永を含む東辺部や南部は小早川氏の影響力が強かった、天文二十三年小早川隆景から荒谷吉長に対して「於三永村、吉長作職拘分地頭納所之内、夫銭貳貫文并石立宿」(同年十二月十三日付「小早川隆景宛行状」荒谷文書)が給地として宛行われ、田万里村境に近い石立には宿が形成されていた。三永に給地を得ていた武士として荒谷氏のほかに田坂氏・勝屋衆の名が知られるが(田坂文書、浦家文書)、「芸藩通志」には細井信濃・長谷内蔵助・胡麻大内佐・石橋力矢らの屋敷跡が上三永村にあったとし、いずれも村南西にあった茶臼城主の家人と伝える(『広島県の地名』平凡社)。

 

「夫銭」

 ─夫役のかわりに銭で上納させるもの。夫役の代納は農民側からの要求が強かった(『古文書古記録語辞典』)。

 

「石立宿」

 ─田万里村(現竹原市田万里町)との境に形成された、上三永村(現東広島市西条町上三永)の宿場(「上三永村」『広島県の地名』平凡社)。