読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

小田文書2

   二 伊豆房良慶訴状

 

 久嶋郷岩氏住人伊豆房良慶謹言上

  爲同所刀禰丸等、早任本主國重譲状、且任御下知旨、且依重正同

  重安等和与儀、被止非分押領、如元欲賜岩氏田九段半但勘料田也

  下田畠等間事、

(副)

 ◻︎進

  一通 御下知案 但國重後家与流田相論時給

  一通 同時岩氏屋敷以下差圖案 御使四郎入道殿并御◻︎(代)

                     官延貞後家代円聖◻︎

  二通 國重譲状案       被打渡于良慶畢、仍

                     差圖仁御裏判在之、   (良慶裏花押)

 右名田者、自本主國重之手譲得之後、無相違之處、彼重安當刀禰親父、無

 故令押領之間、去永仁四年御検注于時御使當御代 給主因幡法橋御房之時、令

 申訴訟處、件重正・重安等申云、所詮不◻︎(可)異論、以和与之

 儀、於岩氏垣内九段半田地者、可于良慶之由、頻申之間、備進若

 干勘料用途、止敵対怨冥水之思年紀畢、爰去正安年中之比、依

 有暫要用寺前二反深田二反已上四反、限四ヶ年于重正沽却之處、

 前以重安求次良慶作分令押領之間、先給主代對于五郎右近尉、雖度々

 訴申、重安与五郎右近尉合婿之間、不取沙汰、徒過年紀之條

 難堪無極次第也、適當御代悦身幸所言上也、所詮早任本主國重譲

 状、且任御下知之旨、且依重正同重安等和与之儀、如元可退良

 慶之由、爲御成敗、粗恐々言上如件、

    (一三一七)

    文保元年五月 日

 

 

 「書き下し文」

久嶋郷岩氏住人伊豆房良慶謹んで言上す、

 同所刀禰丸らの為、早く本主國重の譲状に任せ、且うは御下知の旨に任せ、且うは重

 正同重安ら和与の儀に依り、非分の押領を停止せられ、元のごとく岩氏九段半(但し

 勘料田也)以下田畠等を宛て賜らんと欲する間の事。

 

副え進らす

 一通 御下知案 但し國重後家と流田相論の時に之を給わる

 一通 同時岩氏屋敷以下差図案 御使四郎入道殿并に御代官延貞後家代円聖□

 二通 國重譲状案       良慶に打ち渡され畢んぬ、仍って差図に御裏判之在り

 

 右名田は、本主國重の手より譲り得るの後、相違無きの處、彼の重安(當刀禰の親

 父)故無く押領せしむるの間、去んぬる永仁四年御検注(時に御使當御代給主因幡

 橋御房)の時、訴訟申さしむる處、件の重正・重安ら申して云く、所詮異論有るべか

 らず、和与の儀を以って、岩氏垣内九段半の田地に於いては、良慶に付すべきの由、

 頻りに申すの間、若干の勘料用途を備え進らせ、敵対の怨みを止め、冥水の思ひを成

 し年紀經畢んぬ、爰に去んぬる正安年中の比、暫く要用有るに依り、寺前二反・深田

 二反、已上四反、四ヶ年を限り、重正に對して沽却せしむるの處、前に重安の求むる

 を以って次いでに良慶の作分を押領せしむるの間、先の給主代五郎右近尉に對して、

 度々訴え申すと雖も、重安と五郎右近尉とは合婿爲るの間、取沙汰に及ばず、徒らに

 年紀を過ぐるの條耐え難きこと無極の次第なり。当御代の悦に適い身幸いに言上せし

 むる所なり、所詮早く本主國重の譲状に任せ、且つうは御下知之旨に任せ、且つうは

 重正同重安ら和与之儀に任せ、元のごとく良慶に進退せしむべきの由、御成敗を蒙ら

 んが爲粗々恐々言上件のごとし、

 

 

 「解釈」

久嶋郷岩氏住人伊豆房良慶が謹んで言上します。

 岩氏の刀禰丸らのために、早く本主國重の譲状に任せ、一方では六波羅下知状の内容に任せ、一方では重正・重安の和与の内容により、道理に合わない押領を止め、もとのように岩氏九段半(勘料を支払った免税田)以下の田畠等を給与してほしいこと。

 

 

訴状に副えて進上する。

 一通 六波羅下知状案

     但し國重と後家とが、災害で流された田に関して相論になったときに、

     この下知状案をいただいた。

 一通 同時に提出した岩氏屋敷以下の差図案 

     御使四郎入道殿ならびに御代官延貞後家代円聖が作成した差図を、

     良慶に引き渡した。だから差図には両者の裏判がある。

 二通 國重譲状案

 

 右の名田は、本主國重の手から譲り受けたのち、間違いなく領有してきたが、あの重安(現在の刀禰の親父)が理由もなく押領したので、去る永仁四年(一二九六)の御検注(その当時の御使いは、当御代の給主である因幡法橋御房)のときに訴え申したところ、例の重正・重安らが申して言うには、「結局のところ異論はあるはずもない。我々の和与の内容で、岩氏垣内九段半の田地については、良慶に付与しているはずだ」と頻りに申し上げるので、多少の勘料代を納め、敵対の怨みを止めて、深い水のような落ち着いた思いで年を過ごしてきた。こうしているうちに、去る正安年中(一二九九〜一三〇一)にしばらくの間必要があって、寺前二反・深田二反、都合四反の田地を四年に限って重正に年紀売りしたところ、その田地の領有を重安が望んでいたために、ついでに良慶の作職まで押領した。だから前の給主代五郎右近尉に対して度々訴えたのだが、重安と五郎右近尉は相聟であったので、訴訟を取り上げてもらえなかった。無駄に年月が過ぎるのはとても耐えられないことである。当御代のご意向に叶い、私は幸いなことに言上したのである。結局のところ、早く本主國重の譲状に任せ、一方で六波羅下知状の内容に任せ、一方で重正と重安らの和与の内容に任せ、元どおりに良慶に領有させるべきであるとの御裁許をいただきたいために、疎略ながら恐れながら言上することは以上のとおりです。

 

 

 「注釈」

「國重・重正・重安」─久嶋郷の名主か。四号・十一・十二号文書などに國重名・重

           正名とある。

「当御代」─鈴木由美さんという研究者が「先代・中先代・当御代」という論文をお

      書きになっています。当時の権力者を指すものと思われますが、この時期

      の「当御代」が誰を指すのかは、文書を読み進めていくうちにわかるかも

      しれません。

      http://researchmap.jp/joqw3w84n-1905330/?lang=english

 

「給主・給主代」─厳島社による久島郷支配は給主を介して実現された。給主は神主家

         に近習する家臣が任じられたものと推測され、その存在は同じ社領

         地域の大竹でも確かめられる。しかし、こうした給主は神主家家政

         を掌る立場にもあったため、実際には給主代がその職務を代行し

         た。南北朝期以降になると、給主は積極的に現地掌握に乗り出し、

         「地頭」と称して領内裁判権を行使するなど支配強化をもくろんだ

         が、それも結局久島郷において長年培われてきた郷村秩序の壁を打

         ち破るまでには至らなかった(「久島郷」『講座日本荘園史』9 

         中国地方の荘園、吉川弘文館)。

 

 →おそらく、「給主」─「給主代」─「刀禰(名主)」─「作人」のような構成にな

  っていたものと考えられます。

 

「適當御代悦身幸所令言上也」─この箇所については、書き下しも解釈もよくわかりま

               せん。