周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

縁故の力

  文安四年(一四四七)二月十九日条 (『建内記』7─248)

 

 十九日、辛亥、天霽、

  (中略)

        (狛) 〔部脱〕(狛郷房)

 今日大原野神主治房子刑少輔(割書)「實名忘却、」爲治房使参来、去正月十日於廬

                          (持常)   (久連)

 山寺(割書)「律院也、」喝食(割書)「不知實名、細川讃岐守内飯尾因幡入道眞覺

 子、十五歳云々、」殺害大原野社僧浄瑠璃院證宥、(割書)「神主治房子、刑部少輔

 弟云々、」是爲鑽仰寄宿彼寺院、依正月之祝着面々酌一盞、退散之時分、彼喝食抜劍

 突證宥、(割書)「二刀云々、」住持召醫師療養、同十日(割書)「翌日也、」存

 命、同十二日円寂、於彼喝食者逐電云々、仍去二月十一日於大原野祭礼者、爲社家申

 延引了、彼敵人」任大法無其沙汰者、來廿三日祭礼可及違乱之由雖申管領、無承引、

 其故者、讃州細川与管領京兆細川一家也、彼喝食者讃州愛育也、雖加下知不可有其

 實、結句父因幡入道者、彼家後見無双也、仍無分明之由返事歟云々、所詮、及奏聞了

                        (葉室)

 可被仰武家之様、可得其意云々、答云、祭礼奉行職事教忠也、可付彼歟、但此事、自

 公家可被仰出之条、尤不審、猶於武家可達愁訴事歟、至祭礼抑留之一段者、神慮太難

 測歟、能々可有思慮哉者、次彼退散、

 

 「書き下し」

 今日大原野神主治房子刑部少輔(割書)「實名忘却、」治房の使ひとして参り来たる、去んぬる正月十日廬山寺(割書)「律院」に於いて喝食(割書)「實名を知らず、細川讃岐守持常内飯尾因幡入道眞覺(久連)の子、十五歳云々、」大原野社僧浄瑠璃院證宥(割書)「神主治房の子、刑部少輔の弟と云々、」を殺害す、是れ鑽仰の爲彼の寺院に寄宿す、正月の祝着に依り面々一盞を酌む、退散の時分、彼の喝食劍を抜き證宥を突く、(割書)「二刀と云々、」住持醫師を召して療養せしむ、同十日(割書)「翌日なり、」存命、同十二日円寂す、彼の喝食に於いては逐電すと云々、仍て去んぬる二月十一日大原野祭礼に於いては、社家として延引を申し了んぬ、彼の敵人大法に任せ其の沙汰無くんば、来たる廿三日の祭礼違乱に及ぶべきの由管領に申すと雖も、承引無し、其の故は、讃州細川と管領京兆細川とは一家なり、彼の喝食は讃州愛育するなり、下知を加ふと雖も其の實有るべからず、結句父因幡入道は彼の家の後見無双なり、仍て分明無きの由返事するかと云々、所詮、奏聞に及び了りて武家に仰せらるべきの様、其の意を得べしと云々、答へて云く、祭礼奉行職事教忠なり、彼に付すべきか、但し此の事、公家より仰せ出だせらるべきの条、尤も不審、猶ほ武家に於いて愁訴に達すべき事か、祭礼抑留の一段に至っては、神慮太だ測り難きか、能く能く思慮あるべきかてへり、次いで彼退散す、

 

 「解釈」

 今日、大原野神主狛治房の子刑部少輔狛郷房(実名を忘れた)が治房の使いとしてやってきた。去る正月十一日廬山寺(律宗の寺院)で喝食(実名を知らない。細川讃岐守持常の被官飯尾因幡入道眞覺久連の子、十五歳だそうだ)が大原野社僧浄瑠璃院證宥(神主治房の子で刑部少輔の弟だそうだ)を殺害した。證宥は鑽仰のために廬山寺に寄宿していた。正月の祝いでみな酒を飲んでいた。その場を退散するとき、あの喝食は剣を抜いて證宥を突いた(二太刀浴びせたそうだ)。廬山寺の住持は医師をお呼び寄せになり、療養させた。正月十日(翌日である)は生きていた。同十二日に亡くなった。あの喝食は逃亡したそうだ。そこで去る二月十一日の大原野神社の祭礼については、社家として延引を申し入れた。あの敵である喝食については、室町幕府法のとおりに処罰がなされなければ、次の二十三日の祭礼を妨害するつもりだと管領細川勝元に申し上げたが、管領は承諾しなかった。その理由は、細川讃岐守と管領細川とはご一家であり、あの喝食は細川讃岐守が愛育したものである。ご命令を下したとしても、実効性はあるはずもない。そのうえ、喝食の父飯尾因幡入道は、細川讃岐守家で並ぶ者のない後見人である。だから、管領は明白な返事しなかったのだろう、という。結局のところ、朝廷に訴え申し上げ、その裁定が終わって、朝廷から武家にご命令が下るはずである。その意向を受け入れるべきである、ということだそうだ。私が答えて言うには、祭礼の奉行は職事(蔵人)の葉室教忠である。彼に託すべきではないか。ただしこの件について、朝廷からご裁定をお下しになるべきことは、当然不審である。やはり武家に救済を求めて訴えるべきではないか。祭礼を妨害する件については、神の思し召しはまったく予測できないだろう。よくよく考えるのがよいと言った。その後刑部少輔は帰っていった。

 

 「注釈」

大原野

 ─大原野神社京都市西京区大原野南春日町。皇城鎮守二十二社の第8位。藤原氏北家の氏神春日神社の神霊を勧請して創祀したことに始まる(『中世諸国一宮制の基礎的研究』)。

 

「廬山寺」

 ─京都市上京区北之辺町。清浄華院の南にあり、山門は寺町通に西面する。円浄宗の本山。山号は日本廬山。天台・法相・真言律・浄土の四宗兼学の天台別院(『京都市の地名』)。

 

「細川讃岐守持常」─御相伴衆で、阿波・三河備前の守護。

 

「飯尾因幡入道眞覺久連」─未詳。

 

「鑽仰」─聖人の道やその徳を深く研究し、とうとぶこと。あおぎしたうこと。

 

*以前から確執があったのかどうかわりませんが、酒宴をきっかけに殺人事件が起こってしまいました。当時のお坊さんは僧兵でもないのに、刀を持ち歩いていたようです。まずはそこに驚くのですが、当時はそれが普通だったのでしょう。酒宴から退出する時に刀を抜いたということは、そういう場にお坊さんが刀を持ち込んでもよかった、ということになるからです。

 それにしても、酒を飲んで気が大きくなれば、トラブルが起きやすくなることぐらい、容易に想定できそうなものです。現代人であれば、そんな場に、あえてエモノを持ち込むようなことはしないと思うのですが、中世びとは刀を持ち込んでいるのです。護身用なのでしょうか…? いつ襲われるかもわからない。これが中世という時代なのかもしれません。ただ、護身用の刀を持っていたことで、命の危険を伴うようなトラブルを自ら起こしてしまっては、本末転倒のような気もします。武器を持っていれば、つい使っちゃう…。アメリカの銃と同じ感覚でしょうか。中世びとには、「飲むなら持つな!」という標語が必要だったかもしれませんね。

 さて、今回の事件の犯人は細川持常の被官飯尾久連の子である喝食、被害者は大原野神主の子で社僧の證宥でした。被害者の父大原野神主狛治房は、祭礼を遅延させるという脅しをかけて、管領細川勝元に処罰を求めますが、犯人の父は御相伴衆で守護の細川持常の有力被官であるため、管領はその処罰に対して明確な回答を控えます。そして、その裁定を朝廷に投げてしまいます。要は、逃げたわけです。犯人の喝食は逃亡しているので、被害者の神主側はこのまま泣き寝入りしたのかもしれませんし、何らかの代替的解決策が講じられたのかもしれませんが、最終的な結末はわかりません。ただこの時代、トラブルの行方を決定づける要素として、縁故の力が大きな影響を及ぼしていたことはよくわかります。正義や道理、法のみが最上の価値として蔓延し、融通が利かない社会もどうかと思いますが、縁故の力が強く顕れすぎるのも、それはそれで生きにくい社会かもしれません。