一 安藝国衙領注進状 その3
[ [
有富三百歩 爲光一反大
友重三反小 近道一反大
有福七反六十歩 弥冨一反大
清重小 清末一反大
貞安一反小 爲員六十歩
近光大
往生院免一丁
八幡宮免四丁四反
(一反斗ヵ)
御供田二丁⬜︎⬜︎⬜︎
久武一丁 宗門三反
重門一反 慶淂三反
末宗半 末員一反
若松二反
上分田二反 慶淂
新宮免五反
[ [
諸社免四丁五反三百歩
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
(光)
惣社免一丁五反 神主 兼⬜︎
御神楽免一丁 弥冨
仁王講免二反 明円 今上福
御鏡田三反 一樂
熊野山御油田六反小
(半)
角振社免三反斗 兼守
(斗ヵ)
御供田一反⬜︎ ⬜︎⬜︎
(反)
仁王講免二⬜︎ 慶眞
安木都彦社免一丁
椙樌社免二反
日吉大宮免一反
男長社免二反
(三反)
府山王免⬜︎⬜︎
(道祖神ヵ)
辻⬜︎⬜︎⬜︎免二反
戸坂道祖神免一反
府諸寺大般若經一丁五反 有光
諸寺免五丁四反
五ヶ寺免二丁一反
下地一丁二反
光永小 末延二反
國守六十歩 國元小
今冨一反 中太六十歩
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
有冨五反 乃力一反小
有福一反小 内侍小
例免九反
久武六反 包里三反
三昧堂一丁一反
(反ヵ)
覺源四⬜︎ [ ]四反
(三ヵ)
⬜︎⬜︎⬜︎反
実相寺免一丁
常行三昧免二反 長円 今上福
願福寺免一丁
堂免七反 塔免三反
(半)
御館長日御讀經免一丁四反斗
嘉憲六反 鏡眞六反
(半) (者)
覺源二反斗 今⬜︎⬜︎円
内侍免一丁一反百八十歩
正内侍免五反 凡子二反
(半)
有光一反斗 今子三反
舞人免一丁二反
兼弘五反 高宗二反
員家五反
(従免ヵ)
倍⬜︎⬜︎[ ]
清[ ]子四反 宗國二反
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
つづく
*書き下し文・解釈は省略。
「注釈」
「往生院」─未詳。
「上分田」─「上分」=もとは神仏に上納する貢進物のこと。上分を「ハツオ(初
穂)」と称することがある。土地からの貢納物は地利上分と称し、商業・
交易に伴う収益の一部を上納するときは交易上分、津之上分などといっ
た。中世末期には年貢を意味する言葉となる(『古文書古記録語辞
典』)。
「新宮」─熊野神社か。以下、「安木都彦社」の注釈参照。
「御神楽免」─神楽の費用を捻出する免田か。
「御鏡田」─鏡餅を作るための米を納める田地か。
「安木都彦社」─安佐南区祇園町南下安。安芸津彦神社はもと官幣社といい、「芸藩通
志」に「厳島兼帯七社の一つなり、祭神十六座ありといふ、官幣の号
を按ずるに、昔朝廷より毎歳厳島社に奉幣あり、その幣帛を当社より
仕出し、又其旧幣を当社に納るよりかく称るならんか、今も厳島社、
二月・十一月の祭に当社より弊紙・散米・敷布を供す」と記される。
鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)に見える「一宮
二季御祭御弊紙免」は、官幣社に宛行われたものと考えられる。のち
に安芸津彦神社(安芸国衙領注進状には「安木都彦社とある)を合
し、村内青原から現在地へ移り、明治五年(一八七二)安芸津彦神社
と改称。熊野神社は新宮社とも称し、武田家が火防神として勧請した
という(「南下安村」『広島県の地名』)。
「椙樌社」─現山田二丁目付近に「杉ヶ森」の地名が残っている(「芸藩通志」所載絵
「男長社」─「尾長社」と漢字をあてるか。「尾長村」は東区尾長町。広島城下の村
で、新開組に属した。古川村の北に位置する。東は安芸郡矢賀村。標高1
80メートル前後の東西に長い尾長山(東部と高丸山、西部を二葉山とい
う)の南麓に開けた低地で、南を江戸時代初期まで古川(太田川の分流)
が流れていた(『広島県の地名』)。
「辻道祖神」─辻道祖神は「安芸国神名帳」の道通(みちとおり)明神で現本町三丁目
にある導神社(通称「辻のいぼ落し」であろう(「府中町」『広島県の
地名』)。
「戸坂道祖神」─東区戸坂町。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)に
は「戸坂道祖神免一反」と見え、かつて大上字中の畑(現戸坂大上三
丁目)にあった幸之神社(現在三宅神社に合祀)は「戸坂道祖神」の
後進と考えられる(「戸坂村」『広島県の地名』)。
「実相寺」─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその
支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であっ
たともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南
は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)
二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都
岐島御領、知行民部大夫景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内尾越村
者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官物者、
弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、他の三
田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事代を神
社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思われる安
芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、「除不輸
免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉寺免五
反、総社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島神社領
三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記した永仁
六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永井文
書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押越」
が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地に比
定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田地区
と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出帳」
に中山八幡社と記され、勧請年月は不詳であるが、寛永七年(1630)
再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神社を
記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは前記
国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(「小越村」『広島県の地
名』)。
「常行三昧」─仏語。摩訶止観の四種三昧の一つ。天台宗で、90日間を一期として、
その間、飲食、大小便、乞食などのほかは堂内にあって、常に阿彌陀仏
の像のまわりを歩きつつ、その名を唱え心に彌陀を念ずる三昧。常行
(『日本国語大辞典』)。
「願福寺」─未詳。以下の「堂免七反」と「塔免三反」の地積の合計は「一丁」なの
で、堂と塔は願福寺の所属だと考えられます。