周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

井上文書 その2

   一 五行祭文 その2

 

     (天開)  (地固)         (陰陽)  (際) 

 そもゝゝてんひらきちかたまりよりこのかた、いんようのきわからして五形となり、

     (印)              (智)  (名付)      (戒)

 それ五形いんハ木火土金水神なり、あるいハ五ち五佛となつけ、あるいハ五かい

  (情)          (色) (味)      (ハ脱ヵ) (臓)

 五しやうとなつけ、あるいハ五しき五ミとなつけ、あるい五方五さうとなつけ、ある

    梵字(地水火風)(くう脱ヵ)(衍)           (修行)(菩提)

 いは⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎ちすいくわふうととなつけ、あるいハほんしんしゆきやうほ大

 (涅槃) (般涅槃妙法蓮華経

 ねはん大はつねはんミやうほうれんけきやうとなつけ、これすなわち五たいミな、こ

     (法蔵)  (根源)    (法報應)          (出生)

 れ八万ほうさうのこんけんなり、ほつほうおうの三神もこれよりしゆつしやうせり、

   つづく

 

 「書き下し文」(必要に応じて、ひらがなを漢字に改めています)

 抑も天開き地固まりより此の方、陰陽の際からして五行となり、それ五行印は木火土

 金水神なり、或いは五智五仏と名付け、或いは五戒五情と名付け、或いは五色五味と

 名付け、或いは五方五臓と名名付け、或いは[梵字]地水火風空と名付け、或いは発

 心・修行・菩提・涅槃・大般涅槃・妙法蓮華経と名付け、是れ則ち五体皆、是れ八万

 法蔵の根源なり、法報応の三身も是れより出生せり、

   つづく

 

 「解釈」

 さて、天地開闢以来、陰と陽の境界から五行が生じ、その五行印とは木火土金水神である。あるいは五智五仏と名付け、あるいは五戒五情と名付け、あるいは五色五味と名付け、あるいは五方五臓と名付け、あるいは[梵字]地水火風空と名付け、あるいは発心・修行・菩提・涅槃の四門、大般涅槃・妙法蓮華経と名付け、これはつまり五体がみな、多くの尊い教えの根源なのである。仏の法身・報身・応身の三身もここから生まれ出る。

   つづく

 

 「注釈」

「五智五仏」

 ─仏語。五智と五仏。五智はそのまま五仏に配当することを示した語(『日本国語大辞典』)。

 

「五智」

 ─大日如来が備え持つという五種の知恵の総称。密教で、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の五つとする(『日本国語大辞典』)。

 

「五仏」

 ─真言密教の両部曼荼羅法身大日如来と、如来から生じた、これをとりまく四仏。金剛界胎蔵界の五仏があるが、実は同体とする。金剛界では、大日(中央)・阿閦(東)・宝生(南)・阿彌陀(西)・不空成就(北)をいい、胎蔵界では大日(中央)・宝幢(東)・開敷華王(かいふげおう=南)・阿彌陀(西)・天鼓雷音(北)をいう(『日本国語大辞典』)。

 

「五戒」

 ─仏語。在家の人の守るべき五種の戒。すなわち、不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒、優婆塞戒。五常(『日本国語大辞典』)。

 

「五情」

 ─仏語。五根(眼、耳、鼻、舌、身の五官およびその機能)のこと(『日本国語大辞典』)。

 

「五色」

 ─中国古代の五行説では、青、黄、赤、白、黒の五種の色。仏教ではこれを五正色とも称し、信、精進、念、定、慧の五根や、五智、五仏などに配する。また、一般に、五種類の色、多種の色をもいう。五彩。ごしょく(『日本国語大辞典』)。

 

「五味」

 ─仏語。大般涅槃経で、牛乳を精製する過程で順次に生じる五段階の味、すなわち乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味の五つの総称。醍醐味を涅槃経に比する。また、天台宗では、五時教に配して、釈迦一代の聖説が説かれた次第順序とする(『日本国語大辞典』)。

 

「五方」─五つの方角。中央と東、西、南、北(『日本国語大辞典』)。

 

五臓

 ─漢方で体内にある五つの内臓をいう。心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓の称。五内(『日本国語大辞典』)。

 

「大般涅槃妙法蓮華経」─涅槃経と法華経のことか。

 

「五たい」

 ─「五体なら」身体の五つの部分。筋、脈、肉、骨、毛皮の称。一説に、頭、頸、胸、手、足、または頭と両手、両足。転じて、からだ全体。全身。「五大なら」仏語。地、水、火、風、空の五大種をいう。万物をつくり出す元素(『日本国語大辞典』)。

 

「法蔵」

 ─仏語。①仏の説いた教え。また、仏法の経典。②真理の蔵。仏法の奥義。③仏のそなえる一切の徳のこと(『日本国語大辞典』)。

 

「法報応」

 ─「法身(ほっしん)」三身などの一つ。真如の理体をいう。真理そのもの、永遠の理法としての仏。「報身(ほうじん)」仏語。仏の三身の一つ。菩薩であったとき顔を立て、修行の成就によって、その報いとして得た仏身をいう。たとえば阿彌陀仏。また、四身のうち自受用身と他受用身の二つを合わせた仏身。「応身(おうじん)」仏の三身である法身・報

身・応身の一つ。衆生を救うためにその機根に応じた種々の姿をとって現れた仏のこと。

 

三身

 ─仏語。仏身の三種。法身・報身・広身、自性身・受用身・変化身、法身・応身・化身などをいう。三仏身(『日本国語大辞典』)。

井上文書 その1

解題

 井上家は壬生(山県郡千代田町)の八幡宮神職をつとめる家である。当家には五行祭文や荒平舞詞をはじめとする祭文類が多数蔵されている。奥書から中世に属することが明らかなものだけでも、延徳二年(一四九〇)から慶長二年(一五九七)まで十三点を数える。

 これらは年代的に連続して残っており、しかも寺原・石井谷・北方・今田など今日の千代田町地域の在地名や、それを苗字としたものが多く見られるなど在地性の強いものである。当時の神事や芸能を考える上で、きわめて貴重な史料である。その中から延徳二年の五行祭文を収録した。

 

 

   一 五行祭文 その1

 

 (端裏貼紙) (マヽ)

 「五行祭文延徳元年庚戌年之書

      今年文化五戊辰迄三百十九季ニ成

     (行)(祭文)(ん)

     五形さいも⬜︎

  (再拝)            (敬)

  さいはいゝゝゝゝ       うやまいて申、

      (降)(世)(明)   (行) (根) (守護) (給へ)

 南無東方ニかう三せミやう王、五きやう六こんヲしゆこし⬜︎⬜︎、

      (軍荼利夜叉)                 (へ)

 南無南方ニくんたりやしやミやう王、五行六こんヲしゆこし給⬜︎、

       (威徳夜叉明)

 南無西方ニ大いとくやしやミやう王、五形六こんしゆこし給へ、

      (金剛夜叉明)             (こ脱ヵ)

 南無北方ニこんかうやしやミやう王、五形六こんおしゆし給へ、

 南無中央ニ大日大聖不動明王、五行六こんをしゆこし給へ、

                  (余)(等)(部類眷属)

 さうしてかくりやう八万四千六百五十よ神とうふるいけんそくかいらいしゆさせしめ

 給へ、

   つづく

 

 「書き下し文」(必要に応じて、ひらがなを漢字に改めています)

 (端裏貼紙)                (1808)

 「五行祭文(割書)「延徳元庚戌年の書、今年文化五戊辰年まで三百十九年に成る」

 

     五行祭文

  再拜々々         敬いて申す、

 南無東方に降三世明王、五行六根を守護し給へ、

 南無南方に軍荼利夜叉明王、五行六根を守護し給へ、

 南無西方に大威徳夜叉明王、五行六根を守護し給へ、

 南無北方に金剛夜叉明王、五行六根を守護し給へ、

 南無中央に大日大聖不動明王、五行六根を守護し給へ、

 惣じてかくりやう八万四千六百五十余神等部類眷属かいらいしゆさせしめ給へ、

   つづく

 

*解釈は省略します。特に、最後の一文がよくわかりません。

 

 「注釈」

「五行」

 ─中国で、万物を生じ、万象を変化させる五気としての木火土金水は、元来は日常生活に不可欠な五つの物質であるが、転じてこれらの物質によって象徴される気、あるいはそのはたらきの意となり、いわゆる五行説として展開する。行とは運行の意で、五つの物質が五行となるのは、天上の五遊星にその名をあてたことに由来する。陰陽道では、運勢を判断するのに用いる(『日本国語大辞典』)。

 

五行説

 ─中国で、万象の生成変化を説明するための理論。宇宙間には木火土金水によって象徴される五気がはびこっており、万物は五気のうちのいずれかのはたらきによって生じ、また、万象の変化は五気の勢力の交代循環によって起こるとする。循環の順序を、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に勝つとして木金火水土の順とする相剋説と、木は火を、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生ずるとして木火土金水の順とする相生説とがある。中国、戦国時代中期の鄒衍(すうえん)が歴代王朝の交代を相勝の理で説いたことに始まり、季節、方角、色、臭から人の道徳に至るまで、あらゆる事象を五行のいずれかに配当するようになった。漢代になると陰陽説と結合し、暦法、医学などにも取り入れられて、長く中国人の公私の生活を拘束することとなった(『日本国語大辞典』)。

 

「六根」

 ─仏語。六識がその対象となる六境に対して認識作用のはたらきをおこす場合、その拠り所となる、六つの認識器官をいう。眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つ。六情。六界(『日本国語大辞典』)。

 

*何のための祭文なのか、いまいちよくわかりませんが、五大明王に五行六根の守護を祈願しています。五大明王を勧請し、息災・増益・調伏等を祈願する密教修法に五壇法というものがありますが、最初の部分はこれに似ています。また、「八万四千六百五十余神等部類眷属」という表現は、牛頭天王の祭文や縁起によく登場してきます(「須佐神社文書」の記事参照)。

楽しくない栗拾い

  宝徳二年(1450)八月二十八日条 (『康富記』3─204頁)

 

大炊御門殿若公御讀始参事、

 廿八日己亥 晴、

  (中略)

 後日或語云、今日北歓喜寺後苑有栗、山名方中間下人等亂入拾栗之間、加制止之處、

                                    

 不承引、及悪口、仍喧嘩出来、寺僧琛侍者被疵云々、琛蔵主者、佐々木鞍智叔父也、

            テハ

 馬田中間切件僧、仍於 下手人馬田中間逐電之由申之云々、

 

 「書き下し文」

 後日或る人語りて云く、今日北歓喜寺の後苑に栗有り、山名方の中間・下人ら乱入し

 栗を拾ふの間、制止を加ふるの処、承引せず、悪口に及ぶ、仍て喧嘩出来、寺僧琛

 侍者疵を被ると云々、琛蔵主は、佐々木鞍智の叔父なり、馬田の中間件の僧を切る、

 仍て下手人の馬田の中間に於いては逐電の由之を申すと云々、

 

 「解釈」

 後日、ある人が語っていうには、「今日、北歓喜寺の後ろの園に栗の木があって、山名方の中間や下人らが乱入し、栗を拾っていたので、寺僧らが制止したところ、中間らは聞き入れず、悪口を言うまでになった。そこで喧嘩が起きてしまった。寺僧の琛侍者は傷を負ったそうだ。琛蔵主は佐々木鞍智高春の叔父である。馬田の中間がこの琛蔵主を切った。だから、下手人の馬田の中間については逃亡した」と申し上げたそうだ。

 

 「注釈」

「北歓喜寺」─未詳。

 

「琛侍者」

 ─京極氏の庶家で、室町幕府外様衆佐々木鞍智高春の叔父(清水克行「ある室町幕府直臣の都市生活」『東京大学史料編纂所研究紀要』一二、二〇〇二・三、http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/12/kiyo0012-shimizu.pdf、後に『室町社会の騒擾と秩序』所収)。

 

「馬田」─未詳。

 

*秋の行楽?ではないのでしょうが、楽しいはずの栗拾いが、凄惨な事件になってしまいました。この記事も、現代人の私には理解しにくいのですが、そもそも他人の敷地に入り込み、栗拾いをする感覚がよくわかりません。そして、勝手に栗を拾ったにもかかわらず悪口を言い、挙げ句の果てに寺僧を斬りつけてしまいます。単なる逆ギレのように見えますが、中間や下人にも、彼らなりの正当性があったのかもしれません。ひょっとすると、この栗林を無主地とでも思っていたのでしょうか。それにしても、栗拾いで喧嘩なんて、何とも大人気ない話です。

香川文書(完)

解題

 都志見(山県郡豊平町)の香川氏は、佐東郡八木(広島市佐東町)城主の香川氏と同族で、鎌倉権五郎景政を祖とする。経高が相模国香川庄をえてから香川を称するようになった。その後、承久の変における戦功によって、経景が八木村、義景が戸谷村を得、同地の松尾山城に拠っていたという。江戸時代に帰農してから長笹村に、ついで都志見村に移ったものである。

 

 

   一 大内義隆感状(切紙)

 

 就備州動之儀、⬜︎上六郎左衛門尉之處、則令出張馳走之由候、神妙候、重而

 隨一左右相動候也、恐々謹言、

      六月十六日          義隆(花押)

                   香川五郎殿

 

 「書き下し文」

 備州の動きの儀に就き、⬜︎上六郎左衛門尉の處、則ち出張・馳走せしむるの由に候

 ふ、神妙に候ふ、重ねて一左右に隨ひ相動くべく候ふなり、恐々謹言、

 

 「解釈」

 備州での働きの件について、⬜︎上六郎左衛門尉はすぐに出向き奔走しました。感心なことです。今後もこちらからの知らせに従い、働くべきであります。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「⬜︎上六郎左衛門尉」─未詳。

ファミリーヒストリー その2

 一 十二神祭講当番組帳

 

 (表紙) (1832)

 「  天保 三年

  十二神祭講當番組帳

           (ヵ)

    辰十一月十三日 代子神」

 

       申定之事

           (ヵ)

 一、十二神氏子中一同参會致評義、」當辰年分毎年十一月十三日」御神楽仕、

  社家案内、氏子」繁栄・寿命長久・五穀成就之」神酒・御神楽

  氏子中社参」可致候事、

  (貼紙抹消)

         [  ]

 一、銭三拾目也

    見申、氏子中評儀之上午年分相増参ツヽ」此銭三拾目申也、

  右者御神銭有之候付、當辰年分」當番組被附、是利足壱割半を以」神酒

                     (ヵ)

  を調、御神楽、氏子中一同神酒開難之敷祭禮」可致候事、

 一、御神銭是方之儀者、當辰年當番」組ゟ、十一月十三日右銭三拾疋調進」致、

  (ヵ)                             〔計〕

  至同日次年當番組相渡可申候、」尤次當請取之、前當同様取斗可

                      (ヵ)

  申候、」然上者、毎年無滞當番組⬜︎⬜︎」相是可申候事、

   〔勘〕

 右之通観定仕候上者、御神祭ハ不申、」縦外儀ニ付如何様之差縺等

 候共、」神事ニ付聊違乱致間敷候、依之」為後年之氏子中當番組観定」書

 如件、

 

             鼻田本家

  天保三年        作二郎

    辰十一月十三日   勘次郎

              (抹消)

             [   ]

             (抹消) 

   辰 年        幸二郎

              兼三郎

            (〆ヵ)

             ⬜︎

 

              新 蔵

   巳 年        九兵衛

              庄 助

               (〆ヵ)

             ⬜︎

              仙五郎

   午 年        幸 郎

              利 八

              (抹消)

              亀 蔵

 

              万次郎

   未 年        松兵衛

 亥十一月十五日

    ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎殿⬜︎⬜︎いも代     藤 蔵

                 以上⬜︎も    (〆ヵ)

             ⬜︎

 

              定 助

             (貼紙上ニアリ)

   申 年        己之助

  子十一月十五日       久 平

              (抹消)

   貳拾⬜︎まいる      嶋 吉

    共七より取了

     此七⬜︎三⬜︎相渡

         ⬜︎⬜︎⬜︎

 

              佐平次

   酉 年        初兵衛

            (貼紙上ニアリ)

              梅作郎

 

              好次郎

   戌 年        忠左衛門

              政兵衛

            (〆ヵ)

             ⬜︎

 

              (抹消)

              亀 蔵

              (ヵ)

   亥 年        筆二郎

              源 松

              新 吉

 

              作兵衛

   子 年        利 吉

              (ヵ)

              政 吉

 

   酉ノ年        松浦⬜︎⬜︎⬜︎

 

 

 「釈文」

    申し定むるの事

 一つ、十二神氏子中一同に参会し評議を致す、当辰年分毎年十一月十三日に御神楽を

  仕り、社家へ案内致し、氏子繁栄・寿命長久・五穀成就の神酒・御神楽を上げ、氏

  子中社参致すべく候ふ事、

 一つ、銭三十目なり、

    外に見え申す、氏子中評議の上は午年分を相増し参りつつ、此の銭三十目を申すなり、

  右は御神銭之有り候ふに付け、当辰年分當番組に付けらる、是れに利息一割半を以

  て神酒を調え、御神楽を上げ、氏子中一同へ神酒を開き、難しき祭礼を致すべく候

  ふ事、

 一つ、御神銭是方の儀は、当辰年当番組より、十一月十三日に右銭三十疋を調進致

  し、同日に至り次年当番組に相渡し申すべく候ふ、尤も次当之を請け取り、前当と

  同様に取り計らひ申すべく候ふ、然る上は、毎年滞り無く当番組□□相是申すべく

  候ふ事、

 右の通り勘定仕り候ふ上は、御神祭は申すに及ばず、縦ひ外の儀に付け如何様の差縺

 等之有り候ふ共、神事に付け聊かも違乱致すまじく候ふ、之に依り後年の氏子中当番

 組のため、勘定書件のごとし、

 

 

 「解釈」

    定め申し上げること。

 一つ、十二神の氏子中が一同に参会し、評議をした。当辰年分も、毎年のように十一月十三日に御神楽を勤め、社家へ取次を致し、氏子繁栄・寿命長久・五穀成就のため、御神酒と御神楽を差し上げ、氏子中は社参致すべきでありますこと。

 一つ、銭三十目である。

    他に見え申し上げる。氏子中で評議したうえは、午年分の元金を利殖して増やし申し上げつつ、この銭三十目を維持し申し上げるのである。

  右の講銭がありますので、当辰年分を当番の組に預ける。この銭の利息一割半を使って御神酒を調進し、御神楽を奉納し、氏子中一同へ御神酒を分け与え、運営しがたくなった祭礼を執行するべきでありますこと。

 一つ、講銭の件について、当辰年分は十一月十三日に右の銭三十疋を調進致し、当番の組から、同日に次年の当番の組に渡し申し上げなければなりません。当然、次の当番の組がこれを受け取り、前の当番の組と同様に取り計らい申し上げなければなりません。そのうえは、毎年滞りなく当番の組はこれを申し伝えるべきでありますこと。

 右の通りに考え判断し申し上げましたうえは、御神祭の件は申すまでもありません。たとえ他の件について、どのような混乱などがあったとしても、神事については少しも取り決めたことを破ってはなりません。これにより、将来の氏子中の当番の組のために、書き置いた勘定書の内容は、以上の通りである。

 

 

 「注釈」

(1)地元の市史を調べてみましたが、この史料は掲載されていませんでした。よって、新出史料ということになります。

(2)解釈できずに、翻刻したところが多々あります。難しくて読めませんでした。機会があれば、専門家にお願いして解読してもらおうと思います。

(3)説明注は( )、校訂注は〔 〕、改行は 」 で記載しています。

(4)理解できた範囲で要約してみます。毎年十一月十三日が祭礼日で、現在とは異なり、神楽を奉納していたようです。そして、社家(神主)にお願いをして、氏子繁栄・寿命長久・五穀豊穣を祈祷してもらっていました。どこの神社の神主かはっきりしませんが、おそらく村の鎮守の神主にでもお願いしていたのかもしれません。

 十二神講という組織は、共有財産として銭(講銭)を持っていたようです。おそらく、頼母子講や無尽講のような役割を果たしていたものと考えられます。従来、どのような負担の仕方によって祭礼を執行していたのかよくわかりませんが、この「勘定書」が作成された天保三年(一八三二)からは、次年に祭を担当する当番家に、講銭が一割半で貸し出され、その利息をもって祭礼の費用を負担したようです。

 さて、なぜ天保三年にこうした講の掟が定められたのか、という疑問が残ります。何らかの理由で講の運営に支障が生じたため、このような規則が定められたのでしょうが、その理由はよくわかりません。天保の大飢饉の始まりは翌天保四年(一八三三)ですが、ひょっとするとそれに先駆けて飢饉が起こり、慢性的な財源不足に陥っていたのかもしれません。