解題
井上家は壬生(山県郡千代田町)の八幡宮の神職をつとめる家である。当家には五行祭文や荒平舞詞をはじめとする祭文類が多数蔵されている。奥書から中世に属することが明らかなものだけでも、延徳二年(一四九〇)から慶長二年(一五九七)まで十三点を数える。
これらは年代的に連続して残っており、しかも寺原・石井谷・北方・今田など今日の千代田町地域の在地名や、それを苗字としたものが多く見られるなど在地性の強いものである。当時の神事や芸能を考える上で、きわめて貴重な史料である。その中から延徳二年の五行祭文を収録した。
一 五行祭文 その1
(端裏貼紙) (マヽ)
「五行祭文延徳元年庚戌年之書
今年文化五戊辰迄三百十九季ニ成」
(行)(祭文)(ん)
五形さいも⬜︎
(再拝) (敬)
さいはいゝゝゝゝ うやまいて申、
(降)(世)(明) (行) (根) (守護) (給へ)
南無東方ニかう三せミやう王、五きやう六こんヲしゆこし⬜︎⬜︎、
(軍荼利夜叉) (へ)
南無南方ニくんたりやしやミやう王、五行六こんヲしゆこし給⬜︎、
(威徳夜叉明)
南無西方ニ大いとくやしやミやう王、五形六こんしゆこし給へ、
(金剛夜叉明) (こ脱ヵ)
南無北方ニこんかうやしやミやう王、五形六こんおしゆし給へ、
南無中央ニ大日大聖不動明王、五行六こんをしゆこし給へ、
(余)(等)(部類眷属)
さうしてかくりやう八万四千六百五十よ神とうふるいけんそくかいらいしゆさせしめ
給へ、
つづく
「書き下し文」(必要に応じて、ひらがなを漢字に改めています)
(端裏貼紙) (1808)
「五行祭文(割書)「延徳元庚戌年の書、今年文化五戊辰年まで三百十九年に成る」
五行祭文
再拜々々 敬いて申す、
南無東方に降三世明王、五行六根を守護し給へ、
南無南方に軍荼利夜叉明王、五行六根を守護し給へ、
南無西方に大威徳夜叉明王、五行六根を守護し給へ、
南無北方に金剛夜叉明王、五行六根を守護し給へ、
南無中央に大日大聖不動明王、五行六根を守護し給へ、
惣じてかくりやう八万四千六百五十余神等部類眷属かいらいしゆさせしめ給へ、
つづく
*解釈は省略します。特に、最後の一文がよくわかりません。
「注釈」
「五行」
─中国で、万物を生じ、万象を変化させる五気としての木火土金水は、元来は日常生活に不可欠な五つの物質であるが、転じてこれらの物質によって象徴される気、あるいはそのはたらきの意となり、いわゆる五行説として展開する。行とは運行の意で、五つの物質が五行となるのは、天上の五遊星にその名をあてたことに由来する。陰陽道では、運勢を判断するのに用いる(『日本国語大辞典』)。
「五行説」
─中国で、万象の生成変化を説明するための理論。宇宙間には木火土金水によって象徴される五気がはびこっており、万物は五気のうちのいずれかのはたらきによって生じ、また、万象の変化は五気の勢力の交代循環によって起こるとする。循環の順序を、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に勝つとして木金火水土の順とする相剋説と、木は火を、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生ずるとして木火土金水の順とする相生説とがある。中国、戦国時代中期の鄒衍(すうえん)が歴代王朝の交代を相勝の理で説いたことに始まり、季節、方角、色、臭から人の道徳に至るまで、あらゆる事象を五行のいずれかに配当するようになった。漢代になると陰陽説と結合し、暦法、医学などにも取り入れられて、長く中国人の公私の生活を拘束することとなった(『日本国語大辞典』)。
「六根」
─仏語。六識がその対象となる六境に対して認識作用のはたらきをおこす場合、その拠り所となる、六つの認識器官をいう。眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つ。六情。六界(『日本国語大辞典』)。
*何のための祭文なのか、いまいちよくわかりませんが、五大明王に五行六根の守護を祈願しています。五大明王を勧請し、息災・増益・調伏等を祈願する密教修法に五壇法というものがありますが、最初の部分はこれに似ています。また、「八万四千六百五十余神等部類眷属」という表現は、牛頭天王の祭文や縁起によく登場してきます(「須佐神社文書」の記事参照)。