周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

藤田精一氏旧蔵文書3(完)

    三 常陸親王令旨

 

 安藝國河戸村國衙分〈一分二分〉、任先例全知行者、

 常陸親王令旨如此、悉之、以状、

     (1352)

     正平七年二月一日       右兵衛佐(花押)

     田所新左衛門尉舘

 

 「書き下し文」

 安芸国河戸村国衙分〈一分二分〉、先例に任せ全く知行せしむべし、てへれば、常陸親王の令旨此くのごとし、之を悉せ、以て状す、

 

 「解釈」

 安芸国河戸村国衙分〈一分・二分〉は、先例のとおりに知行を全うするべきである。というわけで、常陸親王の令旨はこのとおりである。命令を執行せよ。以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

常陸親王」─満良(みつなが)親王。生没年不詳。後醍醐天皇皇子。母は典侍藤原親

       子。事績については伝えられるところは少ないが、暦応元・延元三年

       (一三三八)九月、四国に渡り、暦応三・興国元年(一三四〇)正月、

       新田綿打入道とともに土佐大高坂城を攻めた花園宮は、満良親王ではな

       いかとされる(『関城書考』など)。また、観応二・正平六年(一三五

       一)のころ周防にあって、令旨を発して諸将を招き、兵糧料所を宛行っ

       ている常陸親王も、満良親王である可能性がある。さらに、臨済宗の僧

       として著名な無文元選は、満良親王の出家後の姿であるとの説もある

       (『系図纂要』)(『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社)。

藤田精一氏旧蔵文書2

    二 六波羅御教書

 

  (端裏書)

  「乾元二          下知  資賢」

(造ヵ)                     (間ヵ)

 ⬜︎東寺安藝國田所資賢⬜︎抑留公廨田并雑免所當米⬜︎事、重訴状〈副具書

               (不ヵ)

 如此、先度加下知之處、被承引旨太無謂、早任先下知状、可

 致⬜︎御沙汰也、仍執達如件、

    (1303)   (六ヵ)      (北條基時)

    乾元二年七月廿⬜︎日       左馬助(花押)

                    (金澤貞顕)

                    中務大輔(花押)

     河戸村一部地頭殿

 

 「書き下し文」

 造東寺安芸国田所資賢⬜︎公廨田并に雑免所当米を抑留する間の事、重訴状〈具書を副

 ふ〉此くのごとし、先度下知を加ふるの処、承引せざる旨太だ謂れ無し、早く先の下

 知状に任せ、⬜︎御沙汰を致さるべきなり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 田所資賢が訴え申す、造東寺役を賦課された安芸国の公廨田や雑免所当米を押領すること。重訴状〈具書を副える〉はこのとおりである。以前、押領をやめるように命令を下したが、聞き入れなかったことはひどく根拠のないことである。早く以前の下知状のとおりに、命令を遂行しなければならないのである。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

「造東寺」

 ─東寺の造寺造営役のことか。国家的大寺院や伊勢神宮以下地方の大社(一宮など)を再建・修造する際、造営費として諸国の荘園・公領に課された臨時課税の総称(『日本荘園史大辞典』吉川弘文館)。

 

「公廨田」

 ─くげでん・くがいでん。①太宰府官人および国司に支給された職田、不輸租田。②天平宝字元年(七五七)以後、諸司公廨田が設置され、これが各官衙の独自の財源となり官衙領化した(『古文書古記録語辞典』)。

 

「雑免」

 ─雑事免田のこと。公事・雑事を免除された田地。荘園の荘官に与えられた給名はふつう雑免である(『古文書古記録語辞典』)。

 

「所当米」

 ─その土地からの所出物として領主に上納されたもの。所当官物、所当地子、所当年貢、所当公事などと用いられたが、平安末期から所当、所当米などと用いられ、室町期には年貢を意味する語となる(『古文書古記録語辞典』)。この場合、雑事免田の所当年貢を指すと考えられます。

 

「抑留」

─年貢・公事などを地頭・代官などが押え取ること。また資材・雑物・文書などを押領すること。「妻子を抑留する」との用法もある(『文書古記録語辞典』)。

 

「具書」

 ─申状や訴状、陳状にそえて出す副状。証拠書類、関係書類のこと。添付される重要書類はふつう案文で、具書案と称される(『古文書古記録語辞典』)。

 

「左馬助」

 ─北条基時。六波羅探題北方。正安3年(1301)6月〜嘉元1年(1303)10月(『角川新版日本史辞典』)。

 

「中務大輔」

 ─金沢貞顕六波羅探題南方。乾元1年(1302)7月〜延慶1年(1308)11月(『角川新版日本史辞典』)。

 

「河戸村」

山県郡千代田町江の川の支流可愛川流域に位置する。平安末期〜戦国期に見える村名。安芸国山県郡のうち。嘉応3年正月日伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文に記された壬生荘四至の北限は「春木谷并志野坂川戸村訓覔郷堺」とあり、牓示の1つは壬生荘の艮方猪子坂峰并川戸村西堺にうたれていた(新出厳島文書)。乾元2年7月26日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えを受けて、公廨田と雑免所当米の抑留停止が、「河戸村一分地頭」に命ぜられている(藤田精一氏旧蔵文書)。鎌倉期の安芸国衙領注進状には、「河戸村二分方八丁七反大卅分」「同村一分方四丁二反半廿歩」とあり、ともに「平田押領」と記され、平田氏が地頭であったと思われる。また、公廨田に田所氏の仮名今富・弥富が見られることから田所氏と関係深かったものと思われる(田所文書)。正平6年10月3日の常陸親王令旨には、「河戸村国衙分〈一分、二分〉」とあり、兵粮料所として、田所信高に宛行われている(芸備郡中筋者書出)。享徳2年12月30日、管領細川勝元は、河戸村を吉川経信と争っていた綿貫光資に与えるよう武田信賢に命じ、翌正月11日に沙汰付られた(閥閲録126)。康正2年6月1日の武田信賢書状に「河戸村之内国衙分」翌日付の氏名未詳書状に「河戸村国衙事」とあり、吉川元経に預け置かれている(吉川家文書)。一方、綿貫左京亮は、文明8年9月19日、河戸総領職を嫡孫長松丸に譲った(同前)。大永4年3月5日の吉川氏奉行人連署宛行状が、「北方内阿(河)戸」を給分として3丁1反を石七郎兵衛尉に、その死後享禄4年4月28日吉川興経は遺領を石七郎三郎に宛行っている(藩中諸家古文書纂)。天文19年2月16日、吉川元春は河戸の内生田9反半等を井上春勝に、河戸内石クロ9反大等を黒杭与次に(同前)、柏村士郎兵衛尉に河戸之内六呂原内いちふ田1町、同年3月13日に河戸之内実正田1町を宛行った(吉川家文書別集)。翌天文20年3月3日には武永四郎兵衛尉に河戸の内田1町が宛行われている(同前)。永禄4年と思われる3月11日の吉川元春自筆書状に「大朝新庄河戸之衆」と見え(二宮家旧蔵文書)、永禄12年と見られる閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏人数注文に、河戸の彦四郎らが見え、元和3年4月23日の吉川広家功臣人数帳にも「川戸ノ彦十郎」らの名がある(吉川家文書)。天正19年3月のものと思われる吉川広家領地付立に、「参百貫 河戸」と見え(同前)、同年11月19日、河戸村の田2丁5反330歩、畠5反小、屋敷4か所合わせて14石5斗7升2合が増原元之に打渡された(譜録)。翌日付の河戸村打渡坪付には、すな原・三反田・つい地・はい谷・奥はい谷・めうと岩・むねひろ・大倉・猿岩・かきだ畠の地名が見える(閥閲録遺漏1─2)(『角川日本地名大辞典 広島県』)。

 

 山県郡山県郡千代田町川戸に比定される国衙領安芸国衙領注進状では二分方と一分方に分かれている(「田所文書」)。乾元二年(一三〇三)七月二十六日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えをうけて公廨田と雑免所当米の抑留停止が河戸村一分地頭に命ぜられている(「藤田精一氏旧蔵文書」)。国衙領注進状には二分方・一分方ともに「平田押領分」の記載があり、この平田氏が当村の地頭と目される。公廨田の中に田所氏の仮名今富・弥富が見えるように、当村はもともと同氏との関係が深く、南北朝期には常陸親王令旨によって田所新左衛門尉(信高)に兵粮料所として充行われている(同上、「芸備郡中筋者書出所収文書」)。一五世紀半ばごろには、河戸村の領知をめぐって綿貫光資と吉川経信との間に係争が起きている(『萩藩閥閲録』、『吉川家文書』)(『中国地方の荘園』吉川弘文館)。

藤田精一氏旧蔵文書1

解題

 大正四年当時、広島陸軍幼年学校の教官であった同氏が所蔵していた文書である。

 

 

    一 六波羅御教書    ○以下三通、東大影寫本ニヨル

 

          (端裏書) (1275)

           「惣社 建治元年

                 九月十日」

 安藝國在廳上西清經并惣社三昧同一和尚承兼申、當國温科村地頭代能秀令

 名田屋敷取作毛由事、重訴状等如此、擬尋決之處、令難渋之間、且

 置論所於中、且以日参着到問注之由、先度加下知畢、而不

 用度々歸國之間、就召文上洛、或号地頭代淂替、或稱

                       (非ヵ)

 和与之由、不催促迯⬜︎之状、⬜︎普通之法、所詮任先下知状

 相副両方使者置作毛於中、来月十日以前可上洛、能秀若過

 期日者、殊可其沙汰候、仍執達如件、

                      (北條義宗)

    建治元年九月十日         左近将監(花押)

   美作三郎殿

   下妻孫次郎殿

 

 「書き下し文」

 安芸国在庁上西清経并に惣社三昧同一の和尚承兼申す、当国温科村地頭代能秀名田屋敷を押領し作毛を苅り取らしむる由の事、重訴状此くのごとし、尋ね決せんと擬するの処、難渋せしむるの間、且つうは論所を中に置き、且つうは日参着到を以て問注を遂ぐべきの由、先度下知を加へ畢んぬ、而るに叙用せず度々帰国するの間、召文に就き上洛せしめながら、或うは地頭代得替と号し、或うは和与せしむべきの由を称し、催促に従はず逃⬜︎の状、普通の法に非ず、所詮先の下知状に任せ、両方の使者を相副へ作毛を中に苅り置き、来月十日以前に上洛を催さるべし、能秀若し期日を過ぐれば、殊に其の沙汰有るべく候ふ、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国の在庁官人上西清経と、惣社三昧堂の僧で一の和尚でもある承兼が訴え申す、当国温科村の地頭代能秀が名田・屋敷を押領し、作毛を刈り取らせたこと。重訴状はこのとおりである。尋問し裁決しようとしたところ、論人が召喚に応じず裁判を遅らせるので、一方では論所を訴訟当事者の手に触れないように管理し、その一方で論人を裁判所に毎日参着させることで尋問して、主張を記録するべきであると、以前に命令を下した。しかし、論人はその命令を受け入れず度々帰国するので、召喚状によって上洛させようとするのだが、地頭代が交替したと主張したり、和解するつもりだと詐称したりして、召喚命令に従わず逃亡することは、普通のやり方ではない。結局のところ、以前の下知状のとおりに、両使が立ち会って作毛を刈り取り、来月十日以前に上洛することを催促するべきである。能秀がもし期日を過ぎるなら、厳しい処分が下されるはずです。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

惣社

 ─安芸国惣社のことか。安芸郡府中町本町3丁目に総社跡とある。明治七年に創設された多家神社への合祀を機に廃社となった(「安芸国」『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

 

「三昧同一和尚承兼」

 ─どう読んでよいかわかりません。おそらく、惣社に設置された三昧堂の僧侶で、第一位の僧である、という意味ではないでしょうか。

 

「温科村」

 ─東区安芸町温品。広島から東北方の高宮郡小河原村(現安佐北区)に至る谷の入口にあたる。安芸郡に属し、南は矢賀村、府中村(現安芸郡府中町)、西は稜線を境にして戸坂村・中山村にそれぞれ接する。北は蝦蟇ヶ峠を越えて細長い谷が矢口村(現安佐北区)に通じ、峠以北の谷も当村域に属した。村内を東北から西南へ温品川が貫流し、東には高尾山(424・5メートル)がそびえる。「芸藩通志」に「昔は此辺まで入海なりしよし、金碇とよぶ地、往年鉄錨を掘出せしといふ、其地一段許は、今に深泥幾丈を知らず、耕種牛を入ことを得ずといふ、また舟隠とよぶ地もあり、古の舟入なりしにや」とあり、府中村に近い字長伝寺には、金碇神社が鎮座する。

 建久九年(1198)正月日付平兼資解(「芸藩通志」所収田所文書)に「一所温品科方冬原」とあり、この土地の四至は「東限温科河 西依請浜 北限弥吉開発田 南限温科川依請」と記す。平安・鎌倉時代の温科村には六三町八反一二〇歩の国衙領があり、うち五四町七反余が不輸免で(年欠「安芸国衙領注進状」田所文書)、厳島社以下諸社寺の免田や、在庁官人田所氏の私領(一〇町余)などがあった(正応二年正月二十三日付「沙弥某譲状」同文書)。また平安末期に後三条天皇が設定した安芸国新勅使田に含まれる部分もあったらしく、弘長三年(1263)安芸国新勅使田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)などにある。「久曾田三反小」は寛永十五年(1638)温品村地詰帳(広島市公文書館蔵)に見える字名「くそた」にあたる。

 承久三年(1221)関東武士平(金子)慈蓮が温科村地頭職に任じられた(同年十一月三日付「平盛忠譲状写」)以上毛利家文書)。金子氏は鎌倉時代は地頭代を派遣していたらしいが、(建治元年九月十日付「六波羅御教書」藤田精一氏旧蔵)、南北朝時代になると自ら温科村で押領を続け(嘉慶元年十月十一日付「室町将軍家御教書」東寺百合文書)、室町時代には温科氏を名乗るようになった。村の中央部温品川左岸の独立丘にある永町山城が温科氏の拠城といわれる(芸藩通志)。同氏は明応八年(1499)主君武田氏に背いて敗れた(同年八月六日付「室町幕府奉行人奉書」毛利家文書)。大永五年(1525)毛利元就は尼子・武田方から大内方に復帰、武田氏の治下にあった「温科三百貫」などを大内氏から与えられたが(年月日欠「毛利元就知行注文案」同文書)、武田氏滅亡後は大内氏領になったらしい(天文十年七月二十三日付「大内義隆預ヶ状写」同文書)。しかし天文二十一年(1552)元就は大内義隆を倒した陶晴賢から温科などの知行を認められた(同年二月二日付「毛利元就同隆元連署知行注文」同文書)。以後毛利氏は熊谷信直に温科半分を与えているのをはじめ(年未詳九月二十八日付「熊谷信直書状案」熊谷家文書)、家臣に給地を分与し、村役人として散使を置いた(「毛利氏八箇国時代分限帳」山口県文書館蔵)(『広島県の地名』)。

 

「重訴状」

 ─中世の裁判で提出される訴状で、二回目の訴状を二問状、三回目の訴状を三問状といい、二問状・三問状を総じて重訴状という(佐藤進一『新版 古文書学入門』法政大学出版局)。

 

「難渋」

 ─①訴訟当事者が裁判所の召喚に応じないなど、手続きをおくらせること。②年貢の納入をおくらせること(『古文書古記録語辞典』)。

 

「論所」─訴訟、相論の対象となった土地のこと(『古文書古記録語辞典』)。

 

「置〜於中」─〜をなかにおく。中世、幕府・朝廷の訴訟法で裁判所が係争中の目的物について訴訟当事者(訴人・論人)が手を触れないように命じること。たとえば稲は当事者双方が立ち会って刈り取り、倉庫に納めて封をし、所領は訴訟に無関係の第三者あるいは沙汰人百姓などに訴訟が落着するまで保管させた(『日本国語大辞典』)。

 

「殊可有其沙汰候」

 ─おそらく、「来たる十月十日以前に上洛しなければ、訴人の訴えのとおりに裁決する」ことを明記していると考えられます(石井良助「第一篇・第二章・第三款 召喚」『中世武家不動産訴訟法の研究』弘文堂書房、1938)。

 

「両方使者」

 ─両使のことか。訴訟に関する諸々の使命を執行するために任命・派遣された使節のこと。二人一組での行動が顕著であることから、研究史上「両使」・「両使制」と呼ばれてきた。使節の担う任務は、①出頭命令等訴訟進行に関わる使節(召文催促・召文違背の実否尋問)、②絵図注進・論人尋問等の現地調査に関わる使節、③判決後の任務に関わる使節(判決結果の伝達・沙汰付などの裁決(強制)執行・悪党召進等の警察行動)に大別できる。今回の場合、充所の「美作三郎殿・下妻孫次郎殿」が「両方使者」に当たると考えられます。「美作三郎」は小早河一族。「下妻孫次郎」は、常陸平氏の一流で、嫡流多家直幹の次男で常陸国下妻庄下司職を有した四郎広(弘)幹を祖とする一族であると思われ、西遷したものと考えられています。いずれも派遣対象国内に本拠・所領を有するなど、何らかの影響力をもった人物と考えられます(本間志奈「鎌倉幕府派遣使節について─六波羅探題使節を中心に─」『法政史学』69、2008・3、http://repo.lib.hosei.ac.jp/handle/10114/10872)。

 

「左近将監」

 ─北条義宗六波羅探題北方。文永8年(1271)11月〜建治2年(1276)12月(『角川新版日本史辞典』)。

原田篤郎氏所蔵文書(完)

解題

 安芸郡府中村(府中町)松崎に鎮座した八幡別宮関係の文書である。原田氏は同氏の系図によると、安芸守護武田氏の一族で、玖地域(広島市安佐町)に滅んだ武田信栄の弟に信久がおり、信久の第二子家久の系統が原田を号し、その長子家元は佐東郡中須村(広島市安古市町)に住んだが、七子正順の四代後の了安が府中龍仙寺住職として住むことになり、合わせて医を業としたという。この文書と原田氏の関係は不明である。

 

 

    一 左衛門尉惟宗堂宇譲状

 

 譲与

  (一ヵ)

  ⬜︎間四面堂一宇

   (安)

    ]藝国松崎八幡宮敷地内

 右件堂、依殊宿願、去正治二年冬雖建立、棟上之後在京之間、自然不

 遂造畢、送年月之處、自去年明年、依當王相方造営有

 憚、定令朽損歟、罪業之至不勝計、仍件堂所与政所五郎大夫助

 清也、早爲助清之沙汰造畢也、但於材木釘等沙汰也、

 至于番匠食物者、久武得分米貳拾石所免給也、助清可募立用也、云

 木番匠[   ]足事者、助清令合力沙汰、其故者助清適彼社

 之年来惣官也、何無其依怙哉、然者令合力造営也、雖神官内侍等

 ⬜︎与力之由可下知也、令造畢之後、於供養者⬜︎秋之時可久武之

                   (至)

 沙汰、其後者以助清俗別當職、⬜︎于子々孫々可護此堂、且又

 供養以後募佛聖燈油料、以久武得分内、相計便冝之所、可

 田也、雖末代何可牢籠哉、仍譲与助清之状如件、

     (1204)           (宗孝親)

     建仁四年正月卅日      左衛門尉惟宗(花押)

 

 「書き下し文」

 譲与す

  一間四面堂一宇の事

   安芸国松崎八幡宮敷地内

 右件の堂、殊なる宿願により、去んぬる正治二年冬建立せしむと雖も、棟上の後在京の間、自然造畢を遂げず、年月を送るの処、去年より明年まで、王相方に相当つるにより造営に其の憚り有り、定めて朽損せしむるか、罪業の至り勝げて計るべからず、仍て件の堂政所五郎大夫助清に譲与する所なり、早く助清の沙汰として造畢を遂ぐべきなり、但し材木・釘等に於いて沙汰致すべきなり、番匠の食物に至りては、久武得分米二十石免給する所なり、助清募り立用すべきなり、材木と云ひ番匠と云ひ[  ]足事は、助清に合力せしめ沙汰致すべし、其の故は助清適々彼の社の年来の惣官なり、何の其れ依怙無し、然れば合力せしめ造営すべきなり、神官・内侍等と雖も与力せしむるの由下知すべきなり、造畢を遂げしむるの後、供養に於いては来秋の時久武の沙汰と為すべし、其の後は助清を以て俗別当職と為し、子々孫々に至り此の堂を守護し奉るべし、且つ又供養以後仏聖燈油料を募り、久武得分の内を以て、便宜の所を相計らひ、料田を置かるべきなり、末代と雖も何ぞ牢籠有るべけんや、仍て助清に譲与するの状件のごとし、

 

 「解釈」

 譲与する、安芸国松崎八幡宮敷地内の一間四面堂一宇のこと。

 右のお堂は、特別な宿願によって、去る正治二年(一二〇〇)冬に建立したけれども、棟上げの後に在京したので、そのまま竣工しなかった。年月は過ぎたが、去年から来年まで王相方に当たっているので、造営するのに支障がある。きっと腐って痛ませてしまうだろう。この上ない罪業ははかりつくすことができない。そこで、このお堂を政所五郎大夫助清に譲与するのである。早く助清の指図で造りおえるべきである。ただし、材木や釘などについては、助清自身で負担するべきである。番匠の食費に至っては、久武名の得分米二十石を給免するものである。助清が得分米を徴収し、費用に当てるべきである。材木も番匠も、その費用のことについて、助清は(関係者に)協力させて、取り計らうべきである。その理由は、助清がちょうど数年来、松崎八幡宮の惣官であったからだ。そもそも、何の不公平もない。だから、(関係者に)協力させ、お堂を造営するべきである。神官や内侍であっても、合力させるように命令するべきである。竣工後の供養においては、来秋の久武名の得分を当てるのがよい。その後は助清を俗別当職にして、子々孫々に至るまでこのお堂を守護し申し上げるべきである。さらにまた、竣工祭以後は、仏前に供える燈油料を集め、久武名の得分のうちから、都合のよい田地を計算し、燈油料田に設定するのがよい。たとえ未来であっても、どうして困窮してよいだろうか、いや困窮してはならない。だから、助清に譲与するのである。

 

 「注釈」

「松崎八幡宮」─安芸郡府中町宮の町5丁目。国府の東方に存在した石清水八幡宮

        社。鎌倉時代中期の「安芸国衙領注進状」(田所文書)によれば、国

        内各所に総計25町余の八幡宮免田が存在していた。これは一宮免田

        に次ぐもので、国内における当社の卓越した地位を物語っている。ま

        た、松崎八幡宮下司職は在庁兄部職・祇園神人兄部職とともに守護職

        に付随する固有の所職とされており、建仁4年(1204)には守護

        宗孝親が松崎八幡宮敷地内の堂宇の造畢とその後の経営を神社惣官を

        勤める在庁助清に託し、その経費には守護領の久武名の得分米を充て

        ることとしている(原田宏氏所蔵文書)。当社は中世を通じてその地

        位を保ち、江戸時代には府中南部氏神となったが、式内社多家神社

        の所在地などをめぐる惣社との積年の争いに終止符を打つため、明治

        7年両社とも廃社となった(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書

        院、2000)。

「王相方」─陰陽道で、王相神のいる方角。月ごとにその所在の方角は変わる。その方

      角は移転・建築の際に避けた。

「適」─「たまたま」と読んでみました。

「惣官」─①平安末期〜鎌倉期、御厨、御薗などの供御人・神人を統括する者。②養和

     元年(一一八一)平氏によって、五畿内および伊賀、近江、丹波など諸国を

     対象に設置された官。追捕・検断権を行使して国内武士を把握しようとした

     もの。ここでは、松崎八幡宮の神官の長のことか。

「何無其依怙哉」─読み方がわかりません。

「内侍」─内侍司の女官の総称。内侍司天皇の日常生活に供奉し、奏請・宣伝のこと

     を掌る官司。尚侍(二人)、典侍(四人)、掌侍(四人)、女孺(一〇〇

     人)よりなる(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、松崎八幡宮に奉仕す

     る女性神職と考えておきます。

「⬜︎与力」─⬜︎には「令」を当てるのがよいかもしれません。

「⬜︎秋」─⬜︎には「来」を当てるのがよいかもしれません。

「宗孝親」─そうたかちか。生没年不詳。鎌倉時代前期の武将。宗は惟宗氏の略。『吾

      妻鏡』では建久六年(一一九五)三月十日条将軍随兵交名に「宗左衛門

      尉」とあるのが初見だが、孝親が実際に左衛門尉に任官したのは建仁三年

      (一二〇三)正月(『明月記』)。建久七年以前安芸国守護となり在国司

      (在庁兄部職)を兼任、在京御家人としても活躍した。承久の乱には京方

      の武将として木曽川に会戦したが、乱の敗北により守護職を失い、没落し

      たと思われる(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

厠の尼子さんとその眷属 ─足のない幽霊の初見について─ (The Yokai that appeared in the court)

「妖怪 厠の尼子さんとペットの亀」


【史料1】

  応永二十五年(1418)十月二日条    (『看聞日記』1─234頁)

 

 二日、晴、

  (中略)

                        称光天皇

  去比禁中はけ物あり、女房腰より下は不見半人也、主上大便所ニて被御覧云々、

      〔違〕       (白川)

  其以後御遣例、此化人主上、資雅朝臣有御物語云々、非虚説事也、

 

 「書き下し文」

  去んぬる比、禁中にばけ物あり、女房腰より下は半ば見えざる人なり、主上大便所にて御覧ぜらると云々、其れ以後御違例、此の化人のこと主上、資雅朝臣に御物語有りと云々、虚説に非ざる事なり、

 

 「解釈」

 さきごろ、内裏に化け物が出たという。腰から下の身体は消えていて目に見えない。女房姿の化け物だそうだ。称光天皇陛下が大便所で目撃なさった。その時からご病気になったという。この化け物のことを、帝は白川資雅朝臣にお話ししたそうだ。だから単なるうわさ話ではない。

 

 The other day a monster appeared in the royal court. The lower body disappears and can not be seen. It is a monster that looks like a court lady. Emperor Shoukou witnessed in the toilet. From that time he became ill. This is not just a rumor.

 

*解釈は、薗部寿樹「資料紹介『看聞日記』現代語訳(九)」『山形県立米沢女子短期

 大学附属生活文化研究所報告』44、2017・3、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=283&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 

【考察】

*宮中の大便所には女房姿の化け物が出現しました。まるで、トイレの花子さんのよう…。しかも下半身が消えている。足のない幽霊?化け物?の描写は、室町時代まで遡れることがわかります。幽霊には足がないなんて、いったい、いつ誰が言い始めたのでしょうか。これが、足のない幽霊について記載された最古の文献史料であれば、かなり興味深いのですが…。

 それにしても、便所で用を足しているときに化け物が現れるというのは、簡単には逃げ出せない状況だけに、相当に怖いです。

 さて、この室町時代の「トイレの花子さん」ですが、姿を変えてまた出現します。しかも、恐ろしい部下を引き連れて…。

 

 

【史料2】

  応永三十二年(1425)七月二十七日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』3─147頁)

 

 廿七日、晴、

  (中略)

 称光天皇

  御悩之様風聞之説、廿五日夕方大便所御座之時、変化尼一人参則失、其後亀一

  出来、主上奉食付之間、亀甲乗御云々、亀もて返して食付、御腹之内入と

  思食て御絶入あり云々、良久無還御之間、女房参て奉見、絶入して御座あり、

  面々仰天、舁出し奉て御蘇生あり、此次第有御物語云々、御前水紫野寺之名石

  被召寄被立之、彼霊石祟申之由陰陽師占申之間、昨日彼石共雨中紫野寺

  返遣云々、(後略)

 

 「書き下し文」

  御悩みの様風聞の説、廿五日夕方大便所に御座するの時、変化の尼一人参り則ち失す、其の後亀一つ出で来り、主上に食い付き奉るの間、亀の甲に乗り御ふと云々、亀も返して食い付き、御腹の内に入ると思し食して御絶入ありと云々、良久しくして還御無きの間、女房参りて見奉るに、絶入して御座あり、面々仰天し、舁き出だし奉りて御蘇生あり、此の次第御物語ありと云々、御前水に紫野寺の名石召し寄せられ之を立てらる、彼の霊石祟り申すの由陰陽師占ひ申すの間、昨日彼の石ども雨中に紫野寺へ返し遣はすと云々、

 

 「解釈」

 称光天皇がご病気であるという噂があった。二十五日夕方、帝が大便所にいらっしゃったとき、尼姿の化け物が一人現れて、すぐに消えた。その後、亀が一匹現れて、帝に食い付き申し上げたので、帝は(身をかわそうと)亀の甲羅にお乗りになったという。亀もひっくり返ってさらに食い付き、帝は亀がご自分のお腹に食い入るとお思いになって気絶なさったという。しばらくしても帝がお戻りにならなかったので、女房がやってきて拝見すると、気絶してお座りになっていた。女房たちはおのおの驚き、帝を担ぎ出し申し上げたところ、意識を取り戻しなさった。帝はこの事情をお話しになったという。宮中の庭先の流水に、大徳寺のすぐれた石をお取り寄せになり、それをお立てになっていた。この霊石が祟り申し上げている、と陰陽師が占い申し上げたので、昨日その石を雨の中、大徳寺へお返しになったという。

 

 Emperor Shoukou got sick. When the emperor came to the toilet on the evening of July 25th, a monster that looked like a nun appeared and soon disappeared. After that, a turtle appeared and bit to the emperor, so he got on the turtle shell. The turtle turned over and bites further, and the emperor fainted as the turtle bit into his abdomen. After a while, the emperor did not return, so when court ladies came to the toilet, he was faintly seated. They were all surprised and carried the emperor. Then he regained consciousness. The emperor told them about the situation. The emperor brought the excellent stone of Daitokuji temple to the garden of the palace. As the yin-yang master fortune-told that this stone cast an evil spell on him, the emperor returned the stone to Daitokuji temple in the rain yesterday.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「御前水」─未詳。庭の流水か。

 

「紫野寺」

 ─大徳寺のことか。京都市北区紫野大徳寺町。船岡山の北にある臨済宗大徳寺派大本山。竜宝山と号し、本尊釈迦如来。正和四年(一三一五)、宗峰妙超(大燈国師)が、赤松則村の帰依をうけ、雲林院の故地に一宇を建立したのが始まりと伝える(『京都市の地名』平凡社)。

 

*今回の化け物も同じく女性なのですが、尼の姿で便所に現れました。前回同様、女性の化け物自身は、姿を現してすぐに消えるのですが、今回の「厠の尼子さん」には、強力な助っ人がいました。なんと、新たに亀が出現して、称光天皇に襲いかかったのです。

 しかもこの亀、結構しつこいんです。帝は亀の攻撃を避けようと、甲羅の上に乗るのですが、亀は身を翻してまたお腹に食い付こうとする。当時の宮中の大便所がどれほどの広さかわかりませんが、狭い場所で大立ち回りが繰り広げられていたわけです。そりゃ、気絶の一つもするはずです。

 さて、この怪異の原因ですが、大徳寺から持ってきた霊石の祟りだということになりました。幼い頃のことですが、旅行先できれいな石を見つけて持って帰ろうとした私に、母親が「悪いものが付いてくるから、持って帰ってはだめだ」と言ったことがありました。パワーストーン然り、古代の磐座然り。石には不思議な力が宿っているのかもしれません。

 

 

*2019.7.17追記

 宮田登『神の民俗誌』(岩波新書、1979、42頁)には、「厠・便所は、この世とあの世の霊魂の出入り口という捉え方があったのではないか」という指摘があります。いったい、いつから厠や便所が此岸と彼岸の境界と捉えられるようになったのかよくわかりませんが、今回の記事を見ると、こうした考え方は室町時代にまで遡れるかもしれません。トイレは昔から、この世ならぬものが出現しやすい場所だったようです。

 

 

*2019.10.16追記

 足のない幽霊の描写については、加治屋健司氏の論文で、これまでの研究成果が整理されていました(「日本の中世及び近世における夢と幽霊の視覚表象」『広島市立大学芸術学部芸術学研究科紀要』16、2011・3、39頁、http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hiroshima-cu/metadata/10367)。それにによると、最も古い描写は、諏訪春雄氏(『日本の幽霊』169頁)が紹介した、近松門左衛門作と伝えられる『花山院きさきあらそひ』(1673 年刊)の挿画だそうです。これは生霊となった藤壺を描写したもので、腰から下が描かれていません。ところが、『花山院きさきあらそひ』の本文中には、 藤壺の生霊に足がないという記述が一切ないのです。また、山本春正の『絵入源氏物語』(1654年刊)における物の怪の描写も同様で、挿画には下半身が描かれてないにもかかわらず、本文に足がないという記述はないそうです。

 こうした事実から、加治屋氏は「足なし幽霊というのは、文学ではなく絵画において初めて登場したことになる」と考えられています。そして、「最初は幽霊が現れたり消えたりする過程を描いていたのだが、印刷文化が発達して版本の挿画の図像が普及するうちに、当初の時間表現は忘れられて、足のない幽霊という様式が定着したという仮説を提出して」います。

 さて、今回提示した「厠の尼子さん」は、「幽霊」なのか「妖怪」なのか明確に定義づけることはできませんが、それでも足がない「物の怪」の描写は、室町時代まで遡れることがわかります。そして、その描写は、絵画よりも文字の方が先だったと判断できそうです。ひょっとすると伝来していないだけで、足の描かれてない絵画資料は中世にもあったのかもしれませんが、こればかりは素人の私にはよくわかりません。おそらく、ぼんやりと、うっすらと見えた幽霊や妖怪の姿を、「姿が消えかかっていた」などと言語で表現したのが最初なのでしょう。そのうち、「足下が見えなかった」などと表現するようになり、それが社会通念として定着して、江戸時代に図化されるようになったと考えられます。

 

 トイレ(厠)に幽霊が出やすい理由ですが、諏訪春雄「幽霊の衣装と住みか」(『別冊太陽 日本のこころ98 幽霊の正体』平凡社、1997、55頁)によると、これは日本人の他界観から説明できるそうです。日本人の他界観は、地下・海上(中)・天上・山中(上)の4つまとめることができるのですが、そのなかでも地下は、死者を埋葬する場所であったため、幽霊と結びつきやすかったと考えられています。厠(かわや)という呼び方からも明らかなように、古くは流水のうえに建てられたので、本来は地下他界というよりも海上(中)他界(流れゆく先)や山中(上)他界(流れの始まり)と結びついていたのでしょうが、「井戸」と同様に、次第に地下をイメージするようになったと考えられています。

 今回の史料によって、「厠・トイレ」と「幽霊・物の怪」の結びつきも、室町時代まで遡れることがはっきりしました。