解題
安芸郡府中村(府中町)松崎に鎮座した八幡別宮関係の文書である。原田氏は同氏の系図によると、安芸守護武田氏の一族で、玖地域(広島市安佐町)に滅んだ武田信栄の弟に信久がおり、信久の第二子家久の系統が原田を号し、その長子家元は佐東郡中須村(広島市安古市町)に住んだが、七子正順の四代後の了安が府中龍仙寺住職として住むことになり、合わせて医を業としたという。この文書と原田氏の関係は不明である。
一 左衛門尉惟宗堂宇譲状
譲与
(一ヵ)
⬜︎間四面堂一宇事
(安)
]藝国松崎八幡宮敷地内
右件堂、依二殊宿願一、去正治二年冬雖レ令二建立一、棟上之後在京之間、自然不レ
遂二造畢一、送二年月一之處、自二去年一迄二明年一、依三相二當王相方一造営有二其
憚一、定令二朽損一歟、罪業之至不レ可二勝計一、仍件堂所三譲二与政所五郎大夫助
清一也、早爲二助清之沙汰一可レ遂二造畢一也、但於二材木釘等一可レ致二沙汰一也、
至二于番匠食物一者、久武得分米貳拾石所二免給一也、助清可二募立用一也、云二材
木一云二番匠一[ ]足事者、助清令二合力一可レ致二沙汰一、其故者助清適彼社
之年来惣官也、何無二其依怙一哉、然者令二合力一可二造営一也、雖二神官内侍等一
⬜︎与力之由可二下知一也、令レ遂二造畢一之後、於二供養一者⬜︎秋之時可レ爲二久武之
(至)
沙汰一、其後者以二助清一爲二俗別當職一、⬜︎于子々孫々可レ奉三守二護此堂一、且又
供養以後募二佛聖燈油料一、以二久武得分内一、相二計便冝之所一、可レ被レ置二料
田一也、雖二末代一何可レ有二牢籠一哉、仍譲二与助清一之状如レ件、
(1204) (宗孝親)
建仁四年正月卅日 左衛門尉惟宗(花押)
「書き下し文」
譲与す
一間四面堂一宇の事
右件の堂、殊なる宿願により、去んぬる正治二年冬建立せしむと雖も、棟上の後在京の間、自然造畢を遂げず、年月を送るの処、去年より明年まで、王相方に相当つるにより造営に其の憚り有り、定めて朽損せしむるか、罪業の至り勝げて計るべからず、仍て件の堂政所五郎大夫助清に譲与する所なり、早く助清の沙汰として造畢を遂ぐべきなり、但し材木・釘等に於いて沙汰致すべきなり、番匠の食物に至りては、久武得分米二十石免給する所なり、助清募り立用すべきなり、材木と云ひ番匠と云ひ[ ]足事は、助清に合力せしめ沙汰致すべし、其の故は助清適々彼の社の年来の惣官なり、何の其れ依怙無し、然れば合力せしめ造営すべきなり、神官・内侍等と雖も与力せしむるの由下知すべきなり、造畢を遂げしむるの後、供養に於いては来秋の時久武の沙汰と為すべし、其の後は助清を以て俗別当職と為し、子々孫々に至り此の堂を守護し奉るべし、且つ又供養以後仏聖燈油料を募り、久武得分の内を以て、便宜の所を相計らひ、料田を置かるべきなり、末代と雖も何ぞ牢籠有るべけんや、仍て助清に譲与するの状件のごとし、
「解釈」
右のお堂は、特別な宿願によって、去る正治二年(一二〇〇)冬に建立したけれども、棟上げの後に在京したので、そのまま竣工しなかった。年月は過ぎたが、去年から来年まで王相方に当たっているので、造営するのに支障がある。きっと腐って痛ませてしまうだろう。この上ない罪業ははかりつくすことができない。そこで、このお堂を政所五郎大夫助清に譲与するのである。早く助清の指図で造りおえるべきである。ただし、材木や釘などについては、助清自身で負担するべきである。番匠の食費に至っては、久武名の得分米二十石を給免するものである。助清が得分米を徴収し、費用に当てるべきである。材木も番匠も、その費用のことについて、助清は(関係者に)協力させて、取り計らうべきである。その理由は、助清がちょうど数年来、松崎八幡宮の惣官であったからだ。そもそも、何の不公平もない。だから、(関係者に)協力させ、お堂を造営するべきである。神官や内侍であっても、合力させるように命令するべきである。竣工後の供養においては、来秋の久武名の得分を当てるのがよい。その後は助清を俗別当職にして、子々孫々に至るまでこのお堂を守護し申し上げるべきである。さらにまた、竣工祭以後は、仏前に供える燈油料を集め、久武名の得分のうちから、都合のよい田地を計算し、燈油料田に設定するのがよい。たとえ未来であっても、どうして困窮してよいだろうか、いや困窮してはならない。だから、助清に譲与するのである。
「注釈」
「松崎八幡宮」─安芸郡府中町宮の町5丁目。国府の東方に存在した石清水八幡宮末
社。鎌倉時代中期の「安芸国衙領注進状」(田所文書)によれば、国
内各所に総計25町余の八幡宮免田が存在していた。これは一宮免田
に次ぐもので、国内における当社の卓越した地位を物語っている。ま
た、松崎八幡宮下司職は在庁兄部職・祇園神人兄部職とともに守護職
に付随する固有の所職とされており、建仁4年(1204)には守護
宗孝親が松崎八幡宮敷地内の堂宇の造畢とその後の経営を神社惣官を
勤める在庁助清に託し、その経費には守護領の久武名の得分米を充て
ることとしている(原田宏氏所蔵文書)。当社は中世を通じてその地
位を保ち、江戸時代には府中南部の氏神となったが、式内社多家神社
の所在地などをめぐる惣社との積年の争いに終止符を打つため、明治
7年両社とも廃社となった(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書
院、2000)。
「王相方」─陰陽道で、王相神のいる方角。月ごとにその所在の方角は変わる。その方
角は移転・建築の際に避けた。
「適」─「たまたま」と読んでみました。
「惣官」─①平安末期〜鎌倉期、御厨、御薗などの供御人・神人を統括する者。②養和
元年(一一八一)平氏によって、五畿内および伊賀、近江、丹波など諸国を
対象に設置された官。追捕・検断権を行使して国内武士を把握しようとした
もの。ここでは、松崎八幡宮の神官の長のことか。
「何無其依怙哉」─読み方がわかりません。
「内侍」─内侍司の女官の総称。内侍司は天皇の日常生活に供奉し、奏請・宣伝のこと
を掌る官司。尚侍(二人)、典侍(四人)、掌侍(四人)、女孺(一〇〇
人)よりなる(『古文書古記録語辞典』)。ここでは、松崎八幡宮に奉仕す
る女性神職と考えておきます。
「⬜︎与力」─⬜︎には「令」を当てるのがよいかもしれません。
「⬜︎秋」─⬜︎には「来」を当てるのがよいかもしれません。
「宗孝親」─そうたかちか。生没年不詳。鎌倉時代前期の武将。宗は惟宗氏の略。『吾
妻鏡』では建久六年(一一九五)三月十日条将軍随兵交名に「宗左衛門
尉」とあるのが初見だが、孝親が実際に左衛門尉に任官したのは建仁三年
(一二〇三)正月(『明月記』)。建久七年以前安芸国守護となり在国司
(在庁兄部職)を兼任、在京御家人としても活躍した。承久の乱には京方
の武将として木曽川に会戦したが、乱の敗北により守護職を失い、没落し
たと思われる(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。