三 常陸親王令旨
安藝國河戸村國衙分〈一分二分〉、任二先例一可レ令二全知行一者、
常陸親王令旨如レ此、悉レ之、以状、
(1352)
正平七年二月一日 右兵衛佐(花押)
田所新左衛門尉舘
「書き下し文」
安芸国河戸村国衙分〈一分二分〉、先例に任せ全く知行せしむべし、てへれば、常陸親王の令旨此くのごとし、之を悉せ、以て状す、
「解釈」
安芸国河戸村国衙分〈一分・二分〉は、先例のとおりに知行を全うするべきである。というわけで、常陸親王の令旨はこのとおりである。命令を執行せよ。以上の内容を下達する。
「注釈」
「常陸親王」─満良(みつなが)親王。生没年不詳。後醍醐天皇皇子。母は典侍藤原親
子。事績については伝えられるところは少ないが、暦応元・延元三年
(一三三八)九月、四国に渡り、暦応三・興国元年(一三四〇)正月、
新田綿打入道とともに土佐大高坂城を攻めた花園宮は、満良親王ではな
いかとされる(『関城書考』など)。また、観応二・正平六年(一三五
一)のころ周防にあって、令旨を発して諸将を招き、兵糧料所を宛行っ
ている常陸親王も、満良親王である可能性がある。さらに、臨済宗の僧
として著名な無文元選は、満良親王の出家後の姿であるとの説もある