周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

藤田精一氏旧蔵文書2

    二 六波羅御教書

 

  (端裏書)

  「乾元二          下知  資賢」

(造ヵ)                     (間ヵ)

 ⬜︎東寺安藝國田所資賢⬜︎抑留公廨田并雑免所當米⬜︎事、重訴状〈副具書

               (不ヵ)

 如此、先度加下知之處、被承引旨太無謂、早任先下知状、可

 致⬜︎御沙汰也、仍執達如件、

    (1303)   (六ヵ)      (北條基時)

    乾元二年七月廿⬜︎日       左馬助(花押)

                    (金澤貞顕)

                    中務大輔(花押)

     河戸村一部地頭殿

 

 「書き下し文」

 造東寺安芸国田所資賢⬜︎公廨田并に雑免所当米を抑留する間の事、重訴状〈具書を副

 ふ〉此くのごとし、先度下知を加ふるの処、承引せざる旨太だ謂れ無し、早く先の下

 知状に任せ、⬜︎御沙汰を致さるべきなり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 田所資賢が訴え申す、造東寺役を賦課された安芸国の公廨田や雑免所当米を押領すること。重訴状〈具書を副える〉はこのとおりである。以前、押領をやめるように命令を下したが、聞き入れなかったことはひどく根拠のないことである。早く以前の下知状のとおりに、命令を遂行しなければならないのである。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

「造東寺」

 ─東寺の造寺造営役のことか。国家的大寺院や伊勢神宮以下地方の大社(一宮など)を再建・修造する際、造営費として諸国の荘園・公領に課された臨時課税の総称(『日本荘園史大辞典』吉川弘文館)。

 

「公廨田」

 ─くげでん・くがいでん。①太宰府官人および国司に支給された職田、不輸租田。②天平宝字元年(七五七)以後、諸司公廨田が設置され、これが各官衙の独自の財源となり官衙領化した(『古文書古記録語辞典』)。

 

「雑免」

 ─雑事免田のこと。公事・雑事を免除された田地。荘園の荘官に与えられた給名はふつう雑免である(『古文書古記録語辞典』)。

 

「所当米」

 ─その土地からの所出物として領主に上納されたもの。所当官物、所当地子、所当年貢、所当公事などと用いられたが、平安末期から所当、所当米などと用いられ、室町期には年貢を意味する語となる(『古文書古記録語辞典』)。この場合、雑事免田の所当年貢を指すと考えられます。

 

「抑留」

─年貢・公事などを地頭・代官などが押え取ること。また資材・雑物・文書などを押領すること。「妻子を抑留する」との用法もある(『文書古記録語辞典』)。

 

「具書」

 ─申状や訴状、陳状にそえて出す副状。証拠書類、関係書類のこと。添付される重要書類はふつう案文で、具書案と称される(『古文書古記録語辞典』)。

 

「左馬助」

 ─北条基時。六波羅探題北方。正安3年(1301)6月〜嘉元1年(1303)10月(『角川新版日本史辞典』)。

 

「中務大輔」

 ─金沢貞顕六波羅探題南方。乾元1年(1302)7月〜延慶1年(1308)11月(『角川新版日本史辞典』)。

 

「河戸村」

山県郡千代田町江の川の支流可愛川流域に位置する。平安末期〜戦国期に見える村名。安芸国山県郡のうち。嘉応3年正月日伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文に記された壬生荘四至の北限は「春木谷并志野坂川戸村訓覔郷堺」とあり、牓示の1つは壬生荘の艮方猪子坂峰并川戸村西堺にうたれていた(新出厳島文書)。乾元2年7月26日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えを受けて、公廨田と雑免所当米の抑留停止が、「河戸村一分地頭」に命ぜられている(藤田精一氏旧蔵文書)。鎌倉期の安芸国衙領注進状には、「河戸村二分方八丁七反大卅分」「同村一分方四丁二反半廿歩」とあり、ともに「平田押領」と記され、平田氏が地頭であったと思われる。また、公廨田に田所氏の仮名今富・弥富が見られることから田所氏と関係深かったものと思われる(田所文書)。正平6年10月3日の常陸親王令旨には、「河戸村国衙分〈一分、二分〉」とあり、兵粮料所として、田所信高に宛行われている(芸備郡中筋者書出)。享徳2年12月30日、管領細川勝元は、河戸村を吉川経信と争っていた綿貫光資に与えるよう武田信賢に命じ、翌正月11日に沙汰付られた(閥閲録126)。康正2年6月1日の武田信賢書状に「河戸村之内国衙分」翌日付の氏名未詳書状に「河戸村国衙事」とあり、吉川元経に預け置かれている(吉川家文書)。一方、綿貫左京亮は、文明8年9月19日、河戸総領職を嫡孫長松丸に譲った(同前)。大永4年3月5日の吉川氏奉行人連署宛行状が、「北方内阿(河)戸」を給分として3丁1反を石七郎兵衛尉に、その死後享禄4年4月28日吉川興経は遺領を石七郎三郎に宛行っている(藩中諸家古文書纂)。天文19年2月16日、吉川元春は河戸の内生田9反半等を井上春勝に、河戸内石クロ9反大等を黒杭与次に(同前)、柏村士郎兵衛尉に河戸之内六呂原内いちふ田1町、同年3月13日に河戸之内実正田1町を宛行った(吉川家文書別集)。翌天文20年3月3日には武永四郎兵衛尉に河戸の内田1町が宛行われている(同前)。永禄4年と思われる3月11日の吉川元春自筆書状に「大朝新庄河戸之衆」と見え(二宮家旧蔵文書)、永禄12年と見られる閏5月28日の筑前国立花城合戦敵射伏人数注文に、河戸の彦四郎らが見え、元和3年4月23日の吉川広家功臣人数帳にも「川戸ノ彦十郎」らの名がある(吉川家文書)。天正19年3月のものと思われる吉川広家領地付立に、「参百貫 河戸」と見え(同前)、同年11月19日、河戸村の田2丁5反330歩、畠5反小、屋敷4か所合わせて14石5斗7升2合が増原元之に打渡された(譜録)。翌日付の河戸村打渡坪付には、すな原・三反田・つい地・はい谷・奥はい谷・めうと岩・むねひろ・大倉・猿岩・かきだ畠の地名が見える(閥閲録遺漏1─2)(『角川日本地名大辞典 広島県』)。

 

 山県郡山県郡千代田町川戸に比定される国衙領安芸国衙領注進状では二分方と一分方に分かれている(「田所文書」)。乾元二年(一三〇三)七月二十六日の六波羅御教書によれば、田所資賢の訴えをうけて公廨田と雑免所当米の抑留停止が河戸村一分地頭に命ぜられている(「藤田精一氏旧蔵文書」)。国衙領注進状には二分方・一分方ともに「平田押領分」の記載があり、この平田氏が当村の地頭と目される。公廨田の中に田所氏の仮名今富・弥富が見えるように、当村はもともと同氏との関係が深く、南北朝期には常陸親王令旨によって田所新左衛門尉(信高)に兵粮料所として充行われている(同上、「芸備郡中筋者書出所収文書」)。一五世紀半ばごろには、河戸村の領知をめぐって綿貫光資と吉川経信との間に係争が起きている(『萩藩閥閲録』、『吉川家文書』)(『中国地方の荘園』吉川弘文館)。