周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

神の姿を見るタブー (Don't look at God)

  応永二十六年(1419)六月二十五日条

          (『看聞日記』1─284頁)

 

 廿五日、晴、

  (中略)

  抑大唐蜂起事有沙汰云々、出雲大社震動流血云々、又西宮荒夷宮震動、又軍兵数十

  騎広田社ヨリ出テ東方行、其中女騎之武者一人如大将云々、神人奉見之、其後

  為狂気云々、自社家令注進、伯二位馳下尋実否云々、異国襲来瑞想勿論歟、又廿四

  日夜八幡鳥居風不吹顚倒了、若宮御前鳥居也、さゝやきの橋打砕云々、室町殿御

  参籠時分也、殊有御驚云々、諸門跡諸寺御祈祷事被仰云々、

 

 廿九日、晴、聞、北野御霊西方飛云々、御殿御戸開云々、諸社怪異驚入者

  也、唐人襲来先陣舟一両艘已有合戦云々、大内若党両人為大将海上行向退治、

  其以前神軍有奇瑞之由注進云々、

 (頭書)

 「唐人合戦事、実説不審云々、近日巷説誤多、」

 

 「書き下し文」

 二十五日、晴る、

  (中略)

  抑も大唐蜂起の事沙汰有りと云々、出雲大社震動し流血すと云々、又西宮荒夷宮も

  震動す、又軍兵数十騎広田社より出でて東方へ行く、其の中に女騎の武者一人大将

  のごとしと云々、神人之を見奉る、其の後狂気に為ると云々、社家より注進せし

  め、伯二位馳せ下り実否を尋ぬと云々、異国襲来の瑞想勿論か、又二十四日夜八幡

  の鳥居風吹かざるに顚倒し了んぬ、若宮御前の鳥居なり、ささやきの橋を打ち砕く

  と云々、室町殿御参籠の時分なり、殊に御驚き有りと云々、諸門跡諸寺御祈祷の事

  仰せらると云々、

 

 二十九日、晴る、聞く、北野御霊西方を指して飛ぶと云々、御殿の御戸開くと云々、

  諸社の怪異驚き入る者なり、唐人来襲先陣の舟一両艘と已に合戦有りと云々、大内

  若党両人大将として海上に行き向かひ退治す、其れ以前に神軍の奇瑞有るの由注進

  すと云々、

 (頭書)

 「唐人合戦の事、実説不審と云々、近日の巷説誤り多し、」

 

 「解釈」

 二十五日。晴。(中略)さて中国人が攻めてくると噂になっているそうだ。出雲大社では本殿が震動して血が流れ出したという。また西宮の荒戎宮も震動したそうだ。軍兵数十騎が広田神社から出陣して東の方に向かったという。その軍兵のなかに女性の騎馬武者が一人いて、その者が大将のようだった。その様子を広田神社の神人が目撃しており、その神人は発狂したという。

 広田神社から朝廷に報告があったので、白川資忠神祇伯二位が広田神社に向かい、事の実否を調べたそうだ。これらが異国の軍勢が攻めてくる兆しであることはもちろんのことだろう。

 また二十四日の夜には、石清水八幡宮の鳥居が風に吹かれて倒れてしまった。それは同宮若宮の御前の鳥居だそうだ。そのために細橋(ささやきばし)が粉々に砕けてしまったそうだ。それはちょうど、室町殿足利義持石清水八幡宮にお籠りになっている時だった。それで、たいへん驚かれたそうである。そのために室町殿は諸門跡や諸寺院に祈祷するようお命じになったという。

 二十九日、晴。北野天神の御霊が西方を指して飛んでいったそうだ。御殿の扉は開いたままだったという。諸々の神社で起きている怪異には驚き入るばかりだ。

 来襲する中国人先陣の軍船一〜二艘とすでに合戦となっているらしい。大内の若い従者二人が大将となって海上で応戦し、中国の軍船を退治したそうだ。それ以前にも、神様の軍勢がおめでたい前兆を示しているとの報告があったという。

【頭書】中国人との合戦は本当の話なのかどうか、分からないらしい。最近の噂話には誤りが多い。

 

*解釈は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(一一)」『山形県立米沢女子短

 期大学紀要』53、2017・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=324&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 

 June 25th. Fine. [...] Well, it is rumored that Chinese people will attack Japan. At Izumo Taisha shrine, the main hall vibrated and blood flowed out from there. In addition, Araebisumiya shrine in Nishinomiya also shaken. Dozens of cavalry departed from Hirota jinja shrine and headed east. Among them was a woman's cavalry and she was like a general. The staff of Hirota jinja shrine witnessed the situation and he went mad.

 Because the priest of Hirota jinja shrine reported this event to royal court, Shirakawa Suketada came to Hirota jinja shrine, confirmed when this information is true or not. Of course, these events are a omen that foreign forces will attack Japan.

 Also, on the night of June 24, the Torii gate of Iwashimizu Hachimangu shrine fell by a strong wind. I heard it was the Torii gate in front of the Wakamiya shrine. The Sasayakibashi bridge has shattered into pieces due to the fallen Torii gate. At that time, Shogun Ashikaga Yoshimochi was visiting Iwashimizu Hachimangu shrine. I heard that he was very surprised. Because of this event, Ashikaga Yoshimochi ordered shrines and temples to pray.

 June 29th, fine. The spirit of Kitano Tenjin flew toward the west. The door of the main hall of Kitano Tenmangu was kept open. I'm just surprised at the mysterious events happening at various shrines.

 I have already heard that Chinese warships and Japanese warships have begun to fight. Two young men of Ohuchi's army became captains of the battle and defeated Chinese warships. Prior to this event, it was reported that God's army was showing positive signs.

 [Notes] It seems unclear whether the battle with the Chinese army is a real story. Recent rumors have many mistakes.

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

「広田神社」

 ─兵庫県西宮市大社町二十二社の第17位。下八社の内。対外防衛の神。祭神は、天照大神の荒魂(憧賢木厳之御魂天疎向津媛命)。中世以降、八幡大神神功皇后などの諸説がある。本地仏阿弥陀如来(伊呂波字類抄)(『中世諸国一宮制の基礎的研究』)。

 

応永の外寇

 ─朝鮮では己亥東征という。倭寇に悩まされた朝鮮は、1419(応永26)6月兵船227隻、1万7000人の大軍をもって倭寇の根拠地対馬をおそった。10余日で撤退したが、日本では蒙古襲来の再現との風説が流れ、世情騒然とした。室町幕府は事件の真相を究明するため朝鮮に使節を派遣、翌’20朝鮮から回礼使として宋希璟が来日した(『角川新版日本史辞典』)。

 

*これは、「応永の外寇」という事件の関連史料になるのですが、朝鮮人(史料上では中国人)の来襲に当たり、日本の神々が神社から出撃したという噂が流れています。まるで、元寇時の状況を再現しているかのようです(井上厚史「朝鮮と日本の自他認識─13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容─」『北東アジア研究』別冊第3号、2017・9、http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu_sp3.html)。今回は、広田神社から神功皇后が、北野天満宮からは菅原道真が、それぞれ助っ人として参陣したようです。

 ところで、今回の記事で興味深いのは、神功皇后の姿を見た神人が発狂してしまったという情報です。御神体秘仏など、見てはならないものを見ると、目が潰れる。こうした現代でも囁かれる言い伝えとよく似ています。神々しい存在を見ると発狂する、あるいは目が潰れるという言説は、いつから言われはじめたのでしょうか。また、発狂と目が潰れるでは、どちらの言説が先に言われはじめたのでしょうか。こうした発想は文字資料が残される以前からあったのかもしれませんし、意外と新しいのかもしれません。こういう疑問が明らかになるとおもしろいのですが、いずれにせよ、あまりに畏れ多い存在を見ると、人体に影響が出るようです。

 

 なお、この史料については、桜井英治『室町人の精神』(講談社、2001、109頁)、清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』(吉川弘文館、2008、24頁)で、詳しく紹介されています。

 

 

 This is a related historical source of the case "Ouei no Gaikou" (1419). It was rumored that the Japanese gods had left their shrine and went to the battlefield, as Chinese forces attacked. This time, Jingu Empress came from Hirota jinja shrine and Sugawara Michizane came from Kitano Tenmangu.

 By the way, the interesting thing in this article is the information that the shrine staff who saw the figure of Jingu Empress went mad.
 "We must not see the idols of the Gods and Buddhas. If we see them, we will lose sight."
 This article is similar to the legend that is rumored in modern times.

 Well, when did we start to say that we would go mad or blind when we look at the Gods and Buddhas? Also, in mad and blindness, which one began to be said first? These ideas may have been created quite a long time ago, or may have been recently created. When we see a very godly existence, it seems to affect the human body.

 

In addition, about this article, Eiji Sakurai "The spirit of the Muromachijin" (Kodansha, 2001, p. 109), Katsuyuki Shimizu "The Great Famine hit the Muromachi society! (Yoshikawa Kobunkan 2008, 24 pages) has been introduced in detail.

 (I used Google Translate.)

 

 

*2019.1.9追記

 見てはならない神についての研究を、やっと見つけました。やはり、古代の段階で神の姿を見ることはタブーだったようです。中世になると、神の姿を絵画や彫像で表現するようになるのですが、それでもその姿は見せないようにされ、現代にまで至っているそうです。

 山本陽子「見てはならない神々の表現と受容」(『WASEDA RILAS JOURNAL』4、2016.10、https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=35989&item_no=1&page_id=13&block_id=21)。

 

 

 I finally found a dissertation that studied what we should not look at God. In ancient times in Japan, it was considered taboo to see the figure of God. In the Middle Ages, people began to express the figure of God in paintings and statues, but it is said that the figure has been kept as invisible as possible.

 Yoko Yamamoto "Expressions and Acceptance of the Invisible Gods" ("WASEDA RILAS JOURNAL" 4, 2016. 10)

  (I used Google Translate.)

千葉文書4

    四 小早川氏奉行人連署書状

 

 (端裏捻封ウハ書)             (景道)

 「                 磯兼左近大夫

                   井上又右衛門尉

       神保五郎殿 まいる          春忠」

                 賀茂郡

 貴所御愁訴之儀、遂披露候、於黒瀬表先五貫文可御扶助候、在所

 之儀可御賦候、恐々謹言、

       二月十日          春忠(花押)

                     景道(花押)

 

 「書き下し文」

 貴所御愁訴の儀、披露を遂げ候ふ、黒瀬表に於いて先ず五貫文御扶助を成さるべく候

 ふ、在所の儀御賦りに任せらるべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 あなた様のご愁訴の件を披露しました。黒瀬表でまず五貫文の地をご助成になる(給与なさる)はずです。在所の件については、賦奉行にお任せになるのがよいです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「黒瀬表」─黒瀬郷。「芸藩通志」によると、現黒瀬町に含まれる十六ヶ村と、北東に

      続く現東広島市域の馬木村、西南に続く現呉市域の郷原村を含めた十八ヶ

      村を黒瀬郷としている。正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲

      状(田所文書)に「惣社二季御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事」として「栗林二丁内

      黒瀬村五反 杣村一丁五反」とみえる。大永三年(一五二三)八月十日付

      の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「黒瀬 三百貫 大内方諸

      給人」「黒瀬乃美尾 百貫金蔵寺領とあり、黒瀬が東西条に含まれてお

      り、のちの乃美尾村を含む広域の地名であったらしことがわかる(『広島

      県の地名』平凡社)。

「賦」─鎌倉幕府の所領についての訴訟手続で、訴人が提出した訴状を受理する役所

    (所務賦)。またその訴状を一方の引付方(ひきつけがた)に配ること、およ

    びその役人(賦奉行)をいう(『日本国語大辞典』)。

千葉文書3

    三 小早川隆景感状寫

 

    (安藝)   (晴賢)

 去朔日當國佐西郡厳島陶陣山斬崩時、敵一人討捕之、粉骨之至尤神妙也、

 仍感状如件、

     (1555)

     天文廿四年十月廿一日       隆景〈御書判〉

               神保五郎殿

 

 「書き下し文」

 去んぬる朔日当国佐西郡厳島陶の陣の山を斬り崩す時、敵一人之を討ち捕る、粉骨の

 至り尤も神妙なり、仍て感状件のごとし、

 

 「解釈」

 去る十月一日、安芸国佐西郡厳島陶晴賢本陣の山(塔の岡ヵ)を切り崩すとき、敵一人を討ち取った。このうえなく力の限りを尽くしたことは、いかにも感心なことである。よって感状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「感状」─①戦功を賞でて武将から与えられる文書。中世には、恩賞知行について記し

     た書状。②免許状。③褒状(『古文書古記録語辞典』)。

千葉文書2

    二 神保房胤合戦手負注文

 

 (證判)  大内義隆

 「一見候了、(花押)」

 神保彦三郎房胤謹言上

  欲早賜 御證判、備後代龜鑑軍忠状事

                            賀茂郡

 右去年天文五十一月七日以来、於藝州平賀蔵人大夫興貞要害頭崎詰口、郎徒

 僕従被疵人数備左、

   郎徒

    神保次郎左衛門尉 〈矢疵二ヶ所背中左肩〉

    天野三郎兵衛尉 〈矢疵一ヶ所右肩〉

    渡邊藤次郎 〈矢疵二ヶ所左肩右腹〉

    蔵田弥太郎 〈矢疵二ヶ所右膝同脇〉

    菅弥七郎 〈矢疵一ヶ所右腕〉

   僕従

     三郎左衛門 〈矢疵一ヶ所口ノ脇〉

     助七 〈矢疵一ヶ所右膝〉

     小三郎 〈矢疵一ヶ所右肩〉

     次郎四郎 〈矢疵一ヶ所右足〉

    以上

     (1537)

     天文六年五月三日       房胤(花押)

         (隆兼)

       弘中々務丞殿

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 

 (證判)

 「一見候ひ了んぬ、(花押)」

 神保彦三郎房胤謹んで言上す、

  早く御証判を賜り、後代亀鑑に備へんと欲する軍忠状の事、

 右、去年天文五十一月七日以来、芸州平賀蔵人大夫興貞の要害頭崎詰口に於いて、

 郎徒・僕従疵を被る人数左に備ふ、

   (後略)

 

 「解釈」

 「承認しました。」

 神保彦三郎房胤が謹んで申し上げます。

  早くご証判をいただき、のちの証拠として役立てようとする軍忠状のこと。

 右、去年天文五年(1537)十一月七日以来、安芸国賀茂郡にある平賀蔵人大夫興貞の要害頭崎城の詰丸の入り口で、傷を被った郎等や下部の人数を左に書き備える。

   (後略)

 

 「注釈」

「一見状」─中世、軍忠状・着到状において、大将や奉行が内容を承認したしるしとし

      て、文書の奥や袖に「一見了」と記し花押を加えたもの(『古文書古記録

      語辞典』)。

「亀鑑」─きかん。判断の基準となるもの。手本、見本、模範、証拠、証文。亀鏡(き

     けい)とも。「永代の亀鑑となす」とか「亀鏡に備う」などと用いる(『古

     文書古記録語辞典』)。

「弘中隆兼」─?〜一五五五(?〜弘治元)。(中務丞・三河守)。大内氏家臣。父は

       興兼。天文十二年(一五四三)、大内義隆の命により安芸国西条槌山城

       にあって備後の情勢を探る。大永五年(一五二五)、天文五年、同十年

       安芸に出陣。安芸守護代。天文二十年、陶晴賢に属して大内義長に仕え

       る。同二十三年、玖珂郡岩国に出陣。弘治元年(一五五五)、晴賢の指

       示により江良房栄を誅殺。また厳島古城山麓に出陣して毛利軍と戦い敗

       死した(『戦国人名事典』新人物往来社)。

千葉文書1

解題

 千葉氏は同氏の系図によると上総介忠常の後胤で代々下野国真壁に住んでいた。忠恒から十七代の胤季の子経胤の時に信州伊那へ移り、その地名から神保を称するようになったという。

 永正のころ、信胤は安芸国へ移り、大内氏に、ついで毛利氏に属し、直接には小早川隆景の命を受けた。信胤の子神保五郎は広島県山口町に住んだ。その子の新四郎は海田(安芸郡海田町)に来住し、百姓となったが、以後代々上瀬野(広島市瀬野川町)から広島までの天下送り・宿送役をつとめた。

 

 

    一 大内義興下文

 

    (義興)

     (花押)

 下     神保新右衛門尉信胤

               賀茂郡

   可早領知、 安藝國西條寺家村内國松名肆貫文足〈完戸四郎次郎先知

   行分〉 同三永方田口村内佛師名拾貫文足〈松橋与三郎先知行分〉 同黒瀬村

   内岩屋名参貫七拾文足〈黒瀬彦三郎重實先知行分〉 同助實方内女子畑行武國

   重分貮貫陸百文足〈黒瀬三郎氏清先知行分〉 地等事、

 右、以人所充行也、爰件所々事雖淂之、准給恩地公役

 之由、任申請之旨裁許畢者、早守先例全領知之状如件、

    (1509)

    永正六年八月十三日

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 下す 神保新右衛門尉信胤

   早く領知せしむべき、安芸国西条寺家村の内国松名四貫文足〈完戸四郎次郎先の

   知行分〉 同三永方田口村の内仏師名十貫文足〈松橋与三郎先の知行分〉 同黒

   瀬村の内岩屋名三貫七十文足〈黒瀬彦三郎重実先の知行分〉 同助実方の内女子

   畑行武国重分二貫六百文足〈黒瀬三郎氏清知行分〉 地等の事、

 右、人を以て充て行ふ所なり、爰に件の所々の事之を買得せしむと雖も、給恩地に准じ、公役を遂ぐべきの由、申請の旨に任せ裁許せしめ畢んぬてへれば、早く先例を守り全く領知すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下知する、神保新右衛門尉信胤

   早く領有させるべき、安芸国西条寺家村の内国松名四貫文足〈完戸四郎次郎先の知行分〉、同三永方田口村の内仏師名十貫文足〈松橋与三郎先の知行分〉、同黒瀬村の内岩屋名三貫七十文足〈黒瀬彦三郎重実先の知行分〉、同助実方の内女子畑行武国重分二貫六百文足〈黒瀬三郎氏清知行分〉の地等のこと。

 右の地は、神保信胤に給与するところである。この時点で信胤は右の所々の地を買得していたが、給恩地に准じて、公役を勤めるつもりであるという申請の内容のとおりに裁許した。というわけで、早く先例を守り、領有を全うするべきである。

 

 

 「注釈」

「西条寺家村」

 ─東広島市西条町寺家。西条盆地北部、米満村の南に位置する。北東に竜王山(五七五・一メートル)、西に団子山(三二九・一メートル)があり、米満村から南下した黒瀬川が村内平地部を流れ、途中で東に向きを変えて御園宇村に至る。地名は建武三年(一三三六)三月八日の桃井義盛下文(熊谷家文書)にみえ、「西条郷内寺家分地頭職」が熊谷直経に預け置かれた。室町・戦国時代は大内氏の治下にあり、応仁の乱鏡山城の攻防に功のあった毛利豊元が寺家などを与えられ(文明七年十一月二十四日付「毛利豊元譲状」毛利家文書)、永正六年(一五〇九)には神保信胤が宍戸四郎次郎から買得した「寺家村内国松名四貫文」を大内氏から安堵されている(千葉文書)。東村南西部にあって近世吉川村の飛郷となった国松が国松名の遺称であろう。大永三年(一五二三)八月十日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「寺家村 三百貫 諸給人知行」で、うち三五貫が阿曾沼氏の知行とある。阿曾沼氏のほかに鏡山城城番蔵田房信の知行分も三十貫あったが、同城落城後は尼子氏方に寝返った毛利氏に与えられ、毛利氏から粟屋元秀に宛行われた(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)。また同年同じく元秀に与えられた「黒瀬右京亮給ともひろ名・もりとう名」(同文書)は当村内に小字友広・森藤として残る。大内氏滅亡後、毛利氏は出羽氏や児玉氏、石井氏らに寺家内の地を与えた(「閥閲録」所収出羽源八家文書・児玉弥兵衛家文書・石井文書)(『広島県の地名』平凡社)。

 

「三永方田口村」

 ─「上三永(みなが)村」。東広島市西条町上三永。西条盆地の東端に位置する。東西に長く北向きにゆるく傾斜する谷を三永川が西流。南北とも標高四〇〇メートル(比高二〇〇メートル)の山が連なるが、北部谷あいをを山陽道西国街道)が走る。北と東は豊田郡田万里村(現竹原市)。中世は西の下三永村とともに三永村と称され、元弘三年(一三三三)十二月八日付後醍醐天皇綸旨(福成寺文書)に福成寺領三永のことが見え、正平十三年(一三五八)十二月八日付後村上天皇綸旨(同文書)には「東条郷之内三永村」を福成寺に寄進するとある。文明七年(一四七五)以前に三永の地は大内政弘から毛利豊元に与えられたが(毛利家文書)、大永三年(一五二三)頃には三永村三百貫のうち半分が福成寺領、半分が大内方諸給人の知行となっている(同年八月十日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。なお、このほか「三永方」として四十貫の「小郡代領」があり(同知行注文)、「三永方田口村」の用例もあるので(永正六年八月十三日付「大内義興下文」千葉文書)、より広義の地域呼称もしくは所領単位として「三永方」があったことも考えられる(『広島県の地名』平凡社)。

 

「田口村」

 ─東広島市西条町田口。下見村の南に位置する。黒瀬川が北の御園宇村から吾妻子滝を下って西流、西の吉川村から東流する古河川と字落合で合流して南の小比曽大河内村へ流れる。下見村との間には標高三三〇メートルの山があるが、その西の丘陵は低く道が通じていた。永正六年(一五〇九)八月十三日付大内義興下文(千葉文書)によると、松橋与三郎知行分の「三永方田口村内仏師名拾貫文足」が神保信胤に宛行われている。「仏師名」は現在の字武士に当たると思われ、田口村は三永(みなが)方とされている。大永三年(一五二三)八月十日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)では田口村七十五貫のうち、三十五貫が阿曾沼氏、残りが大内方諸給人の知行であった。天文六年(一五三七)阿曾沼氏と思われる興郷は、当村内吉近名下作職を蔵田九郎兵衛尉に預け置いている(同年正月二十六日付「興郷判物」今川家文書)(「田口村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「黒瀬村」

 ─黒瀬郷。「芸藩通志」によると、現黒瀬町に含まれる十六ヶ村と、北東に続く現東広島市域の馬木村、西南に続く現呉市域の郷原村を含めた十八ヶ村を黒瀬郷としている。正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲状(田所文書)に「惣社二季御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事」として「栗林二丁内黒瀬村五反 杣村一丁五反」とみえる。大永三年(一五二三)八月十日付の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「黒瀬 三百貫 大内方諸給人」「黒瀬乃美尾 百貫金蔵寺領とあり、黒瀬が東西条に含まれており、のちの乃美尾村を含む広域の地名であったらしことがわかる(『広島県の地名』平凡社)。

 

 

*この文書の発給された事情はよくわかりませんが、おそらく、神保信胤が買得地の安堵を申請し、それ認可した下文ということになると思います。ただし、この文書の場合、単なる買得安堵ではなく、①買得地を「給恩地」と同じ扱いにすること、②公役(大内氏に対して勤める税や労役か)を勤めることを、神保氏自らが申請しているのです。大内氏が、この二点を受け入れなければ、安堵の下文を発給しない、と神保氏に詰め寄った可能性もありますが、史料をみるかぎり、自主的に「給恩地扱い」と「公役勤仕」を申請しているようにしか読めません。そうすると、神保氏にはこの申請の仕方のほうが得だったということになりそうです。

 解題によれば、神保氏はこの永正頃に信州から移住してきた新参者ということになります。当然、本領など持ち合わせていなわけですから、買得によって土地の権益を集積するしかありません。しかし、いくら権益を集積しても、当知行(実際にその地を支配すること)にはなりません。そこで、大内氏に臣従することで、自己の基盤を安定させようとしたのではないでしょうか。単なる買得安堵ではなく、「給恩地」化することで、大内氏の被官となり、大内氏の権力を背景に所領を支配する名目を得ることができたと考えられます。

 大内氏領国内の知行体制についてはよくわからないのですが、戦国大名の朝倉氏・今川氏・六角氏の場合、給恩地の売買は原則として認められていなかったようです(松浦義則戦国大名朝倉氏知行制の展開」『福井県文書館研究紀要』4、2007・3、http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2006bulletin/bindex.html)、大内氏の場合も同じであったなら、神保氏は買得地を「給恩地」化することで、かりにこの所領を売却しても、売買を無効化し、取り戻しやすくしようとする意図があったのかもしれません。一方で、大内氏にしても、神保氏に公役を勤めさせることができるわけなので、双方にとって、この「給恩地切替型安堵」はメリットがあったのではないでしょうか。