周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

「青」の民俗学

  筒井功『「青」の民俗学 地名と葬送』(河出書房新書、2015年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章 南東からの指摘

P14

 沖縄には、よく知られているようにグスクと呼ばれる場所が至るところにある。漢字で書く場合には、まず例外なく「城」が用いられている。このことからグスクとは、軍事施設の跡だったとずっと考えられてきた。仲松弥秀自身も、そう思い込んでいたという。ところが、多数のグスクを現地で調べてみたら、とてもそうは言えないことが判明したのである。たしかに、南東諸島で「二百から三百に及ぶと思われる」グスクの中には「城的に変化した」ものもあるが、その数は「十指以下ではないかと思われる」としている。残りは「北は奄美諸島から南は八重山諸島までのグスクを踏査した結果」、「古代に先祖たちの共同葬所(風葬所)だった場所ということがわかった」のである。フィールドワークの強みが発揮された研究事例だと言えるだろう。

 なお、仲松は「何故にグスクを城というようになったかについては明らかではない」と述べている。私は、これは軍事施設としての「城」の意ではなく、何らかの構造物で囲まれた境域を指す「城(き)」のつもりで当てた漢字だと思う。

 

P19

 久米島沖縄本島の西方に位置する。そこの東岸沖にも奥武島がある。干潮時には久米島から歩いて渡ることができるし、今は橋もかかっている。古くは「アフ」「アオ」といった。

 角川の(地名)辞典には、「(奥武島は)昔からセジ(霊力)高い島とされ」、「不浄を忌み、死者は対岸に渡って葬ると言われる」とある。

 これではオウ=葬地の指摘とまったく逆ではないかと思われる方も多いだろうが、そうではない。葬所は、一言で言えば死者の霊を浄化して常世(神の世界)へ送り出すところであり、後には聖地へと変化しやすい。

 

P21

 橋口満著『鹿児島方言大辞典』には、「アバ 唖者、おし、口がきけない人」とあり、黒木弥千代著『かごしまお方言集』には、「アバ 唖、聾者」と見えている。同県の他の方言集にも「アバ」が立項され、いずれも「唖者」の意だとしている。

 死者は、もちろん口をきかない。その点では唖者に近い。そうしてアバとアワの音の近似およびアワとアオが相互に他方へ訛りやすいことを考えれば、このアバはもとは単に死者を指していたかもしれないのである。それが年月の経過とともに語義にずれを生じ、方言として残った可能性を想定できると思う。

 

 

P32

 ちなみに野と原とは、その意味が古くは少し違っていた。簡単に言えば、野は山腹の緩斜面を指し、原はそこからもっと下った平坦地のことであった。(中略)ただ、のちには両者の混同が起きてくるので…。

 

 

P34

 古代の東北地方には、「キ」と呼ばれる一種の軍事施設が20カ所以上置かれていた。(中略)これらには初めのころ、もっぱら「柵」の文字が宛てられ、のち(といっても8、9世紀である)には「城」の字が多くなる。そのため今日では「サク」や「ジョウ」と読む場合もあるが、当時はすべて「キ」と言っていた。(中略)

 

P35

 この事実に加え、これから述べる他の例をも参考にすると、キとは何かの構造物で囲まれた境域あるいは、その構造物のことだと言える。東北地方のエミシに備えたキの場合は、立て並べた丸太の塀であったから「柵」の文字を用いたに違いない。また、そこが軍事施設であったため「城」とも書いたのである。(中略)

 墓域のキについて二つほど実例を挙げておこう。

 岡山県倉敷市矢部の楯築遺跡は、弥生時代最大の墳丘墓として知られている。その中心部は三つの巨大な板状の岩で囲まれている。このタテツキとは、「立て石(また盾=楯の意でもあろう)のキ(城)を指していると思われる。すなわち、ここの場合、三枚の巨岩をキとして巡らせたのである。

 

P39

 イヤとは、葬送の地を指す古い言葉らしいからである。

 

P40

 死者を背負う格好をして「弥谷へ参るぞ」と声をかけることは、かつては実際に弥谷(七十一番札所弥谷寺)へ遺体を葬っていたことを暗示しているのであろう。洞穴へ納める遺髪は、遺体の代わりだと考えられる。

 弥谷(地元住民は、しばしばイヤダンと発音する)には、寺の仁王門をくぐった先に「賽の河原」と呼ばれるところがある。多数の地蔵が並び、周りに小石が積まれている。「賽」は境界域を指す「サエ」という語の訛りに宛てた感じである。「河原」も石のごろごろした地を意味する「ゴウロ」「ゴウラ」(神奈川県・箱根の強羅もこれである)に由来する言葉であって、それは必ずしも大きな川のそばにあるわけではなく、海岸や山中にも多い。弥谷の場合も山中の谷間である。

 

P46

 (茨城県桜川市大字青木の青木古墳群の南側の大字を羽田という)このハネダはどうやら、「ハニダ」の意のように思われる。ハニには普通「埴」の漢字を宛てる。埴輪の埴である。ハニとは何か。

 

  きめが細かくてねばりけのある黄赤色の土。古代、これで瓦、陶器を作り、また、衣に摺りつけて模様をあらわし、丹摺(にずり)の衣を作った。埴土(はにつち)。へな。赤土。黄土。ねばつち。粘土(ねんど)。はね。

 

 しばしば、古墳の周囲に巡らされている埴輪は、ハニでつくった円筒(輪)の意だと考えられる。古い時代の埴輪はだいたいが円筒埴輪で、人形や家形の形象埴輪は、後になって現れたようである。

 ちなみに、ハネダのダはドの訛りだと思われる。ドとは何かがあるところ、何かを産するところのことである。カマドは釜を置く装置であり、イドはイ(水)が出る場所のことだが、そのドである。すなわち、ハネダとは「埴土(粘土)の産出地」を指しているとみられる。

 

P59

 (群馬県利根郡昭和村貝野瀬)右の貝野瀬とは、どんな意味の言葉だろうか。それを知るには、まず「貝」から説明しなければならない。

 「カイ」は、山・丘・崖などに挟まれた廊下状の低地を指す地形語である。(中略)

 今日、普通名詞として用いるときは「峡(かい)」の字を当てるが、地名では「貝」「皆」「海」などとなっている場合が多く、「開」「甲斐」と書くところもある。

 貝野瀬の北西側が接する片品川(利根川支流)は、このあたりで長さ1キロくらいにわたって、高さ数十メートルの険しい断崖を形成しており、もともとはその谷を「峡の瀬」と呼んでいたことは疑いない。谷の深さは、この上にかかる万延橋から下をのぞくと足がすくむほどで、これくらい「峡の瀬」の名にぴったりの地形も珍しいのではないか。

 この、いわば川の形状を指した名は、いつのころかに河岸段丘上にできた人家の群れの名になっている。元来は特徴的な地物を呼んでいた名が、近くに生まれた集落の名に移るきわめて多い。旧村名の大半は、それだといっても過言ではないほどである。現在の国土地理院の地形図を見ても、貝野瀬は集落名のような記載になっている。それは近隣住民の意識のうえでも同じに違いなく、貝野瀬と言えばあくまで集落のことであり、片品川の崖を思い浮かべる人など、もういないと思われる。すなわち、地名が移動したのである。

 

P62

 要するに、もともとは川の地形に発した名が近くの集落の名に移り、やがて行政上の村名に採用されたため、その範囲全体の名に拡大したのである。

 

P65

 ハニ(埴)は、前章Ⅰ節で述べたように瓦や陶器などの製造に用いる赤っぽい色の粘土のことである。ウとは、何かがあるところ、何かが生えているところ、何かを産するところを指す言葉である。トチウ(栃生、よくトチュウとなって「途中」の字が当てられたりする)は、トチノキが生えている場所であり、ワラビウ(蕨生、ワラビュウと訛ることもある)は、山菜のワラビが多い場所のことである。

 要するに、ハニュウ(羽生の字を書くことが多い)とは、埴土の産出地の意にほかならない。そこは人々の暮らしに重要な土地であったから、しばしば地名になって残っている。ハブもこれがつづまった言葉で、埴生、土生、波浮などと文字はさまざまながら、各地におびただしく見られる。

 

 

P70

 それでは、イマキアオサカ(神社の名前)とは何か。(中略)

 このイマキは、「新たなキ」の義ではないかと思われる。キとはアオキやオクツキのキで、要するに「墓域」のことである。アオサカのアオは、本書が仮定している葬地だと考えることができる。サカとは、死後の世界とこの世との境のことだと推測される。坂はいまでは、もっぱら傾斜した道や傾斜面にのみ使われる語だが、もとは境を指していた。山は死者が行く場所であり、里との間が元来のサカであったが、そこが坂になっているので、のちに意味の転化が起きたのである。ヤサカのヤは、既述のイヤと同じではないかと思う。すなわち、イマキアオサカとは、つづめていえば「新墓域」のことである。

 

P71

 (島根県出雲市東林木町字青木の青木遺跡)弥生時代、ここはまぎれもなく葬地であった。

 ところが、奈良時代後半から平安時代初頭(八世紀後半─九世紀前半)には、祭祀・信仰の場になっていた。神聖視される土地になっていたのである。葬送の地が時をへて聖地に転化することは、古代にあっては少しも珍しくなかった。むしろ、ごく一般的だったとも言える。葬地は、先祖を常世(死後の世界であり、神の国でもある)へ送り出す場所だから、後には聖地になりやすいのである。もっとも、死と穢を結びつけるのは中古以来の考え方であり、古代人にとって墓地が聖地の対極にあったわけではない。

 →古代にも浄・穢観はあったろうが、それが古代では政治と結びついてはいなかった。おそらく、墓地(穢)と聖地(浄)に対しては、卑賤・尊貴のような差別的な感覚を持っていたわけではなく、両者ともに畏怖心のようなものをもっていただけかもしれない。

 

P75

 川は、山がそうであるように、彼岸すなわち人が死んだあと行く世界を象徴していた。いや、後に詳しく述べたいが、山と同様、実際に人を葬る場所でもあった。橋は、そこと現世との境であり、山と里とのあいだの坂(既述のようにサカ=境が語源)に相当する。つまり、典型的な境界である。川端にしばしばヤナギが植えられてきたのは、たとえ植えた時代の人々は意識していなくても、ヤナギのもつ性格を暗示していると考えられる。あちこちに柳橋という名の橋がよくあるのも、それと軌を一にしている。

 「ヤナギ」なる言葉の語源については、いろんな説がある。わたしは「ユノキ(斎木)の転訛とする説が最も妥当だと思う。ユには普通「斎」の漢字が当てられる。その語義は、小学館日本国語大辞典』によると次のとおりである。

 

  神聖であること。清浄であること。助詞「つ」を伴って、または、直接に接頭語的に名詞の上に付いて用いられ、その物が神事に関する物であることを表わす。「ゆ庭」「ゆ鍬(くわ)」など、神、または、神をまつるための物を表わす名詞に付く場合と、「ゆ笹」「ゆ槻」など、植物の名を表わす名詞に付く場合とがある。い。

 

 要するに、ユノキとは聖樹のことである。ヤナギは邪気を防ぐため幽明の境に植えられる木であるから、その語義にはよく合うといえる。

 

P88

 (島根県松江市美保関町雲津にある「蜘戸の岩屋(くもどのいわや)」)のクモはおそらく「隈」であり、地名は「奥まった船泊り=津」を指しているのではないか。(蜘戸=隈津)

 

P89

 洞窟の手前には、石ころだらけの浜がある。地元の人は、そこを「サイノカワラ」と呼んでいる。第二章5節にも記したように、このサイはサエ(境)のことで、柳田國男の表現を借りれば「死者の去り進む地」である。カワラはゴウラの語に由来し、「小石原」(箱根の強羅もこれ)を指す。したがって、流れの岸を意味するカワラ(河原)とは別であって、柳田は「磧」の文字を当てている。

 サイノカワラは、だから海岸や山中にあっても少しも不思議ではなく、実際、各地にそのような例は多い。のちには、しばしば死んだ子どもの行くところとされるようになるが、本来は年齢に関わらなかった。要するに、葬所のことである。ふつう「賽の河原」と書いている。雲津の住民も、昔は盆の十七日に賽の河原で石を積んでいた。これは雲津でもやはり、洞窟と浜を一体の葬所にしていた記憶を伝えていると考えられる。

 

 

第6章 対岸の古墳

P96

 興味深いことに、宮崎市青島の対岸近くでは、最も青島を臨みやすい標高9〜10メートルの丘に円墳五基からなる青島古墳群がある。三基はすでに消滅し、いちばん保存状態がよい一基が「青島歴史文化の広場」という公園の一角に、わずかに姿をとどめている。それは石室の一部で、そう言わなければわからないほど傷みが激しい。しかし、とにかく青島を遥拝する位置に、古墳が築造された事実は確認できる。

 これはおそらく、葬所が聖地に転化したあと、そこを伏し拝める場所に墓所を設けた結果であろう。ここでは、その転換が古墳時代にまで遡ることになる。こう言えば、飛躍ではないかと思われる向きも少なくあるまい。しかし、青島の対岸に古墳がある例は、偶然とは考えにくいくらい多いのである。

 

P98

ここで話が本題からずれるが、ニビだとかカルビだとか、ずいぶん妙な地名だなと気になって仕方がない方もおられるかもしれないので、ごく簡単に私の推測を述べておきたい。

 各地におびただしくみられる地名で丹生というのがある。いまはだいたいニウ、ニュウと発音するが、古くはニフであった。この地名の場所には、しばしば水銀鉱が存在した。ニは元来は「赤」「赤い」を意味する古語である。それが転じて「赤土」をも指すようになる。地名に付くときは、特別の赤土すなわち辰砂(しんしゃ・水銀の材料)のことが多い。ウ(フ)は前にも記したとおり、「何かが生えているところ」「何かを産出するところ」である。要するに、ニウとは辰砂の産出地のことであり、ニビはそのもとの音ニフがニブを経て転訛したものではないかと考えられる。

 カルビなる地名は、たとえば前にも取り上げた島根県松江市美保関町雲津の東隣にもある。そこでは「軽尾」の文字を当てている。これはおそらく、カルフから変化した言葉ではないか。カルフとは、何か重いものを背負うことを意味する古語である。山越えの峠道の入り口には、よくこの語がついた地名が見られる。長野県東部の避暑地、軽井沢をはじめ同じ地名は各地に珍しくない。これを「カルフ沢」の訛りであろうと初めて指摘したのは柳田國男であった。柳田は、馬が通わないため、人が背中に荷物を負って山越えをするような沢沿いの道、後にはその足溜りになった場所を、そう呼んだと考えたのである。

 沢がなければ単にカルフの名詞形カルヒと言ったとしても不思議ではない。その語尾が濁音化すればカルビになる。彼は実証には欠ける推測だが、少なくとも右の二つのカルビは、そのような条件に合っているように思える。

 

P104

 青島は、その墓地での葬送儀礼において、すでに重要な位置を占めていた可能性がある。それはおそらく、水葬につながるものではなかったか。突然、こんなことを言えば不信を抱かれることになるだろうが、このあとおいおい述べていく事実によってまったくの妄想でもないことが、わかっていただけるのではないかと思う。(中略)」

 (宮城県南三陸町)この青島と葬送との関係は確かめられないが、ずっと昔から神聖視されてきたことは間違いない。島は1500本のタブの巨木に覆われている。タブはイヌグスともいい、クスノキに似た芳香(樟脳のにおい)をもつ暖帯性の照葉樹である。しばしば神社の神木とされ、折口信夫などは古代の榊とは、この木のことであったとしている。東北地方では一般に大きくならないのに、巨木が林立するのは保護されてきたために違いない。今でも島にあるものは、木でも石でも取ってきてはいけないとされ、それが守られているのである。古代の葬所がのち聖地になり、それとともに立ち入りを制限される例が少なくないことは、すでに述べたとおりである。

 

 

第7章 常世浜は村の先に位置する

P115

  1 山口県下関青井浜のこと

 このあたりには、昔から人家はなかった。耕地もない。特別の漁場でもなかったらしい。そんなところに、なぜ権力者たちの墓地が設けられたのだろうか。私は答えは一つしかないと思う。古墳が築かれる前から、浜が葬送の場所であったからである。それは当然、水葬であったろう。涌田の海民たちは、ここから死者を舟に乗せて、海のかなたの常世へ送り出していたに違いない。先祖は、この浜から旅立って氏の神になったと推測される。実際は、青井浜は、そのような雰囲気をたたえた渚である。

 青井とは「青江」の訛りだと考えらえる。青の江すなわち葬送のための江の意であろう。平凡社山口県の地名』の「涌田村」の項によると、元亀三年(1572)正月二十七日付の毛利輝元御判物に、「脇田之浦之内、青井并佐屋浦之事」なる一文が見えるという。脇田は涌田のことだが、青井と併記されている「佐屋浦」とは青井浜のことではないか。サヤとは、サイノカワラなどのサイと同様、サエ(境、あの世とこの世のとの境界)の意の可能性がある。たとえ、この想像が当たっていないとしても、青井浜が古代の葬送の地であったことは、まず間違いないと思う。

 

P119  3 そこは常世浜であった

 一つひとつでは状況証拠にさえならなくても、たくさんの事例を挙げることによって、全体が有力な証拠になる場合がよくある。柳田國男の言葉を借りれば、重出立証法である。

 

P120

 岩手県大船渡市の大船渡湾は、南から北へ向かってフィヨルドのように深く切れ込んでいる。東側の陸地の先端を尾崎という。地図には尾崎岬とあるが、岬は重複である。

 尾崎の「尾」は、この岬を神聖視して付けられた敬語の「御」であって、すなわち御岳(おんたけ、みたけ)などの「御」と異ならない。

 

 

第8章 日本水葬小史

P135 

 (長野県伊那市美篶の)青島・川手・大島の北方に広がる旧氾濫原を六道原と呼ぶ。「六道」は六つの冥界を意味する仏教用語だが、民俗語としては要するに葬地のことである。これらの地名は、以前この一帯が水葬の場所であったことを示唆している可能性がある。

 

P137

 (東伯郡湯梨浜町浅津の浄土真宗香宝寺の住職によると、上浅津と下浅津とに)一カ所ずつ野天の火葬の場があり、遺体はそこで焼いたうえに、灰を東郷池に注ぐ小川にまいていたという。昭和四十年代までのことである。

 

P138

 浅津から東へ12キロくらい、鳥取市青谷町山根や河原あたりにも、ほとんど墓がない。

 両地区の住民は一部を除いて、山根の浄土真宗願正寺の檀家である。彼らのあいだで死者が出たときは、火葬場で荼毘に付したあと骨を骨壺に入れて持ち帰り、願正寺の納骨室(地下に掘った大きな穴)に骨だけを投げ入れる。当然、中の骨はすぐ、誰のものか分からなくなる。(中略)」

 古い日本語で、人を葬ることを「はふる」(放る)、墓地を「すたへ」(棄辺)ともいった。のちに述べるように、それがおおかたの庶民の葬制だったろう。山陰地方の一部には、いまもそれが残っていると言える。

 

P140

 コラム④でも触れたように、鴨川のもっと下流、現京都市伏見区桂川との合流点付近は古くから「佐比河原(さいのかわら)」と呼ばれていた。貞観十三年(871)閏八月二十八日付の太政官符には、ここはもと「百姓葬送之地、放牧之処」なのに、近年、耕地化されつつあることを禁止する旨が記されている。百姓は庶民といったほどの意味だが、その葬送も川への投棄ではなかったかと思われる。

 一五〇〇年ごろ成立の『七十一番職人歌合』の三十六番は、「いたか」と「穢多」の組み合わせになっている。その絵に見えるイタカは一種の下級宗教者で、鴨川にかかる五条橋のそばで木片を削って作った卒塔婆を売っていた。詞書に「流れ灌頂、流させたまへ」とあるので、この卒塔婆を故人の供養のため鴨川に流す習俗があったのだろう。これは、かつての水葬の記憶を反映していると考えられる。人形流しは、遺体を流す代わりの行為、そのはるかな名残りの可能性が強いからである。近年まで、あるいは今日も各地に残る流し雛も、結局はそれではないか。これを裏付けると思われる興味深い民俗事例があった。

 →流し雛行事は「祓」であって、葬送とは別と考えるべき。もともとは同じような意味(未分化)だったのかもしれないが、中世では祓と葬送に分化したとみなすべき。

 

P143

 ヒルコは、だいたいは「骨なし子」「不具者」「発育不良の子」などと解釈されている。私は、そうではなく「流産した子」のことだと思う。古代人は生まれて間もないころまでの子どもには、まだ魂が入っていないと考えており、それで子(人の意味である。ただし、イザナギイザナミの子だから神でもある)の数に加えなかったのである。

 アワシマについて説得力のある解釈を下した研究者は、いないのではないか。卑見では、これは不吉な詩を象徴している。アワシマ=アオシマが現実に葬送の地であった事実が、このような仮託を生んだのであろう。そう考えて初めて、第一子がヒルのようにぬめぬめした、だが人間であり、第二子が島であるという、ちぐはぐな比喩の意味が理解できる気がする。

 いずれであれ、ヒルコは葦舟に乗せて(たぶん海のかなたに向け)流し捨てられている。その舟を出す場所をアワシマとかアオシマと呼んでいたのかもしれない。

 

P144

 うつぼ舟の伝説の根底に、水葬の記憶がひそんでいることは間違いあるまい。乗っていた人は多くの場合、神との関わりをもっており、これは死んだあと船に乗せて海のかなたへ送り出した先祖の霊が神として帰ってきたことを暗示していると思われる(赤穂市坂越の大避神社の祭神秦河勝和歌山市賀田の淡島神社の祭神は住吉明神の妻で、婦人病の神様)。「うつぼ」「うつろ」も「虚ろ」であって、棺のことだと考えられる。要するに、葬送が神迎えに形を変えているのである。

 

P154

 タやダは田のこととは限らない。何かがある場所の意の「処(ト、ド)」も、そう訛る場合が少なくないのである。現在の青田は、ふつうアオタと発音している。(中略)

 (阿見町)青宿の資料上の初出は鎌倉時代末の元徳元年(1329)で、当時は「青谷」と表記していた。他の中世文献には「青谷戸」としたものもある。両方ともアオヤトと読んだことは間違いない。ヤトはヤツ、ヤチともいい、湿地帯のことである。実際、この一帯には霞ヶ浦に面した低湿地が広がっており、そのあいだに小丘陵が点在している。鹿島神社も、そのような丘の一つに所在する。

 要するに、青宿は青谷戸の当て字であって、この文字を使いはじめたのは江戸期以後のことである。結局、青宿(青谷戸)とは青(墓地)に接した湿地帯を指していると思われる。それはおそらく丘の下の村か田んぼに付いた地名であったろう。

 

P156

 (行方市青沼)このヌマは、おそらく沼のことではない。一帯は霞ヶ浦と北浦との間の丘陵になっていて、地内に沼や池は見当たらないからである。傾斜地を指すノマという地形語があるが、これかもしれない。

 

 

第10章 墓地と葬送の場は違う

P166

 両墓制(埋め墓と詣り墓)の本質は埋め墓の方にあったと、私は思う。これは既述の徳島県吉野川市阿波市境の粟島や鳥取県東伯郡湯梨浜町浅津、鳥取市青谷町山根・河原などで行われていた(あるいは、いる)「放置葬」と都宇呈する部分が少なくない。言葉は悪いが、あらかじめ決められた一角に遺体または意ことを捨てていたのである。すなわち、古語にいう「はふる(放る)」、「すたへ(棄辺)」に対応する葬法である。これが中世までの庶民の一般的な葬送だったのではないか。

 

P177

 古代中国の柩は二重になっていて、内側を棺、外側を槨といった。日本では今日と同様、一つだけだったのであろう。冢は塚と同時で、盛り土の墓のことである。「停喪」はおそらく、その冢に遺体を治めるまでの状態を指していると思う。すなわち死後、十数日のあいだ肉食を避け、遺体の前で遺族は哭泣(書紀で「ミネたてまつる」と呼ぶ儀礼)し、他の者はまわりで歌舞飲酒したのである。これが19世紀末ごろまで沖縄で見られた「わかれ遊び」と同一の儀式であったことは、いうまでもない。

 それでは、なぜこんな葬礼が生まれたのだろうか。それは古代人の魂というものに対する考え方によっていたと思われる。彼らは、死んだばかりの人間の魂は荒れすさんでいて、いつ生者に祟るかわからないと信じていたのである。

 古代、葬礼の場で重要な役割を担っていた遊部と呼ばれる部民(権力者に隷属した職業集団)がいた。古代の法典『養老令』の注釈書『令集解』(10世紀前半の成立)には、「遊部。隔幽顕境。鎮凶癘魂之氏也」と述べられている。

 遊部は「凶癘魂(きょうれいこん)」を鎮めることを職掌としていたのである。彼らは天皇家に奉仕する部民であったから、神とされていた天皇でさえ、崩じた直後の魂は凶癘と見られていたことになる。ちなみに、「癘」とは癩病ハンセン病)のことである。

 人が死んで間もないころの荒魂は生者に祟りやすいが、遺体が白骨化するまでには和魂に昇華して常世へ旅立つ用意ができている。これが古代人の信仰であった。だからこそ、凄まじい死臭に耐え肉親の遺体に「膿沸き蟲流る」(イザナミの遺体について述べた書紀の表現)恐ろしい光景をしのんだのである。それが死者に対する供養であり、祈りであった。

 

P182

 西日本には「ヤ(谷)」という言葉は存在しない。これは東日本でのみ使われてきた地形語で、ヤツ、ヤチ、ヤトなどと同様、湿地帯を意味している。西日本でそういうところを指すときはノダ、ニタなどを用い、九州あたりではムタとなる。ヤの使用地域に厳密な境界線は引けないが、おおよそ新潟県西部と静岡県西部を結ぶ線より東側である。

 したがって、鳥取県で谷をヤと読ませている場合、不適切な当て字ということになる。この件に限らず、大抵は本来なら「屋」であろうと考えて、まず間違いない。実際、右の青谷も江戸時代までは「青屋」と書いていた・すなわち、この地名は何らかの建物によって付いた可能性が強いと言える。

 

P183

 (茨城県石岡市の青屋神社)ここには、もともと社殿などはなく、毎年6月の名越(夏越)の祓いごとに「青竹、青すすきを以て」(「常府巡覧記」)斎場が設けられていただけであった。そこに明治維新後、小祠が建てられ、のちいくぶん大きくなったのである。(中略)そこを、なぜか青屋と呼んでいたのである。斎場づくりに「青竹、青すすき」を用いたとするのは、この名に影響された結果であろう。竹はどれでも、枯れないかぎり「青い」はずだからである。

 注目されるのは、江戸時代まで斎場づくりは「夜丑の刻ごろ二人にて互いに無言にて」(前記文書)作業を行なったことである。真夜中に「二人が無言」で進める行為というのは、第8章4節でも述べたように、しばしば葬送儀礼に関わっている。これと「青屋」なる名から考えて、そこには元来は喪屋(殯屋)が建っていた可能性が強いように思われる。

 

P186

 つまり、黄泉比良坂と阿波岐原は、あの世とこの世の中間にあったことになる。(中略)

 右でまず注目されるのは、阿波岐原のアワキ(古い音ではアハキ)とアオキとの音の近似である。それは単に音が近いだけではなく、青地名の中にはもとアワ(粟や淡と表記されることが多い)といったり、いまも両方が重なっていたりする例が珍しくないことは、すでに記したとおりである。さらに後述するように、イザナギは死後、記では「淡海の多賀に坐すなり」とし、紀では「幽宮を淡路の洲に構りて、寂然に長く隠れましき」とされている。神話がイザナギの他界訪問や、永遠の地とのかかわりで採用した阿波岐原、淡海、淡路の三つの地名に、いずれも「アワ」の語が含まれているのである。

 しかし、それを取り上げる前に、阿波岐原と同様、あの世とこの世のあいだに位置づけられている黄泉比良坂について触れておきたい。

 ヨモツヒラサカの「サカ」が「境、境界」を指す語であることは、ほぼ定説となっている。「ヒラ」とは、私は「坂、斜面」のことだと思う。これは現在の共通語とは逆の意味になるので、多少の説明がいるかもしれない。それには柳田國男・倉田一郎『分類山村語彙』中の「ヒラナカ」の項が簡にして要を得ているので、そのまま引用させていただく。

 

 〈山の側面をヒラという語は全国に行き渡っている。それから転じてすべての傾斜面が皆ヒラで、頗る平の字を当てたヒラと混雑する。伊豆三宅島でもヒラまたはヘラが傾斜地、南は薩摩の桜島等で特にこれをヒラナカと言っているのは、たぶんは平地のヒラと区別するためであろう〉

 

 そのヨモツヒラサカは、記では「今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」とある。イフヤザカの比定地は知られていないが、このイフヤ(イウヤ)の音はイヤにごく近い。第二章5節で述べたように、「イヤ」は葬送の地を指すとの指摘があり、それに当たるらしい例も二、三挙げておいた。

楽音寺文書59 その3

    五九 安芸国沼田庄楽音寺縁起絵巻写 その3

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載しました。本文が長いので、6つのパーツに分けて紹介していきます。

 この縁起の研究には、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』 (広島県立歴史博物館、1996)、下向井龍彦「『楽音寺縁起』と藤原純友の乱」(『芸備地方史研究』206、1997・3、https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00029844)があります。

 

                              

 倫実蒙勅宣之上不固辞言、申賜数万騎官兵向純友

                  ヲ  ス     ルコト

 城郭釜嶋、純友与倫実相互不命合戦、諸共無変 面

                           

 相闘、純友方闘載勝倫実方被打落畢、或被落海中

                           

 被害舟底、雖然倫実被打漏将存命、倫実擒死人腹膲

                          

 置自身腹上、于是飛攅鵄烏着鵰鷲裂彼肉

        ルニ               リト     

 眼精、倫実少令動揺鵄烏即飛散、純友見之疑有 生者仰

           シト(マヽ)          

 郎従舟中死人于一々可刺留云々、郎従随命以手鉾

      (マヽ)                

 于一々令刺留、倫実始現服年于蒙勅日一寸

      シテ                  

 二分薬師像髪中十二本願信敬、然倫実流涙屠

     ニシテ   シテ            

 肝凝信専 心発願 云、我始年十三于齢三十二、日夜

            ノム ノ(効)ナリ     シメタマヘ  

 所仰薬師本願朝暮所恃医王郊験、不本願 助

     クナラハ            セント   

 命、若如 所願一宇伽藍置 髪中霊像云々、然間

        ハル              

 祈念緊成感応忽呈 当応倫実之時自海中俄指出亀頸

                         

 軍兵見之各々啁眼面々咍笑、自然刺余倫実畢、倫実入

           

 入闇指棹降櫓忍着陸地

     (絵3)

 

 「書き下し文」

 倫実勅宣を蒙る上は固辞の言に能はず、数万騎の官兵を申し賜りて純友が城郭釜が嶋を発向す、純友と倫実と相互に命を惜しまず合戦す、諸共に面を変ふること無く相闘ふ、純友の方の闘ひ勝ちに載せ倫実の方打ち落とされ畢んぬ、或いは海中に切り落とされ或いは舟底に殺害せられる、然りと雖も倫実打ち漏らされ将に存命す、倫実死人の腹膲を擒ふるに自身の腹の上に置く、是に鵄烏飛び攅ひ鵰鷲翺着し彼の肉を抓き裂き眼精を鑒み啄む、倫実少し動揺せしむるに鵄烏即ち飛び散る、純友之を見て生きる者有りと疑ふ、郎従に仰せ付け舟中の死人一々に刺し留むべしと云々、郎従命に随ひ手鉾を以て一々に刺し留めしむ、倫実元服の年より始めて勅を蒙る日に至りて一寸二分の薬師の像を造りて髪中に籠して十二の本願を憑み信敬を致す、然るに倫実涙を流し肝を屠き信を凝らし心を専らにして発願して云く、我れ年十三より始めて齢三十二に至りて、日夜仰ぐ所は薬師の本願朝暮れに恃む所は医王の効験なり、本願を誤たず我が命を助けしめたまへ、若し所願のごとくならば一宇の伽藍を建立し髪中の霊像を安置せんと云々、然る間祈念緊く成り感応忽ちに呈はる、応に倫実を刺すべきの時に当たりて海中より俄に亀頸を指し出す、軍兵等之を見各々啁眼し面々に咍笑す、自然倫実を刺し余し畢んぬ、倫実夜に入り闇に入りて棹を指し櫓を降ろして忍びて陸地に着く、

 

 「解釈」

 藤原倫実は、勅宣をいただいたからには固辞する言葉を申し上げることもできず、数万騎の官兵をいただいて純友の城郭釜島に進発した。藤原純友と倫実は互いに命を惜しまず戦った。両者はともに顔色を変えることなく、互いに戦った。純友方は勝ちに乗じて倫実方を打ち負かした。倫実勢は一方では海中に切り落とされ、一方では船底で殺害された。ところが倫実は討ち漏らされ、たしかに生きていた。倫実は死人の内臓を取り出して自分の腹の上に置いた。ここに鳶や烏が飛び集まり、鷲などが舞い降りて、死者の肉を掻き切り、目玉を啄んだ。倫実は少し揺れ動いたので、鳥たちはすぐに飛散した。純友はその様子を見て生きている者がいるのではないかと疑った。郎党に命じて、舟の中の死人を一々突き刺せと言った。郎党は命令に従って手鉾で一々刺してまわった。倫実は、元服の年から始めて勅命をいただいた日に至るまで、一寸二分の薬師如来像を造って髪の中に込め、十二の本願を当てにして崇拝してまいった。だから、倫実は涙を流し、心の底から信仰心を集中して言うには、「私は十三歳から始めて三十二歳に至るまで、日夜崇拝するのは薬師如来の十二本願で、いつも当てにしているのは薬師如来の効験です。本願を違えることなく私の命をお助けください。もし願いのようになるならば、一宇の伽藍を建立し、髪中の霊像を安置しましょう」という。そうしているうちに、祈りの思いは堅固になり、薬師如来の感応はすぐに現れた。まさに倫実を刺そうとする時になって、海中から突如亀が首を差し出した。軍兵たちはこれを見て、各々大声を上げながら眺めて嘲笑した。そのせいで、たまたま倫実を刺し残してしまった。倫実は夜陰に乗じて、海中に棹を差し、櫓を下ろして、目立たないように上陸した。

 

 「解釈」

「屠肝」─未詳。ここでは「肝を屠(さ)く」と読んで、「心の底から」という意味を表していると考えておきます。

楽音寺文書59 その2

    五九 安芸国沼田庄楽音寺縁起絵巻写 その2

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載しました。本文が長いので、6つのパーツに分けて紹介していきます。

 この縁起の研究には、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』 (広島県立歴史博物館、1996)、下向井龍彦「『楽音寺縁起』と藤原純友の乱」(『芸備地方史研究』206、1997・3、https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00029844)があります。

 

                            

 爰自仙洞被降綸言朱雀院、令朝敵逆徒

                  シテノタマハク 

 将軍勇士輩、尒時有公卿僉議天奏 云、近比被

             キコト         ルコト

 安芸国藤原倫実云者、武 相同漢朝高祖奢 不

              シト シム          

 朝田邑、被下彼流人此凶徒云々、爰以叡慮

                      メン 

 任天奏之旨忽降勅宣上倫実、禦朝敵逆徒之由

   

 仰着之、

     (絵2)

 

 「書き下し文」

 爰に仙洞より綸言〈朱雀院〉を下され、朝敵を誅せしめ逆徒を静めんが為に大将軍を尋ねて勇士の輩を覔む、尒の時公卿僉議有りて伝奏して云はく、「近ごろ安芸国に配流せられるる藤原倫実と云ふ者有り、猛きこと漢朝の高祖に相同し奢ること本朝の田邑に異ならず、彼の流人に仰せ下され此の凶徒を誅せしむべし」と云々、爰に叡慮を以て伝奏の旨に任せ、忽ちに勅宣を下し倫実を召し上らせ、朝敵を禦ぎ逆徒を静めんの由之を仰せ付く、

 

 「解釈」

 そこで、朱雀帝は宮中からご命令をお下しになり、朝敵を誅伐し、反逆者を鎮圧するために大将軍を探し、勇敢な武士たちを求めた。そのとき、公卿会議があり、そこでの意見を朱雀帝に奏上しておっしゃるには、「最近安芸国流罪となった藤原倫実という者がいる。勇猛なところは、漢の皇帝高祖や我が国の坂上田村麻呂と異ならない。この流罪人にご命令になって、あの凶悪な者を誅伐させるのがよい」という。そこで朱雀帝は、自身のご意志によって、奏上した公卿会議の意見のとおりにすぐに勅宣を下し、「倫実を都に召集なさって、朝敵の反乱を防ぎ、反逆者を鎮圧するのがよい」とご命令になった。

 

 「注釈」

「仙洞」

 ─本来は院の御所を指すが、承平・天慶の乱のときの天皇は朱雀帝なので、宮中と訳しておきました。

 

「天奏」─伝奏の当て字か。

 

「奢」

 ─「安芸国沼田庄楽音寺略縁起写」(『楽音寺文書』60)では、「奢」の代わりに「勇」の文字を使用しています。また、文脈からしてもやや不自然になるので、文字どおりの「おごりたかぶる」という意味は採用しませんでした。

 

「田邑」─田村。坂上田村麻呂を指すか。

歴史・民俗・宗教系論文一覧 Part1

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

出版年月 著者 論題 書名・雑誌名 出版社 媒体 頁数 内容 注目点
1256? 北条重時 極楽寺殿御消息 中世政治社会思想上 岩波書店 著書 326 道理のなかに間違いがあり、間違いのなかに道理がある。  
1256? 北条重時 極楽寺殿御消息 中世政治社会思想上 岩波書店 著書 326 土御門上皇(増鏡)の和歌「浮世には かかれとてこそ 生れけれ ことわりしらぬ 我が涙かな」の改作。「浮世には かかれとてこそ むまれたれ ことはりしらぬ 我が心哉」(悲しいこと・嘆かわしいことのあることこそ、この現世の習いであり、自分はその道理に気づいていなかったのだなあ」 不条理の哲学につながる。
1962.11 佐藤虎雄 金峰山における祇園信仰 神道史研究10−6   雑誌 196 京都祇園社八王子は、『二十二社并本地』では文殊、『山門秘書記』では千手観音。  
1962.11 佐藤虎雄 金峰山における祇園信仰 神道史研究10−6   雑誌 198 吉野曼荼羅では、牛頭の本地は十一面観音、八王子は観音。  
1979.3 笠松宏至 墓所」の法理 日本中世法史論 東京大学出版会 著書 245 宗教集団内部の殺人事件について、被害者の集団が加害者の有した権益を「墓所」として請求しうる法理が、鎌倉中期ごろまでに成立していた。しかし、この法理は、加害者跡の給付という点で、検断権行使者の得分対策と競合する可能性をもつ。また「墓所」の法理を宗教集団内部にとどめず外に向かって適用させようと試みるとき、特に加害者が武士その他の強力な集団に属するとき、「跡型墓所」の法理は現実的に極めて大きな障害に出会わざるを得ない。犯行現場を「墓所」に求める「現場型墓所」は、「跡型墓所」を馬体としてそれを伝統的な根拠としながら、同時に外に向かって求めるとき「跡型墓所」がもたざるを得なかった障害を回避するために、生成された法理である、と。  
1979 新城敏男 中世石清水八幡宮における浄土信仰 日本宗教史研究年報2   雑誌 27 しかし石清水八幡宮では、以後次第に本地阿弥陀説へと傾き、天永4年(1113)四月十八日の興福寺への返牒で、「当宮者鎮護百王之霊社、弥陀三尊之垂応也」と述べている。さらに鎌倉期に入るとその傾向は明確になっていく。建保4年(1216)の権別当宗清の誉田山陵告文には「夫大菩薩之本地波無量寿之三尊奈利、又異説弖或号釈迦須」と釈迦説を異説とするに止めている。  
1979 新城敏男 中世石清水八幡宮における浄土信仰 日本宗教史研究年報2   雑誌 30 こうして他氏を排除したのちには、紀氏内部で田中・善法寺両家に分流していき、法脈も固定しているわけではないが、田中家は天台宗円満院派、善法寺家は真言宗仁和寺系との関係が多くみられる。  
1979 新城敏男 中世石清水八幡宮における浄土信仰 日本宗教史研究年報2   雑誌 38 天王寺は周知のように聖徳太子によって建立されたとされ、律令時代には有数の官寺の一つであったが、摂関時代前期には天台宗の末寺となり、後期に至ると寺門派末寺に顚落してしまった。しかしその頃から天王寺西門は極楽の東門に通ずとの信仰がもたれ、来迎に特に関心を持つ人々の心をひくまでになっていた。       
1983.7 千々和到 「誓約の場」の再発見 日本歴史422   雑誌 3 中世の神々は、目の前に現れたりする存在ではなかった。しかし、中世の人びとは、それでもなんらかの手段で自らの意思が神に伝わり、また神がそれを受け入れたと判断できたに違いない。  
1983.7 千々和到 「誓約の場」の再発見 日本歴史422   雑誌 10 起請文に写が作られる理由は、その場にいる人々、つまり誓約に加わった人びとの側の必要からではない。また、その人びとと神仏との関係から生じた必要からでもない。それは、誓約に加わった人びとと、その場にいない、目の前にいない人びととの関係から生じた必要性に基づく。この必要性、つまり「誓約の場」にいない人々に制約を伝えなければならないということが、「残す起請文」を生み出した最大の理由なのである。
「霊社起請文之御罸」とは「霊社起請文」の「罸」のことで、「起請文前書」のことを指す。
 
1983.7 千々和到 「誓約の場」の再発見 日本歴史422   雑誌 12 連署者個々の信仰対象は問題ではなく、信長にとって最も恐るべき存在である一向宗との関係で有効と思われる起請文言が選ばれ、強制されたはず。その場合、「御本尊」とは、一向宗の本尊である阿弥陀仏を指すことを意図していたのは、必然であろう。 起請文は、書かせる側が雛形を強制する場合がある。また、書かさせられる側がもっとも恐れるべき存在を勧請する。
1983.7 湯浅吉美 東寺にみる官人俗別当 史学 53−2・3 三田史学会 雑誌 82 年分度者が真言宗に対して許されるのは、承和二年(835)で、天台に遅れること30年、空海入定の2ヶ月前。  
1983.7 湯浅吉美 東寺にみる官人俗別当 史学 53−2・3 三田史学会 雑誌 84 承和2年(835)に、天台宗の講読師が任命。承和四年(837)に真言宗の講読師が任命。宗派の伝道を公認されること。  
1986.8 斉藤国治 二星合・三星合の天変とその検証 日本歴史459 日本歴史学 雑誌 70 十二世紀後半から十六世紀半にかけて、わが国の天文史料の中に「二星合」「三星合」という天変記事がしばしば現れる。これはわが国の中世に盛行した天文道で使われた用語である。その意味するところは、歳星(木星)・熒惑(火星)・塡星(鎮星とも書き土星)・太白(金星)・辰星(水星)のうちの二星が天球上で接近し、または三星が集合して見える現象を指す。これはまた犯・合とも言われる。  
1986.8 斉藤国治 二星合・三星合の天変とその検証 日本歴史459 日本歴史学 雑誌 74 また、両星接近の度合いを分類して「犯」「合」「同舎」とした。犯とは0.7度以内に接近した場合のこと、合とは0.7度以上2.0度以内の場合、同舎とは2.0度を越すゆるい合のこととする。  
1986 早川庄八 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 中世に生きる律令 平凡社 著作 63 間議定というのは、清涼殿の西廂の南端にある鬼間で行われる議定であって、この時期には何回か行われたことの知られるものであるが、陣座で行われる陣定すなわち仗議との大きな相違点は、鬼間議定には関白が出席し、関白の領導によって議事が進行することである。すなわち、陣定は、太政官議政官会議という歴史的な伝統を背負っているから、陣定が行われている間は、関白は、天皇の後見としてその側近に侍し、陣定の終了後、定文の奏上を聞くというと立場に立つが、鬼間議場では関白も臣下として評議に参加するだけでなく、会議を領導し、その結論を天皇に奏上するという立場に立つ。このような形態をとる議定がいつどのようにしてはじめられたかは、この時期の公家方の政治のあり方を考えるうえで興味ある問題であるが、ここでは七月九日に行なわれた鬼間議定の模様を、平戸記の記述を忠実にたどりながらみることにしたい。  
1986 早川庄八 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 中世に生きる律令 平凡社 著作 191 こうした意味において、鬼間議定とは、一種の「御前会議」であったのである。
すでに述べたように、太政官議政官会議としての陣定すなわち仗議においては、このようなことはない。天皇は、摂政または関白とともに別室に控えており、天皇と仗座の公卿との間の連絡は蔵人頭が行ない、天皇は議定の結果の奏上を受けて、摂政または関白の補佐のもとで勅定するのである。
このように、鬼間議定では、天皇がこれを聴聞するのを例とする。そしてこのことは、鬼間議定とは、天皇の積極的な意志で開かれたものではないか、という推測を私に抱かせる。果たして、鬼間議定の出席者への催しは、蔵人が奉じた「御教書」すなわち綸旨で行なわれるのである。
 
1986 早川庄八 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 中世に生きる律令 平凡社 著作 194 とすれば、後嵯峨親政期に行なわれた鬼間議定とは、かつて後白河院政期に「院」御所で行なわれた公卿の議定の、「内」版と言えるのではなかろうか。上皇の後白河が院宣で出席者を指名選択したのと同じように、天皇の後嵯峨は綸旨で出席者を指名選択しているのである。  
1986 早川庄八 寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件 中世に生きる律令 平凡社 著作 195 これで知られるように、この時期でも、建前としては、公卿の仗議が最高の政務決定の場と意識され、鬼間議定はあくまでも「密々」の議定と考えられていた。だがそれにもかかわらず、第四回の兼盛の罪名定のあとも、第五回の譲位定めのあとも、仗議は行なわれなかった。建前は建前として、仗議は確実に形骸化していたのである。  
1987.3 千々和到 中世民衆の意識と思想 日本の社会史第8巻 岩波書店 論文集 23 地蔵講の実態。律宗時宗といった宗派とは直接の繋がりを持たずに構成された集まりで、ある宗派の指導のもとにある信仰ではなくて、民衆の基底部にある信仰に基づいている。そうした信仰が造塔・造仏という形で表現されるときには、供養や法会などの儀式を通して、宗派とつながっていかなければならなかった。  
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 23 第三には、どのような実力行使の手段を取るか、という点に答えよう。(1)閉籠(社頭─本殿の前庭、下院、絹屋殿)。(2)神幸妨害(神輿抑留─すがる・抜刀・神輿下地に置く・神幸ボイコット、切腹─ケガレによる神幸阻止・示威行為)。「神訴」の手段は、右のようになる。もっとも神人らの通常の訴訟は、放生会の祭日につかかわりなく見られ、社務へ、社務を通して幕府社家奉行へ、または直接幕府(守護や奉行人)へ行なわれている。だが放生会最中やその直前に多く集中して、閉籠・神幸妨害といった「神訴」がなされたことは、審議中の対決を有利にしたり、訴訟を受理させる方法として、放生会での「神訴」がより有効であった点を物語ってる。まさしく伊藤清郎氏が鎌倉期の強訴で述べた、神人らの「戦術的論理」を看取できよう。  
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 24 なお、放生会の祭儀にあてたものではないが、『看聞日記』応永三十一年六月十六日条に、「神人ニ不限郷民与力大勢取陣閉籠」とも見え、訴訟内容によっては、石清水周辺の荘郷民の一揆的訴訟へと展開したことがうかがえる。
ただし、応永三十二年の放生会に、「神訴」して召籠められた父を助けるために、その子が自害し神幸を妨げたような個別的な訴訟もある。また、桑山浩然氏が詳述した永享二年の「神訴」は、訴人・論人ともに本所神人であって、一概に「神訴」が神人の相違のもとになされたというわけにはいかない。
 
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 28 最初に、訴人を列挙しておこう。
公文所・供僧・社僧・巫女・神人(紀氏・他姓、本所・散在・住京、禰宜・御殿司)
公文所は、神人の惣官職である。供僧・社僧は、供所に奉仕する神人身分のものと思われる。巫女は神人の妻の場合もあるが(『看聞』応永三十一年六月二十七日条)、自身神人身分である。紀氏・他姓(源氏・紀氏以外)は家格を示すが、二十四名の神人がいた。住京は、京都に居住する神人である。禰宜は四十五名おり、内訳は山城方十五名、楠葉方三十名の神人であった(以上、『年中用抄上』)。御殿司は、山上御殿司とも称され、ご神体に関わる所司で、ことに放生会において最勝妙経を謹読し三所の神威に資した。それは紀氏から任命されていた。
 
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 29 戦国期の史料だが、大永二年(1522)四月二十二日付石清水八幡宮住京大山崎神人中申状(桑山浩然氏校訂『室町町幕府引付史料集成』上491、2頁)によると、石清水社の霊験は「武運守護之尊神」で、日使頭役以下の大神事を奉勤するための神人の生業は「神職商売」である。そしてこのような「神役」を勤めることは、「社頭神事興隆」を目的とするものなので、生業の油輸送にかかわる諸関勘過については、幕府が安全を保障すべきである、という論理が読み取れる。  
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 30 それによると、放生会の「役」負担には、二つあった。一つは、七月二十五日石清水近在の神領荘郷に宮寺政所下文を以て賦課された、八月一日から十四日までん「人夫役」である。いま一つは、八月十五日の放生会本祭に奉仕する「神人役」で、八月一日付の同じく政所下文によって放生会神人に賦課されている。
ここでは「神訴」の主体となる、後者の「神人役」が重要である。右に戦国期の史料で述べた「神役」(=「神人役」)の考え方を敷衍させると、「神人役」を奉仕するかぎりにおいて、放生会神人の身分を得ている。したがって国家の大会を支える「神人役」を勤めるための、神人の生業を保証することは、「役」を賦課した社務、ひいては放生会武家の沙汰として主催する幕府、将軍の義務である、という論理を汲むことができよう。なおいえば、放生会神人の特権身分であるからこそ、たとえ放生会での「神訴」が「理不尽」であろうとも、正当性を持ちうる、と神人らが意識していたのではないか。
換言すると、「神役」を奉仕することは、神人らが仏神と「結縁」している証である。だから神人らの「神訴」は、いわば「仏神の訴訟」とみなされる。そして、室町幕府が国家の大会である放生会の祭祀権を掌握すると、俗界の盟主、統治権者である幕府に向けて「神訴」がなされた。なぜなら、「神訴」の内容は、主に社務の権限の及ばない、俗的世界における日常的な生業の保証にあったからである。
 
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 32 すなわち、社務職補任権・解却権に関与する幕府は、社務の受訴権を保証し訴訟吹挙を義務付け、社務の社内検断権を牽制している、と解することできよう。  
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 37 放生会での実力行使である「神訴」は、社務の吹挙や次第の沙汰を経ないことから見て、いわば直訴の一つであると言える。藤原良章氏の論考によると、幕府は「庭中」(「奉行を越えた直訴」)を禁じてはいるものの、一般的には「庭中」を受理している、という。「神訴」と「庭中」とを、同じ次元で短絡的には論じられないが、ともにに直訴であり、それを受理した点から、そこに共通の政策意図を汲むことは許されよう。なぜならこれらの直訴を受理することによって、幕府と訴人とが直接的な関係を取り結ぶことができるのであり、幕府にとれば、当初は公家にかわって直訴を受理することで、公家政権の権能を分割奪取し、またそれは、幕府政権の権力、権威を訴訟面から高めるための施策であったと考えられるからである。  
1988.3 鍛代敏雄 石清水放生会に於ける「神訴」 国史学 134   雑誌 38 「神訴」の態様は、神人らが放生会を楯にして、主に神領の保証と、神人の生業の支障や身分特権に関する訴訟を受理、裁許させることを目的とした点にある。この言葉は、社務や神人だけでなく、公家や神人だけではなく、公家および室町幕府によって意識的に使われており、強訴を「神威」の面で体現したものとみてよい。  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 4 持経者とは、「経典を憶持し誦持する者」。  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 6 憶持・誦持は暗誦と同義。  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 12 僧尼令的秩序が10世紀に放棄されるに従って、暗誦奨励政策も消滅。暗誦から山林修行へ。時経者のあり方は10世紀を画期とする。  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 15 持経者が山岳修験の中で指導的な立場にあった。山林行を修めるなかで、最終的に暗誦を達成しているかどうかが重要。暗誦は神仏の示現を伴うような極めて呪術性に富む行為。持経者とは本質的に呪術宗教者であり、その源泉は暗誦の達成に求められる。神仏の示現を促すことが、山林修行者の持つ数々の呪術力のうちでもっとも高級な部類に属するものと考えられ、持経者が山林修行者の上位に位置づけられた。  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 20 夜間や早口の読誦の描写は、持経者説話において『法華経』の暗誦が完璧であることを強調する。中央でも地方でも11世紀頃から持経者の世俗社会への進出が始まった。持経者の寺院定住(高木豊平安時代法華仏教史研究』)  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 23 恒例仏事に持経者が出席。持経者が顕密寺院のなかに恒常的な活動の場を確保した例と見ることができる。11〜12世紀は、持経者が、前代からしばらく盛んになりつつあった山林修行を本来的な基盤としつつも、顕密寺院や世俗社会のなかに進出し、そのなかに確固とした位置を占めた時期である。  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 28 主要な顕密寺院の一つである東大寺に持経者の活動の場が確保されたこと、さらにその場を通して、持経者が顕密寺院に組織化されていった可能性がある。  
1995.8 菊池大樹 持経者の原形と中世的展開 史学雑誌104−8   雑誌 57 中世の人びとは他界・異界の存在を、目には見えないもの、と理解していた。その代わりに、彼らが他界・異界の発する信号を感じ取ることができたものこそ、先ほど述べた音楽と異香だったのではないだろうか。 見えない存在を、音・香・味・皮膚などで感じたということか。
1996.11 千々和到 中世日本の人びとと音 歴史学研究691   雑誌 56 音声は、ただ発すればよいのではなく、その音声の発せられる場の雰囲気や儀礼、その場での仕草が、その音声を補完していたと考えるべき。音声の一回性の補強。
当時の人びとが往生伝などの記事を信じることができたのは、それらの記事がどれもみな類型的だったから。類型的だからつまらない、という読み方もあるが、当時の人々からすれば、滅多に起こらない往生を信じるためには、そこに誰もが信じることのできる類型的な現象が生じる必要があったに違いない、
 
1999 鍛代敏雄 石清水神人と商業 中世後期の寺社と経済 思文閣出版 著作 25 とすれば、神輿や神宝と等しく、神事の公役を勤める神人は、「神之器」ということになる。他の記事を勘案すると、石清水八幡宮寺側の訴訟の論理は、公・武両政権が愁訴を受理し裁許しなければ、「神之器」の破損を招き、「神事違例穢気不浄」となる、とするものであった。
また、宮司側の訴訟を朝廷に裁許させる論理としては、前述した天平勝宝七年の八幡大菩薩託宣を引用して、「宮寺惣官神人訴宥輩、皆以蒙神罰候、是大菩薩ノ御託宣、他国ヨリハ吾国、他人ヨリハ吾人ト申明文候」(嘉禎二年、『石』一、95頁)とも見える。神罰のないように、まず第一に石清水社の社司・神人の訴訟を裁許すべきことを訴えている。すなわち、彼らの特殊な身分を訴訟の論理に転化させたもので、朝廷や幕府に向けて発せられた。
 
1999 鍛代敏雄 石清水神人と商業 中世後期の寺社と経済 思文閣出版 著作 26 石清水社の場合、神輿動座の列参強訴とともに、放生会にあてておこされた嗷訴が特筆される。弘安八年(1285)十一月十三日付後宇多天皇宣旨(『石』一、318号)には、「一、一切可停止諸座神人直訴事」「一、同神人等近年恣假神威、動成諸国庄薗之煩、或好路次點定、致闘乱殺害、或私事猶及狼藉、如此之類者、社家解其職、経 奏聞、云公家、云使廳、殊可被加懲しゅう事」とあり、また、永仁三年(1295)四月二十二日付伏見天皇綸旨にも、「一、神人訴訟諸座一同向後可停止」「而無理之輩假諸座與同之威、企嗷訴及上聞之條太不可然」と見える。これら13世紀後半には新制をもって、諸座を組織する神人集団の一揆的訴訟を禁止しなければならい状況にあったのである。殊に前者の弘安新制では、神人の悪党的行為には神人職の解却を命じる厳しいもので、嘉元二年(1304)九月日付社頭閉籠神人悪党召捕交名(「八幡宮寺縁事抄」『宮史』四、891頁)が残っており、神人の処罰がなされたことが確かめられる。
別稿で論述した通り、鎌倉末・南北朝期から「神訴」という言葉が史料上に多く管見されるようになる。それは戦国末期まで表出し、近世には見られないので、中世後期に寺社関係にあらわれた造語としてよい。「神訴」は、寺社の神人側だけでなく、公・武の両政権も認定する言葉であった。その語義は、神威や神慮を体現する神人の訴訟で、理非にかかわりなく、たとえ理不尽であっても受理し裁許しなければならない、超法規駅な措置を要求する内意をもった言葉である。石清水社においては、やはり放生会の「神訴」が有効だが、国家的祭祀を主催する王権の保持のためには、祭礼を楯とした神人の「神訴」をある程度認めざるを得なかった。
 
2000.1 五来重 十一面観音と千手観音 観音信仰事典 戎光祥出版 論文集 78 金光明経では吉祥天が懺悔を求める。修正会・修二会の本尊は十一面観音。十一面悔過法を行う。  
2000.1 中村生雄 観音信仰と日本のカミ 観音信仰事典 戎光祥出版 論文集 240 今昔物語集』は二話一類の連鎖的説話接続形式(国東文磨)。  
2000.1 松永勝巳 湯屋の集会 歴史学研究732   雑誌 2 まず網野善彦氏は、鎌倉期の律僧による非人施行の事例に関して「温屋もそれ自体『無縁』の特質を持っていた」とし、別の著書では、「中世寺院の湯屋が湯起請・集会・拷問などの場とされたことを踏まえて、「これは湯屋が一種の広場の性格を持っていたことを示すものといえよう」としていて、おそらくこの「広場」というのも無縁の場ということであろう。(中略)
次に永村真氏であるが、氏は東大寺寺院組織を考察する中で言及していて、「東大寺の大湯屋が、しばしば集会の会場とされたのは、清浄を実現するという湯屋の機能と、衆議における清浄の理念とが重なり、集団的な意志決定をなすにふさわしい場であると認識されたからではなかろうか」としている。
清浄空間である湯屋で拷問や自害が行われることは、矛盾しないか?
2000.1 松永勝巳 湯屋の集会 歴史学研究732   雑誌 5 「聖僧」(しょうそう)とは、漠然と「高貴で立派な僧」というような意味で用いられる場合もあるが、本来的な仏教用語としてはより具体的で、小乗における賓頭盧尊者、大乗における文殊菩薩を指すものとされる。  
2000.1 松永勝巳 湯屋の集会 歴史学研究732   雑誌 6 このように、『三宝絵』の記述によって、少なくとも10世紀段階の南都寺院の湯屋は、湯を沸かして賓頭盧を請じる機能を有すると考えられてたことがわかる。(中略)
以上、賓頭盧・文殊湯屋に来臨する例を一つずつ見たが、そこにはいずれも「聖僧」という言葉は使われていない。そして賓頭盧も文殊も「聖僧」としての機能がすべてではないことは言うまでもない。しかしながらこの二つの共通点は何であるかと言えば、それはともに小乗・大乗の「聖僧」であるということにあり、しかも下って建久2年(1191)成立とされる『澄憲作文集』には、この両者が揃って記されているのである。(中略)
以上から、湯を沸かすという機能を有する寺院の湯屋は、古代から中世に至るまで、「聖僧」が来臨する場であるという観念が存在していたと理解できよう。大衆が日常的に集会を行なっていた湯屋とはこうした場であったのである。
 
2000.1 松永勝巳 湯屋の集会 歴史学研究732   雑誌 8 つまり、金堂遷座時における興福寺大衆集会の場は「聖僧」の御前で、それに対面する形でなされるということになる。
以上に見てきたように、興福寺大衆による集会は、日常的には「聖僧」来臨の場である湯屋において行なわれ、進発により寺外に出た場合でもその御前で行なわれているということが理解されよう。
 
2000.1 松永勝巳 湯屋の集会 歴史学研究732   雑誌 9 したがって大衆としての総意の正当性というものは、実際に統一意思であるか否かによるのではなく、聖僧の影向があるか否かによると思われ、聖僧の影向がありその御前でなされた衆議であるならば、それは「擬似僧伽」の総意とみなされると言うことであったのではないか。いわば大衆が「僧伽になる」、もしくは寺内の僧侶たちが中世的な意味での「僧伽になった」ものが大衆なのである。そして正当性を獲得したならば、その総意は一見いかに不合理に見えようとも、仏法久住・仏法興隆という合目的的なものとして観念されていたのではないだろうか。  
2000.1 松永勝巳 湯屋の集会 歴史学研究732   雑誌 10 以上を要約する。中世興福寺における大衆集会は、日常的には「聖僧」来臨の場である湯屋で行なわれ、進発の際にもその御前で行なわれると言うように、常に「聖僧」の御前で行なわれていた。「聖僧」は寺僧たちにとって僧伽の紐帯として信仰されていて、平等・和合という伝統的な理念に則った彼らの結合を可能ならしめたのは、そうした「聖僧」に対する信仰であったと思われる。したがって擬似僧伽は日常的に存在したのではなく聖僧の存在によって出現するものであり、大衆は「僧伽になる」ことによってその正当性を論理を越えて確保しうるのであった。(中略)
最後に課題をいくつか掲げる。第一に、湯屋の集会の成立に関して、特に「布薩」との関係についてである。「布薩」とは本来的には、半月ごとに寺僧らが集まりそれぞれの戒律違反を懺悔するという法会である。(中略)しかしその「布薩」も変質をきたし、懺悔の実質的な意味は失われ、現前僧伽の成立の象徴的儀式となったという。こうした変化はインドの初期の仏教教団のいてすでに生じていたものであり、集会は僧伽の伝統の会議であるという従来の定説は、以上の点からも理論的・実証的に否定されよう。(中略)
第二には、南都と北嶺の違いについてである。湯屋を集会の場として利用するのは先述のように南都寺院に限られるようである。
 
2002.1 大山喬平 歴史叙述としての「峯相記」 日本史研究 473   雑誌 13 安達景盛息修道房が播磨から美作へ逃げる。 播磨・美作ルートを考える。
2005.2 千々和到 大師勧請起請文 中世の社会と史料 吉川弘文館 論文集 4 時宜「それならばそれでよい」。 その時の宜しい状況、という意味か。
2006.7 佐伯真一 「兵の道」・「弓箭の道」考 中世軍記の展望台 和泉書院 論文集 38 このように、「兵の道」とは、広い意味では「兵」という職業、あるいは戦闘の専門家として生きることそのものをいう言葉なのではないか。ただ、「兵として生きる」ために具体的に重要なことは何かと言えば、多くの場合は武芸の技能、勇敢さ、智謀などといった、具体的な戦闘に関わる能力のことになるわけだろう。  
2006.7 佐伯真一 「兵の道」・「弓箭の道」考 中世軍記の展望台 和泉書院 論文集 41 このように、軍記物語では、「…の道」の語が種々用いられ中で、「兵の道」はあまり使われなくなっていると言ってよいだろう。これは、中世の文献全般に共通する傾向でもあるようだ。「兵の道」に代わる「…の道」の語の中で最も多いのは、「弓箭の道」であり、『十訓抄』『沙石集』『蒙古襲来絵詞』各二例、流布本『太平記』八例というように、次第に多数を占めるようになってゆくのである。「兵の道」の衰退は、『今昔物語集』においては武士を表す言葉がほとんど「兵」だったのに対して、『平家物語』などでは「武士」に取って代わられていることに対応する現象であろう。  
2006.7 佐伯真一 「兵の道」・「弓箭の道」考 中世軍記の展望台 和泉書院 論文集 44 以上、『平家物語』諸本などにおいては、「兵の道」に代わって「弓箭の道」の例が増加し、それは『今昔物語集』に見られたような「弓射の能力」を意味する本来の用法から変化して、武士の精神的な側面に関わる例をも多く含むものになっているが、あくまで「武士らしさ」の表現であって、武士らしい道徳を「道」として説いたものではない。  
2006.7 佐伯真一 「兵の道」・「弓箭の道」考 中世軍記の展望台 和泉書院 論文集 45 だが、そのような(精神性や倫理)思考の論述が一緒にまとめられるのは、『義貞軍記』(15世紀中頃までに成立)を待たねばなるまい。武士の「道」に関する自覚的な思考の表現は、軍記物語の文学としての隆盛が頂点を極め、ようやく衰えに向かおうとする頃に、それとすれ違うように頭をもたげてくると言えるのではないだろうか。  
2006.10 斎藤英喜 祭文研究の「中世」へ 中世文学研究は日本文化を解明できるか 笠間書院 論文集 352 祭文とは、何よりも太夫や法者、博士といった民間宗教者たちの活動や、祈祷、神楽の現場と密接に成り立つテキストであるからだ。そしてそこにこそ、「祭文」を中世神話に加えることの意義があるはずだ。記紀神話という書かれた神話の枠組みから、祭祀や儀礼の現場との相関、宗教者の身体や声の側へと「神話」を奪還すること。それこそが神話研究における「祭文」の意義であった。  
2006.10 斎藤英喜 祭文研究の「中世」へ 中世文学研究は日本文化を解明できるか 笠間書院 論文集 354 いざなぎ流の祭文から見える神話と呪術・呪法の関係は、たとえばエリアーデによる「神話」の定義とも通底しよう。
 神話の物語る「話」は、…呪術・宗教的力に伴われるためにも秘技的である「知識」を構成する。なぜなら、物体、動物、植物などn起源を知ることは、それらを意のままに支配、増加、再生産できる魔力を得ることに匹敵する(ミルチャ・エリアーデ『神話と現実』、中村恭子訳、1973、せりか書房)。
 神話は、たんに神々の起源や祭祀の由来を語るだけではなく、そこに語られる神々の力を自由に操作し、使役する「魔力」と不可分なのだ。神話が語る「起源」の知識を宗教者・呪者が独占的に管理することの理由は、そこにあった。いざなぎ流の祭文は、「神話」の実践的な意味を知らしめてくれるわけだ。
 
2007.3 桑谷祐顕 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺 叡山学院研究紀要 29   雑誌 39 比叡山常行堂は、円仁によって承和15年・嘉祥元年(848)に初めて建立。平安期になって五大明王を祀る五大院が叡山上に建立。弘仁14年(823)以降、真言・天台両宗からの地方講読師の補任や諸国の別院設置の教勢拡大。 地方講読師とは?石井義長『空也上人の研究』
2007.3 桑谷祐顕 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺 叡山学院研究紀要 29   雑誌 40 常行堂の播磨への普及は900年代  
2007.3 桑谷祐顕 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺 叡山学院研究紀要 29   雑誌 42 鶏足寺本尊は十一面観音。法華山一乗寺本尊は千手観音空鉢の守仏。 法道仙人の守り本尊か?
比丘六物
2007.3 桑谷祐顕 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺 叡山学院研究紀要 29   雑誌 47 横川形式の三尊形式。聖観音不動明王毘沙門天。この三尊形式は、天延3年(975)の良源による横川中堂改修に起源を持つ。  
2007.3 桑谷祐顕 『峰相記』にみる中世播磨の天台寺 叡山学院研究紀要 29   雑誌 51 播磨の勧請神開眼供養導師は円仁。天長十年(833)諸国講読師に天台座主義真が任ぜられる。  
2009.12 山本幸司 第1章 穢とされる事象 穢と大祓 解放出版社 著書 27 日本では神社や神事そのものと関わらなければ、流血に触れること自体が忌まれることはなかった。  
2009.12 山本幸司 第1章 穢とされる事象 穢と大祓 解放出版社 著書 28 日本の死穢の観念で特徴的な点は、殺人が死穢一般ととりわけ区別されていないこと、また殺人者が持続的に穢とされることがないことである。
その理由は、死穢を忌む程度が死に方の違いによるのではなく、死体との接触の仕方の違いによって判断されたからだろうと推定されるが、刑事上のサンクション(制裁措置)と穢とが連動していいない点で注目される。
ということは、自殺についても死穢一般と区別されることはない、と読める。
2009.12 山本幸司 第2章 穢とされるその他の事象 穢と大祓 解放出版社 著書 36 通常は動物の死・産が汚れを生じるものと考えられているようだが、資料上では、単なる動物一般ではなく、「六畜」に限定される。六畜というのは、元来、中国の概念が伝わったもので、具体的には馬・羊・牛・犬・豚・鶏の六種の動物をさす。その共通性を端的にいえば、家畜ということになろう。 化け物はどうするのか?
2009.12 山本幸司 第2章 穢とされるその他の事象 穢と大祓 解放出版社 著書 39 猪は豚に準じて六畜と同様に穢があると決定されるのだが、それが以後の慣例となったかどうかは不明である。
鹿は、大神宮などの神社の境内における場合のみが例外的に穢とされた。
 
2009.12 山本幸司 第3章 穢の伝染と空間 穢と大祓 解放出版社 著書 61 河原は記録の上でも、穢れた品や死者の捨て場としてよく挙げられるが、これはあるいは、そのような穢れた品物を捨てても、周囲にその穢が伝染によって広まることがないことによるのかもしれない。つまり安心して捨てることのできる場所だったのである。  
2009.12 山本幸司 第3章 穢の伝染と空間 穢と大祓 解放出版社 著書 71 水といっても、浄化力が認められるのは流水だけで、池とか井戸のように限定された範囲に溜まっている水は、浄化力が無いばかりでなく、もしこの水中に穢物が入れば、水全体が穢となり、そこから穢が伝染するのである。 流水ならば穢にならない。
2009.12 山本幸司 第3章 穢の伝染と空間 穢と大祓 解放出版社 著書 77 一方で火は浄化力に富むものであるには違いないが、他方、不浄なものを焼いた火、あるいは不浄な場所にあったり不浄な人間の触れた火は、逆に不浄な存在と変わるのである。 化け物はだから焼けない?
2009.12 山本幸司 第5章 穢の本質 穢と大祓 解放出版社 著書 83 死の社会的意味。まず死であるが、死は特定の社会集団からある成員が脱落することであり、それによって残された成員間の社会関係の再調整が必要とされる。 本来、死にそんな意味はない。死にそんな意味を付与しただけ。死の社会的な見方であり、一面的な見方に過ぎない。
2009.12 山本幸司 第5章 穢の本質 穢と大祓 解放出版社 著書 89 穢の観念の本質が、穢の発生源と関わる人間の間における社会的関係・社会的接触である。  
2009.12 山本幸司 第6章 秩序と穢 穢と大祓 解放出版社 著書 103 人間の社会生活・社会関係が人間社会を取り巻く周囲の自然とともに形成し、人間社会と自然界とを貫通している。人間を取り巻く全環境における安定した事物の事態を秩序を呼ぶ。
この秩序においては、政治的事件や社会状況など人間社会の事象が、安定的に円滑に進行しているか否かががそのまま、天体の運行、気象の変動、天災、作物の豊凶といった自然現象に影響を与える。他方、そうした自然現象の変調は、必ずなんらかの人間社会における異変と結び付いた。者として捉えられる。
 
2009.12 山本幸司 第6章 秩序と穢 穢と大祓 解放出版社 著書 117 (御所だけでなく、京中の神社で発生した穢によって起きた皇族の体調不良事件)こうした事件が、当時どのように解釈されていたか史料の上には記されていないが、前述したような神と天皇との関係からいえば、穢によって直接皇族が損なわれたと考えるより、汚れの発生を許したことに対する神の怒りが、神を祀る側の代表である天皇以下の皇族に向けられ、神罰が下されたのだと理解すべきであろう。  
2009.12 山本幸司 第6章 秩序と穢 穢と大祓 解放出版社 著書 119 だが、時間的な前後関係や因果関係の上では、汚れの発生がこれまで説明したような異常現象に先立つものと史料には記述されていたとしても、実際には病気とか物怪、天変地異などの知覚されうる現象が怒ったときに、その原因を求めたら、汚れに触れるようなことがあった、というのが一般的な認識の順序である。 結果からその原因を導く原因推論と、原因からその結果を推論する結果推論との違い。
2009.12 山本幸司 第6章 秩序と穢 穢と大祓 解放出版社 著書 122 それ(穢)は天罰を招くと同時に、それが引き起こした天罰そのものであるのだ。  
2009.12 山本幸司 第8章 穢の知覚と穢の観念の変化 穢と大祓 解放出版社 著書 165 本文が飛んだ。 時と場合によって、規定や対処法が変化する柔構造だったから、長期間にわたり穢は持続した。
2009.12 山本幸司 第6章 秩序と穢 穢と大祓 解放出版社 著書 167 すなわち、穢の観念が秩序の安定性を乱す事象を排除することによって、秩序の維持・強化に役立っていることは、同時に穢の観念が、広い意味で社会的サンクションの体系の一環を担っていることでもある。しかし盗みのような犯罪行為は、法と警察制度というサンクション機構の別の一環の主たる対象であり、こちらが機能している限りは、穢の観念が機能する必要性は乏しい。そのために、相対的には警察機構の機能している京都を中心とする貴族社会の記録類に、犯罪に関する穢の観念が現れることが少ないのではないかと推測されるのである。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 202 (領主による地域支配)そこでは、領主による非血縁者の被官・家人・所従・下人らに対する家父長制的支配と、領主による名主・百姓らに対する地域支配との質的相違を軽視している。前者は家臣団や家中、後者は所領や当知行などであるが、両者はともに領主制の内部問題とされてきた。しかし、権力の場である城と民衆の視点から見直せば、前者は領主の家政権力としての私的支配の問題であり、後者は領主のもつ国政権力としての公的支配の問題として区別して論じられなければならない。前者を主従制的支配、後者を統治権(構成)的支配と区別する佐藤進一・大山喬平らの見解をさらに発展させて、両者の区別を明瞭にする必要がある。とりわけ、後者の問題こそ、領主と国王、領主と国家に連続していく諸問題として分析されなければならないと考える。中世領主の権力は家政権力と国政権力の一部であるという二面性を兼ね備えていたことに留意して分析されなければならないといえよう。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 203 国政と家政の共同執行論の立場から、中世領主層を見直せば「中世国家による地域支配のための家政権力」と規定しなければならない。領主とは、「国政と家政との共同執行」によって地域支配を行う社会権力とうことになる。中世領主層は、党・一揆や氏・一門・親類などのヨコ結合を利用して利害調整をはかりながら、家司・下家司・家人・家侍・被官・郎等・中間・所従・下人・端女など家政職員をタテに権力編成して、家政権力を強化して、郷・村の徴税機能を請け負って地域支配を行う国政権力の一部である。そのため領主層は、権力の場として居館・城郭・砦・山小屋・宿所・町家・在家・関所・湊・津・渡・河口・警固所など流通・交易のネットワークを多様に張り巡らせていた。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 204 国政家政共同執行論では、中世領主権力は、名字の地である本貫地のみならず全国的な所領群をもち、京都と鎌倉に家地や墓所・宿所などを配置した複合分散的な居館・家地群を編成し、全国的な交通・流通網を家政的に編成・組織していたことを重視する。全国的規模に散在した所領群の経営管理者が中世領主であった。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 205 鎌倉期の武家は、全国的に散在した所領群をもっているのが一般的であり、地頭納や地頭請所として開発所当・本所年貢・国衙年貢などの代納義務を負っていた。とりわけ基金や不作などの際に名主・百姓の未納分を代納する義務をもっていたから、全国的所領に配置した居館や蔵には「数多の公物私物」(『今昔物語』巻24・第14)、「公私之課役」(「専称寺文書 鎌倉遺文24404)、「公私納物」(大乗院文書 鎌倉遺文27355)、「公私の負物」(円覚寺文書『鎌倉遺文』14824)などの収納機能をもっていなければならなかった。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 207 御家人クラスの領主とって、京都・鎌倉における浜倉・土倉・宿所は女房や白拍子らを配置して公私の倉納物を活用して貸借活動によて利殖をはかる財政運営を行う拠点でもあった。
京都・鎌倉の家地・宿所・土倉群は、領主の家産財政運営機関の拠点であったといわなければならない。
 
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 209 このように12〜14世紀の武士は、田舎に屋敷・館を構え在地性を強固に残した農村領主とする旧領主制論によって説明できない。中世前期の領主は、田舎の所領群と都市の財政運営機関と全国各地の交通流通機構の一部を全国的規模で家政機関の中に取り込み、農村領主・都市領主・流通領主でもあるという未分化な家政権力であった。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 212 こうして13世紀末〜14世紀には、在地の紛争を、京都や鎌倉での裁判(「上訴」「上裁」/上部権力の裁判)によるんではなく、地下での「衆中評定」「衆中一同の儀」によって解決をはかろうとする自治的な社会思潮が一般化してきた。これこそ、紛争処理方法として権力による裁判を受ける権利とともに、自治に夜紛争解決をはかろうとする自力救済原理の深化がみられるようになったといえよう。
14世紀に「衆中一同の儀」による紛争処理が増加する時期は、一揆契状の増加する時代でもあり、南北朝内乱とともに国人領主と被官人との「私弓矢」「私戦」「私所務相論」が激化する時代でもあった。
 
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 214 将軍家に反抗していた高梨朝秀や村上頼清ら国人領主は、私戦を差し置き公戦を優先せよという社会正義の原理を前に禁裏・将軍家に服属していった。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 217 六条河原・四条河原はもとより都大路・獄舎などは検非違使庁と侍所の共同管轄下にあったといわなければならない。(赤松満祐は)治罰の綸旨で追討された国家の犯罪人であったが故に、謀反人の公開処刑は禁裏と室町殿の統合システムによる国家行事として検非違使庁・侍所・河原者によって共同執行されていたとみるべきであろう。こうしてみれば、六条河原・四条河原・近衛西洞院の獄舎・都大路検非違使・侍所は、公武一体による中世国家の裁判・警察機構であったといわなくてはならない。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 219 禁裏が幕府との共倒れ構造から離脱し、公家御料所を基盤にしてここの大名との個別交渉によって禁裏用途の惣用方財政確保に動き出すようになるのは、16世紀後柏原・後奈良天皇以降であると考える。15世紀・室町期の守護と守護代は、禁裏と室町殿の統合システムの中では、国司にかわって諸国所課を担当する行政担当者として位置づけられており、その機能する範囲内で国家の支払システムが機能していたといえる。  
2010.3 井原今朝男 日本中世における城と領主権力の二面性 武士と騎士 思文閣出版 著書 221 室町期禁裏は、蹴鞠会などに参加する武家輩のメンバーとして守護代を組織していた。その上禁裏御料所の代官職に彼らを任じ、御料所からの運上物の確保のために違乱停止などを守護代に命じていたことがわかる。 幕府を通してではなく、直接命令しているところが、これまでの理論とは違う。
2010.3 小島道裕 洛中洛外図屏風と描かれた公武関係 武士と騎士 思文閣出版 著書 287 以後、彼女は「一対(いちのたい)(一台)の局」と呼ばれていたが、「対(台)とは、寝殿造の「対屋」すなわち正殿とは別に建てられた「はなれ」のことで、そこに住む人物をも指す。  
2010.10 浦西勉 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代 龍谷大学論集 480   雑誌 98   普及と定着を分けて考える。受け入れる側の人間の分析視角を落とさないこと。
2010.10 浦西勉 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代 龍谷大学論集 480   雑誌 102   水利開発と牛頭。新たな地域紐帯として勧請。水利慣行の相論が原因か。
2010.10 浦西勉 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代 龍谷大学論集 480   雑誌 105 祇園御師の活動。それと民衆を媒介する在地僧の存在が重要。商人・職人などの活動が活発化している。 全国に教線を拡大していくのかもしれないが、それがなぜその地域に定着するのかは、考えておく必要がある。
2010.10 伊藤俊一 省陌法をめぐって 室町期荘園制の研究 塙書房 著作 463 すでに石井進は「五十文 此内 卅四文精銭・十五文地悪銭」と記された相州文書の事例を挙げて、銭四十九文を五十文とみなす観光があったことを指摘しており、渡政和は五十文が「半連」と呼ばれていたことを指摘している。以下では、銭四十九枚をつないで五十文とみなした緡を「五十文緡」、九十七枚をつないで百文として使われた緡を「百文緡」と呼ぶことにする。  
2010.10 伊藤俊一 省陌法をめぐって 室町期荘園制の研究 塙書房 著作 464 五十文緡は百文緡を作るまでの一時的な形態にすぎず、加算する場合は崩されてのである。  
2010.10 伊藤俊一 省陌法をめぐって 室町期荘園制の研究 塙書房 著作 469 ここから、「目」と注記されない五十文は四十九文の五十文緡で、注記されたものはバラ銭五十枚と推測できる。  
2010.10 伊藤俊一 省陌法をめぐって 室町期荘園制の研究 塙書房 著作 471 一、下二桁が五十文の金額を支払う場合、銭四十九枚を緡にして五十文として通用する慣行があった。
二、五十文緡は、他と合算して百文緡を作る際は四十九枚に崩した。
三、緡にされていないバラ銭五十文を表記する際に、「目」と注記することがあった。
百文緡とは異なり、五十文緡は合算の際に崩されるから、緡のままで残ることは稀であるが、存在したことは確かであり、出土事例の精査が待たれる。また省陌法や五十文緡を考慮せず、調陌法で計算が行なわれている帳簿類もあり、その使い分けや時期による違いの検討は今後の課題である。百文緡と五十文緡を考慮した計算をしても史料の記載と合わない場合もあり、さらに未知の慣行が働いている可能性もある。
 
2010.10 伊藤俊一 省陌法をめぐって 室町期荘園制の研究 塙書房 著作 471 日本中世お省陌法において、百文緡の実枚数九十七枚と百文の名目との差にはどのような意味があるのだろうか。素朴に考えると、この差額には銭を数え、縄でつないで扱いやすくする手間と縄代が含まれているのではないかと推測される。  
2010.10 伊藤俊一 省陌法をめぐって 室町期荘園制の研究 塙書房 著作 474 このように、調陌法で勘定される段銭を緡につないで納入するために、一緡あたり縄代二文と、銭を数える手間賃一文が計上されており、百文緡の実枚数九十七文と名目百文の差の三文がこれらに由来すると考えられる。省陌法で勘定すれば、縄代と数え賃を納入者側が負担しても、緡にすることで価値が高まるので相殺される。しかし段銭の納入では調陌法で勘定される決まりになっていたため、普段は隠されている負担が表面に現れたのである。  
2010.10 伊藤俊一 省陌法をめぐって 室町期荘園制の研究 塙書房 著作 476 以上のとおり、銭を数え、縄をつないで緡を作る作業が無償の労働ではなかったこと、百文緡の実妹数九十七枚と名目百文との差の目銭には、この作業と緡縄の代価が含まれていることが明らかにできた。  
2011.5 渡邉俊 『春日清祓記』の基礎的考察 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 184 勝俣説をめぐる研究史の祓に対する理解と、従来の法制史(三浦周行・中田薫)が示してきた祓に対する理解との間に、やや齟齬が生じていることがわかると思う。祓を穢の除去と捉えて議論を展開する前者に対し、後者は、神への祈謝を祓の機能と捉えている。それとともに後者は、祓に付随する財産刑的性格を指摘するのである。  
2011.5 渡邉俊 『春日清祓記』の基礎的考察 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 195 したがって厳密に言えば清祓とは、穢物を除去ないし汚染場所を洗浄(=「清」)し、祭物を用いた祭祀(=祓)をとり行うことを意味する。 「清」と「祓」は違う。両方するのが「清祓」。ちなみに、汚物は酒で清める。
2011.5 渡邉俊 『春日清祓記』の基礎的考察 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 196 (従来の法制史研究では)すなわち祓とは、当事者に祓具(祭物)を負担させて行われる神への祈謝・贖罪行為なのであり、記紀神話の段階からすでに財産刑の性格をもつものと指摘されていた。  
2011.5 渡邉俊 『春日清祓記』の基礎的考察 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 197 人為的に穢を除去することはできない。 だから、穢が明けるのを待つ。
2011.5 渡邉俊 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 209 (明治43年に経済学者の福田徳三氏が)祓は神に対して背負ってしまった債務を犯人が自身の財産をもって決済するのものと捉えられている。すなわち、祓えと支払い、贖うことと購うこととの間に関係性を見出したうえで、神への一方的な債務決済=祓が、交換売買や貨幣の起源・発達とも密接に関係する点を鋭く指摘していたのである。  
2011.5 渡邉俊 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 210 むしろ論点は、祓のなかに追放の意が含まれているか否かという問題などのにあった。1980年代以降、祓を、罪=穢をおびた犯人およびその財産を消滅させる行為(解体・焼却・追放)として捉える見方が広がっていったのである。
ここに、祓における犯人の財産は、神に捧げられるべきものから、神から遠ざけられるべきもの、消滅させれられるべきものへとその性格を反転させたのであった。
 
2011.5 渡邉俊 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 211 人為的に穢を除去することはできず、穢が消滅する日数の経過を待つほかなった。加えて死穢・産穢が持続する期間は、祓自体を行うことができなかった。祓自体が穢を忌避するのである。  
2011.5 渡邉俊 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 212 要するに、『春日社清祓記』に基づいて清祓を厳密に定義するとすれば、清祓の「清」とは穢物ないし穢が付着した場所の洗浄・撤去を意味し、清祓の「祓」とは神への謝罪・贖罪を意味する。つまり清祓の「清」は、言うなれば原状回復のための損害賠償としての性格をもつ。したがってその費用は、穢した者本人または縁者が負担するのが鎌倉期春日社の基本的なあり方であった。そして当事者は、神への冒涜行為を謝罪・贖罪する儀式であった祓を執り行うために祭物を提出しなければならないのである。
また、当事者から提出された祭物は清祓を終えた後、社家内部の担当者へ配分される。つまり祭物は、社司らにとってみれば得分としての性格をもっていた。だからこそ、清祓を担当する組織をめぐって、しばしば社家内部に混乱が見られたのである。問題は、その祭物がどのように処理されていたかという点にある。
 
2011.5 渡邉俊 鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 216 興味深いのは、撤去された穢れた畳が若宮神主祐春の得分となっていることである。従来の研究では、穢物は忌避されるべきものであると捉えられてきた傾向がある。そのような理解に基づいて、種々の論を形作ってきたように思う。しかし『春日社清祓記』には、畳に限らず、穢が付着したことによって撤去された「打板」「沓抜」「敷居」「板并ツカ柱」などの資材が若宮神主の得分となる例をいくつも見出すことができる。神域が穢れた場合、当事者に損害賠償させるなどして原状を回復しなければならないが、撤去された穢物は社司の得分とみなされているのである。彼ら社司が問題視するのは、神域が排泄物や血液などによって穢されること、すなわち穢と神と接触させることなのであって、自身が穢物を取得することについては何の躊躇もないのである。資材などの穢物が得分となっているのである。  
2011.5 渡邉俊 「罪科」と清祓 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 246 ここで確認しておきたいのは、「但被行清祓之後、可被行罪科候」と記されているように、衆徒の科す「罪科」と社家の行う清祓とは、やはり区別されるべきものであるということである。衆徒のかす「罪科」に祓の意味を読み取ることは、やはり困難だと思う。清祓が行われた後に「殺害罪科」=「焼失屋」が執行されるのであるから、両者は別個のものであると考えるのが自然である。  
2011.5 渡邉俊 「罪科」と清祓 中世社会の刑罰と法観念 吉川弘文館 著作 247 結論は、「罪科」と清祓とは、やはり別個のものであるということである。検断の対象行為が、清祓の対象行為と重なった場合、犯人は興福寺からの「罪科」と清祓の両方を科される。当然のことながら、犯行が清祓を科される条件を満たしていないのであれば、「罪科」のみが単独で科される。興福寺による「罪科」が清祓の役割をも兼ねるというわけではないのである。
それでは、どのような意図をもって荘園領主は、住宅検断のなかでも特に住宅焼却といった財を無に帰してしまうような処分を行っていたのか。(中略)現段階においては追放や住宅検断について、犯人の還住防止・原状回復阻止のための方策であったと評価する以上のことはできない。
 
2012 林晃平 中世の「湯屋」と「風呂」に対する一考察─「湯屋」と「風呂」は違うのか─ 和歌山大学 学芸』58 和歌山大学学芸学会 雑誌 51 本章をまとめると次のとおりである。
①中世前・中期以前においては、「風呂」という用語はほとんど使われておらず、施浴施設としては「湯屋」という用語が一般的であった。
②①のことを踏まえれば、「湯屋」「風呂」に対する従来の研究での定義では、中世前・中期には温湯浴が主流で、次第に蒸気浴が一般化してくるということなり、通説と矛盾する。
③史料1では「湯屋」内に「内ふろ」があることが明記されており、「風呂」が「湯屋」に包摂されていることを示している。
④14世紀前半から温湯浴の様子を描いた絵巻物が作成されること、「風呂」という用語が史料上に登場することから、このころから「湯屋」から「風呂」が独立していったと考えられる。
 
2013.3 大塚紀弘 中背仏教における融和と排除の論理 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29   雑誌 31 ここで注意したいのは、中世の「宗」が現在の教団とは異なることである。当時、現在の宗派、教団のよう な強固な組織は存在しておらず、いくつかの僧侶集団が寺院ごとに存在し、本末関係や法流関係によって、ゆるやかに結びついていた。そして、仏教の教学・教義に相当する「宗」は、各寺院、各僧侶集団で兼学されていた。そこには、各自が依拠する単一もしくは複数の「宗」を持ちつつも、互いの「宗」の価値を認め合う 〈融和の論理〉が存在した。それゆえ、一定の「宗」の間では、表立って論争が交わされることはなかったのである。  
2013.3 大塚紀弘 中背仏教における融和と排除の論理 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29   雑誌 32 平安時代までに成立した「宗」は、華厳宗三論宗法相宗律宗成実宗倶舎宗南都六宗真言宗天台宗を加えた八宗で、中世寺院 では複数の「宗」が修学されていた。例えば、『簾中抄』では、東大寺は八宗(特に三論・華厳・律)、興福寺 は法相、延暦寺は天台・律・真言園城寺は天台・真言仁和寺醍醐寺真言を旨とするとされている。そして、どの寺院でも最初に習うものとして、倶舎が挙げられている。また、永仁四年(一二九六)の『天狗草 紙』によると、園城寺では、真言、天台、法相、倶舎といった顕密教学の修学のみならず、修験道を兼ね備え ているという。  
2013.3 大塚紀弘 中背仏教における融和と排除の論理 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29   雑誌 34 中世寺院では、八宗を始めとして、様々な「宗」が修学されており、同じ寺院に所属する僧侶でも単一の 「宗」を専門にしていた訳ではなかった。
世の「宗」を包括する枠組みとして、第一に挙げられるのが、顕教密教である。八宗のうち、真言宗密教で、それ以外の七宗が顕教ということになる。朝廷(公家)は平安後期以降、それぞれ顕教密教を修学 する有力寺院として、東大寺興福寺延暦寺園城寺の「四箇大寺(本寺)」、東寺・延暦寺園城寺の「三門真言」との結びつきを深めた。例えば、朝廷が主催する御斎会などの顕教法会には「四箇大寺」から、後七日御修法や五壇法などの密教修法には「三門真言」から僧侶が招請された。「三門真言」の東寺とは、東寺という寺院自体ではなく、空海に連なる密教の法流を相承する小野流の醍醐寺、広沢流の仁和寺などを合わせた呼称で、その名目的な頂点に東寺長者が位置づけられた。
以上をふまえると、黒田俊雄氏が「顕密仏教と国家権力の癒着の独特の体制」と曖昧に定義した顕密体制 は、顕教の「四箇大寺」および密教の「三門真言」と国家の関係を示す概念として明確に再定義することができる。そして、これらの有力寺院を基盤に形成された僧侶集団の総称が顕密仏教ということになる。
 
2013.3 大塚紀弘 中背仏教における融和と排除の論理 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29   雑誌 35 「聖道」は元来、浄土門に対して、自力で悟りを得ようとする教えである聖道門を意味したが、そこから派生して顕密八宗、すなわち顕密仏教を指す呼称としても用いられた。そして、この「禅律」は、禅僧、律僧によって形成された、禅家・律家という僧侶集団を念頭においた呼称と考えられる。  
2013.3 大塚紀弘 中背仏教における融和と排除の論理 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29   雑誌 36 「四箇大寺」のうち、主に延暦寺園城寺興福寺の僧侶が、朝廷などの主催する顕教法会に招かれたことが示すように、顕教七宗では天台宗法相宗が重んじられたが、それ以外の五宗もいったん公認された「宗」 としての意義を否定されることはなく、真言宗も含めた八宗の共存が秩序づけられた。つまり、顕教密教の 二分法の下、八宗は個別の「宗」として横並びの位置を占めたのである。こうした「顕密」八宗観と呼ぶべき 仏教観は、王法仏法相依論によって結合した朝廷と顕密仏教で共有されていく。
「顕密」八宗観に基づいて、仏教の「宗」を顕密八宗に限定する秩序は強固で、新たな宗派を立てる試みに対して強硬に反発する際の根拠となった。つまり「顕密」八宗観は、一方で〈排除の論理〉としても機能したのである。
 
2013.3 大塚紀弘 中背仏教における融和と排除の論理 武蔵野大学仏教文化研究所紀要29   雑誌 46 このように法然日蓮は、末法の世には三学(戒律・禅定・智恵)の修得が困難だという立場から、信心を拠り所にした救済の体系を提示した。類似する見解は杲宝の『開心抄』にも見出せるが、こちらでは三学の意義自体が否定されている訳ではない。また延暦寺では、智恵に偏重しつつも、修行の根本には三学の体系が存在したようである。 徳治二年(一三〇七)の後宇多上皇院宣では、「破戒之僧」「邪法之族」として、称名念仏の「異類異形之 党」(念仏者)と諸教を誹謗する「法華法門之宗」(法華衆)は、まとめて処罰の対象とされている。法然日蓮の門流が形成した信心を紐帯とする集団の主体は、顕密仏教や禅律仏教とは異なり、在家衆にあり、僧俗合わせて念仏者、法華衆などと呼ばれた。以上もふまえ、私見では、中世の僧侶集団は、その特質によって次のように分類できると考える。  
2015.3 平雅行 日本中世における在俗出家について 大阪大学大学院文学研究科紀要55   雑誌 3 本稿では、在俗出家のうち、出家した後も家長・家妻として家督・家政権を維持して世俗活動を継続するものを「出家入道」と規定し、家督・家政権を放棄してこれまでの世俗活動を停止するものを「遁世」と呼ぶことにした。つまり、中世の在俗出家には「出家入道」と「遁世」の2タイプがあることになる。  
2015.3 平雅行 日本中世における在俗出家について 大阪大学大学院文学研究科紀要55   雑誌 5 出家による治病効果が強調されるようになった背景には、浄土願生を死を祈ることと考え、それを不吉とみなす思潮があった。(中略)高取正男氏が指摘したように、平安前中期においては、このように念仏や浄土願生を忌む風習が存した。それだけに、出家の功徳として病悩平癒の機能を強調する言説は、この意味の習俗を乗り越えて浄土信仰を定着させてゆくには必要なものであった。 浄土願生を不吉とする感覚はあった。
2015.3 平雅行 日本中世における在俗出家について 大阪大学大学院文学研究科紀要55   雑誌 21 近衛少将藤原教信は舅である大納言源雅親の推挙で昇進し、寛喜三年(1231)賀茂祭近衛使に指名された。しかし、近衛使を務めるには相当な費用負担が必要であるため、その経費を捻出できないということで辞退した。ところが後堀河天皇は辞退を認めず、再三譴責して教信の勤仕を求めた。一方、教信の方もあくまでそれを拒絶し「対捍之様、非普通之儀」と評されている。近衛使の辞任が予想を超えた大問題に発展したのである。結局、教信はこの後、「渡世之計」を失って高野山で出家しているが、これも挫折・失意。諦念による出家と考えてよい。 困窮が自死に繋がるとは限らない。出家という手段をとる場合もある。
2015.3 平雅行 日本中世における在俗出家について 大阪大学大学院文学研究科紀要55   雑誌 23 恥辱および不満・抗議の出家。弓の名手下河辺行秀が大鹿を仕留め損ね、面目を失った行秀はその場で出家・逐電した。検非違使源為義の郎党が前紀伊守藤原季輔に乱暴を加えた。被害者の季輔は、恥をかいたとして出家した。『古今著聞集』。徳大寺中将公衡は会の人物に超越された。超越されたら出家をするものではないかと西行に尋ねられたが、公衡は言い訳をして出家しなかった。西行は「無下の人」と失望し、絶交した。 超越は恥だから、出家すべきという観念があり、出家しないのは恥知らず。恥辱が自死に繋がるとは限らない。
2015.3 平雅行 日本中世における在俗出家について 大阪大学大学院文学研究科紀要55   雑誌 40 名越光時・時幸兄弟が九条頼経と結んで北条時頼を排除しようとする宮騒動が起きたが、光時は髻を切って出家、時幸は病を口実に出家した。その後光時は伊豆流罪、時幸は自害に処された。  
2015.3 平雅行 日本中世における在俗出家について 大阪大学大学院文学研究科紀要55   雑誌 45・46 中世は主従制が展開した時代であるが、その反面、殉死が少ない。(中略)中世では、六道輪廻の世界で再び邂逅することはほぼ不可能だとの観念と、同じ浄土、同じ蓮の台に座をわかるように二人一緒に生まれ変わりたいとの願望が共存・相克していた。考えてみれば、寺檀制によって往生成仏を祈る体制が整備された江戸時代では、人々の往生成仏は普通のこととなり、一蓮托生の観念が広く流布してそれが心中を支える思想的背景となる。ところが、中世では基本的に往生は稀有なことと考えられていた。一蓮托生の願いがあったとしても、浄土往生そのものが稀である以上、半座の願いは実現性不確かな願望でしかなかった。そういう中にあっては、殉死では一蓮托生の思いを叶えることができない。むしろ死者の菩提を弔い、自らの往生を祈る方が、一蓮托生を実現する、より確かな道であった。しかも中世では、夫や主人の死を契機に出家してその菩提を弔うという、より穏やかな殉じ方が流布していた。死者への思慕の念は、出家という穏やかな自己犠牲によって満足させられたのである。日本中世で殉死が少ない理由は、このように考えられる。逆にいえば、16世紀に在俗出家の風習が衰え、主人の死を契機とする出家が減少していったこと、および戦乱が終焉したことが、近世初頭に殉死を成功させる原因となった。 主従制と殉死は必ずしも結びつかない。殉死は主君の供をすることだが、死後同じ世界に生まれ変われないなら、殉死の意味はない。
2015.3 池田浩貴 吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 常民文化38 成城大学 雑誌 3 既に平安時代の朝廷において、前述のような特異な自然現象が観察された場合に、「特異な自然現象の報告→卜占による勘申→対策の検討→祈祷や謹慎などの実施」という政務手続が確立されていた。朝廷における卜占の種類は、神祇官所属の卜部が用いる亀卜と、陰陽寮所属の陰陽師が用いる六壬式占の二種があったが、この政務手続が鎌倉時代前期を通じて段階的に鎌倉幕府に移入される際、安倍氏を中心とした陰陽道のみが吸収され、鎌倉の武家陰陽道が成立していった。すなわち、都市鎌倉の内部で特異な自然現象が発生した際や東国地域から同様の報告があった場合、幕府は在鎌倉の陰陽師六壬式占による占断を命じて現象の意味するところを勘申させ、不吉の場合には鶴岡八幡宮への奉納や各種の陰陽道祭を実施することが幕政の一部となっていた。  
2015.3 池田浩貴 吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 常民文化38 成城大学 雑誌 7 鎌倉に大量の蝶が発生し、飛び回るという現象は『吾妻鏡』中に5件記録されている。これらすべてにおいて、蝶は「黄蝶」と表現されている(表1)。また蝶の行動に対する表現は、「群飛」と「飛行」が各二例、「群衆」が一例である。しかし、後掲する条文の内容を鑑みるに、いずれの事例も一匹の黄蝶が奇怪な行動を示したという怪異ではなく、多くの黄蝶が飛んだということが怪異と判断されたものである。  
2015.3 池田浩貴 吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 常民文化38 成城大学 雑誌 9 ただし、この託宣(史料1)は編纂時に創作され使いされた疑いが強い。託宣の内容がその後の流れを実に都合よく予兆しているからである。(中略)
したがって、偶然鶴岡で黄蝶群飛が発生し奉納が行なわれた直後に源行家が捕縛されたため、群飛が叛逆者を予兆する怪異であったとの評価が事後に定着し、編纂の際に恣意的な内容の託宣が追加されて、八幡神の告を得て叛逆者を討った幕府のストーリー」が形成されたと見るのが自然だろう。ただ、託宣の内容は改竄によるものとしても、この文治2年の事例により鎌倉幕府においては黄蝶郡飛を反乱の予兆とみなす先例が確立されたのは間違いない。
 
2015.3 池田浩貴 吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆 常民文化38 成城大学 雑誌 13 以上、『吾妻鏡』における黄蝶群飛h文治2年例(史料1)を初見とし、同例は鶴岡八幡宮を舞台とし幕府が祭祀を講じた際初期の怪異の例としても注目される。この例が源行家捕縛の直前に偶然発生したことで戦乱予兆の先例とみなされ、和田合戦(史料2)や宝治合戦(史料3・5)の前後にも黄蝶群飛が記録されることとなった。逆に、それ以外の時期には記録がないが、これはk枕で幾度も発生したであろう黄蝶群飛のうち、たまたま戦乱の前後に発生した事例のみが後代に戦乱と結びつけられ、記録に足るものとして『吾妻鏡』に採録されたということであろう。その編纂の際に幕府にとって都合の良い架空の先例が付され、幕府を襲う戦乱を八幡宮が告げ知らせる怪異として意味づけがなされていったものと考えられる。ただし、史料3の宝治元年の事例のように、黄蝶群飛の発生そのものが改竄により生み出されたと疑われる例もその中には混在している。  

人文・社会学系論文一覧 Part1

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出版年月 著者 論題 書名・雑誌名 出版社 媒体 頁数 内容 注目点
1987 佐伯啓思   時間の身振り学 筑摩書房 著作   おそらく、物を書くことの本来の意味は、人々が言葉に出さずに共有し、感じ取っている思考や雰囲気を表現することであろう。書き手は、民衆的な知恵、伝承された神話、社会の潜在意識の運搬者であるはずだ。このような知識こそ、もっとも商品世界のロジックにはまりきらないものなのである。それは、誰のものでもなく、また誰のものでもある。そのような知識に所有権はつかず、市場売買されることはない。それは「匿名」の知識なのである。このような知識の運搬人になろうとする時、人は「匿名」で描く以外になかろう。そしてこの場合には、「匿名」は、民衆的知恵という、〈知〉の起源を再び想起させるための仕掛け=仮面にほかならないのである。 フーコーが匿名で文章を書いたのは、市場社会で固定された「フーコー」という価値から逃れるため。
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 67 「広義の定義」自尊心とは、自己の価値を否定するような事態に遭遇したときに、そ れにもかかわらす、自己への肯定的評価を維持するへ作動する機制(あるいはその作動の覚識)である。自尊心は、否定に対する肯定という形で構成される現象として把握される。つまりそれは否定に対する相関項としてのみ現象するのであり、逆に言えば、否定が生起しないところに自尊心は生起しない。その意味で自尊心は単な る自己評価(self-esteem)とは区別され、その限りで日本語における用語法よりもややせまく 定義されている。  
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 69 「狭義の定義」自尊心は、自己の価値を証明・肯定しようとする試みが、当の価値への懐疑・否定を産出するようなポジティブ・フィードバック・ループを構成する。  
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 72 自己」とはく他者一自己>の関係を<me-I>の関係 へと、いわば、写像したものなのであり、Meadはそれを「役割の取得role-taking」と して概念化した。例えば「私は教師だ」という場合、ここには「私」を「教師」として指示す るという自己言及が成立しているわけだが、それは当該自己を「教師」として指示する他(例えば生徒や父兄)の役割=態度を「私」が 取ることができるときにはじめて可能になる。だから「自己」が成立するというのはそれ自身の内に他者の視点が取られることと相即的な事態なのである。  
1992.7 浅野智彦 自尊心─自己のパラドクス─ ソシオロゴス16   雑誌 74 自己の成立において「二人称」は「一人称」に対して常に先行しているのである。 要約しよう。自己投射は、他者からの指示を自己指示へと 転倒することで、「自己」を関係に先行す るものとして先取的に映現せしめる機制(自己が先行しているように見せているだけ)。このような「転倒」は本源的には身体の持つ基礎的な性能によって可能になっている(大澤真幸[1991](特 にp、104以下)参照)。要約すると、①自己現象とは不断の自己投射による転倒=先取の効果である。したがって、自己は必然的に自己の由来を錯認する。②自己へと投射されるのは他者からの指示 =メッセージである。このメッセージは自己現象の外部に由来する。  
1999 宇野邦一   詩と権力のあいだ 現代思潮社 著書   それゆえに、権力は本質的に、見えない力であり、潜在的にだけ存在して決して行使されることがない力である。抑止するとはこの場合、決して物理的に阻止するのではなく、権力の可能性を知らせることによって、違法な行為をあらかじめ禁止することである。このとき権力は作用しないことによって、作用するのである。権力は、少なくとも法を守る人間を形成するように作用するという点で、直接身体を拘束したり処罰したりするのではなく、まず精神に作用するのである。権力にとって、権力が不在であり、行使されることなく機能することが理想であるということは、権力をめぐるもう一つの〈逆説〉である。 権力は見えなとき、カモフラージュされているときが、最もよく機能しているから怖い。現在の天皇制・国家権力などこそが最も機能している状態かもしれない。
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 6 当時の権力構造は、「オホヤケ」や「ヲヤケ」が重層的に存在し、其主張が人的に結合している国政であったと考えられる。
ここで重要なことは、このヤケの重層構造として存在する国制は、中国的「公私」観念が成立してくる前提となるところの、秦漢帝国期に形成され宋代に完成される。国家(官)と社会(民)とが分離した二元的国制(それは統治身分の世襲を否定する科挙制すなわち統治の仕事をする官僚を民の中から能力試験をもって選抜するシステムに象徴される)とは異質であるということである。中国でも日本でも─そしてヨーロッパにおいても─、ある歴史的時点において、在地の諸権力体の重層構造として存在する一元的国制から、社会(市場社会)と国家(統治機構)とが構造的に分離する二元的国制への以降の歴史を経験することになるであるが、中国では、この以降を春秋戦国の交わりの頃から秦漢帝国の成立までの過程において経験したのに対し、中国文化を大規模に継受する7世紀から8世紀にかけての日本は、いまだヤケの重層構造として存在する一元的国制であった(日本が二元的国制を完成させるのは、はるか後年の明治においてであり、西欧においては、絶対主義以降、本格的には市民革命以降の市民社会と国家の二元的秩序の形成においてであった)。すなわち、社会と国家という二元的なシステムが未成立の国制の段階において、発達した二元的国制の形成を経験した後の中国的「公私」観念が掲示されることになり、ここに、複雑な問題が発生することとなった。
金泰昌「おわりに」
日本の歴史の発展過程において国家と社会との二元分離(私の個人的な見方からすれば国民国家市民社会と市場との三元分離・発展という捉え方がより現実的だと思いますが)が成立しても、「国家的公」とは別途の「社会的公共性」(私の見方では「市場的公共性」も付加するべきだとも思いますが)が確立するところまでは行かず、現在に至るまで「公・私」はもっぱら「国家(オホヤケ)的公」に一元化された認識図式の限界内にとどまっているということです。
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 11 古事記』および律令国家成立期の宣命(8世紀前半期の初期宣命)における「公民」は、一般庶民を指示する「人民」ないし「百姓」との対立において、貴族層を意味する語であった。国家の支配層の側の民というニュアンスであろうと思われる。
「公民」の対は「人民」である。
「私」は、ヒソカニ、というニュアンスであろう。とするならば、『古事記』において「公」と「私」は対概念ではないように思われる。
 
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 13 墾田永年私財法の影響。
このような「公私」構造の特徴の第一は、「公」が国家権力体系としてのみ存在するということである。ここには、非国家的社会的「公共」に連なりうるような契機が認められない。第二に、「公」と「私」が連続し、かつ浸透しあっていることである。ここでは、諸主体は、それぞれの「公」的地位を法形式上の拠点として、「私」領域をその外縁に開拓していった。実質的には「宅」「屋敷」を基地とする開墾と公領の取り込みの運動であるが、法形式的には「公」を拠点とする「私」の拡大にほかならない。したがって、ここでは「私」は「公」を離れては存在せず、「公」的なものから自立した世界としては成立していない。しかしそれは、反面からいえば、「公」の世界にも「私」が不断に侵入していくということでもあった。「私」的な宅ないし館を拠点として「公」的官職と「公」的な田とはそれぞれの家の財産(家産)と化していった。「公」の体系は「私」に簒奪され、「私」が「公」に侵入しているのである。
正村俊之の「代表・代行」論が日本的公私をつなぐ。
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 18 「公=私」権力体として存在する諸中間団体が縦に重層的に連なり、かつ、上位の権力体が強力であるという国制の伝統は、図5に理念的に描き出したような、「私人」が社会的次元で広く連帯的に結合して「公共権」を創出するという近代的国制のあり方とは対蹠的なものだからである。  
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 25 ヤマト言葉の「アメ」には漢字表記にすれば、「天」と「雨」おん意味があり(というよりも「天」と「雨」を区別する意識がなかったと思われる)、「ツチ」には大地の意味の「地」と土塊の意味の「土」が未分化なまま統一されていたのだと思いますが…。  
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 27 「公」と全く切れた純然たる「私」というものはない。「私」的なものがオーソライズ(公認)されるためには、何々職という「公」に連なる権威が要る。その意味ではまさに「私」の「公」化ということを常に孕みつつ「公私の二重構造」が続いていくんだと思う。個々の個人や家が常に「公」的な側面と「私」的な側面とを思っているということです。だから、「公」が特別な勢力としてどこかにあるということではなくて、常に公私の二重構造を抱えているものが重層的に連なっている構造システムだと私は理解しています。  
2002.1 小路田泰直 日本的公私観念と近代化 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 53 先程あげられた吉野作造南原繁矢内原忠雄丸山眞男はいずれもキリスト教の洗礼を受けています。「教育基本法」の制定に参加した田中耕太郎も最初は無教会員で、のちにカトリック教徒に転じられました。私たちが戦後の民主主義を主体化するには、日本的な流れのほかに、もう一度西洋の根源にさかのぼってキリスト教精神を受け止め直さなければならないのではないだろうか、そういう思いを私は持ち続けてきました。  
2002.1 林彪 日本的「公私」観念の原型と展開 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 57 今までは、「公」はあらかじめ決まっているものだと思っていた。だから、私利私欲を否定しなければ成り立たない方向で理論構築されてきた。しかしここで発想を180度ひっくり返さなければならない。すなわちお互いがぶつかりあう中で、これだけは譲歩できないと守り続けるところを一応「私」と見て、どんなに小さくてもお互い譲り合って、この点だけは一緒に守っていこうというところを「公」と見るなら、もっと現時的な動きの中で「公」を探っていけるのではないかと思う。
本当の意味での「対話」が出来ていれば、最初は喧嘩をしたり争うことがあっても、結局「私の主張」だけでは通らない。「相手の主張」もある、ということが分かる。「あなたと私がどこで妥協すれば、互いに満足ではないにしてもそれなりに納得できるのか」という、ぎりぎりの部分が出てくるのではないか。私はそのような現実的な観点から見たいと思っている。
 
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 65 西欧知が輸入される際にしばしば捏造される「日本的なるもの」の危うさに無頓着のまま、「翻訳可能」などと言うべきではないと思う。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 67 網野善彦『無縁・公界・楽』ですっかりお馴染みになった「公界」という語は、現代人の感覚で捉えると、さもpublic sphere(公的領域)の直訳のようにも見えるのだが、残念ながらそうではない。くひょう・こうへい・偏頗ならざるもの、すなわちimpartialである。
読者は試みに、これまでpublic/privateと訳してきたものをimpartial/partialに置き換えてみるとよい。日本の歴史的な「公私」概念の対応物としては、はるかに的中率の高いこと、請け合いである。
 
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 69 中世史家の佐藤進一は、この「時宜」が、実質的には「時の為政者の意思」を表す、ということを解明したが、逆に言えば君主の意向がそのまま「時の議論」であり、「時の宜しき」に叶うものであるとして、justifyされる仕組みになっているわけである。つまり権力の正当性は、「公議」や「時議」を装うことによって、ディセプティヴに捏造されてきたのだといえよう。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 討論 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 92 「江湖世界」は、14世紀にルーツをもつ、近代化を導入した後の、「江湖」の新しい表現型なのかどうか、そのことについてどのように考えておられるのでしょうか。
同じ答え方になるのかもしれませんが、これはやはり現実態ではなく可能態の問題であって、そうした観点から14世紀や戦国時代の資料を取り上げているに過ぎません。
「江湖」=「公共」は、現実に存在した実態ではなく、実在する可能性をもった観念にすぎないということか。
2002.1   発展協議 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 133 リチャード・ローティとジュディス・シクラーの二人の「公共性」概念は、「人間」として一番避けられるべき「悪」であるクルエルティ(心身に対する暴力)を蚊に回避するかにポイント置くべきだというもので、共通善の「実現」ではなくて共通悪の「回避」を語る。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 140 ポジティブに何かをしようとすると意見が分かれて、それぞれ「私」の世界に行く。だから親密空間でないとうまくいかないという場合もあるが、「危険」ということになると、それを共に感じた人は国境を越えることが出来る。そういう事例は幾らでもある。
最後に、なぜ国家は「敵」を必要とするのか。なぜ共同体は「敵」を必要とするのか。「権力」を形成し、維持し、保護するためには、上から下に向かう「公」に背反する共通の「敵」を作ることが一番手っ取り早いのです。しかし逆に、下から上に向かって公共性を蓄積していく場合には、敵ではなくて「リスク」が現実的な原動力として働くのです。
例えば私個人が中国人やチベット人を敵にすることによって自分の利己的(セルフィッシュ)なところを超えるということはない。しかし「民族」や「国家」になると、敵を作らないことにはうまくいかないから作るということがる。では一人の人間がセルフィッシュな方向から抜け出して、みんなと一緒にという発想ができるようになるのはどういうことかというと、最初はこのままやり続けていくが、これはうまいくいかないのではないかと危険を感じてやむをえず他者と手を組むことになるのです。
 
2002.1 黒住真 日本における公私問題 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 233 英語に置き換えるなら、述べてきた公共はpublic、私はprivate、共同はcommonにあたる。Publicとは、(ある内容が)開かれ、知らされていること、分配され、それに参加できることを意味する。しかし、その内容がそれぞれにすでに所有されたなら、その内容について自他はcommonすなわち、共通であり共有する関係になる。  
2002.1 東島誠 公はパブリックか? 日本における公と私 公共哲学3 東京大学出版会 論文集 234 朱子学は、「天理の公」と「人欲の私」という対比概念において「道」を前者に求める。人々をして、「私」の情欲を抑制・排除しつつ「公」を探求させ、自らのうちに「公」を確立させた主体を社会改革に従事させようとする。  
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 30 分断できるという発想は、流れが等質的な単位に区分可能であり、なおかつこうした単位を見出すことにより、いっそう正確に記述できることを前提にしている。つまり流れとは、分断された基本単位の側から再構成できると考えられるのである。だが、そこでは流れは、否定的なあり方にさらされてしまう。これでは。流れのなかの流れない単位が存在の原型であり、流れはその劣った姿であるとみなされかねない。
ベルクソンは、単位の集積から流れを再構成するこうした発想とは、時間を単位の連鎖に解消する、量に基づいた思考であると批判する。そこでは時間の予測可能な展開と、それに依拠した決定論的な世界の理解が、幅をきかせることになる。しかしそれでは、新たなものが発生してくる、生成にまつわる事情はとり逃される。つまり流れのリアルさを形成する、その質的な側面が、議論からはこぼれ落ちてしまうことになる。
ある1点の状況を論証するために、それよりも過去の情報を利用しているだけではないか。
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 31 流れとは、それを形成する要素が分解不可能な仕方で溶け合い。連鎖するような連続性のことである。流れとは、分解してしまえば質を変え、別のものになるという意味で、分離不可能なものである。 メロディーと音符の関係。メロディーのリアルさは、それを構成する個々の単位に分割すると消滅してしまう。
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 39 生成や流れとは、見えるものであるこの世界を作り上げる、見えないものである。それは形として感性化されることはない。生成とは、新しいものの出現である以上、それが何であるかを理解すること(悟性によって把握すること)をも超えてしまう。だけれども、流れや生成は、この世界の成立を考えるときには、どうしようもなく考えなければならないものである。 言語で表現できるのか?
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 43 ポストモダンは、人間から根拠を奪った。不安の意識に苛まれ、根拠を求める現象学が目指したことは、世界と自己とが、実質的に触れ合う定点を回復することであった。フッサールはいける現在の探求を中心に据える。ハイデガーは、世界という場所のなかに置かれた現存在というあり方を重視する。メルロ=ポンティ有機的な諸連関としての身体の働きを主題化する。  
2002.10 檜垣立哉 解けない問いを生きる ドゥルーズ NHK出版 著書 50 デリダは、フッサールが追究する現在を不在とし、不在であるからこそ語られうる他であることの力を探る。生成の流れを追究するベルクソンドゥルーズとは逆のネガティヴィズム  
2002 坂田登 セクシュアリティのエチカ(1) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅰ(哲学編)46 福井大学 雑誌 5 ゲープザッテルのフェティシズム論。(サディストなど)ほとんどすべての倒錯的快楽の根底には、「許されざるもの」に対する歓びが、それに対する恐怖とともに潜んでいるのであるという。歓びと恐怖が一つになることによって、倒錯的快楽が成立するというのである。これは人間を純潔から背徳に、エロスから単なるリビドの世界に、さらには、自己の「自然」の限界を超えて脱線させるところの不自然、嗜癖、頽廃への傾向である。 なぜ許されざるものに対する歓びが生じるのか?
2003.9 金森修 純粋持続を探せ ベルクソン NHK出版 著書 25 問題は、僕たちの生きた体を、定量的アプローチや機械論的な理解の仕方で把握できるか、できないか、というところにあるのではないということだ。ベルクソンの議論の要点は、定量分析では逃れてしまうものへの注目と、逃れてしまうはずのものが、定量分析で説明されたようになってしまうことにあった。  
2003.9 金森修 純粋持続を探せ ベルクソン NHK出版 著書 36 要するに、純粋持続は、質的変化が次々に起こること以外のものではないはずであり、その変化は互いに溶け合い、浸透し合い、正確な輪郭を持たず、互いに対して外在化するといういかなる傾向もなく、一人のいかなる近親性もない。それは純粋な異質性だ。 現在までにできあがった自己のうえに、新たな異質な瞬間が次々と自己に付着し、自己化していく。できあがった現在の自己は、過去の自己とは異質なものになる。その変化の可能性は予測できない。
2003.9 金森修 『創造的進化』にまつわる間奏曲 ベルクソン NHK出版 著書 56 榴散弾のようなエネルギーに溢れた生命が、無機物に侵入し、そのエネルギーの働きに応じて物質を多様に有機化していく。この場合の有機化とは、単なる死んだ並列的な物質組成ではなく、生き物の体をつくる組織に変わるという意味だ。だが、生命の力は無限ではなく有限である。そのため物質の抵抗を受けて、三つの方法に分岐し、そこで定常化する。定住とまどろみの中に沈む植物と、極めて発達した、しかし特定の道具的機能しか発揮できない本能と、不完全な、しかし、その分、融通無碍な製作能力かかえた知性の三つ。
本能を最大に体現するのはアリやハチなどの膜翅目であり、知性を最大に体現するのは人間である。生命は弾みであり、榴散弾のような弾け方をするので、物質世界の決定論からは逃れた予見不可能性や偶然性を抱え込む。絶えず動き回る活発な動物の行動を制御する神経系は、決定論的な物理世界に挿入された不確定性の貯蔵庫である。その場合、神経系が複雑化して意識を生み出したというよりも、意識という生命エネルギーが物質と格闘しながらそれぞれの段階の生物を生み出し、ついに人間に至って意識は本来の自分を取り戻したというべきだ。意識は進化の運動原理なのである。
生命力は、植物、本能、知性の三つ。本能はアリやハチ、知性は人間。生命は弾み。
2003.9 金森修 『創造的進化』にまつわる間奏曲 ベルクソン NHK出版 著書 59 ベルクソンは、確かに科学とは離れる地点を目指しながらではあるが、科学に密着しながら仕事をした。そして、その過程で科学に寄り添うし姿勢を見せては、そこから少しずつ離れていった。実証主義を無視するのでも、敵視するのでもない、にもかかわらずそれに雷同しないこと。 人文科学者の最高のスタイル。
2003.9 金森修 押し寄せる過去と、自由の行方 ベルクソン NHK出版 著書 65 たとえば僕が部屋、飾り物、コンピュータ、門扉、道や自動車などを知覚するとき、僕は部屋と廊下の境目を見極めて敷居に足がつまずかないように注意するということを同時にしているし、道で自動車に配慮を払う時には、道幅と自動車のだいたいの速さ、車体のおおよその幅などを瞬時に知覚して、自動車にぶつからないように行動する。もしこれらの知覚が、僕が普段しているようには行われないとしたら、どうだろうか。僕はいたるところでつまずき、ぶつかり、ころび、怪我をするだろう。自動車の場合なら、命さえ危うくなるかもしれない。だが、僕らの周りのすべてのものが、微妙な違いやぶれを抱えて存在している。ちょうど僕らの純粋持続がたえず膨らみ、変転しながら続いていくように、僕らの周りの世界の物事も、微妙な違いを生み出しながら存在している。
だが、もし、それらすべてをその動きやぶれを全部すくい上げるような具合に知覚するとすれば、どうだろうか。まるでメリーゴーランドから眺める風景のように、微妙な変遷を繰り返す周りの世界。それは、もしそのぶれや揺らめき、動きや変化をすべて捉えるような超人的言語と、神のような知能を持つ特殊な存在者が記述しようとすれば記述できるものなのかもしれない。だが、それは、僕ら普通の人間には到底手のでない複雑怪奇なものになるはずだ。
だからこそ、僕らの知覚は、それらの微細な運動や変化を無視すること、微妙な違いを平準化し、平均化することを選んだのだ。知覚とは、何よりも対象の固定であり、対象の省略的で概略的な把握、対象の形骸化を意味している。知覚とは、本来そうであるはずの対象の豊かさを削減する行為だ。
知覚の定義と意義。ぼんやりとした輪郭で、たえず変化している輪郭、表現しきれないその豊かな姿を、だいたいこんな感じと輪郭づけするのが、知覚の本来の機能であり、それを概念化するのが言語ということか。
2003.9 金森修 押し寄せる過去と、自由の行方 ベルクソン NHK出版 著書 94 習慣を身につけれられるのは、ただ生物だけだが、習慣は、その生物のなかにある種の機械性を増幅させるように働きかけ、生物の中に自然を蔓延らせる。生物は、「いつも同じようなこと」を機械のように処理することによって、その生物にとって真新しく、的確な反応を瞬時に判断しなければならない状況のための余力をとっておく。生物が、習慣という機械性を内部で膨らませていくのは、機械的には処理できない事件や偶然に適切な対処をするためなのだ。習慣を持つということは、逆に、自分の習慣を離れて、習慣的とは言えない予想不可能な行為を行うことができるという自由を持つことが前提とされている。 対象を平均化する知覚を補強するのが習慣ということになるか。ただし、それは偶発性に対処するために仕方ない。でも、知覚と習慣を自然と思いすぎる、その擬似自然のようなものが増えすぎると、本当の自然(偶発性)に対応できなくなってしまう。人の作り出す制度はまさにその習慣であるが、作り出した人自身が変化するものであるから、制度が変化するのも当然。人が変化するのは人との関係性による。人がどう変化したのか、我がどう変化したのかを考えなければ、制度の変化だけを追究しても意味がない。
2003.9 金森修 押し寄せる過去と、自由の行方 ベルクソン NHK出版 著書 96 確かに、僕らの近くはその背後からどんどん湧き出してくる記憶の圧力に押され続けている。僕らは、いまこの瞬間を見ているようで、実は今までなんども見てきたもののようにそれを見、いままでなんども聴いてきたもののように、それを聴いている。その意味で、僕らは事実上、自分の過去の奴隷のようなものだ。しかし、それは絶対にそうでなければならない、というわけではない。なぜなら、空間された時間ではなく、本当の時間とは瞬間瞬間に産出能力を備えたものだからだ。
何か本当に新しいものが生まれるとい可能性が、全く排除されているような時間の流れはない。ちょうど、生物進化を引っ張っていく生命の力が、生命の弾みであったように。弾みは、榴散弾のように、ほぼ計算不可能な弾道を描く。予想できないということ、どうなるかわからないということ、それは生命の成り行きであり、同時に自由の発言そのものでもある。僕らは、めったに自由な状態にいることはない。にもかかわらず、僕らは本当は、存在の奥底から完全に自由なのだ。僕らは自分の過去の奴隷などではない。
何かものを見るとき、過去の経験を土台に見ていないか?初めて海を見るときには、近くで見た池や水たまりよりも大きな水たまりだ、などのように。
習慣や知覚によって、過去に束縛されてしまっている。
今の人間は自由を履き違えている。自由は義務を伴うなどというのは、ただの誤認で、人間の作り出した制度のなかで、自由という言葉を表現しているにすぎない。
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 11 攻撃を受けること(被害)は、必ずしも反撃としての怒りを導くとは限らない。怒り以外の、恐怖や驚きになる場合もある。恐怖に変わって怒りが励起される条件は、自分の存在の危機に対しては余裕がある場合と言える。怒りの感情を言葉で端的に表現すれば、「許せない」ということになる。「許せない」とは、「私は正しく、相手が悪い」という明確な倫理的状態であることを示している。すなわち、怒りには、聖者の所在と「許すことの可否」が前提になっており、その可否の基準で許せないのである。怒りとはいつでも「正義の怒り」なのである。  
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 12 最初の怒りは、「(今私は)不快である」ということから、「(私が)不快であることをは許せない」という規範化の発生の瞬間であり、欲求が規範化された原規範の成立(と同時に感情能力の構造化)を意味している。怒りの表出は攻撃ではなく、相手の「悪い」行動を阻止する反応であり、相手に自己の規範に従わせようとする反応である。怒りの表出は、おのれの原規範の表出・実現化への意思である。このような原規範は、社会化によって、欲求優位の原規範から、社会規範優位の原規範へ、さらには宗教的な超越的(超法規的)規範へと変化しうる。怒りは幼児の怒りも聖職者の怒りも等しく原規範の違反という現象であり、ただその原規範の構造が異なるのである。原規範の構造かというモデル的仮説は、怒りやすさ(易怒性)を個人のパーソナリティーではなく、準拠している原規範の構造の硬さで説明しようとする点で社会心理的である。 原規範の構造は、なぜ硬くなるのか?
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 13 怒りの感情の発生に前提されている要件には、基準となる原規範、違反の故意・過失性、存在の危機の程度、被害の回復可能性などが考えられた。  
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 14 感情には「蓄積性」という性質を仮定できる。蓄積性とは、時間を経過して存在し、時を異にする同じ感情が結合する性質を指す。すなわち、行為が終わっても感情が持続し、潜在化された強度(表出されていないが表出された時の強度)が強まる、という性質である。これは情感性の常在性に由来する。感情は蓄積によって深層化もされる。深層化とは、現在的・自覚的に体験していない状態になることで、感情は持続しているが表出も表象もされていない状態になる。それゆえに、爆発する怒りは、その場での怒りではなく、過去から溜め込んだ怒りを伴っている場合がある。その場合、その場においては不自然に強すぎる怒りとなる。  
2005 山根一郎 怒りの現象学的心理学 椙山女学園大学文化情報学部紀要5   雑誌 19 怒りを正当化している原規範の抽出法。
①怒りの状況を語っている規範素を抽出する。すなわち「〜のとき・場合、〜することは、〜なので、許せない」という形式にあてはめる。
②条件素・行為素の連合と機能素(違反の根拠)との対応関係が正しいか吟味する。機能素には、感情的不快(嫌悪、屈辱、悲しみ)も含まれる。
③機能素と評価素の対応関係が正しいか吟味する。評価素は二価ではなく多価の程度表現にする。
④この規範素の構造的把握のために、条件素や行為素を変換した場合、機能素・評価素の値が変わるかを試してみる。たとえば同じ条件素で、どのような別の行為素であったならば、「許せる」という評価になるかを試行錯誤してみる。この代替行為が見つかれば、それは人を怒らせない行為素として一般的に採用する価値をもつ。
⑤どうすれば怒りがおさまり、感情の快適さが回復するか。怒りの規範素を無化するような別の規範素を考える。たとえば、「〜したとき、[行為を停止/謝罪/損害賠償]することで、〜なので、許すことができる。
 
2006.11 永井均 場所 西田幾多郎 NHK出版 著書 58 「SはPである」という判断において、主語はより特殊的なもの、述語はより一般的なものを指しており、主語のより特殊的なものが、述語のより一般的なものに包摂されるということによって判断が成立する、と西田は判断している。「日本人は人間である。」  
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 2 フェティシズムとは、単なるものが記号化、シンボル化されることによって初めて特別の価値あるいは意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。
性的対象のみならず、性的目標としての性行為もまたすべて、記号化されることによって初めて価値あるいは意味を持つようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては「フェティッシュ」としてのみ存在しうるのである。すなわち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、あらゆる行為が性行為となりうるのである。
「死」もまた欲望の対象となることが可能なのであり、人間のみが「死」を希求し、賛美し、また本当に自殺することもできるのである。ボードレールの詩を引き合いに出すまでもなく、人間は死をよろこぶことができるのである。人間のみが自らの死に方を選択したり、死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗していくのみである。
「死」も記号化、象徴化される、つまり、特別な意味を持つことによって、欲望の対象となる。「死」をどう定義づけるかは置いておいて、そこに逃避や復讐といった意味づけをするから、自殺が可能になる。
動かなくなり、冷たくなり、腐敗していくことを「死ぬ」と記号化した時点で、フェティッシュ化され、何らかの意味を持たされている。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 2〜3 私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、「理性」によって記号に置き換え、フェティッシュとして意味づけを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の対象にしたりする。一つの社会の中でほぼ同じようなものが崇拝されたり、欲望の対象とされたりするのは、そもそもフェティッシュなるものは言語的記号との分離不可能性において成立しているからであり、同じ言語体系を共有している一つの社会、共同体の中では、その成員のほとんどは同じようなものを崇拝し、同じようなものを欲望の対象としている。そして、このことによって、その社会における共通の価値観、常識、モラルといったものが成立するのである。それらにおいて、禁忌の対象とされるものが、いわゆる社会的タブーと言われるものである。また、社会的タブーのほとんどは「性(エロス)」と「死(タナトス)」に関連するもの、例えば、死者の扱い方、弔い方に対するタブー、近親姦タブー、同性愛タブーなどである。 言語がなければ、フェティッシュは存在しない。言語がなければ「死」という言葉も意味も存在しない。「死」という言葉がなければ、「死」の意味もない。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 3 ネクロフィリア(死体愛好症)の理由。死体には意志も欲望もなく、こちらに立ち向かってくることも、語りかけてくることもなく、このことによって、「わたし」と死体との間には、情念と情念による、お互いの交流が成立しないからである。すなわち「愛」というものの介入をここでは徹底的に排除することができるからである。性欲は「愛」による拘束を逃れることによって、初めて純粋性欲として自己完結することが可能である。死のなかにある他者を欲望を対象とすることによって、「わたし」は自らの性の喜びを最大限に味わうことができるのである。
人形も少女も、自らは語り出すことのない受身の存在であればこそ、男たちにとって限りなくエロティックなのである。女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、澁澤龍彦によれば、男たちの欲望を白けさせるものでしかない。女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男の欲望(リビドー)が蒼白く活発に燃え上がるというメカニズムは、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものであり、そしてそのような男の性欲の本質的傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも、社会的にも、性的にも、無知で無垢な少女という、ある意味で玩具的な、存在だったのである。しかし、当然のことながら、そのような完全なオブジェ(フェティッシュ)としての女は、厳密に言えば、男の観念の中にしか存在することができない。そもそも、男の性欲が極めて観念的なものであるのだから、その欲望の対象となるものも、極めて観念的なフェティッシュであらざるを得ない。
愛という桎梏のない方が、性欲が満たされる。これは、性・性欲自体が言語化・記号化されたことが原因か。
男の性欲が観念的であるという前提は正しいのか?女の性欲は観念的ではないのか?であるならば、どんなものなのか?
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 6 フェティッシュとしての愛は、人間に本当の性の喜びも、死の喜びももたらすことはない。ましてや、その中に真の性的快楽などあろうはずがない。世にはびこるいわゆるところの「純愛至上主義」など、性の喜びそのものを禁忌の対象とすることに基づく偽善に他ならない。「愛」また、単なる記号、シンボルとしてのフェティッシュである以上、そこには何の実体もない。
このような偽善的「愛」から離れることができないキリスト教徒に対して、仏教徒たちが「愛」を自己中心的執着あるいは我執として、悪と見なしたのは、彼らに真実を見抜く目があったということだろう。
愛もまた記号にすぎない。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 7 人間を理性的存在者として捉えようとするならば、人間の本質とはまさに肉体的欲望とは対立するところの理性であり、理性によって、性欲をその中心とする半理性的な肉体的欲望を支配、コントロールすることにおいて道徳が成立することととなる。そのような道徳を自らの意志によって守ること、つまりは肉体的欲望によって支配されることなく、理性の自立によってのみ生きていくこと、このことに肉体的欲望から解放された真の人間的自由があると考えられてきた。 だが、これは虚構・偽善だった。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 8 理性によって何かを認識するということは、本物(実体)を失って、記号を獲得するということである。そのような理性のはたらきによって、われわれによって生きられている世界の全体が、我々自身の身体をも含めて、記号に置き換えられ、記号化されていくのである。そして、記号はもはやその指示対象としての実体からは分離され、浮遊する記号、シンボルとなり、我々にとっての世界及び身体は記号あるいはシンボルによって虚構されたものとなる。 記号化された虚構を、実体と思い込んで生活していることがわかっていない。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 8〜9 虚構の世界および身体において、生もセックスも死もまたその実体性を離れ虚構されたものとなってゆく。人間にとって、その生もセックスも死も、記号化されたシンボリックな虚構としてのみ成立するのである。人間のみが生きる意味を問い、それに悩む。そもそも「生きる意味」などどこにも存在しない。われわれはもはや真の意味で「生きる」ことなどできず、「生きる」という記号の中にさらに「生きる意味」という記号を探し求めているだけなのである。セックスもまた、生物学的意味での生殖行為という実体から切り離され、極めてシンボリックな意味を獲得するようになった。女性差別主義社会においては男が女とセックスするということは、その男がその女を自らの所有物として獲得するという意味を持つものであり、婚姻制度に関するモラル、「たとえば「汝、姦淫することなかれ」という戒律は、他人の所有物であるところの女(夫の所有物または、結婚前の娘であれば、父の所有物)を勝手に盗んではならない。という意味のものであった。 不倫は窃盗罪か?
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 9 人間のみが死を恐れ、死の恐怖から逃れようと必死でもがく。たとえ、今ここに死が現前しなくても、人間は、古代ギリシャ人たちがそう考えてように、「死すべき者」としての自覚を持ち、死への不安と向き合いながら生きていかなければならない。しかし、他の動物たちにとって「死」は存在しない。ただ、彼らは死の危機に直面したときにのみ、本能的にそれを回避しようとする行動を取るだけである。彼らは「死を恐れる」ということはしない。人間が恐れているのは、あくまで記号化されたシンボリックな「死」なのである。記号としての「死」に取り憑かれて、人間は不安と恐れの中で生きていかねばならない。それゆえ人間のみが死の恐れから逃れるために、死者の弔いなどを必死で行うのであり、死についての物語(神話)を語り、死と和睦しようとする。
世界と身体とが記号化される(意味をもつ)。そこで、性のエネルギーが向かうところの対象となるのは、世界あるいは身体の中に成立する、指示対象としての実態を伴わない記号であり、さらには想像力の中でそれらの記号は無限に自己増殖していく。それゆえ、人間のみが記号、シンボルをその欲望を対象とすることとなり、実体的な生殖行動と性欲とは分断され、人間の性欲はその対象としてのシンボルを求めて、浮遊し、さまよい続けることになる。その彷徨の過程は一人ひとりにおいてすべて異なり、ここに人間の性というものが有する、無限の多様性が成立し、一人ひとりの人間がそれぞれ異なったセクシュアリティを獲得することとなる。こうして、人間の有する性欲は生殖をその唯一の目的とする生物学的本能とはまったく別物に変貌する。
自死を欲するのはなぜか?
死を言語化・記号化・虚構化できるから、自死ができる。死に死以上の意味を付与している。逃避・怨念など。
虚構化した死とは何か?
死以上の意味とは何か?

言語によって表された概念が、他の言語によってさらに意味付けられ、実体をとして認識されるから、実体があるわけでもないのに、欲望の対象となる。

死に対するイメージも欲望も、無限の多様性が成立する。
2007 坂田登 セクシュアリティのエチカ(2) 福井大学教育地域科学部紀要Ⅴ(哲学編)47 福井大学 雑誌 16 我々人間は確かに存在する。生命もまた存在する。しかし、そのことの意味も、またその価値も我々にとって、あくまで不可知にとどまる。否、単に不可知にとどまるというのではなく、何の意味も価値もない絶対虚無のなかにおいてのみ生命の意味は充実し得るのではないか。 不可知だからこそ、意味が増える。分かりきっているものに、意味は増えない。
2007 山根一郎 恐怖の現象学的心理学 人間関係学研究5   雑誌 6 逃避(恐怖)は、攻撃(怒り)とは逆に対象から遠ざかろうとすることであり、方向は正反対だがともに対象と対峙している事態からの脱却を志向している。対象を撃退しても脱却は達成できるのだが、逃避することは、対象を撃退する力のなさを露呈している。 自殺とはどういう行為になるのか?逃避、あるいは攻撃、その両方か?
2007 山根一郎 恐怖の現象学的心理学 人間関係学研究5   雑誌 12 不安は自己を不安がり、恐怖は他を恐れる。  
2008 山根一郎 愛の現象学的心理学 人間関係学研究6   雑誌 73 相手の行為に対する「原規範」的評価としての怒り(「許せない」という気持ち)が、たとえばその行為の高頻度化によって、その行為者自身に帰属された場合、その行為がされなくなっても、行為者が存在する限り、その「許せない気持ち」は持続される。それが憎悪である。憎悪は怒りの準備状態などではなく、怒りが解消されずに持続しさらに深刻(深層)化する過程である。憎悪における許せない対象は、行為者の「存在」になる。存在を憎むことは存在の無化(殺意)へと導かれる。憎悪は「存在否定」の感情である。 自己愛の否定、憎悪の自己対象化、怒りの自己対象化、自分が存在する限り、自分を許せない気持ちが持続される。それが自殺につながるのか?
2009.1 浜田寿美男 「わたし」の生まれるところ 子ども学序説 岩波書店 著書 35 赤ちゃんは受動の嵐にされされるなかで、最初に他者の能動(わたし)に気づくようになる。 科学的知識がない時代、気象や災害に能動的意思(神の意志)を感じてもおかしくないのではないか?
2009.1 浜田寿美男 「神のうち」から「人の世」へ 子ども学序説 岩波書店 著書 72 誰にも「死」は経験できない以上、「死」はどこまでいっても観念でしかない。しかし、この観念のゆえにこそ、人は意図して死を選ぶ。自殺の最低の必要条件は、「自分の死」を考えられるということだからである。自殺可能性は、その意味で、おとなへの移行の一つの指標なのである。 他者の死を経験し、それをイメージできることが必要。おとなでなければ、自殺はできない。言葉を通して外の世界へと広がりなら、自己の内面世界へと向かう内向きのベクトルが働いて、初めて自死へと向かう。
2009.1 浜田寿美男 「神のうち」から「人の世」へ 子ども学序説 岩波書店 著書 91 昨今では物が豊かになり、残されたのは精神の問題、あるいは心の問題であるかのように言われる。自我形成や人格形成の問題があちこちで喧しく論じられるのも、そうした趨勢の一つの表れなのであろう。しかし、今日、本当に物は豊かになったのであろうか。そして、それにもかかわらず心が貧しいのであろうか。今日の物の豊かさは、はっきり言ってしょ商品の豊富さ、いや氾濫であって、けっして人が物と関わり、自然と関わる、その関わり方の豊かさではない。
物は豊かになったにもかかわらず心が貧しいのではない。心の貧しさには、それに見合った物への関わり方の貧しさがあると言わねばならない。
豊かさは多様な関わり方。
労働は賃金を稼ぐため。自己の労働がどのように社会と関係性を持っているのかが見えにくい。これは子どもだけなく大人もそう。したがって、有能な賃金労働者になるための勉強も、その意義が見えづらい。学校の存在意義の希薄さの要因でもある。
2009.1 浜田寿美男 学校のまなざしとその錯覚 子ども学序説 岩波書店 著書 106 少年事件の背景を「障害」と説明し、それでわかった気になるというのは、どうもおかしい。仮に発達障害があったとしても、それが事件にどのような関わりがあるかを見ておかないと、とんでもない誤解に陥りかねない。
常に守られるだけの存在だった子どもが、突然そのセーフティーネットを剥がされ、剥き出し個として社会に放り出される恐怖・苦悩を考えるべき。
人は手持ちの力を最大限に使い、今のできなさを適当にやりくりしながら生きていく、そうしているうちにその結果として次の新しい力が伸びてくるということになる。もちろんそれが伸びてこないことだってある。そういうものではないか。
発達障害者」がすべて犯罪予備軍になってしまう。「障害」で片がつくほど、少年事件やいじめは簡単な問題ではない。自我や個は他者との関係性でかろうじて支えられているような、極めて不安定なもの。
2009.1 浜田寿美男 学校のまなざしとその錯覚 子ども学序説 岩波書店 著書 116 発達とは結果であって、目標ではない。そこのところを逆立ちして、発達を目標に掲げ、ただただ「力を身につける」ところに邁進して、どこまで力が身についたかをテストで測り、その点数や順位にこだわってしまえば、それがいかに善意であれ、子どもたちは「力を使って生きる」本来の姿を見失い、人間としての自然を壊してしまいかねない。
人は自分の力を使って相手を喜ばせることが嬉しい生き物だ。「力を使って単独個体で生きる」にとどまらず、「ともに生き、共有の生活世界を立ち上げる」。この共同のありようこそが発達の原則にかなったことだし、これが発達の自然だということにもなる。
学校は集団生活の場でありながら、単独個体の能力を伸ばすことに目的にしているところが問題。
2009.1 浜田寿美男 いじめという回路 子ども学序説 岩波書店 著書 140 学校を生き物の集団として見た時、これだけたくさんの子どもたちが一つの場に集まるというのは、めったにあるものではない。子どもばかりがこれだけの大集団をなすというのは、極めて例外的な事態だと言える。
人間の世界に、このように年齢層を揃えた子どもの大集団ができたのは、学校が大衆を巻き込む制度となった近代以降のことである。つまり、それ事態が人為による歴史的形成物である。
かつての学校は生活の一部に過ぎなかった。一部の例外を除けば、学校の成績や学歴が子供達の将来を決定づけるようなことはなく、勉強が嫌なら、その場を適当にやり過ごしても問題はなかった。
パラダイムシフト!

安定した将来へのパストートを得る学校という位置づけが、子どもたちを学校生活一色に塗りこんでしまっている。将来への不安ゆえに、辛くてもそこから逃れられない。しかし、学校の勉強は生活感がないため、何をしているのか分からない。子どもが今を生きられない。まだ見もしない将来のためにしか生きられない。そこに、イライラや不満が生じる。ぶつける先は生身の人間ではなく制度。当たりどころさえ欠いている。
2009.1 浜田寿美男 学校は子どもたちの生活の場になりうるか 子ども学序説 岩波書店 著書 182 子ども学は、主観の科学として構想すべきもの。単に外から眺めた子どもの現象を記述し、問題を客観の目で整理して、解決すればいいというわけにはいかない。学校の問題に立ち戻って言えば、「学校のまなざし」は得てして普遍を求め、客観を求める。それゆえに「客観の科学」が馴染みやすい。しかし一方でその代償として、主体の位置から広がる遠近法の世界を押し殺し、日々を生きる子どもたちの「生活のまなざし」に正当な位置を与えたはこなかった。 個を徹底追究することで、理論も生まれてくるか。芸術・文学研究はこのようなものでなくてはならない。
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 1 近代においては、社会のすべての規制権限を集中した国家(「主権国家」)が構築されて、身分制とともに社会のなかの中間団体が解体され、そこに統合されていた個人が「自由な個人」として解放される。ここでは個人は例外なく、自己の労働力を自由に所有する自由な個人として位置づけられた。このようにして、一方では自由な個人と、他方では権力を独占して個人の自由を保障すべきものとされる国家が向き合う構造が生まれた。 近代以前は中間団体が身近な公として存在し、自由を規制していた。また、中間団体のせいで、自己の労働力を自由に所有する自由な個人ではなかった。
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 3 公共性を考える前提となる人間の集団意識には、自他の区別がある。共同体内部で殺人を犯せば法によって裁かれるが、敵との戦争で殺人を行っても罰せられないばかりか、英雄として賞賛されさえする。つまり、人間の集団意識に自集団と他集団との峻別が存在して、公共性はもっぱら自集団の内部でしか成立してこなかったのである。それゆえ、今日、多集団をも含めた公共性の拡張をどのように可能にするかという点の検討が課題となる。その際には、人間の集団意識の単位が歴史的に変化してきた点に注目する必要がある。 同レベルの集団が闘争を繰り返し、より大きな集団に包摂される?そもそも公共性は何によって示されるのか?法律か?
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 21 国家とは、社会という抽象的・構成的な概念を背負って、立法機能・司法機能・行政機能を果たす機構に他ならないことになる。 近代では、社会は抽象概念で、国家は実体となる。前近代では、身近な共同体が公の実体となる。では、国家は?
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 24 国家の構造的特性は、暴力を集中すること、暴力行使の正当性認定権を独占すること、支配領域内における全個人の自力救済を制約することの代償として全個人の保護義務を負うことにある。市場における経済権力による搾取・抑圧や、中間共同体の社会的専制から個人を保護しうるというメリットをもつ反面、それ自体が物理的暴力を背景にして専制化する危険を常にもつ。 国家の特質。
2010.4.5 日本学術会議 現代における私と公、個人と国家─新たな公共性の創出 日本の展望委員会、個人と国家分科会   提言 25 共同体的秩序形成は、相対的に濃密な信念・感情の共有と一般化された互酬実践による共同体的結合を基礎とし、逸脱者に対する非難やゴシップ、互酬実践からの排除、さらに追放という制裁を社会統制手段とする。共同体は、無資力なものも保護するという点で市場アナーキズムの欠点を補い、誰もが共同体的制裁に参与でき、また強者といえども、共同体的制裁を免れないという意味で、平等性をもつ。それは、市場における富の格差や国家における権力格差がもたらす階層的差別や不公正を避けうるというメリットをもつ。しかし、その反面、「よそ者」や内部の「異端者」に対して閉鎖性・排他性・抑圧性を示すという欠陥がある。
共同体的専制とは、中間共同体が跋扈し、その内部における異端者・告発者への社会的専制(内部的専制)に対する国家的統制を排除するばかりか、自己の集合的特殊権益を一般社会にコスト転嫁して享受するために、組織票・組織的集金力などの政治的組織力を濫用して国家の規制権力を私物化し(外部的専制)、国家的規制の公共性も市場の公正競争システムも掘り崩す状態である。いわゆる「日本型システム」期の日本はその一つの典型をなす。
中世村落に、無資力なものを保護する機能はあったか?ないなら、いつからそんな機能が加わったのか?日本にはそんな機能は存在しないのか?
2011.10 富増章成 ニーチェ 哲学者の言葉 角川ソフィア文庫 著書 120 ニーチェによれば、真理が存在するわけではなく、真理を知りたいという人間的・生物的な「真理への衝動」が存在するだけなのである。だから、道徳は時に権力として作用する。  
2011.10 富増章成 ハイデガー 哲学者の言葉 角川ソフィア文庫 著書 132 ハイデガーによると、存在者と存在とはべつのもの(存在論的差異)。人間が「ある」(存在の働き)を作り出している場だ。存在とは時間だ。  
2011.10 富増章成 レヴィナス 哲学者の言葉 角川ソフィア文庫 著書 160 私たちの存在は他の誰とも交換できないから孤独だ。それゆえ、存在(イリヤ)の無意味さがあらわになる。レヴィナスによると、他者は神秘・未知・未来だ。生きているうちに体験することができない死と同様に、他者は未知の領域であり、超越的で神秘的な存在である。ただ存在するだけの私は、完全な受身の状態である。他者が到来してくるからこそ、「イリヤ」という無意味な存在である私に意味が与えられる。他者が私をつくってくれている。  
2013.3 澤美帆・杉山崇 人の攻撃性と自尊心について 心理相談研究4 神奈川大学 雑誌 50 「自尊心」には、“自分自身の価値を認める自己”と、“自己一他者関係の中で評価される自己”といった二側面があるということが窺え る。  
2013.3 澤美帆・杉山崇 人の攻撃性と自尊心について 心理相談研究4 神奈川大学 雑誌 55 自己愛の定義を、“自己の満足を得るために自己注目や他者卑下を使用し、他者の気持ちを尊重せず、自己が望ましい特徴を有している存在であるとする実感”とする。  
2013.3 澤美帆・杉山崇 人の攻撃性と自尊心について 心理相談研究4 神奈川大学 雑誌 56 自尊心は他者からの評価を積極的に取り入れ、それらの「他者による評価」を基盤に高めていくことのできる概念である。自己愛は自己の満足を得るために必要以上に自己に注目し、そのために他者を卑下したり下方比較したりするという手段を用いることがある 。つまり、他者との比較は単なる手段であり、そこに基盤となる評価が含まれるわけではない、という点で両者は異なっているといえる 。  
2013 山根一郎 恐怖の現象学的心理学2 人間関係学研究12   雑誌 105 行動を動機づける心的状態すなわち動因として感情を位置づけた場合、恐怖は逃避行動を動機づける感情=「逃げ出したい気持ち」と捉えられる。すなわち、恐怖の対象は解釈された「危険」ではなく、目の前に出現している異様な他であり、その対象から逃げ出すことを動機づける感情(動因)である。  
2013 山根一郎 恐怖の現象学的心理学2 人間関係学研究12   雑誌 111 まずは、苦痛(身体的不快)体験による新たな恐怖対象が学習される。幼児が予防注射に示す恐怖反応は、針を刺すという視覚的違和感だけでなく、痛覚の経験によるところが大きい。すなわち、恐怖は苦痛という経験的根拠を持ちはじめる。恐怖が学習可能となれば、学習された恐怖対象の出現の予兆だけで恐怖を発動することが可能となる。これは対象の現前による恐怖1とは異なる、表象(準現前)だけで発動される恐怖であり、これが恐怖2の発生を準備する。さらに、人間では自己の存在への認識も恐怖の在り方を変える。様々な他者・他生物の死を知ることで、人は幼い時期から自己の存在の危うさをゆっくり時間をかけて理解していく。やがて、恐怖とは、怖い「対象」の現れではなく、むしろ「自己」の死の恐怖を意味するようになる。この恐怖対象の「他」から「自己」への転回こそが、恐怖2の発生契機である。恐怖の本来的機構が「危険に対する反応」であることの知的理解は、この恐怖2の体現者(成熟した人間)のみに可能である。恐怖2は実存的恐怖なのである。 では、自己の死が恐怖でなくなるとはどういう状況か?死の恐怖を他の恐怖が超えるのか、死の恐怖を何が超えるのか?
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第1章 基本理念 道に従って生きよ 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 12 老子における「道」は、儒家の「道」とも異なります。儒家と同様に、人としてのあり方を示してはいますが、さらに大事なものとして、天地や万物が生み出される際の根本的な原理、あるいは根拠という意味が含まれています。儒家の「道」を一歩進めて、人間社会のことだけではなく、はるか宇宙に至るまで、ありとあらゆるものの生成や存在は「道」によっていると考えたのです。儒家が「道」を「人間学」としてとらえたのに対し、道家はそれを無限に広げて「自然科学」的にとらえたといってもいいでしょう。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第1章 基本理念 道に従って生きよ 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 19 最初に出てくる「道」は、天地よりも先に存在する「なにか」であって「無」を指します。それを姿かたちのない存在として認識したものが「一」としての気。さらにそれが陰陽の二つに分かれて「二」となり、沖気(陰と陽の気を作用させること)が作用して「三」隣、そこから万物が生まれてくるというわけです。「無」から全てが生み出されるというと、なにもないところから生まれるはずがないだろうと思ってしまいますが、老子は「無」というものを、なにもないものではなく、ありとあらゆる可能性を含みもつ状態だとしているのです。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第1章 基本理念 道に従って生きよ 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 22 人間の場合は、意図的、作為的に善い行いをするわけですが、「道」の場合は、そこに意図や作為は一切存在しません。「道」の営みは「ありのままの営み」であって、万物を育てても、それは作為的なものではなく、当たり前のことなのです。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第2章 生きるための哲学 上善は水のごとし 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 55 老子』で使われている「無為」は「意図や作為のないさま」という意味です。これは、一切なにもしないということではなく、作為的なことはなにも行わないことと、とらえてください。  
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 第2章 生きるための哲学 上善は水のごとし 老子×孫子 100分de名著 NHK出版 書籍 83 孫子には、逃げることについての「恥」の意識はないのです。 逃げることに対して、いつから恥の意識が生まれたのか。
2017.6 釈徹宗 第1回 仏教思想の一大転換 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 23 布施とは、「自分の持っているものを手放す」ことを意味します。「持戒」も、ただかたくなにルールを守って生きるという単純なことではありません。自分への「執着を捨てて」、相手のことを思いやりながら、譲り合って生きるというのが持戒の意味です。つまり六波羅蜜大乗仏教が定めた修行のことで、「布施(施しをすること)」「持戒(戒めを守ること)」「忍辱(よく耐え忍ぶこと)」「精進(よく努め励むこと)」「禅定(心静かに瞑想すること)」「智慧(物事の実相を体得すること)」)には「自分の都合を小さくするための智慧」が結集されていると考えればよいでしょう。そうした執着を捨てるトレーニングを日々積み重ねていくことで、自分の都合はどんどん小さくなっていくと、ここで釈迦は説いています。 六波羅蜜の定義。
2017.6 釈徹宗 第1回 仏教思想の一大転換 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 25 つまり、本来は美しいこの世界も、偏った見方や執着した眼で見れば不浄となり、醜く見える世界も執着から離れれば仏国土だというのです。(中略)自分というフィルターを通してものごとを見ていては、本質は見えてきません。自分というフィルターを外すこと、つまり「とらわれを捨てる」ことが、まずは大切なのです。このように、何事にもとらわれずにものごとを見ることが、仏教でいう「智慧」です。  
2017.6 釈徹宗 第2回 「得意分野」こそ疑え 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 27 私たちは〝自分というもの〟を頼りにしてしまうと、貪りの心や迷いを生み出してしまいます。そもそも私たちの身体は四つの元素(地水火風)の集合体として成り立っていて、さまざまな因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。やがては構成要素は朽ちていき、バラバラに分離してしまいます。〝単独で成立し、決して変化せず、何者にも関係していない存在〟など、この世にはないのです。そして、この集合したものの本質を『空』と表現します。しかし仏となれば、もはや永遠の存在となるのですから、私たちはそれを願い求めなければなりません。  
2017.6 釈徹宗 第2回 「得意分野」こそ疑え 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 35 仏教では「生きることは苦である」と考えます。この場合の「苦」の原義は、「思い通りにならない」といった意です。人生のすべてを思い通りにできる人はいません。だから、「思い」のほうをなんとかしなければならないのです。ここでは〝ありのままの姿〟という言葉を使っていますが、〝ありのままの姿〟とは、「こうすべき」とか「こうありたい」といった自分の「思い、執着」を捨てた状態のことです。維摩はそれこそが仏教が理想とする到達点だと言っているのです。 苦の根源は「思い・執着」。
2017.6 釈徹宗 第2回 「得意分野」こそ疑え 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 36 乞食行は日々の食料を得るために行うものではなく、自分の本当の姿、本性を知るために行うもの。施す側も施される側も、施される物も、損も得も、すべては私たちが作り上げた虚構の価値観にすぎないということに気づき、すべての執着を捨て去るために行うのが乞食行だとここでは説いています。(中略)乞食行は施す側のものでもあるというのは、誰かに施すという行為が執着を捨てるトレーニングになることを言っています。「これは自分のものだ」というい思いが強ければ強いほど、人の苦悩は大きくなります。しかし、施しを通じて「握った手を離すトレーニング」を積んでいけば、執着を低減したり調えたりできるのです。 食べなければ生きていけないという存在以外の何者でもないこと、他の人間の作り出した価値観・執着は無意味だということか。
乞食行は、乞食をする人ではなく、施しをする人のための修行。
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 57 「空とは無分別(はからいをすべて捨てた状態)のことです。空は、認識したり思考したりすることはできません。認識すること自体が空ということにならなければ、無分別とは言えないからです。」(中略)仏教では、存在というものには実体はなく(無我)、すべての存在は要素の集合体にすぎないと考えます。いろんな要素が集合すれば何らかの存在が形作られ、ばらばらになればなまた別の存在となります。あらゆるものごとは刻々と変化し続けているのです(無常)。また、なにものにも依存せずに存在しているものはひとつもなく、すべては連続性、関係性の中に存在(縁起)しているととらえます。 無分別=無分別智。主観にとらわれた自分というフィルターを通して得られる認識ではなく、ものごとをありのままに認識する智慧の働きの意味。
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 81 縁起とは「あらゆる存在や現象は関係性によって成り立っている」という仏教の立場なのですが、これを積極的に解釈して、「他者と関わる態度、姿勢」を「縁起の実践」と呼んでいます。  
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 84 続けて徳頂菩薩はこ語ります。「汚辱と清浄は相反します。でも汚れの正体(絶対で不変の本性)などは存在しません。浄らかさの正体もありません。悟りも同じです。このように体得できれば、不二の法門へと入ることができます。」(中略)菩薩たちはものごとを二つにはっきり分ける「二項対立」の考え方を否定しているのですが、これは私たちの身のまわりでもしばしば気づかされる問題でしょう。たとえば、愛する人が髪をとかしている姿を見ると「なんて美しい髪なのだろう」と思うのに、その人の髪の毛が抜け落ちてお風呂の排水溝にたまっているのを見ると「汚いな」と感じる。髪の毛自体の物質性はまったく同じなのですが、意味づけが大きく異なる─同じものを見ても、自分のとらえかた次第でまったく別のものに見えてくるのです。 その汚い髪を性的対象と見ることができる。すべては認識の問題。
2017.6 釈徹宗 第3回 縁起の実践・空の実践 維摩経 100分de名著 NHK出版 書籍 87 維摩の一黙、雷の如し  
2017.6 福岡伸一 第1章 脳にかけられた「バイアス」 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 38 記憶は細胞の外側にある。正確にえば、細胞と細胞とのあいだに。神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連携を作って互いに結合している。結合して神経回路作っている。神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・科学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。(中略)あるとき、回路のどこかに刺激が入力される。それは懐かしい匂いかもしれないあるいはメロディかもしれない。小さなガラスの破片のようなものかもしれない。刺激はその回路を活動電位の波となって伝わり、順番に神経細胞に明かりをともす。ずっと忘れていたにもかかわらず、回路の形はかつて作られたときと同じ星座となってほの暗い脳内に青白い光をほんの一瞬、発する。 記憶の生物学的説明。
2017.6 福岡伸一 第1章 脳にかけられた「バイアス」 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 50 人類の祖先は過去何百万年もの間、常に環境の変化と闘いながら生き残ってきた。そのときに複雑な自然界の中から、何らかの手がかりをつけることが、生き延びていく上でとても大事だったのである。その進化の過程で、私たちの脳にはランダムなものの中に、できるだけ法則やパターンを見出そうとする作用が加わってきた。私たちの脳にそういう水路がつけられてしまったのである。暗闇に潜む敵を発見する上で、あるいは生きるか死ぬかの瀬戸際では、そのような瞬時のパターン化が役に立つことも多かったに違いない。 バイアスの形成要因。
2017.6 福岡伸一 第4章 その食品を食べますか? 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 147 生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその「効果」のほうにある。つまり、このように例えることができる。テレビを分解してどれほど精密に調べても、テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら、テレビの本質はそこに出現する効果、つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。そして、その効果が現れるために「時間」が必要なのである。より正確に言えばタイミングが。あるタイミングには、この部品とあの部品が出現し、エネルギーと情報が交換されて、ある効果が生み出される。その効果の上に、次のステージが準備される。次の瞬間には、別の一群の部品が必要となり、前のステージで必要とされた部品は不必要であるばかりか、そこにあってはならないのだ。このような不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は成立する。(中略)近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。部品は多数タイミングよく集まって初めて一つの機能を発揮する。 生命現象の定義。
2017.6 福岡伸一 第5章 生命は時計仕掛けか? 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 177 つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能─それを、私は「動的平衡」と呼びたいのである。  
2017.6 福岡伸一 第8章 生命は分子の「淀み」 新版 動的平衡 小学館新書 書籍 263 可変的でサスティナブル(持続可能)を特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。