周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

酒匂著書

 酒匂由紀子『室町・戦国期の土倉と酒屋』(吉川弘文館、2020年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序章

P2・3

 土倉・酒屋の定義が曖昧。土倉・酒屋が金融業を独占的に行なっているわけではないので、土倉・酒屋を別の視角から検証することが必要。土倉・酒屋を金融業者とみなさずに論を進めていく。

 

P6

応仁の乱後の京都には、多数の土倉・酒屋が存在したのか。

②京都近郊の村落住民がわざわざ京都の土倉・酒屋に米や銭を借りにきたのか。

③土倉・酒屋が存在する場所には、どのような特徴があるのか。

④応仁・文明の乱を画期に、「法体」の土倉から、「俗体」の土葬へ変化する認識されてきたが、このことはどのような意味をもつのか。また、乱はどのように画期として作用していたのか。

 

P8

 改めて述べると、土倉・酒屋を通して京都の社会構造を考察するには、幕府による土倉・酒屋役や山門との関係のほか、京都に存在する諸権門との関係も考慮しなくてはならない。土倉・酒屋の実態を明らかにするには、幕府や山門だけでなく、諸権門やその他京都を構成する要素とどのような関係で繋がっていたのかということを総合的に検討していかねばならないといことになろう。

 

 

第1章 戦国京都の「土倉」と大森一族

P16

 林屋・仲村・桑山の土倉・酒屋評価(京都経済の中心)と仁木・早島の評価(経済縮小)の相違を、大森一族の身分の再定義によって克服する。

 

P19

 先行研究において「土倉」とみなされてきた者とは、

山門と室町幕府による土倉・酒屋役注文や、古記録などにて「土倉」の肩書きを有している者、

また、質屋業(質物を取り銭を貸し付ける)および倉庫業を行っていたことが確認できる者、

そして、「土倉」としての倉号(屋号)を所有していたことが判明する者を対象にしてきていた。

すなわち、銭や米を貸し付けた事例のみでは、その者が「土倉」であったことの根拠とはならないのである。

 

P28

 これらを踏まえて大森一族の活動を分析したところ、同一族は、京郊に拠点をおいたいくつもの家の同名中にて構成され、被官を通して村や村人、在地とのつながりをもっていたことが明らかになった。つまり、大森一族は、京都市街に蔵を所有し、質物を取りつつ銭を貸し付けていた「土倉」のような金融業者ではなく、他のカテゴリーに分類されるべき者だったのである。

 

P32

 つまり、桑山氏が大森一族を「有力な土倉」とした条件とは、研究史上の「在地領主」、とくに「土豪」の概念と合致する者だったのである。したがって、大森一族は、京都市街の「土倉」ではなく、京郊の「土豪」であったといえよう。また、大森一族が「土豪」であったということは、天文15年の分一徳政令史料において、山本や渡辺、そして大森一族と同様の貸付を認められる者も「土豪」であった可能性が高いということを意味している。

 

【西島論文】

・朽木氏の代官職入手に興禅寺が貢献していること。

・臨時の碑文を在地にかけないとの六角定頼の下知状および稙綱の一行書出があるにもかかわらず、近年それが守られず、門跡へ公用も納められていないこと、前代官大森氏が捨て置かないで訴え出たこと、百姓の懈怠、下代の申し掠めを必ず糾明し、門跡の裁定があることなどが窺える。

 

P40

 したがって、天文15年の分一徳政令史料に見える「従去々年借用也」の文言が指す天文13年、14年の京都および京郊は、度重なる天災により年貢を納入できる状態になかったと言える。ここから年貢納入を目的とした関係が生じたことを想定できる。

 

P46

 一方で、こうした大量の貸借が発生したことについて、銭主である京郊の「土豪」から捉えた場合、多くの借主から利子を徴収できるだけでなく、貸借の際に担保となっていたであろう所々の借主が所有していた土地職?を集積していく機会となったことが考えられる。したがって、天文15年の分一徳政令史料とは、天文13、14年の天災が、京郊の「土豪」などの経済を変動させる機会をもたらしたことを示す史料であると言える。

 

P49

 すなわち、分一徳政令を発布したころの幕府は、目前に迫る戦に向けて、人夫や資金に逼迫した状態になったのである。こうしたことを踏まえると、幕府が天文15年の分一徳政令をこのタイミングにおいて京郊の在地に向けて発布した主たる理由を、天文13年、14年の天災によって疲弊した在地の救済であったと評価することは軽率だろう。

 

 

第2章 応仁・文明の乱以前の土倉の存在形態

P55

 土倉の「座」に関する史料は、これまで見つかっていないし、利権の存在も確認できない。さらに、他の商工業者は同業者ごとの拠点地があるが、土倉にはそれがない。

 

P56

 つまり、先行研究は、土倉=都市の金融業者という定義に立脚し、土倉の存在形態について商工業者の存在をモデルケースとして検討しようとしてきたのである。しかしながら、結果的に土倉の存在形態は、商工業者のものと相違していることが明確となったのみであり、依然として不明のままなのである。(中略)

 言うなれば、これまでの研究における土倉とは、史料上で「土倉」と表記される者と、実は土倉ではなかった者を混同したものだったのである。このことこそ、これまでの土倉の存在形態をよくわからないものにしてきた原因の一つになっていたのではないだろうか。

 

P59

 これらの記事から看取される貞成と宝泉の関係とは、代々の伏見宮へ宝泉が奉公することと引き換えに、所職や坊号を安堵してもらうというものであった。そうした土倉「宝泉坊」は、一つのイエが継承していくものであったことも判明した。

 

P60

 宝泉の在所は、相国寺末寺の伏見大光明寺内称名院で、伏見宮菩提寺

 

P61

 注目したいのは、地下損亡により段銭を納められなかった殿原らが段銭を支払うために「両土蔵」へ借銭の交渉をしたのではなく、あくまでも主家である貞成が「両土蔵」へ立て替えさせたことである。つまり、「両土蔵」は、主家の意志によって、銭を調達したのである。

 

P62

 宝泉は、伏見御所において小川禅啓と同じく「地下」身分であったが、地下のうちでも侍とは別の立場に位置していたことを意味する。「内之奉行」? 酒宴を執り行っている。

 

P64

 土倉の羽田能登坊は万里小路家に収支報告を行なっている。

 

P65

 能登坊は浄花院に関係が深かった。浄花院は万里小路家の菩提寺であったほか、勧修寺流吉田一門の菩提寺であった浄蓮華院とともに万里小路家財政を統括していたという。

 

P68

 以上のことから、万里小路家が土倉能登坊に期待した職務とは、万里小路家へ銭を貸し付けることではなく、万里小路家の抱えた負債を立て替えられる者を探し出し、交渉することだったことがわかってきたのである。(中略)浄花院は土御門室町にあった。

 

P69

 したがって、能登坊は時房と直接的な主従関係にあったというよりも、能登坊が仕える浄花院が万里小路家における財政面の運営を担って関係で、万里小路家に関与していたと捉えるべきだろう。

 

P72

 この事例にて注目すべきは、「両土蔵」の「北蔵」の担当として伏見宮に仕えていた「等持」が、延暦寺の山徒でもあったということである。しかも、等持は円明坊の同宿であったことから、両者が同じ法脈上の関係にあったことも看守できた。こられのことは、等持が貞成をはじめ、伏見御所の人々と関係を有しながらも、一方で僧籍の法脈関係が疎遠だったわけではなかったことを意味している。

 

P74

 二つの事例から、土倉の者やその家が僧籍の寺院とのつながりを保ちながら、公家の当主や、またその菩提寺に奉公していたことがわかった。土倉と僧籍の寺院との繋がりは、あくまでも法脈に関係するものであったと考えられる。

 一方で、その繋がりによって現出する集団は、土倉同士が僧籍の寺院へ奉仕し、職商人として利権を得るべく同業者集団を組んだものと見なすことはできない。ゆえに、土倉と僧籍の寺院との繋がり、職商人の「座」に比肩するものではなかったといえる。

 

P75

 その結果、『看聞日記』と『建内記』に見える土倉に共通したのは、土倉が日記の記主の家の菩提寺の下で奉公していたという意外なものであった。

 

P76

 他方で、本章で取り上げた土倉には、僧籍の寺院、とりわけ法脈との繋がりが存在し続けたことも認められた。そうした法脈による関係が、弟子や兄弟弟子の家の内情も熟知するようなものだったのであれば、師や兄弟弟子は、富裕な家の出自である弟子や兄弟弟子を紹介することが可能であろう。

 

 

第3章

P89

 つまり、頼山陽は『日本外史』以外の著作においても『読史余論』の内容を引用しており、さらに中世の事象を近世の事象に当てはめるという論理によって説明していたことが浮き彫りとなってきた。だが、本章で注目したいのはその点ではなく、「土倉」が富裕な金融業社であったとする見解や、室町幕府が「土倉」に商業税を賦課していたという史料解釈が、江戸時代の新井白石によって説かれていたものだったということである。さらに、基にした史料は、一次史料とはいえない軍記物『応仁記』であり、しかも資料の誤読によって生まれた解釈だったと考えられるのである。

 

 

補論 室町時代の東寺執行方公人

P106

 橋本初子氏によれば、執行とは、「平安時代以来の修理別当の職を濫觴とし、堂塔伽藍および境内の管理・修理等に関わる実務を担当した」者だという。また、「寺内諸堂において行われる諸法会の、道場荘厳や燈明・施食布施にいたる種々の支度は、常に執行方が管掌するところであった」とする。

 

P110

 したがって、中門御供養に関与していた執行方公人らは、仮名を有しており、法会や行事の支度のほか、宝蔵兵士を勤めることが職務であったことがわかった。

 

P113

 仮名は屋号。(中略)

 つまり執行方公人には、当時から住宅提供の特典があったのである。

 

P114

 したがって、執行方公人は、東寺の寺院組織のなかにおいて下部に位置する存在だったものの、社会的にみれば、身分や住居、給田などさまざまな点で東寺から保証を受けており、奉公人を雇うことまでもできる存在だったといえる。

 

 八足とは?

 

P115

 「此子細〜不作之間」?

此の子細は当座共に畠を好みて更に家を所望に不作の間、地下富貴のため公人中へ下知し了んぬ、後、百姓に充行い之を付くるなり、

 

この取り決めは、いま屋敷地に住んでいる人々がみな畠を好み、さらに家を建てることを望んで作物を作らないこともあるので、屋敷地を望む地下の裕福な者のために、公人中へ承知するように下知しました。あとで、百姓に充行いその土地を与えるのである?

 

P119

 ところが、室町中期ごろになると、公人の中に武家被官になる者が出現したり、百姓に借銭して、その抵当として当時から充行われた田畠を取られる者まで出てきたのである。

 一方、こうした流れについて評価するならば、どのような身分の者でも別当や執行の許可さえあれば、寺院組織の構成員として新たな身分を手にすることができる状況になっていたといえる。それは、洛中洛外に住居や田畠を望む者が公人身分を入手することによってそれを叶えることができる状況である。

 

 

第二部 第1章 神宮御倉と室町幕府

P122

 興味深いのは、当該期の「神宮御倉」を務めていたのが『八瀬童子会文書』や『蜷川家文書』といった京都の土倉・酒屋関係史料において「酒屋」の一つとして確認できる「小原」だったことである。

 

P123

 ここで注目したいのは、「小原」が「神宮御倉」に就任した応仁・文明の乱後は、右にみたように遷宮の滞っていた時期に重なることである。

 

P124

【史料1】

造営御用脚を預かり置くにより、

 

①大工たちは造営用脚を誰かから受け取り、それを神宮御倉に預け置いた。そして伐採・運送作業に従事する人間の給分に相当する割符を美濃の山(作業場)において振り出して、人夫らに渡した。そして人夫たちは神宮御倉に割符を持ち込み、給分をもらう。

 そのほかに造営用脚が足りないときは、先に割符を神宮御倉に立て替えて振り出してもらい、その割符を人夫らに渡して、材木を送付した。用脚が整えば、大工から御倉に立替分が返却される。

 

P127

 (この割符は)いうなれば、中世において「切符」と表現される、為替手形を意味しているものであることがわかる。

 

P128

 よって、神宮御倉の役割は、神宮造替料の保管と頭工による下行指示に従い、費用を渡していたものであることがわかった。頭工や配下の工らが通常は伊勢にいたことからして、ここに見える神宮御倉は、伊勢に存在していたとみるべきだろう。

 次に、京都に存在した神宮御倉について、その職務を分析したい。

 

P131

 よって、神宮御倉とは、伊勢神宮遷宮に伴う費用を預かり置く倉であり、役夫工米の徴収権を有した室町幕府があった京都と、伊勢神宮のある伊勢の両所にあったことがわかってきた。しかも、神宮御倉の者は、朝廷・幕府の両者から諸役免除の特権を得ることができたことも明らかになった。

 

P132

 よって、神宮御倉は、少なくとも応永4年に成立していたと考えられる。

 

P138

 史料①が義政から政知に宛てられているものであることからして、政知の指揮下にある関東武士の所領が役夫工米の賦課対象になっていることを窺い知れる。つまり、ここで役夫工米を賦課した先は、この時点で義政や幕府と関係の深い者であったといえる。

 

P145

 これらのことを総合すると、神宮御倉小原は山名一門の被官だったと捉えられ、将軍の外様衆である小原と異なるものであったと考えられる。

 

P149

 

第2章 禁裏御倉と室町幕府

P159

文安元年(1444)辻御倉初見。

文正元年(1465)後土御門即位。禅住坊と正実坊が即位費用の出納を行う。

文明11年(1479)土御門内裏に還御。

文明18年(1486)に辻襲撃。いつ復活したのか?

長享3年(1489)には、公方御倉(たぶん玉泉坊)と籾井が代行?

 

明応6年(1497)までは野洲が代行し、それ以降は大橋が代行。

文亀2年(1502)野洲が禁裏御倉就任。

文亀3年(1503)大橋は臨時の禁裏御倉。

大永元年(1521年)後柏原即位。大橋と玉泉坊が即位費用の出納を行う。

 

P162

 したがって、これらのことを考慮すると、酒屋土倉注文に見える土倉・酒屋とは、幕府の都合で動く者らのリストであった可能性が浮かび上がってくる。言うなれば、応仁・文明の乱後に幕府が編成していた洛中洛外の居住者ということになろう。先に述べたように当該期の幕府は、地域を問わず幕府に加担していた者らに臨時役を付加していた。このことを踏まえるならば、『蜷川家文書』の酒屋土倉注文に現出した土倉・酒屋役とは、応仁・文明の乱後の京都における商業支配が目的というより、そのときの幕府に加担していた者らに課した臨時役の一つだったということが考えられる。

 

P163

 小括として、禁裏御倉の辻の職務と特徴、そして臨時の禁裏御倉の野洲・大橋との違いについてまとめておきたい。

 

P168

 よって、野洲が勧修寺藤子被官となった理由は、禁裏御倉に復職することを吹挙してもらうことであり、その目的は、土倉・酒屋役の免除にあったということが窺える。

 

P173

 野洲は、父子で幕府方に奉公しつつも、公家の山科家にも奉公していたことが判明した。そこで野洲善秀は、山科言国の人脈を頼り、後奈良天皇の母にあたる勧修寺藤子の被官になることで、御倉再就任を天皇に推挙してもらうことが可能となって御倉の再就任に成功している。

 山科家に奉公する以前は、東寺執行の公人として東寺「寺内」に居住し、鍵取の役についていたことも判明した。また、同時に山門の日吉神人でもあったことがわかった。

 東寺の史料から野洲を確認できなくなるは延徳3年であり、『山科家礼記』に「さるや」「同子」として登場するのが明応元年である。このことから、野洲が当時との関係を絶ってから山科家に奉公したように見えるが、「上のさかや」「下のさかや」が野洲を示しているものならば、野洲は、東寺の執行公人でありつつも、上京にも拠点を構え、山科家に奉公していたことになる。

 本節で明らかになった成果としては、野洲父子の奉公先が多重になった契機が応仁・文明の乱ではなかったことである。

 

P175

 つまり、このときの幕府は、従来からの禁裏御倉のほかに、幕府の職務を補佐する禁裏御倉を創設したということになる。

 

 

第3章 応仁・文明の乱後の酒屋・土倉と「武家被官」

P186

 むしろ、武家と酒屋・土倉・味噌屋などと被官関係は、乱以前から存在していたことが浮かび上がってきた。

 

P198

 注目すべきは、「婦女後室」が酒屋を所有しており、それをもって不動産経営していたことである。【史料9】の内容によれば、沢村は「四条大宮酒屋」をイランしているということであったが、ここで割注を見ると、沢村が「四条大宮酒屋」の家具と倉を使用していたと読み取ることができる。このことから、沢村は「婦女後室」の酒屋を家具や倉も含めて代官として期限付きで管領していた可能性が考えられる。つまり、こうした不動産運営につながるような酒屋の運営は、応仁・文明の乱以前から存在していたと言える。

 

P200

 このことに関して、本章において見てきた事例を踏まえるならば、右にあげた在所の者らは、山門側に親兄弟が日吉神人として掌握されている者か、転居を重ねるうちに山門側から日吉神人とみなされる理屈を付されてしまった者と考えられる。翻って、山門側から一度日吉神人であると認められてしまったならば、もし他の寺社領に転居したとしても日吉神人とみなされ続けてしまっていた状態があったことを読み取ることができる。

 

P203

 さらに、日吉神人となっていた武家被官の実態に目を向けると、山名の筆頭被官であった垣屋もいれば、伊勢が管領する所領の公文を担い、丹波と京都の両所より伊勢に奉公していた一族の高屋や片山もいた。彼らは、主人に仕えるために在京する必要があったのである。しかしながら、彼らは在京するにあたり、武家や幕府から役宅が与えられていた形跡がない。そこで、本性の結果を踏まえて浮かび上がってくるのは、彼らの在京のための在所として使用されていた一つが酒屋、土倉、味噌屋などの倉だったということである。

 こうした彼らに対し、山門が馬上役を、そして幕府が酒屋・土倉役を賦課していたのであるから、そもそも在京する武家被官は裕福なものしか務まらなかったという実態が見えてくる。さらに、その富の源については、高谷一族のように苗字の地との密接なつながりを持つ者の存在から勘案するに、彼らが京都で捻出したものというより、在地における彼らの富が京都に持ち込まれていた可能性を考えなくてはならないだろう。

 こうした社会がいつからできあがっていたのかということについては、今後検討していきたい。

 

 

補論 戦国期の蔵人所御蔵と洛中の住居

P219

 したがって、土豪や国人らが在京して生計を立てていくには、京都内での身分を得る必要があるということがわかってきた。その身分に付随する職務に伴って、住宅を手にすることができていたのである。他方、そうした身分や職務に就くものがいなくては、その職務が回らなくなるわけである。本論で見たように、朝廷側が真継の作成した偽の譲状などでその身分を安堵した背景には、権力者による鶴の一声もさることながら、その職務に携わる者がいなくなることが困るということもあったのではないだろうか。

 

 付論1 中世の節供

P230

 「御節供」とは、祇園社で行われていた節日行事(上巳の節句端午の節句重陽節句)を指していた。その実態は、各節日の節供料所となっていた祇園社社領から運上された供物を社頭へ祀り、のち、祇園社構成員へ配分されるものであった。「御節供」は、祇園社構成員が祇園社から得分を得る機会となっていた一方で、「御節供」を「沙汰」する者は、社頭を知行できていることを同社構成員へ示す機会ともなっていたと考えられる。

 

 他方、「節供」については、顕詮自身が支払う「節供」料足を指しており、その内容は2点存在した。一点は、執行職の役として別当力者に対して払う銭であり、もう一点は、顕詮が配下の者へ振る舞う銭や酒であった。

 したがって、『祇園執行日記』における「御節供」は、祇園社を中心にした行事であったことに対して、「節供」は、顕詮を中心にした行事であったことが明らかになった。顕詮は、これらのような意味を込めて「御節供」と「節供」をかき分けていたのである。いずれにしろ、節日は祇園社において、当人が帰属する神社や人から、物や銭が下賜される日であったことは指摘できよう。

 

P231

 これまでみてきた『祇園執行日記』記載されている「御節供」「節供」の記事は、実は、おしなべて行事が通常通りに行われなかった場合の内容であったことに気づく。つまり、節供行事は、行事次第を毎回記録しなくてはならいような公的なものではなかったと看取できる。他の自社の史料群においても、この行事の記録がほとんどない理由は、ここにあったのではないだろうか。

 

終章

P248

 このことが意味するのは、応仁・文明の乱によって停滞していた祇園会が復興したとされる明応9年(1500)には、土倉・酒屋を中心とした「町衆」とされる人々が幕府や幕府の権力者の命令に従う立場の者であったということである。

P249

 これらのことを踏まえると、土倉が権力者に関与したのは、所属する寺院における職務を果たしていたにすぎないとも評価できる。ここから見える土倉の社会的立場や職務は、『八瀬童子会文書』をはじめ、当該期の史料より多くの土倉、そして酒屋が寺社境内に存在したことを認められることから、それら多くの土倉や酒屋にも敷衍できる可能性がある。

 こうした結果からは、室町期の土倉の人脈が所属する寺社や、得度した寺院など、自らの身分を証明する権力体の下を中心に広がっていたといえる。すなわち、室町期の土倉の実態からは、他の寺社の土倉等と「町衆」のような集団を結成する必要性が全く見えてこないのである。

 

P250

 大森一族については、従前、少額債権を多数所持していたことを論拠として、「金融業者」である土倉と位置づけられてきた。しかし、本書での検証により、その大森一族は洛北の土豪であったことが判明した。

 本研究の結果から浮かび上がってきたのは、従来の研究において史料用語であるはずの「土倉・酒屋」が、大森一族の事例のように、概念用語として使用していた研究も少なからず存在しているということである。このことは、研究者によって「土倉・酒屋」と位置づけていたものの基準が異なっていたことを意味している。今後の研究においては、関連資料に即して銭主の社会的立場を注視していく必要があると思われる。

 

P252

 これらのことを踏まえて考慮すると、当該期の土倉・酒屋役は、幕府が洛中・洛外の商人に課した商業役と解釈するよりも、幕府寄りの武家の被官に対して幕府への忠誠を示させるために要求した献金の意味を含む課役とみなす方が妥当なのではないかと考えられる。

神仏に対する冒涜罪

  文明二年(1470)六月廿六日条

           (『大乗院寺社雑事記』4─451頁)

 

    廿六日(中略)

 一随心院殿之若狭寺主相語、祇薗炎上以来、神躰五条邊ニ奉入之、彼神躰ハ以全躰

  黄金奉鋳之、牛頭形躰、希有本尊也、然而社人奉碎之売買了、此事無其隠之間、

  彼社人乍生流淀河畢、西方沙汰也、(後略)

 

*『大日本史料』8編40冊144頁(延徳二年十二月十二日)にも同条は掲載されていますhttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0840/0144?m=all&s=0143&n=20)。

 

 「書き下し文」

 一つ、随心院殿の若狭寺主と相語らふ、祇園炎上以来、神体五条辺りに之を入れ奉る、彼の神体は全体黄金を以て之を鋳奉る、牛頭の形体、希有の本尊なり、然れども社人之を碎き奉り売買し了んぬ、此の事其の隠れ無きの間、彼の社人を生きながら淀川に流し畢んぬ。西方の沙汰なり。

 

 「解釈」

 一つ、随心院殿厳宝の使者である若狭寺主と語り合った。(六月十四日に)祇園社が炎上して以来、ご神体は五条あたりに移し入れ申し上げた。この御神体は全身黄金で鋳造し申し上げている。牛頭の形体で、珍しい本尊である。しかし、社人がこれを砕き申し上げて売ってしまった。この事件は世間に広く知れ渡っているので、その社人を生きたまま淀川に流してしまった。西軍の処置である。

 

 「注釈」

随心院

 ─山科区小野御霊町。牛皮山と号し、真言宗善通寺(現香川県善通寺市)派。本尊如意輪観音。俗に小野門跡にという(『京都市の歴史』平凡社)。この時の門跡は厳宝(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/厳宝-1073539)。そのほかに、安田次郎『尋尊』(吉川弘文館2021年、5頁)も参照。若狭寺主については未詳。門跡の使者であったと考えられる。

 

 

「西方」

 ─応仁・文明の乱における西軍の意味。同年同月に、畠山義就祇園社に対して本尊の破壊・売買を禁止する禁制を発給しています(「畠山義就祇園社金仏勧進所禁制」『中世法制史料集』第4巻、武家家法Ⅱ、147頁)。

 

 

祇園社のご本尊は黄金製の牛頭天王像だったようです。きっと神々しいお姿だったのでしょう。ところが、このありがたい尊像を破壊して売り飛ばした不届き者が現れます。売るほうも売るほうですが、買うほうも買うほう…。両者、なかなかのバチ当たり者です。

 ですが、この信じがたい行為よりも恐ろしいのは、捕らえられた犯人を生きたまま淀川に放り込んでいるところです。簀巻きにして海に沈めてしまうヤクザの手法とよく似ていますが、これが神仏を冒涜した報いなのでしょうか。もしこの「河川投棄刑」が、明文化されていない当時の慣習的処刑法であれば、なおのこと物騒な話です。応仁・文明の乱の真最中で、西軍もいきりたっていたのかもしれませんが、中世の処罰というのは本当に苛烈だと感じますし、一方で信仰というものの恐ろしさに背筋がぞっとします。

蟇沼寺文書11

    十一 金剛仏子尊範外五名連署置文并座主増恵証判

 

 (前闕)

 「                (座主増恵ノ裏花押アリ)

 一如法経間事

  自河原観如方買得田地三段号行本、為尊範後生菩提寄進也、経衆

  与同心奉寄合、遂検注納所当如法経中時料之、此外同観如

  寄進田地又三段在之、同致沙汰時料也矣、

 一正教事

  可要正教者為置于経蔵、其外私尊範聞書等、可

  火中也矣、

 一笙笛事

  為当山重宝之間、不于他所之上者、随于其器量借書者、

  可置之歟矣、

-------------------------------------------(紙継目裏ニ座主増恵ノ花押アリ)-----

 一尊範死荒間事

                 (マヽ)

  不火葬、不動堂西岸前深堀穴、乍棺落入埋之、上畳石同立石、

  阿字一字挑申于座主御房卒塔婆也、其外者一切不

  子細者也矣、

 右尊範跡之仁等、面々令知之、且成住山之思、且致孝養之誠、可

 令行之、於未来者、又守其器用交衆中同朋之間伝之、若

 不慮之外雖里住他住、自他所行之、何況女姓在家人等

 令相伝事、殊以可禁制也、仍為後日之状如件、

-------------------------------------------(紙継目裏ニ座主増恵ノ花押アリ)-----

     (1338)

     建武五年十一月廿二日

                金剛仏師尊範(花押)

                   僧尊成(花押)

                   僧安尊(花押)

                   僧尊善(花押)

                   保弟房

                   僧増勝(花押)

              為証人座主増恵(花押)

 「書き下し文」

 一つ、如法経の間の事

  河原の観如方より買得する田地三段〈行本と号す〉尊範後生菩提の為寄進せしむる所なり、経衆与に同心し寄り合ひ奉り、検注納所を遂げ当如法経中の時料に之を用ゐらるべし、此の外同じく観如寄進の田地又三段之在り、同じく沙汰致し時料に用ゐらるべきなり、

 一つ、正教の事

  要たるべき正教は経蔵に安置せしむべき所と為す、其の外私尊範の聞書等、火中に入るべきなり、

 一つ、笙笛の事

  当山重宝たるの間、他所に出だすべからざるの上は、其の器量に随ひ借書を出ださば、之を預け置かるべきか、

 一つ、尊範死荒の間の事

  火葬を用ゐるべからず、不動堂西岸前に深く穴を掘り、棺ながら落とし入れ之を埋め、上に畳石同じく立石、阿字一字を座主御房に誂へ申し卒塔婆に用ゐるべきなり、其の外は一切別の子細有るべからざる者なり、仍て後日の為の状件のごとし、

 右尊範跡の仁ら、面々之を存知せしめ、且つうは住山の思ひを成し、且つは孝養の誠を致し、之を知行せしむべし、未来に於いては、又其の器用を守り交衆中同朋の間に之を相伝せしめよ、若し不慮の外里住他住せしむと雖も、他所より之を知行せしむべからず、何ぞ況んや女性在家人ら相伝せしむ事、殊に以て禁制せしむべきなり、

 

 「解釈」

 一つ、如法経会のこと。

  河原の観如方から買得した田地三段〈行本と呼ぶ〉は、尊範の後生菩提のために寄進するところである。蟇沼寺の寺僧たちはみなともに同心し結束し申し上げ、検注・納所を遂げ、この如法経中の費用として、田地の得分を用いなさい。このほかに、同じく観如が寄進した田地がもう三段ある。同じく検注・納所を遂げて如法経会の費用に用いるべきである。

 一つ、経典のこと。

  寺院の要であるべき経典は、経蔵に安置するべきこととする。そのほか、私尊範の記録等は、火中に入れ焼却するべきである。

 一つ、笙の笛のこと。

  当山の重宝であるので、原則、他所に貸し出してはならないと決めているうえは、(貸し出すときには、)その人物の能力を見定め、その人物が借書をこちらに出すならば、それを貸し出してもよいだろう。

 一つ、尊範死亡後のこと。

  火葬を用いてはならない。不動堂西岸前に深く穴を掘って、棺のまま落とし入れて埋め、上に畳石を敷き、同様に立石も置き、阿字一字を座主御房に書いてもらうように依頼し申し上げ、卒塔婆に用いるべきである。そのほかは、一切格別の事情はあるはずもないのである。

 右、尊範の跡を継ぐ人々は、おのおの以上のことをご承知になり、一方では、寺に止まって修行することを思い、一方では誠意をもって供養し、この田地を領有するべきである。未来においては、またその能力にしたがって、蟇沼寺の寺僧として認められた同朋の間で、この田地を相伝させなさい。もし不慮の事態によって、里に住んだり、他所に住んだりすることがあったとしても、他所からこの田地を領有してはならない。まして女性や在家人らが相伝することは、とりわけ禁止しなければならないのである。そこで、将来のため置文は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「経衆」

 ─交衆の誤記か。「交衆」は「寺僧として活動をすることを許された僧侶(藤井雅子「中世醍醐寺における他寺僧の受容」『日本女子大学紀要』文学部66号、71頁、https://jwu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2583&item_no=1&page_id=4&block_id=99)。一方、「如法経衆」の略称、つまり「写経僧の集団」を意味するのかもしれません。ここでは一応、前者の意味を採用しておきます。

蟇沼寺文書10

    一〇 楽音寺院主良承申状

 

 安芸国沼田庄梨子羽郷内楽音寺院主権律師良承謹言上

                          (職)

  欲早任譜代相伝之旨賜安堵之 令旨当寺院務識兼懸木御前学頭職事

 副進

   一通 寺務職相伝系図

                  (藤原)

 右当寺者 朱雀院御願所、天慶年中為純友追討之勅願、仰左馬允倫実

                    (藤原)

 造立、以降為天台末寺、於院務職者、倫実一族等代々相伝連綿而無絶、

 就中本山住侶〈倫実」子孫等〉自玄乗坊之栄俊于良承譜代之條、

 地下無其隠者也、而地頭小早河三方相論之刻、為当郷闕所之地、以来于

 六波羅上野守宗宣知行之間、恣以武威院務職同被妨之年送日、

              儀哉

 雖訴訟曾以不叙用之、雖弊房彼田畠当知行于今無

                               知行

 相違、爰東夷□亡、政道又返于古之間、郡郷皆為本所進止庄園悉一円

 之御管領也、仍勒子細 上聞也、然而重代之有否相残、御不審者

                                 

 重代之預所当参之上者有召御尋者不其隠歟、然早任譜代相伝之旨

 下■賜安堵之令旨、弥抽御祈祷之忠懃、且為当寺興隆粗言上如件、

     (1333)

     元弘三年八月 日

  寺務職相伝系図

 文治三以後                ┌──・・・

  栄俊─仁光─宴海──隆憲隆憲与舜海 │隆憲舎弟

          └─舜海──賢海───・・・

                  〈舜海弟子」猶猶子也〉

                    (マヽ)

   ・・・───────頼賢〈○至自建武五年百五十八年〉」文治三年より〉

 

   ・・・───────良承

 (後筆ヵ)

 「

  一本郷  本郷村

  一小坂郷 小坂 荻路 沼田下  一浦郷〈木谷 吉名 高崎」福田 忠海 渡瀬」能地 須波

                    田ノ浦〉

  一井迫郷          一安直郷〈本市 七寶 片嶋」末廣 納所 小原」松江 惣定〉

  一梨羽郷 南方 下北方 上北方  一船木郷 船木村

            善入寺

  一真良郷 真良 別迫      以上八郷       」

 

 「書き下し文」

 安芸国沼田庄梨子羽郷内楽音寺院主権律師良承謹んで言上す

  早く譜代相伝の旨に任せ、安堵の令旨を下賜せんと欲する当寺院務職兼懸木御前学頭職の事

 副へ進らす

   一通 寺務職相伝系図

 右当寺は朱雀院御願所なり、天慶年中に純友追討の勅願の為、左馬允倫実に仰せて自ら造立す、以降天台末寺と為る、院務職に於いては、倫実一族等代々相伝連綿にして絶ゆる無し、なかんづく本山住侶〈倫実の子孫等〉は玄乗坊の栄俊より良承に至り譜代たるの條、地下其の隠れ無き者なり、而るに地頭小早河三方相論の刻み、当郷闕所の地と為る、以来時に六波羅上野守宗宣知行するの間、恣に武威を以て院務職を同じく之を濫妨せられ年を追ひ日を送る、訴訟を経と雖も、曾て以て叙用せざるの儀か、弊房と云ひ彼の田畠と云ひ当知行今に相違無しと雖も、爰に東夷滅(ヵ)亡し、政道また古に返るの間、郡郷皆本所進止として荘園を知行すること、悉く一円の御管領なり、仍て子細を勒し上聞に達せしむる所なり、然れども重代有りや否やの御不審相残るてへり、重代の預所当参の上は、召して御尋ね有らば、其の隠れ有るべからざるか、然るに早く譜代相承の旨に任せ、安堵の令旨を下賜せば、いよいよ御祈祷の忠懃を抽かむ、且つ当寺興隆を致さんが為、あらあら言上件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国沼田庄梨子羽郷内楽音寺院主権律師良承が謹んで言上する。

  早く代々相伝の由緒のとおりに、安堵の令旨をお与えになることを望む、当寺の院務職と懸木御前学頭職のこと。

 この申状に添付して進上する。

   一通 寺務職相伝系図

 右、当寺は朱雀天皇の御願所である。朱雀帝は天慶年中に藤原純友を追討するというご自身の願いのため、左馬允藤原倫実にご命令になって、倫実自身が当寺を造立した。以降、天台末寺となった。院務職については、倫実一族らが代々相伝して途絶えることはなかった。とりわけ、当山の住侶〈倫実の子孫ら〉が、玄乗坊栄俊より良承に至るまで、代々相承してきたことは、在地では明白である。しかし、地頭小早川の三方(沼田・梨子羽・竹原)で相論になったとき、当郷が闕所地となった。以来、時の六波羅探題南方の大仏宗宣が領有したので、武威によって院務職も同じく押領され、年月が過ぎていった。訴訟を経たけれども、いまだかつてこちらの主張が認められたことはなかった。我々の僧房もその田畠も、現在、実際に領有していることに間違いはないが、ここに鎌倉幕府(あずまえびす)が滅び、政道はまた元のように朝廷に返ったので、郡郷はみな本所の支配として、一円に荘園をご領有になっている。そこで、この事情を書き上げて、後醍醐天皇のお耳に入れたところである。しかし、重代相伝であるか否かのご不審が残っているという。代々預所を務めた人物がそちらに出頭しているうえは、その預所をお召しになってお尋ねになれば、お疑いは晴れるにちがいないだろう。したがって、早く譜代相伝の由緒のとおりに、安堵の令旨をお与えになれば、ますます忠義を尽くしてご祈祷を勤めましょう。それとともに、当寺を興隆するため、おおよそ言上することは、以上のとおりです。

 

 「注釈」

六波羅上野守宗宣」

 ─大仏宗宣。没年:正和1.6.12(1312.7.16)生年:正元1(1259)鎌倉後期の幕府執権。大仏宣時と北条時広の娘の子。北条宗宣ともいう。弘安5(1282)年従五位下,同9年引付衆,翌年評定衆となる。正応1(1288)年上野介,永仁1(1293)年越訴奉行,小侍奉行,執奏などを経て,同4年四番引付頭,次いで寄合衆(幕政会議である寄合の構成員)となる。翌年六波羅探題南方に任じて上洛,乾元1(1302)年正月鎌倉に帰ったが,その間に陸奥守となった。鎌倉に帰ってから一番引付頭,官途奉行,越訴奉行などを務め,嘉元3(1305)年執権北条師時連署となり,応長1(1311)年10月執権に就任したが,正和1(1312)年5月病を得て辞任,出家した。法名は順昭といった(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/大仏宗宣-40215)。

 

「小坂郷」

 ─おさかごう。沼田庄内に成立した中世の郷で、沼田川下流北部に位置する。元弘三年(1333)七月十九日付後醍醐天皇綸旨(小早川家文書)により、沼田小早川惣領家朝平に小坂郷の知行が安堵された。応永二十一年(1414)四月十一日付小早川常嘉譲状案写(同文書)によると、塩入市庭(沼田新市)を含む小坂郷の地頭職・公文職・検断権が常嘉(則平)から子の持平に譲られたが、永享五年(1433)六月日付の小早川氏知行現得分注文写(同文書)には小坂郷二三〇貫文、新市在家一五〇は則平知行分とあって、持平から取り戻しており、永享十二年六月二十七日付足利義教御判御教書(同文書)は、小坂郷を含む持平知行分を煕平の知行としている。継目安堵御判礼銭以下支配状写(同文書)の文明十二年(1480)十月のものによると、公文の代官が二人置かれ、郷内の大長寺・善根寺・円満寺・円城寺などとともに礼銭一貫五〇〇文から二〇〇文を負担。このとき小坂郷は人夫銭四貫五〇〇文を負担している。

 天文二十三年(1554)四月二十七日付安芸国沼田庄小坂郷門田内打渡坪付、欠年の四月二十八日付桂景信書状(已上山口県文書館蔵)によると、小早川隆景は当郷のうち鳥越・高柳・はたかわ・中すか・耽源寺之前。権現之前・金城・横畠・引さこ・ミないたなど田一町九反三一〇歩(一〇・二八石)、しんきやうたを(真行峠)・今西・いろさこなど畠七反一二〇歩(一・八四石)の米・麦・大豆一二・一二石、銭にして一二貫一二〇文を伊勢神宮に寄進。天正九年(1581)六月一日付の小早川隆景充行状(「閥閲録」所収飯田平右衛門家文書)によると、当郷の田畠五貫七〇〇余(山河とも)が飯田尊継に宛行われている。村山家檀那帳(山口県文書館蔵)の天正九年分は当郷に蓮池・門田・土屋・小松・有田・田坂・羽仁・伊藤の諸氏、女意庵・竹内寺・福寿坊のほか、江良殿の室を記し、江良(現豊田郡本郷町)の一部が郷内に含まれていたとも考えられる。

 小坂郷は慶長六年(1601)の検地により、小坂・沼田下(ぬたげ)・荻路(おぎろ)の三ヶ村となった。

 

「浦郷」

 ─中世、沼田庄の海岸部一帯を中心とした郷。「和名抄」所載の沼田郷今有(いまり)郷とほぼ同域と考えられ、現三原市沼田東町の釜山・末光・両名、田野浦町・宗郷町・明神町和田町須波町・沖浦町・登町・幸崎町・竹原市忠海町の辺りをさす。「閥閲録」所収の浦図書家書上に、沼田小早川宣平の七男氏実(浦氏の祖)は「安芸国豊田郡浦ノ郷に住居」とあり、当郷は浦氏の勢力下にあり、郷内には浦氏から丸山氏などが分出。室町時代と推定される小早川氏一族知行分注文(小早川家文書)に、浦三〇〇貫文と記す。浦氏の主流は慶長五年(1600)の毛利氏の防長移封に従い、当地を去った。(『広島県の地名』平凡社

 

「井迫郷」

 ─「芸藩通志」には、釜山村(三原市沼田東町釜山)と末光(同町末光)・両名(同町両名)の三ヶ村を井迫(いざこ)郷というとあり、井迫を「井廻」の誤記とし、「和名抄」所載の沼田郡今有郷に否定(「釜山村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「安直郷」

 ─三原市沼田東町本市。荻路村の対岸、鎌倉時代以来の干拓地に立地。中世は沼田庄安直郷に含まれ、沼田川南岸の自然堤防上には市場が成立し、沼田本市と称された。村名はこれによる。安芸国豊田郡に属し、元和五年(1619)の安芸国知行帳では三五三三・八八六石の阿鹿村に含まれる。(中略)(「国郡志下調書出帳」には)市裏に祇園宮(現沼田神社)、市に恵比寿祠、市の中ほどに僧円之が開いたという齢亀山徳寿庵(現徳寿院、曹洞宗)を記す。沼田神社は須佐之男神・櫛名田比売神を祭神とし、本市・七宝両地区が祀る。豊田郡神社明細帳によると、沼田庄に疫病が流行したとき、武塔神素戔嗚尊)を祀り、その教えにしたがって潮を留めて沼田川の水を引き田を開いたところ、疫病は鎮止、村は繁盛したという。境内社には和久産巣日神・宇気母智神・大宮能売神などを祀る浮島神社がある(「本市村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「船木郷」

 ─本郷町船木、賀茂郡大和町大草。本郷村の西北に位置し、北西から南東へ流れる沼田川と支流菅川の合流地を中心に低地が広がり、北東の中野村(現御調郡久井町)との境に飛郷芋堀がある。「和名抄」所載の沼田郡船木郷の地に比定され、のち沼田本庄に属し、菅川沿いに平坂、姥ヶ原(現大和町)を経て沼田新庄(現賀茂郡大和町。河内町・豊栄町一帯)へ通じた。村の南部、本郷村の高山城跡の北に続く鷺谷の丘陵から貝塚が発見され、鷺谷の北、沼田川東岸に位置する清井の丘陵突端の舟木遺跡からは、弥生時代後期の合口甕棺が出土している。

 小早川氏の拠城高山城・新高山城に近接し、沼田庄中心部の一つで、小早川茂平の長子経平が船木郷地頭となり、船木氏の祖となった(小早川家系図)。建武三年(1336)正月二日の源朝臣某下文案(小早川家文書)によると、経平の孫貞茂は船木郷地頭を元のとおり安堵されている。応永三十一年(1424)十月日付の仏通寺方丈上棟右馬人数注文写(同文書)に一貫文船木殿とあり、また、室町時代の小早川氏一族知行文注文(同文書)に「船木 百廿五貫文」とある。一方、文和三年(1354)十二月二十九日には、貞茂の甥と見られる家宣が知行していた「船木郷二分方」などは惣領家小早川貞平に預けられ(「足利義詮御判御教書写」同文書)、永享五年(1433)六月日付の小早川氏知行現得分写(同文書)に、常建(則平)知行分として「船木郷内時貞名三十貫文除庶子分定」とあるのは貞平の跡を受けたものと考えられる。なお、則平は貞平の孫で、いったんこれを子の持平に譲ったが、悔返権を行使して持平の弟煕平に譲り替えている。永享十二年七月六日、山名持豊に対し、船木郷など持平の知行分は煕平の代官に渡すようにという管領細川持之施行状(同文書)が出されている。

 神社は香久山太神宮・天津社八幡宮・船材敏神社を記すが、他に、仁寿二年(852)村人が豊作を祝って創建したと伝える鷺谷の秋友神社、源義経に従ってこの地に来た金売吉次が勧請したと伝える字金売の金沾神社(祭神源義経)、高山城跡にある高山中腹の道谷(堂谷)の、文明年間(1469─87)に疫病で多くの牛馬が死んだので祀ったところ牛馬市が起こって賑わったと伝える鷹山神社などがある。寺院には永福寺のほか、小早川朝平の建立と伝える円山寺(現臨済宗仏通寺派)、天文二年(1533)に小早川氏の臣高橋大九郎が禅宗寺院として開いたと伝える光顔寺(現浄土真宗本願寺派)があり、廃寺として善正寺・平坂寺・教真寺(一株院)・寿徳寺・極楽寺・奥蔵院などがあった。

 伝えによると、沼田川北岸にある亀ヶ淵は永正年中(1504─21)の大旱魃のとき村人が掘ったものといい、そのとき取り除いた大石が亀の頭にいていたところから、付近を亀頭ヶ原(亀津)と呼ぶようになったという。別所村(現大和町)寄りの沼田川北岸山中の渓谷には、永禄四年(1561)に毛利元就も見物した棲真寺の滝(瀑雪の滝)があり、南岸の渓谷には女王の滝がある(「船木村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「真良郷」

 ─三原市高坂町真良。別迫村の西から西南に位置した大村。安芸国豊田郡に属した。耕地は、高山と毘沙門山の間を抜けて南の本郷村(現豊田郡本郷町)に至る沼田川の支流仏通寺川流域の低地と、船木村(現本郷町)へ流れる二瀬川上流域に形成された標高170メートル前後の馬井谷、北部に広がる標高200─350メートルの鹿群高原に展開する。

 北部丘陵末端部と南部橋梁東斜面から弥生時代後期の弥生式土器・鉄刀子が出土。仏通寺川流域の丘陵斜面には多くの古墳が築造され、横穴式石室をもつ後期古墳には大陣古墳群・小陣古墳群・真良古墳群などがある。「和名抄」所載の沼田郡真良郷の中心で、村内を古代山陽道が南北を走り、馬井谷に真良駅が置かれたと考えられている。

 中世には沼田庄に属し、本郷村・船木村との境に位置する高山城には沼田小早川氏が拠った(豊田郡本郷町の→高山城跡)。正応二年(1289)閏十月九日付の関東下知状写(小早川家文書)によると、正嘉二年(1258)小早川茂平が妻浄仏に譲った所領のうち真良および吉野屋敷八町門田は、娘松弥に譲るとされていたが、譲渡に際して相論があった。吉野屋敷は高山城の東麓にあった蔵王権現付近と思われ、同社は吉野権現を勧請したと伝え、吉野の地名も残る(芸藩通志)。文安五年(1448)十二月三日付の領家納入公用目安写(小早川家文書)には、一貫文を納めた吉野殿の名が見える。延徳三年(1491)八月六日付の小早川敬平充行状(「閥閲録遺漏」所収国貞平左衛門家文書)によると、小早川氏一族の国貞永禅は真良村にある在木九郎右衛門給田畠を宛行われ、延徳三年八月六日付の小早川敬平安堵状(同文書)で永禅知行分の真良内屋敷田畠等は国貞敬国に安堵された。国貞氏はもと真良氏を名乗り、室町時代の小早川氏一族知行分注文(小早川家文書)に真良五〇貫文とある。明応四年(1495)六月九日付の小早川敬平安堵状(「閥閲録」所収乃美仁左衛門家文書)で真良村の小泉兼弘知行分は乃美是景の本領とされている。大永元年(1521)十一月二十七日付の仏通寺塔頭正法院領田地目録(仏通寺正法院文書)によると、真良村分の二分方是弘名の安恒宮ノ上、厳島ノ前、末実名槙本三延田・門田、半迫などが真田氏・是弘氏。末実氏などから正法院へ売られている。

 「芸藩通志」によると、戸数199、人口837、牛150・馬20、御建山に橋畝山、三原浅野氏の御建山の毘沙門山、御留山に八幡山、半迫池・燕池など四池があり、字宮ノ下の八幡山(現大多良神社)は土肥(小早川)遠平が鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したと伝え、永禄八年(1565)に小早川隆景が再建、高山の若宮八幡宮(明治二十四年大多良神社へ合祀)は遠平の子惟平を祀るともいい、他に蔵王神社・厳島神社などを記す。寺院には仏通寺川沿いの真言宗常楽寺(現廃寺)、明応三年小早川扶平の建立でのち三原城下へ移されたが、本尊十一面観音だけはそのまま当地に安置して「旧香積寺」とも称した曹洞宗鳳翔山香積寺、真良新三郎康近の子浄祐が山南(現沼隈郡沼隈町)の光照寺に赴いて僧となり、永禄九年に開いた高谷山福泉寺(現浄土真宗本願寺派)など、名勝に屏風岩を記す。高山城跡の東部丘陵上にある前土井山城跡は国貞氏の居城と考えられ、村の中ほど西側の大陣山・小陣山は天文十三年(1544)十月、尼子氏が高山城を包囲したとき在陣したところと伝える。南部の仏通寺川流域吉野付近は蛍の多いところで、節分から一二〇日目のころに蛍が飛び交うさまを蛍合戦と称した(国郡志下調書出帳)(「真良村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「懸木御前」─未詳。懸木という地域にある社か。

気になる狛犬 その2(完)

佐賀市本庄町大字本庄「本庄神社」(T撮影)

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佐賀市伊勢町「伊勢神社の肥前狛犬」(T撮影)

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佐賀市大和町大字久留間「男女神社」阿々型・合掌型狛犬(T撮影)

 *向かって右側の狛犬は、合掌しているように見えます。

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福山市神辺町川南「早田荒神社」

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福山市加茂町芦原「賀茂神社

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防府市お茶屋町「老松神社」 *吽形だけ上向き

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広島県庄原市西城町熊野「熊野神社拝殿前の出雲型狛犬」 *阿形のみ子取り型

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佐賀県武雄市「武雄神社拝殿」

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「武雄神社摂社の城山稲荷・塩釜神社前」

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佐賀県佐賀市肥前国一宮與止日女神社」 *阿吽形上向き

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佐賀県神埼市「脊振神社下宮」 *阿形片足玉乗り型・吽形子取り型

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佐賀県三養基郡みやき町肥前国一宮千栗八幡宮肥前狛犬

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千栗八幡宮摂社の武雄神社」

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広島県三原市本郷南「恵美須神社の鳥居の鯛型神額と子取り型狛犬

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三原市沼田東町片島「小片島神社の子取り型狛犬と木造狛犬

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佐賀県佐賀市与賀町「與賀神社」 *両者上向き型・阿形片足玉乗り型(T撮影)

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岡山県笠岡市横島「道通神社」 *阿形片足玉乗り型・吽行子取り型

 

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広島県三原市本郷町南方「弁海神社」

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広島県三原市本郷町南方「蟇沼神社」

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