周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福成寺文書1

 【福成寺文書】

解題

 この寺は真言宗の古刹で、縁起によると聖武天皇の開基で寺号を「福納寺」と称えていたが、弘法大師巡錫の時、寺地を移し、その後は「福成寺」と呼ぶようになった。源平合戦のころ、源範頼の軍勢は平家を討つためこの地方へも下向し、安芸国分寺にいた平家方と戦い、逃れた平家勢力は福成寺山に登った。この時の戦禍で金堂悉く炎上した。その後、復興されたが、元亨年間に再び回禄にあったという。室町戦国時代には周防大内氏の氏寺氷上山興隆寺の末寺として繁栄し、ついで毛利氏の保護をうけた。

 本文書は、元弘・正平年間の綸旨二通と戦国時代毛利氏関係文書七通からなっている。かつての建物の格天井とみられる板片には応永二十一年(一四一四)の年紀を有する法華経が書写されている。銅鐘には寛正二年(一四六一)の銘が刻まれている。後二者は付録(一一七八〜一一七九頁)へ所収した。

 

 

    一 後醍醐天皇綸旨(宿紙)

 

   賀茂郡          賀茂郡

 安藝國福成寺院主信観寺内并寺領於三永田畠等、被止地頭綺畢、存

 其旨祈禱者、天気如此、悉之、以状、

     (1333)

     元弘三年十二月八日       式部大丞(花押)

 

 「書き下し文」

 安芸国福成寺院主信観寺内并に寺領の三永田畠等に於いて、地頭の綺を停止せられ畢んぬ、其の旨を存じ祈祷を致すべし、てへれば、天気此くのごとし、之を悉せ、以て状す、

 

 「解釈」

 安芸国福成寺の院主信観の申し出により、寺内と寺領の三永の田畠等において、地頭の干渉をやめさせなさった。この内容を承知し祈祷をしなければならない。というわけで、天皇のご意向は以上のとおりである。命令を執行せよ。以上の内容を下達する。

 

 

 「注釈」

「福成寺」

 ─現東広島市西条町下三永福成寺。洞山(五四四・六メートル)西の字福成寺の谷を南に臨む福成寺山(五〇九メートル)山腹にある。表白山九品院と号し、真言宗御室派。本尊は応永二十一年(1414)印告の作と伝える千手観音。延宝二年(一六七四)の縁起や「芸藩通志」などによれば、聖武天皇の代に当地に流された猟師が、鷹坂山(福本村にあるという)で光を放つ千手観音像を得、草堂を建てて安置、福納寺と号した。猟師は網の衣を着ていたので、網衣上人と呼ばれた。寛仁年中(一〇一七─二一)覚引の時現在地に移り福成寺と改め、「西条一族」の氏寺として繁栄したが、元暦元年(一一八四)源平合戦で全焼。その後源頼朝の援助で再建されたが、同じ頃西条に下っていた源頼政の室菖蒲前(西妙尼)が三永村を寄進したとの伝承もある。その後元亨年間(一三二一─二四)にも火災に遭ったという。

 元弘三年(一三三三)十二月八日の後醍醐天皇綸旨(当寺文書)に、三永の寺領における地頭の押妨を停止するとあり、正平十三年(一三五八)にも後村上天皇から三永村寄進の綸旨(当寺文書)を得るなど、南朝との関係が強い。東西条が大内氏に与えられると、当寺別当職は大内氏の氏寺興隆寺(現山口県山口市)に預けられた(応永元年十月十三日付「大内義弘預ヶ状案」興隆寺文書)。延徳三年(一四九三)頃のものと思われる三月二十一付毛利弘元書状写(平賀久生氏蔵「平賀家旧記」所収)に「福成寺御領伍拾貫地」とあり、大永三年(一五二三)頃の寺領は三永村の半分にあたる一五〇貫であった(同年八月十日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。毛利氏も当寺の保護に努め(元亀三年二月九日付「毛利輝元加判并同氏奉行人連署制札」当寺文書)、天正十二年(一五八四)には毛利輝元が伊予の河野通直との会見を当寺で行っている(年欠六月二十五日付「毛利輝元書状」当寺文書)が、毛利八箇国時代分限帳(山口県文書館蔵)には寺名が見えない。「芸藩通志」によれば、字福成寺の谷に屋号や地名として等善坊・蔵専坊・密坊・岡坊・吉善坊など多くの名が残っていたといい、盛時の時勢がしのばれる。

 現在境内には、仁王門・本堂・鎮守堂(本尊弥勒菩薩)・鐘楼・十王堂・天神社などがある。鐘楼の銅鐘(県指定重要文化財)は寛正二年(一四六一)七月五日の刻銘がある、願主明秀、檀那長真大徳・道清禅門の名が見えるが不詳。また十王堂の天井板絵の一部には応永二十一年の裏書がある。寺蔵の福成寺文書(九通、付縁起一巻)は南北朝時代から戦国末期にかけての西条盆地の歴史を知るうえで重要な史料で、県指定文化財。このほか西妙が寄進したという鏡や自作木像、空海筆と伝える「福成寺」の山門扁額などを蔵する(『広島県の地名』平凡社)。

 

「三永」

 ─「上三永(みなが)村」。東広島市西条町上三永。西条盆地の東端に位置する。東西に長く北向きにゆるく傾斜する谷を三永川が西流。南北とも標高四〇〇メートル(比高二〇〇メートル)の山が連なるが、北部谷あいをを山陽道西国街道)が走る。北と東は豊田郡田万里村(現竹原市)。中世は西の下三永村とともに三永村と称され、元弘三年(一三三三)十二月八日付後醍醐天皇綸旨(福成寺文書)に福成寺領三永のことが見え、正平十三年(一三五八)十二月八日付後村上天皇綸旨(同文書)には「東条郷之内三永村」を福成寺に寄進するとある。文明七年(一四七五)以前に三永の地は大内政弘から毛利豊元に与えられたが(毛利家文書)、大永三年(一五二三)頃には三永村三百貫のうち半分が福成寺領、半分が大内方諸給人の知行となっている(同年八月十日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。なお、このほか「三永方」として四十貫の「小郡代領」があり(同知行注文)、「三永方田口村」の用例もあるので(永正六年八月十三日付「大内義興下文」千葉文書)、より広義の地域呼称もしくは所領単位として「三永方」があったことも考えられる

 天文二〇年(一五五一)以後西条盆地の大半は毛利氏の支配下に入ったが、三永を含む東辺部や南部は小早川氏の影響力が強かった、天文二十三年小早川隆景から荒谷吉長に対して「於三永村、吉長作職拘分地頭納所之内、夫銭貳貫文并石立宿」(同年十二月十三日付「小早川隆景宛行状」荒谷文書)が給地として宛行われ、田万里村境に近い石立には宿が形成されていた。三永に給地を得ていた武士として荒谷氏のほかに田坂氏・勝屋衆の名が知られるが(田坂文書、浦家文書)、「芸藩通志」には細井信濃・長谷内蔵助・胡麻大内佐・石橋力矢らの屋敷跡が上三永村にあったとし、いずれも村南西にあった茶臼城主の家人と伝える(『広島県の地名』平凡社)。

 

「田口村」

 ─東広島市西条町田口。下見村の南に位置する。黒瀬川が北の御園宇村から吾妻子滝を下って西流、西の吉川村から東流する古河川と字落合で合流して南の小比曽大河内村へ流れる。下見村との間には標高三三〇メートルの山があるが、その西の丘陵は低く道が通じていた。永正六年(一五〇九)八月十三日付大内義興下文(千葉文書)によると、松橋与三郎知行分の「三永方田口村内仏師名拾貫文足」が神保信胤に宛行われている。「仏師名」は現在の字武士に当たると思われ、田口村は三永(みなが)方とされている。大永三年(一五二三)八月十日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)では田口村七十五貫のうち、三十五貫が阿曾沼氏、残りが大内方諸給人の知行であった。天文六年(一五三七)阿曾沼氏と思われる興郷は、当村内吉近名下作職を蔵田九郎兵衛尉に預け置いている(同年正月二十六日付「興郷判物」今川家文書)(「田口村」『広島県の地名』平凡社)。

疫神の中世的イメージ (Image of God of pestilence in the Middle Ages)

  応永二十八年(1421)五月二十八日条

          (『看聞日記』2─133頁)

 

    (冷泉範綱ヵ)                  (後小松上皇

 廿八日、正永参語世事、洛中病死興盛、言語道断事云々、此間仙洞有御夢想、相国

  寺門前千頭許群衆、門内欲入、而門主防之追出、前牛声シテ曰、誠

  座禅之所也、不可入、牛共退散、京中乱入了、夢中人云、是コソ疫神ニテ

  候申、御夢覚了、室町殿院参之時被語申、則退出、相国寺へ入御、僧達悉可依

  座之由被仰、大衆依座勤行云々、不思儀御夢也、春日社有怪異、社頭鹿斃死又

  血流云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 二十八日、正永参り世事を語る、洛中にて病死興盛、言語道断の事と云々、此の間仙

  洞御夢想有り、相国寺門前に牛千頭ばかり群衆す、門内へ入らんと欲す、而るに門

  主之を防ぎ追ひ出す、前に進む牛声を出して曰く、誠に座禅の所なり、入るべから

  ずと云ひて、牛共退散し、京中へ乱入し了んぬ、夢中に人云く、是れこそ疫神にて

  候ふと申し、御夢覚め了んぬ、室町殿院参の時語り申され、則ち退出し、相国寺

  入御す、僧達悉く座に依るべきの由仰せらる、大衆座に依り勤行すと云々、不思儀

  の御夢なり、春日社に怪異有り、社頭に鹿斃死し又血流ると云々、

 

 「解釈」

 二十八日、冷泉範綱(ヵ)がやって来て世間話をした。「洛中で病死する人が数多く出た。もってのほかのことである」という。この間、後小松上皇の夢でお告げがあった。相国寺の門前に牛千頭ほどが群衆し、門内に入ろうとした。しかし門主がこれを防ぎ追い出した。先頭を進んでいた牛が声を出して言うには、「やはり座禅の道場である。入ることができないぞ」と言って、牛どもは退散し、京中へ乱入した。夢の中である人が言うには、「これこそ疫神です」と申し、夢が覚めた。室町殿足利義持が院参した時に上皇がお話し申し上げなさり、室町殿はすぐに退出して、相国寺へお入りになった。「僧たちはみな座に集まれ」と仰せになった。僧たちは座に集まり勤行したそうだ。不思議な夢である。春日社で怪異があった。社頭で鹿が斃死し、また血が流れたという。

 

 May 28th, Reizei Noritsuna came and talked. He said, "A lot of people died in sickness in Kyoto. During this time, Gokomatsu Joko (the Emperor Emeritus) dreamed of God's message. Thousand cows gathered in front of the gate of Shokokuji temple and tried to enter the gate. But the chief priest kicked them out. The leading cow said, "This is a sanctuary. We can not enter." The cows ran away and burst into the city. The Emperor Emeritus woke up when the one in the dream said, "It is the god of pestilence." As General Ashikaga Yoshimochi visited the Emperor Emeritus, the Emperor Emeritus told the General this dream. The general immediately exited and came to Shokokuji temple. I heard that he gathered the monks and made them pray. It is a strange dream. A strange event happened at Kasuga Taisha Shrine. I heard that a deer died in the precinct and blood flowed again.

 (I used Google Translate.)

 

*解釈は八木聖弥「『看聞日記』における病と死(2)」(『Studia humana et naturalia』38、2004・12、https://kpu-m.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=931&item_no=1&page_id=13&block_id=21)、鈴木亨『日本史瓦版』(三修社、2006)、清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』(吉川弘文館、2008、133頁)を参照しました。

 

 「注釈」

 中世人が疫神を牛の姿でイメージしていたとは知りませんでした。前掲清水著書によると、「疫神」=「牛」というイメージは、後小松上皇の個人的なものではなく、中世人の常識となっていたようです。似たような夢の記載は、『経覚私要抄』(宝徳2年4月)にも記されているそうです。

 それにしても、なぜ牛なのでしょうか。これについても清水著書で説明されています。

 

 「日本中世で最も有名な疫神である牛頭天王は、その名のとおり『牛』の姿をしていたり、『牛』にまたがったりするものとされていた。おそらく当時の人々は、この牛頭天王と疫病の連想から、人々を悩ます疫神の正体を『牛』のイメージで造形してたのだろう。」

 

 目に見えない病気の正体を、目に見える何かに象徴化して理解しようとする。現代で言えば、ウイルスや虫歯菌のようなものを、三又の槍を持った悪魔のようなキャラ(バイキンマン)で表現するようなものでしょうか。人間のやっていることは、昔からあまり変わらないようです。

榊山神社文書(完)

 【榊山神社文書】

解題

 熊野庄内各社の物申役を勤めた梶山氏に伝来する文書である。

 

 

    一 熊野社神田注文

     熊野之内御神田[

 一米五石     八幡御神田       物申かゝへ

           (ヵ)

 一壹石五斗    す才神田        物申かゝへ

      此内四斗五升ハ不作

 一米五斗     熊のう神田       物申かゝへ

           (王)

 一米貳斗     天玉神田        物申かゝへ

 一米五斗     きおん神田      [     ]

         以上七石参斗

     (1555)

     天文廿四年十二月十日    赤川源左衛門尉(花押)

                   兒玉若狭守

                   渡邊新右衛門尉(花押)

       くまの物申 まいる

 

*書き下し文・現代語訳は省略。

 

 「注釈」

榊山神社」─安芸郡熊野町中溝。熊野盆地の西北にそびえる城山と金ヶ灯籠山の間に

       ある谷の入口で、盆地の大半を眺望できる丘陵上に鎮座。もと本宮八幡

       宮と称し、神功皇后以下三神を祀る。旧村社。承平三年(九三三)宇佐

       (現大分県宇佐市)より勧請したと伝えるが詳細は不明。

       社蔵の享禄元年(一五二八)十二月二十七日付越中守相真補任状は、大

       内氏家臣で菅田氏と思われる相真が、二郎左衛門尉実憲(梶山氏か)を

       「熊野惣庄祝言職」に補任するというもので、前年熊野要害(土岐城

       か)を攻略した大内氏が熊野庄を支配するようになったこと、当社が熊

       野庄内で卓越した地位にあったことなどがうかがえる。このあと、天文

       二十四年(一五五五)十二月十日、毛利氏奉行人が、当社物申の抱える

       荘内各社の神田を書き上げた注文も伝えるが、そこでも当社の神田五石

       は他社を上回っている。宮司は梶山氏であるが、大内氏の熊野要害攻撃

       で大内勢に討たれた者のなかに梶山新左衛門尉の名が見えるし(大永七

       年二月十日「天野興定合戦分捕手負注文」天野毛利文書)、平谷村の草

       分百姓として近世庄屋を世襲したのも梶山氏で、熊野盆地南部に根を張

       った在地土豪であったことがうかがえる。

       当社境内で踊られる盆踊は梶山神社年中事物録(当社蔵)に「弘治二丙

       辰八月朔日祈願ニ付踊申候」とあり、当時多くの牛が死に、虫害がひど

       かったため、神楽踊を奉納したのに始まるといわれている。

       境内社に熊野本宮神社があり、養和元年(一一八一)紀州からの勧請と

       いうが、榊山神社が近世までは本宮八幡と称していたこと、「芸藩通

       志」所収絵図では熊野権現が中央で諏訪社と八幡(現榊山神社)はその

       両横に鎮座していることなどから、あるいは榊山神社よりも熊野本宮神

       社のほうが勧請時期が古い可能性もある(『広島県の地名』平凡社)。

「物申」─祝詞などを奏すること(『日本国語大辞典』)。

野村文書3(完)

    三 阿曾沼元秀宛行状(切紙)

 

        (安芸安南郡          (成)

 爲太郎給地、上世能之内貳貫目宛行候、彼者盛人之間者、其方奉公肝要候、

 左候者従勲功弥々可扶持候、仍状如件、

     (1579)

     天正七年〈己卯〉十一月吉日    元秀(花押)

             野村淡路守殿

 

 「書き下し文」

 太郎の給地として、上世能の内二貫目を充て行ひ候ふ、彼者成人の間は、其方の奉公

 肝要に候ふ、左候へば勲功に従ひ弥々扶持を加ふべく候ふ、仍て状件のごとし、

 

 「解釈」

 太郎の給地として、上世能のうち二貫目の地を給与します。太郎が成人となるまでの間は、あなたの奉公が肝要です。そのような状況ですので、勲功によってますます俸禄を与えるつもりです。よって、充行状は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「上世能」─上瀬野村(安芸区瀬野川町上瀬野)。瀬野川上・中流域に位置し、安芸郡

      東北端にあたる。南の賀茂郡熊野跡村から北流する熊野川が字一貫田で瀬

      野川に合流し、一帯にかなりの平地を形成する。集落はこの平地と瀬野川

      上流沿いに営まれる。北の八世以山、東の水丸山など急峻な山に囲まれ

      る。

      建久九年(一一九八)の官宣旨案(壬生家文書)に「世能村」とあり、鎌

      倉時代初頭、下瀬野村域も含めて世能村と称されている(ただし瀬野川

      南を除く)。この時世能・荒山両村が世能荒山庄として立荘されたが、承

      久三年(一二二一)十月八日付清原宣景申状(清原家文書)には「凡当御

      庄内地頭相交之地者、新山村・阿土村・下世能村等也(ヵ)、又号久武名

      者地頭名也、散在村々、此外於上世能村(ヵ)郡司領等者、自往昔地頭更

      不相交之地」とあり、この頃世能村が上下に分かれていたこと、上世能村

      は地頭の権限の及ばない地であったことが知られる。なお当村には国衙領

      もあったらしく安芸国衙領注進状(田所文書)に「上世乃正木[  ]

      小」とみえる。中世を通じて阿曾沼氏の治下にあり、天正七年(一五七

      九)「上世能之内貳貫目」が家臣野村氏に宛行われている(同年十一月吉

      日付「阿曾沼元秀宛行状」野村文書)(『広島県の地名』平凡社)。

野村文書2

    二 阿曾沼元秀宛行状(切紙)

 

     (野村)

 今度上口淡路守供之段神妙候、弥奉公肝要候、於然者壹貫五百目太郎ニ可

 者也、仍所定如斯、

     (1579)

     天正七年〈己卯〉

       貳月六日           元秀(花押)

              野村太郎殿

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 今度上口淡路守の供の段神妙に候ふ、弥奉公肝要に候ふ、然るに於いては一貫五百目太郎に遣はすべき者なり、仍て定むる所斯くのごとし、

 

 「解釈」

 この度、上口淡路守の供をしてくれたことは感心なことである。ますます奉公することが肝要です。そこで一貫五百目の地を野村太郎に与えるつもりである。よって、決定したことは以上の通りである。

 

 「注釈」

「上口淡路守」─3号文書の野村淡路守のことか。野村太郎の一族で、後見人なのかも

        しれません。