周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

洞雲寺文書10

   一〇 友田興藤安堵状

 

 當社領佐西郡平良庄之内洞雲寺領、基者圓満寺并薬師寺両所之分也坪付在別紙之、叔

               (用兼)

 父下野守教親其子掃部頭宗親、金岡和尚書進、任一行之旨除諸役

 等訖、任先規寺家寺領、執務不相違之状如件、

    (1530)

    享禄三年寅庚二月十日       上野介興藤(花押)

 

   洞雲寺現住(天庵宗春)

      春公長老禅師

 

 「書き下し文」

 當社領佐西郡平良庄の内洞雲寺領、基は圓満寺并びに薬師寺両所の分なり(割書)

 「坪付別紙に之在り」、叔父下野守教親・其の子掃部頭宗親、金岡和尚へ書き進らせ

 しむ、一行の旨に任せ諸役等を免除せしめ訖んぬ、先規に任せ寺家と云ひ寺領と云

 ひ、執務相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 厳島社領佐西郡平良庄のうち洞雲寺領。もとは圓満寺並びに薬師寺両所の寺領であった。田数と所在地は別紙に記してある。叔父である藤原教親とその子である藤原宗親が金岡用兼和尚へ寄進状を書き進めた。その寄進状の内容のとおりに諸役などを免除した。先例どおりに、寺家も寺領も春公長老が事務を取り扱うことに相違あるはずもない。安堵状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「平良庄」─佐伯郡沿岸部の中央、厳島の北方対岸にあたる可愛川流域一帯の地で、現

      在の廿日市町一帯にあたる。厳島神社領の中心地(『広島県の地名』)。

「圓満寺」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)地域にあった中世の廃

      寺。現在も小字名として残る(『広島県の地名』)。

薬師寺」─円満寺と同様に、佐方にあった中世の廃寺か。

「坪付」─田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に記載するもの(『古

     文書古記録語辞典』)。

「教親・宗親」─厳島神主、桜尾城主。

「金岡和尚」─洞雲寺開山金岡用兼。

「一行之旨」─1号文書、厳島社神主宗親寄進状のことか。

「興藤」─友田興藤。厳島社神主。

「春公長老禅師」─洞雲寺住持、五世天菴宗春。