周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

木村文書1

解題

 木村氏は戸坂村(広島市戸坂町)狐爪木(くるめぎ)神社の神主職を勤めた家である。

 

 

    一 大内義隆下文

 

         (木村)

  補下  大宮司藤原正廉

       (マ丶)

    安藝國佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壹町玖段余地事

 右件料田事、全知行、不夷礼奠、可國家安全萬民快楽、故以下、

        (1542)

       天文十一年八月廿三日

  大宰大貳多々良朝臣(花押)

 

 「書き下し文」

  補し下す 大宮司藤原正廉

    安芸国佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壹町玖段余りの地の事

 右件の料田の事、知行を全うし、礼奠を陵夷せず、国家安全万民快楽を祈り奉るべし、故に以て下す、

 

 「解釈」

  補任し下知する。大宮司藤原正廉。

    安芸国佐東郡狐爪木八幡神社の神料田畠一町九段余りの事。

 右の料田のこと。支配を全うし、神へのお供えを廃れさせず、国家安全・万民快楽を祈り申し上げよ。特に下知する。

 

 

 「注釈」

「狐爪木神社」─狐瓜木神社。現東区戸坂くるめ木一丁目。古代山陽道太田川を渡る

        千足のすぐ南の地にある標高二〇メートルほどの独立丘上に鎮座。祭

        神は仲哀天皇神功皇后応神天皇。相殿に風伯神・言代主神を祀

        る。旧村社。もと「狐爪木神社」と書いた。祭神の一つ風伯神は、

        「三代実録」元慶七年(八八三)十二月二十八日条に「安芸国正六位

        上風伯神」が従五位下を授けられたことがみえ、「安芸国神名帳」に

        も、安南郡に「風伯明神」があげられている。当社がいつ頃から狐爪

        木神社と称されるようになったかは不明であるが、最も古い史料は天

        文十一年(一五四二)八月二十八日付の大内義隆下文(木村文書)で

        「安芸国佐東郡狐爪木八幡社神料田畠壱町玖段余地事」とある。当時

        安南郡に属したこの地を佐東郡としているのは、牛田・矢賀などが佐

        東郡とされていることがあったのと同様、戦国期における佐東・安南

        両郡界が明確でなかったことを物語る(『広島県の地名』平凡社)。