周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

西福寺文書1

解題

 無住の小堂の中に聖観音立像一躯が安置されている。その背刳りの中には、紙片に摺った観音三百三十体が束ねてしまいこまれている。摺仏には施入の趣旨を記した墨書をもつものがある。また一部には、正慶元年(1332)の黒瀬村内海方検注帳などの紙背を利用して仏を摺ったものもある。

 

 

    一 沙弥円教施入摺仏目録(折紙)

 

 観音三百三十体

 すりうつしっまいらせて候心さし候もく六

 (三十三)  僧都)(定真ヵ)(こ)(後生菩提)

 □□□体 そうつそうしん□しやうほたいのため

      (沙弥証円)

 三十三体 しやミせうゑんこしやうほたいのため

       (親)(現当)

 六十六体 二しんけんたう二せのため

(三十)     (真尊)

 □□三体 そうしんそんこしやうほたいのため

 三十三体 そうきやう日こしやうほたいのため

      (法界) 衆生  (平等)  (利益)

 六十六体 ほうかいしゆしやうひやうとうりやくのため

      (亀)

 三十三体 かめ一丸こしやうほたいのため

      (円教)     (現世)(安穏)     (善処)

 三十三体 ゑんけう所生男女けんせあんをんこしようせんしよのため

 聖観音一遍咒三百卅遍

  右もく六如件、

       (四)(1315)

     正和三年〈乙卯〉正月十八日

                      沙弥円教

林善右衛門旧蔵文書1(完)

解題

 林家は、江戸時代に賀茂郡風早村(安芸津町風早)の庄屋をつとめていた。

 

 

    一 小早川隆景感状写   ○東大影写本ニヨル

                           (ヵ)

 今度於生楚○式部丞立用候、此儀不便候処ニ、兄弟能助於日名井討死候、

 打続如此儀無是非候、老後悲歎推察候、忠義不忘却候、仍五百疋

 遣候、委細此者可申候、謹言、

      三月廿八日        隆景

        林甲斐守殿

 

 「書き下し文」

 今度生楚に於いて息式部丞用に立ち候ふ、此の儀不便に候ふ処に、兄弟能助日名井に於いて討死し候ふ、打ち続く此くのごとき儀是非も無く候ふ、老後の悲歎推察し候ふ、忠義忘却せらるべからず候ふ、仍て五百疋遣はし候ふ、委細此の者申すべく候ふ、謹言、

 

 「解釈」

 この度、生楚であなたの子息式部丞が役に立ちました(討死 or 負傷しました)。このことは気の毒なことであったところに、兄弟の能助が火内で討死しました。たて続けにこのようなことが起きたことは、仕方のないことです。老後の悲嘆を推察いたします。毛利元就様(or 輝元様?)は二人の忠義を忘れなさるはずもありません。だから、五百疋を遣わします。詳細はこの使者が申し上げます。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「生楚」

 ─今治市高橋の老曽城のことか(https://iyo-sengokushi.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=iyoshidan-356)。

 

「立用」

 ─未詳。ひとまず「用に立つ」と読み、「役に立つ」と訳してみました。後続の文では「此の儀不便に候ふ(このことはを気の毒だ)」と表現していますし、兄弟の能助が討死したという情報も連続で書き記しているので、おそらく、「役に立つ」の具体的な中身は「討死」や「負傷」だったのではないかと考えられます。

 

「日名井」

 ─現今治市吉海町臥間にある火内城・火内鼻(ひないはな)のことか(https://iyo-sengokushi.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=iyoshidan-356)。

 →「臥間村」=大島の南部にあり、来島海峡に面する。火内鼻、武志(むし)諸島、中渡(なかと)島に囲まれた天然の良港で、水軍時代には船溜まりや水場であった。武志島には井戸があり、現在もその跡が残っている。火内城・武志島・中渡島などは当時の城砦である(『愛媛県の地名』平凡社)。

 →「火内鼻」=今治市吉海町、大島の南西部にある岬。フェリーの発着場下田水(しただみ)の北方を、来島海峡に向かって突き出し、大きな入江をつくる。東方の臥間との間は深い鞍部となり海抜42・8mの独立峰の形となっている。前面の武志島との間の海域は、来島海峡の東水道にあたり、今治尾道間の鉄道連絡をはじめ高速艇や水中翼船も就航する重要ルートである。室町期には山上に対岸の中渡島・武志島などと結ぶ村上水軍の城砦火内城があったが、今は白亜の火内鼻灯台や海水浴客のための姫内山荘が建っている。瀬戸内海国立公園に含まれている(『角川日本地名大辞典38 愛媛県』)。

仏通寺正法院文書10(完)

    一〇 毛利氏奉行人書状(切紙)

 

 被貳分内蔵助殿御状并数通之御証文、令披見候、則遂披露候之

             (二分内蔵助)

 処、被仰出之旨候条、委細二蔵へ申渡候、於我等者少も不疎略

 候、仍貳十疋送給候、吉悦之至候、猶重畳可申承候、恐々謹言、

                   (兒玉)

      四月廿七日         就忠(花押)

      正法院 まいる 尊答

 

 「書き下し文」

 貳分内蔵助殿に対せらる御状并びに数通の御証文を、披見せしめ候ふ、則ち披露を遂げ候ふの処、仰せ出ださるるの旨候ふ条、委細二蔵へ申し渡し候ふ、我れらに於いては少も疎略有るべからず候ふ、仍て貳十疋送り給はり候ふ、吉悦の至りに候、猶ほ重畳申し承るべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 二分内蔵助殿に対して送られた御書状と数通の御証文を披見しました。すぐに元就様(or隆元様)に披露しましたところ、ご命令になることがありましたので、詳細に二分内蔵助へ申し渡しました。我らとしても、正法院様に対して少しもいい加減に対処するつもりはありません。二十疋を送っていただきました。このうえなく喜んでおります。なお、重ねがさねお話をうかがうつもりです。以上、謹んで申し上げます。

仏通寺正法院文書9

    九 小早川詮平安堵状(折紙)

 

                             (緒)

 当院領所之事、於自今以後、或号下作職、或号自然之由所之地、若至

 有押妨之輩、任注進之旨、堅可下知候、以此旨全可

 御裁判之状如件、

     (1540)

     天文九年三月廿日      詮平(花押)

     仏通寺 正法院

 

 「書き下し文」

 当院領所の事、自今以後に於いて、或いは下作職と号し、自然の由緒の地と号し、若し押妨の輩有るに至りては、注進の旨に任せ、堅く下知を加ふべく候ふ、此の旨を以て全く御裁判有るべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 当正法院の所領のこと。今後、下作職、または当然の由緒の地だと詐称し、もし押妨する者があれば、報告内容のとおりに、厳密に取り締まりを命じるべきです。この取り決めをもって、ご裁判をなさるべきである。

願望まみれの夢解釈

  文明十五年(1483)十月二十九日条

         (『大乗院寺社雑事記』8─95頁)

 

    晦日(中略)

 一古市澄胤去八月末蒙夢相子細在之、九月一日社参、神馬・田畠等令寄進之、

                                 (妊)

  其子細近日聞付之、於若宮宝前鳥之卵被下之間、請取手内ト見之、懐任之相

  歟、殊外祝著云々、然則妻女懐任之気有之云々、凡希有事也、不知神慮者也、

             (合点)           (合点)

  予案之、吉凶難是非者也、一卵ハ子也、子ヲ被下条勿論、一皆コハ一寺一社之

          (合点)                (合点)

  雑務成敗之皆コ也、一卵ハランノ音アリ、一家之乱可出来歟、一卵ハ卵堂トテ

  葬所ノ名也、且如何、仍吉凶難弁也、就中進退ヲ見聞ニ、善悪在之如常、就其

  先祖何計之神忠在之テ、如此一寺一社ヲ□取哉、現存又如何様之誓願在之テ叶

  神慮哉、然上者如思ニ子孫繁昌難其意、所詮有其実者、前生ニ修行之分済在之

  歟、

 

 「書き下し文」

 一つ、古市澄胤去んぬる八月末夢相を蒙る子細之在り、九月一日社参し、神馬・田畠等之を寄進せしむ、其の子細近日之を聞き付く、若宮宝前に於いて鳥の卵を下さるるの間、請け取り手の内と之を見る、懐妊の相か、殊の外祝着と云々、然れば則ち妻女懐妊の気之有りと云々、凡そ希有の事なり、神慮知らざる者なり、予之を案ずるに、吉凶是非難き者なり、一つ、卵は子なり、子を下さるる条勿論、一つ、皆コは一寺一社の雑務成敗の皆コなり、一つ、卵はらんの音あり、一家の乱出来すべきか、一つ、卵は卵堂とて葬所の名なり、且つ如何、仍て吉凶弁へ難きなり、なかんづく進退を見聞くに、善悪之在ること常のごとし、其れに就き先祖何計りの神忠之在りて、此くのごとく一寺一社を□取るか、現存また如何様の請願之在りて神慮に叶ふか、然る上は思ひのごとくに子孫繁昌其の意難く、所詮其の実有らば、前生に修行の分済之在るか、

 

 「解釈」

 一つ、古市澄胤が去る八月末に、夢の中で神仏から告知を受けるという出来事があった。九月一日に神社に参拝し、神馬や田畠等を寄進した。私(尋尊)はその事情を最近聞いた。神は春日若宮の神前で、鳥の卵をお与えになったので、古市澄胤はそれを受け取り、手のうちを見た。これは懐妊の相だろうと思い、このうえなく喜んだという。そうしたところ、澄胤の妻に懐妊の兆候が現れたそうだ。まったくもって珍しいことである。神のお考えはわからないものである。私はこの夢について考えてみたが、吉凶・是非の判断は難しいものである。一つ、卵は子である。子を下されるのは勿論だ。一つ、殻子は、春日社や興福寺で行なってきた雑務検断の処置を悔い改めよ、という意味である。一つ、卵にはらんの音がある。家中で騒動が起きるにちがいないだろう。一つ、卵は卵堂といって、墓所のことだ。あるいは、他の解釈はどうだろうか。こうした解釈もできるので、吉凶の判断は難しいものである。とりわけ澄胤の行状を見聞きすると、善も悪もあることは、他者と同じである。それについて、先祖はどれほど神への忠義を尽くして、このように春日社や興福寺の雑務検断を取り仕切るようになったのだろうか。また現在、どのような願いがあって、神の思し召しに叶っているのだろうか、いやそんなはずはない。そうであるからには、思いどおりに子孫繁栄の願いが実現することは難しく、結局のところそれが実現するならば、前世で修行した成果が現世に現れたのだろう。

 

 「注釈」

 夢占いが、これほど恣意的なものだとは思ってもみませんでした。中世にはもっと厳格な診断基準や解釈の型があり、それを純粋に信じているのだと勝手に思っていました。挙げ句の果てに、僧侶である尋尊自身が、メッセージを送ってくれたであろう神仏の意志まで疑う始末。これでは、夢想など何の意味もないのではないかと思われます。中世びとが夢想・夢告を重視していたことは、広く知られていることですが、このような記事を見ていると、ちょっと疑わしくなってきます。尋尊のようなインテリ階層と庶民階層では、どちらが先に神仏の存在やメッセージを疑い始めるのか気になるところですが、15世紀も後半になると、宗教インテリでさえ神仏の思し召しを怪しむようになってくるようです。

 なお、この記事の解釈・解説については、すでに研究があるので、以下に引用しておきます。

 

*安田次郎『尋尊』(吉川弘文館、2021年、187頁)

 

 つぎのようなこともあった。文明十五年の八月末、澄胤は春日若宮社の前で神から卵を授かる夢をみた。これは「懐妊の相」だと澄胤は喜び、さっそく九月一日に社参を行ない、馬と田畠を寄進した。そうしたところ、はたして夫人(越智家栄の娘か)が懐妊した。十月の末になってこの話を知った尋尊は、子孫断絶すべきで「仏神の応護」がないはずの澄胤が子供を授かることに釈然としなかったのだろう、その夢は吉か凶か判断は難しいと神慮をいぶかり、つぎのように考えた。

  一 卵ハ子なり、子ヲ下さるるの条、勿論なり(卵は子だ。子が下されるのは

    勿論だ)、

  二 皆コハ一寺一社の雑務成敗の皆コなり(後述)、

  三 卵ハランノ音アリ、一家ノ乱出来すべきか(卵はランの音がある。一家の乱

    が起きるのではないか)、

  四 卵ハ卵堂(らんどう)トテ葬所ノ名なり(卵は卵堂、墓石〈あるいは火葬

    場〉のことだ)、

 卵は「一家の乱」や卵堂のことかもしれず、澄胤の見た夢は凶夢の可能性もあると尋尊は主張(希望)したいのだろうが、二は何を言っているのか、このままではわからないので、解釈を試みてみよう。最初の「皆コ」は「かいご」=「殻子」で、卵のことである。これで一から四の文の主語は「卵」で揃う。難題は文末のほうの「皆コ」であるが、これを「改寤(改悟)」とすれば、意味が通るように思う。澄胤は一寺一社の雑務検断者として春日の神から「改寤」を授けられた、つまりそれまでの悪行を咎められて猛省、悔悛を神から要求された、その可能性を尋尊は考えたということである。ただ、「改寤」は尋尊の書物には見かけない言葉である。他にもっといい解釈があるかもしれないが、なんとか道筋をつけて不吉な夢だと尋尊は考えたかったことは確かだろう。