解題
林家は、江戸時代に賀茂郡風早村(安芸津町風早)の庄屋をつとめていた。
一 小早川隆景感状写 ○東大影写本ニヨル
息 (ヵ)
今度於二生楚一○式部丞立レ用候、此儀不便候処ニ、兄弟能助於二日名井一討死候、
打続如レ此儀無二是非一候、老後悲歎推察候、忠義不レ可レ被二忘却一候、仍五百疋
遣候、委細此者可レ申候、謹言、
三月廿八日 隆景
林甲斐守殿
「書き下し文」
今度生楚に於いて息式部丞用に立ち候ふ、此の儀不便に候ふ処に、兄弟能助日名井に於いて討死し候ふ、打ち続く此くのごとき儀是非も無く候ふ、老後の悲歎推察し候ふ、忠義忘却せらるべからず候ふ、仍て五百疋遣はし候ふ、委細此の者申すべく候ふ、謹言、
「解釈」
この度、生楚であなたの子息式部丞が役に立ちました(討死 or 負傷しました)。このことは気の毒なことであったところに、兄弟の能助が火内で討死しました。たて続けにこのようなことが起きたことは、仕方のないことです。老後の悲嘆を推察いたします。毛利元就様(or 輝元様?)は二人の忠義を忘れなさるはずもありません。だから、五百疋を遣わします。詳細はこの使者が申し上げます。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「生楚」
─今治市高橋の老曽城のことか(https://iyo-sengokushi.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=iyoshidan-356)。
「立用」
─未詳。ひとまず「用に立つ」と読み、「役に立つ」と訳してみました。後続の文では「此の儀不便に候ふ(このことはを気の毒だ)」と表現していますし、兄弟の能助が討死したという情報も連続で書き記しているので、おそらく、「役に立つ」の具体的な中身は「討死」や「負傷」だったのではないかと考えられます。
「日名井」
─現今治市吉海町臥間にある火内城・火内鼻(ひないはな)のことか(https://iyo-sengokushi.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=iyoshidan-356)。
→「臥間村」=大島の南部にあり、来島海峡に面する。火内鼻、武志(むし)諸島、中渡(なかと)島に囲まれた天然の良港で、水軍時代には船溜まりや水場であった。武志島には井戸があり、現在もその跡が残っている。火内城・武志島・中渡島などは当時の城砦である(『愛媛県の地名』平凡社)。
→「火内鼻」=今治市吉海町、大島の南西部にある岬。フェリーの発着場下田水(しただみ)の北方を、来島海峡に向かって突き出し、大きな入江をつくる。東方の臥間との間は深い鞍部となり海抜42・8mの独立峰の形となっている。前面の武志島との間の海域は、来島海峡の東水道にあたり、今治〜尾道間の鉄道連絡をはじめ高速艇や水中翼船も就航する重要ルートである。室町期には山上に対岸の中渡島・武志島などと結ぶ村上水軍の城砦火内城があったが、今は白亜の火内鼻灯台や海水浴客のための姫内山荘が建っている。瀬戸内海国立公園に含まれている(『角川日本地名大辞典38 愛媛県』)。