謹而令二啓書一候、抑今度櫻尾之儀奉レ憑候処、以二御入魂一被レ成二御辛労一候、
(毛利)
難二申尽一候、仍當郡之内永興寺之事、元就隆元申聞被二進置一候、於二我等一太
悦候、爲二後日一一通并對二両人一添状進獻候、早速御知行肝要候、恐惶謹言、
(天文二十三年)(1554)
五月廿三日 元春(花押)
信直(花押)
謹上 洞雲寺 衣鉢閣下
「書き下し文」
謹んで啓し書かしめ候ふ、抑今度櫻尾の儀憑み奉り候ふ処、御入魂を以て御辛労を成され候ふ、申し尽くし難く候ふ、仍て當郡の内永興寺の事、元就・隆元申し聞き進らせ置かれ候ふ、我等に於いて太だ悦び候ふ、後日の為一通并に両人に對し添状を進獻し候ふ、早速御知行肝要に候ふ、恐惶謹言、
「解釈」
謹んで書き申し上げます。そもそも今度桜尾攻城の件で頼り申しげましたところ、御合力のためにご尽力なされました。感謝の気持ちは、言葉では申し尽くせません。そこで佐西郡内の永興寺のことですが、毛利元就・隆元がお聞きし、進上なされました。我らにおいても大変喜んでおります。後日の証拠のため、元就・隆元充行状一通とそれに対する我らの添状を進上します。速やかに御支配になることが大事です。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「櫻尾」─桜尾城。廿日市市桜尾本町。もと厳島神主の居城。天文二十年陶晴賢の弑逆
に伴い、陶方の江良賢宣・毛利与三・己斐豊後守・新里若狭守が当城に置か
れた。同二十三年毛利元就は桜尾城を接収し、同年の陶方との折敷畑合戦、
翌弘治元年(一五五五)の厳島合戦には毛利軍の本陣となった。戦後は毛利
氏の重臣桂元澄が城番を勤め、永禄十二年(一五六九)七月頃からは毛利元
就の子穂田元清が城主となった。慶長五年(一六〇〇)毛利氏の防長移封以
後、廃城となった(「桜尾城跡」『広島県の地名』)。天文二十三年五月十
二日、毛利元就は陶方の兵を追って佐東金山・己斐・草津・桜尾の諸城を占
拠し、厳島までもその手に収めてしまった(『広島県史』中世)。
「永興寺」─未詳。厳島社領内の寺院でしょうか。25・30号文書参照。
「元春」─吉川元春。
「信直」─熊谷信直。
「衣鉢侍者禅師」─六世大休登懌か。