一七 守護代沙弥惠一宛行状寫
宛行 可部庄内重吉名主職
合田數注文別紙在レ之
福王寺院主觀蜜坊
右名者、先名主禪智房依レ有二子細一、寺務職云彼名主分云被二召放一畢、雖レ然
以二別儀一所レ加二下知一也、早任二先例一有レ限濟物御公事等可レ被二勤仕一之状
如レ件、
(1336)
建武三年六月廿八日
御代官沙弥惠一
判
「書き下し文」
充て行ふ 可部庄内重吉名主職
合わせて田数注文別紙之在り
福王寺院主観蜜坊
右の名は、先の名主禅智房子細有るに依り、寺務職と云ひ彼の名主分と云ひ召し放たれ畢んぬ、然りと雖も別儀を以て下知を加ふる所なり、早く先例に任せ限り有る済物・御公事等を勤仕せられるべきの状件のごとし、
「解釈」
福王寺院主観蜜坊に給与する 可部庄内重吉名主職のこと。
すべての田数の注文は別紙にしてある。
右の名については、前の名主禅智坊に問題があって、寺務職もこの名主職も没収されてしまった。しかし、格別の計らいによって給与の命令を下すところである。早く先例のとおりに、重要な年貢や公事などを納入なさるべきである。内容は以上のとおりである。
「注釈」
「重吉名」
─安佐北区可部町大毛寺・可部町虹山。古くは重吉村といったが、のちに大文寺と改め、さらに大毛寺としたという。重吉の地名は建武三年(一三三六)六月二八日の守護代沙弥恵一宛行状写(福王寺文書)に「可部庄内重吉名主職事」、「延文四年(一三五九)一一月二二日に武田氏信安堵状写(同文書)に「福王寺領安芸国可部庄内重吉名事」とみえる。長禄四年(一四六〇)の安芸国金亀山福王寺縁起写(同文書)では、天長年間(八二四〜八三四)のこととして綾谷・九品寺・大毛寺三邑の朝廷よりの寄進を記しているが、遅くとも長禄年間には大毛寺の呼称が行われている(『広島県の地名』)。
「観蜜坊」─未詳。
「御代官沙弥惠一」─未詳。福王寺の院主に代わって、所領を経営する僧か。