宝徳三年(1451)九月十三日条 (『康富記』3─278頁)
十三日戊申 晴、
(中略)
是日或語云、今月七日就春日神木御入洛事、被制止之由、綸旨御教書等被成下南都、
使節奉行三人下向之日、朝之程、於宇治邊、自或藪中猪走出、(割書)「自元負手歟
云々、」渡宇治、差京方欲上歟之處、川之面二三丈游而、游返而、平等院前藪中走
歸、於彼篁中忽死云々、爲希代之有様之間、自宇治注進管領云々、如何々々、傳説
也、承及分聊注之、
「書き下し文」
是の日或るひと語りて云く、今月七日春日神木御入洛の事に就き、制止せらるるの
由、綸旨・御教書等南都に成し下さる、使節奉行三人下向の日、朝の程、宇治辺りに
於いて、或る薮の中より猪走り出づ、(割書)「元より手を負ふかと云々、」宇治を
渡り、京方を差して上らんと欲する歟の処、川の面を二、三丈游ぎて、游ぎ返りて、
平等院の前の薮の中を走り帰り、彼の篁の中に於いて忽ち死すと云々、希代の有様た
るの間、宇治より管領に注進すと云々、如何如何、伝説なり、承り及ぶ分聊か之を注
す、
「解釈」
この日、或る人が語って言うには、「今月七日、春日大社のご神木が都にお入りなろうとした件について、それを止めなさるという綸旨と御教書などを、興福寺にお下しになった。その命令を実行するための奉行三人が下向した日の朝に、宇治あたりである藪の中から猪が走り出てきた。もともと手傷を負っていたのだろうか。宇治川を渡り、都の方を目指して上ろうとしていたのか、川の水面を六、九メートルほど泳いでから戻ってきて、平等院の前の藪の中に走り帰り、その竹藪のなかで死んだそうだ。世にも稀な様子だったので、宇治から管領に注進した」という。いったいどういうことか。噂である。聞き及んだ分を少しばかり書き記した。
「注釈」
*いったいこの出来事のどこが、世にも珍しいところだったのでしょう。猪が爆走したことか、爆泳したことか、泳ぎ帰ってきたことか、平等院の藪の中に突っ込んだことか、そこで急死したことか、そのすべての過程か。わざわざ管領にまで報告していることを踏まえると、これも不吉な出来事だったのでしょう。使節が下向しているときに猪を見ると、何か不吉なことが起きるのでしょうか。春日の神の祟りなのでしょうか。謎は深まるばかりです。
*追記
その後、山本幸司氏の「穢とされるその他の事象」(『穢と大祓』解放出版社、2009)を読んでいると、猪に関するおもしろい指摘に気づきました。本来野生動物の死は穢の対象とならなかったそうですが、天永3年(1112)、猪の死は豚に準じて穢の対象とされたそうです。これは平安時代の事例ですし、山本氏も猪の死を穢とみなす決定が「以後の慣例となったかどうかは不明である」と述べられているので、今回の史料解釈にそのまま適用することはためらわれるのですが、猪の頓死は、穢観念を背景にした不吉の兆候だったのではないでしょうか。ひとまず、このような解釈をしておきます。