周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

井原著書1

 井原今朝男『室町廷臣社会論』塙書房、2014

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

13ページ

 若い頃、故稲垣泰彦さんから書評の心得を教えられた。研究の到達点をなし、自分がもっとも尊敬できる研究書を選び、その研究手法を盗み、史料に沈潜して厳しく徹底批判して今後の研究課題を学びとること、それが書評の目的であり、学問の批判的継承だと学んできた。

 

第1章 天皇の官僚制と室町殿・摂家の家司兼任体制

23ページ

 室町殿が公卿を家司に補任するということは、将軍が大将や大臣に任じられ、公家社会の一員になることからすれば当然のことである。公家社会では摂家清華家が任大臣に際して、親王家では親王宣下に際して、勅別当をはじめ軽視に公卿や諸大夫を補任することは当然の慣習法であった。

 

24ページ

 中世公家は、天皇の勅によって諸家の家司という家政職員になることを義務づけられていた。いいかえれば、天皇の官吏が、権門諸家の家政職員にもなるという二重の官僚制に編成される構造になっていた。これを筆者は中世の国政と家政と呼んで分析してきた。

 中世公家社会では、家司の任につく公家を諸大夫と呼び、官位制の位階秩序と結びつきながら、家格の身分秩序ができあがり、書札礼にかかわる中世独特の身分序列ができあがった。摂家清華家大臣家の諸大夫になる家柄が決まっており、公家身分秩序で言えば中級貴族であった。

 

33ページ

 室町殿家司・摂家家司・院司として台頭した名家と羽林家の中級貴族と、局務・官務・内記の下級貴族の中原・清原・小槻・菅原一門は、いずれも摂家の家司・家礼・諸大夫の家柄である。名家・羽林家中納言が極寒であり、局務の清原・中原や大内記の菅原氏らが公卿になること自体稀有であった。ところが、室町期になって室町殿家司・摂家家司を兼任して、身分的秩序を打破して家格を上昇させ、天皇の近臣ともなり大納言はもとより儀同三司の准大臣にまでのぼるようになる。菅原一門は、後述するように帝侍読や中納言を諸家で占拠するようになり、公家の家格秩序を脅かす存在になっていく。

 名家・羽林家は中級貴族の家柄で、天皇の職事と弁官をつとめる存在であったが、室町期義満の時代に室町殿家司に編成され、禁裏でも台頭し、大納言・儀同三司への道が開かれた。この結果、父は准大臣・大納言で伝奏を兼ね、子息は職事・弁官を兼任し、中世国家の中央官僚機構である上卿・伝奏・職事・弁官を独占した。このため、天皇と室町殿・摂家清華家・門跡・女院・新王家・勅問輩との合議によって、国家意思を決定する過程に調整期間として関与することが可能になった。

 

85ページ

 (『康富記』文明五年十二月三十日条を分析した星川正信によると、)大炊寮頭中原氏は各地の寮領を質権に入れ、永代沽却せざるをえないほど経済的に困窮していたこと、新寮頭に就寝にした清原業忠は10ヶ所以上の所領で、中原氏によって沽却された寮領を復興しなければならないことをあきらかにした。室町戦国期における調停肝心の経済的破綻を物語る典型例とされてきた。

 しかし、筆者がここで注目したいことは、後花園天皇の綸旨と室町殿義政の御教書により公武の主導で、中原師孝の寮頭職が「罪科」として没収されたことである。寮領という諸司領が新大炊頭清原業忠に与えられた事実である。官人の人事交代にあわせて寮領の知行がどのように改編されたのか、その変化の中に文案五年十二月三十日後花園天皇綸旨を位置づけ、その歴史的意義を解明しなければならない。

 

96ページ

 室町戦国期の公武は、諸司寮領など官職の所領が永代沽却によって「公領」でなくなり、私領に転じることを禁止するため、公領興行令を度々発布していたのである。これは、天皇権力が諸司寮の感触を兼任するようになった官務や局務の職にある中央官僚機構の官人制を、経済的困窮から守ろうとした制度改革であったと筆者は考える。

 官職に補任されたものが在職する限りで送電することが許される所領が存在し、官職が交代すると、職領としての知行地も官職に付随して変動する現象が存在していることは事実である。局務につく大外記の一門が、主水司・隼人司・大炊頭・掃部頭などを兼任するのも、局務の官職の在職中の官人が、諸司領を渡領として知行するシステムであったと理解することができる。中世の官職と知行地がセットで動くというのは、中世官僚制の特質といえる。

 こうした官職に就任した官人の給与・経済的得分を、渡領によって保障しようとする職の渡領化システムは、すでに殿下渡領として院政期からみえるものであることに留意しなければならない。

 

118ページ

 中世ではこうした口入を「執申」とか「申次」と呼んでいる。

 

123ページ

 室町戦国期の天皇制が強固に存続したのは、天皇の官吏である上卿・職事・弁官・官務・局務・内記・六位外記史からなる太政官機構の国家的官僚制が機能していたことによる。とりわけ、職事・弁官を出す名家・羽林家が父子で准大臣・大納言・中納言・参議にのぼり、両局輩を世襲した中原・清原家、内記を世襲した菅原家が、そのまま室町殿・摂家上皇家という権門の家政職人である家司・家礼関係を兼任していた。この結果、天皇の官僚制の中枢部分が、室町殿・摂家・院の家政機関に組み込まれて、有機的合理的に連動する機構が誕生した。まさに国家官僚制と家産官僚制の一体化にこそ、中世天皇制の強靭さの要因とみなすべきである。

 

126ページ

 これは中世国家の官僚制が、天皇の官吏であるとともに室町殿軽視と摂家家司・家礼を兼任していたことになる。天皇の国家官僚制と権門の家産官僚制とが重複関係になっていた。中世の国家官吏は、他方で摂家上皇・室町殿の家司を兼任して、権門の家産官僚制をささえていたのである。それゆえ、武家権門の家政権力が自律化しつつも、国家権力の中枢にいた天皇制と敵対して、それに取って代わることができなかったといえよう。幕府権力がいかに専制的で武力的軍事的に見えようとも、天皇制を支える官僚制のメンバーを抱え込んでいる以上、武力で倒すことはありえない社会構造になっていたといわなければならない。ここに、中世日本の天皇制が、中国や西欧のように武家政権によって取って代わられることがなかった秘密である。国家官僚制と武家政権の家産官僚制が、同じメンバーによって構成されていたからである。それによって、室町殿や摂家天皇を中心とした国家意思決定過程に関与しやすい体勢をつくることができた。

 

 

第2章 室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性

149ページ

 室町期の公家社会の奉仕関係は、家司制による所領の反対給付をともなった封建的主従関係と、参仕に対する御訪料の支給による個別の双務契約関係という二つの原理によって成り立っていたといえよう。

 

167ページ

 庭田氏は宇多源氏姉小路流で、田向・庭田の家名を称した諸家が出た。庭田氏は、経有─重有─重賢(政賢・長賢と改名)─雅行─重経とつづいた。歴代、伏見宮家の諸大夫・家司になる家柄で、重賢の女資子が崇光天皇典侍となり、栄仁親王を産んで杉殿と号した。庭田大納言入道重賢は「若宮御方外祖父」(『親長卿記』文明四年正月四日条)とある。さらに重賢の女朝子が後土御門天皇典侍となり、勝仁親王を産んだ。親王後柏原天皇となったため皇太后宮を贈られた。まさに庭田家は後柏原天皇外戚である。庭田雅行の女源子も後柏原天皇の新典侍となり、二品覚道と彦胤親王の母となった(『尊卑分脈』)。重賢・雅行・重経三代が、後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇の「近臣」となっている(『親長卿記』)。

 

174ページ

 二木謙一によれば、武家儀礼における室町殿参賀の公家衆は、西衆と東衆に二分されていた。『年中恒例記』によれば、親王家・摂家・清華・中原姉小路・官務外記と門跡・護持僧が「西衆」、「日野・正親町三条・烏丸・飛鳥井・高倉・廣橋〈以上六人、根本直近也〉を筆頭に医陰両道・清家外記〈宣賢流〉・伊勢祭主・吉田平野が「東衆」に区別されていた。『長禄二年以来申次記』によれば、室町殿は「東之衆」と対面するとき、「立烏帽子・直垂の武家風」の衣装であったが、「西之衆」と対面するときは、「立烏帽子・直衣または狩衣の公家風の衣装に改めた」という。室町殿側近公家衆には、家司・家礼・近習の三分類が存在したこと、とりわけ六家の公家衆を公家昵近衆と呼び、直垂衆ともいわれたこと、公家衆による室町殿への「御礼」参賀儀礼がうまれたことなども指摘されている。

 

175ページ

 参賀の人々が、「朝衣狩衣衆」と「直垂衆」とに二分され、前者は前関白・前右府・前内府、徳大寺・花山院・菅原など摂家清華家大臣家と大内記で有、「西之衆」にあたる。後者は源雅行・園基有・親長・宣胤・町広光・西川房任・江辺雅国・西洞院時顕・公夏・源富仲・菅原和長・定基で、伝奏・名家・六位蔵人を含む禁裏近臣層で、「東之衆」に相当する。

 

176ページ

 「東衆」=「直垂衆」は、公家の名家らと武家衆であり、輿で室町殿に参上する作法であった。いずれも親王家・摂家・将軍家の家司や諸大夫で有、家礼として知行の安堵を受けていた。室町殿家司がこの層である。武家昵近公家衆と言われる六家を中心とした中級貴族や高倉・清原・菅原家の出身で、室町殿家礼の家柄といえる。

 旧来の武家儀礼の研究では、公家身分における西衆と東衆との身分格差が軽視され、直垂衆だけが強調されてきた。西衆が「朝衣狩衣衆」といわれ、直垂衆とは厳然と衣装を区別されていたことが見逃されていたと言わなければならない。室町殿での対面に際して、室町殿が武家様と公家様の装束に着替えたという二木説は、東衆が直垂で、西衆が朝衣狩衣姿であったことからすれば当然の対応といえる。

 

178ページ

 摂家清華家大臣家は、政権運営では、勅問の輩として位置づけられ、関白執奏や宮執奏などで国政意志決定の審議過程に参加することはできた。彼らは家格が高位高官ではあったから、朝衣狩衣衆といわれ、装束の準備・維持にも出費が嵩んだ。拝賀や室町殿参賀などの外出では、公卿の扈従や殿上人の前駈、諸大夫や布衣侍の地下前駈、衛府・雑色人・牛飼など確保しなければならなかった。つまり、摂家清華家大臣家の上位家格の公家層が、より身分的・経済的に「困窮」に陥ることが多かったといわなければならない。洞院家熙は自らが清華家で「番々の輩の如く成り下がる」ことはできないと述べ、子息公数は出家して家領や家文書を売却し、家の断絶を主体的に選択したことが指摘されている。

 大臣家中院家でも同様の事例がみえる。応永二五年(1418)三条坊門権大納言通守は、春日祭上卿を仰せつけられたが、「窮困過法難叶之由再三申」して辞退した。しかし、後小松院はなお「厳密」に仰せつけた。「所詮、困窮の身朝廷拝趨叶うべからず、只自害を欲す之由常に持言也」として、二月一〇日持仏堂において小刀で喉元をかき切り自害し、「天下口遊云々」と騒がれた(『看聞日記』応永二五年三月八日条)。経済的逼迫の度合いは絶対的なものではない。摂家清華家大臣家など高い身分ほど、格式にともなう「困窮」の度合いが強いから、「困窮の身」の自覚意識が大きかったといわなければならない。

 

180ページ(近習の定義)

 ここから、禁裏では「近臣」と「直垂」とが天皇近くに祗候しているが、前者は天皇の御前で和歌御会の続歌の御題をもらい、それ以外の「直垂」衆は番衆所で御題を受け取っていたことが知られる。禁裏では「近臣」と「直垂」=外様番との区別があり、前者は御前=殿上の間にあがれるが、後者は「番衆所」=「下侍」に詰めるという身分差別が明瞭にあったことがわかる。(中略)

 「近習」とは第一に、天皇の御前で平常服である直衣を着用することが勅許された存在であり、直衣宣下を受けていた。(中略)

 第二に、天皇が蔵人(職事)に尋問することは「式也」とあるが、「内々事」については「近習に尋問することが古来の例」とある。(中略)

 ここから、勅問は職事・伝奏・近習に対して発せられることが慣例であったことがわかる。内々の手続きについて、天皇が相談する相手が近習であった。

 

181ページ(近臣の特徴)

 『親長卿記』文明八年(1476)三月八日条には「御前衆十五人」「外様衆廿四人」と見える。近臣は、天皇への「祗候」が義務づけられ、「御前衆十五人」と呼ばれるように、メンバーが固定されていたことがわかる(中略)。

 (近臣メンバーの)第一の特徴は、清華家大臣家からはほとんど選ばれていない。(中略)室町戦国期には内侍を出した諸家の中から、天皇家と女房との申次関係が生まれ、婚姻関係に発展していった。そのため、内侍を出した公家の中から天皇の近臣関係が設定されたものといえよう。(中略)

 第二の特徴は、伏見宮家の諸大夫・家司・家礼の家柄が近臣として選ばれている。宮家の諸大夫、家礼グループが顕著である。(中略)

 第三は、頭中将・頭弁や六位蔵人・大内記という職事弁官機構の行政実務官人グループが、官位に関係なく近臣になっている。(中略)

 第四に、橘以量・橘通任や五条富仲などは六位蔵人から近臣となっている。(中略)

 第五に、和歌、蹴鞠、楽道の甘露寺・飛鳥井家、楽所別当松木家や神祇伯家など芸能・神事の貴族の家が近臣に選ばれている。(中略)

 第六に、室町殿家司の家柄のメンバーがほとんど重複していることである。室町殿家司層と天皇の近臣との重複関係については、第一章で検討したので、それによられたい。ただし、室町殿家司や摂関家に補任されることのない下級公家層も、天皇の近臣の中に含まれていることは注意されなければならない。天皇の近臣層は六位の蔵人も含んでいるように、身分の上下も家格の広がりにおいても、より広範囲におよんでいることを指摘しておきたい

 こうしてみれば、天皇伏見宮家の家礼の家柄および典侍の女官が后を出した実家と、国政運営で必要不可欠な職事弁官・頭中将などをつとめる名家・羽林家の中級貴族、および三席御会の執行上必要な和歌・漢詩・楽道・蹴鞠など芸能と神事の諸家から近臣を編成していた。とりわけ、摂家清華家よりも伏見宮家の家司・家礼の家柄を継承した中級・下級貴族が多かったといえる。

 院政・鎌倉期には乳父は家司や親族から選定され、摂家では家司、天皇家では近臣・外戚、北条氏では御内人から選定されたこと、時代とともに乳父・乳母の後見者としての地位が上昇してきたことが指摘されている。室町戦国期の近臣をみると、天皇の妻や母方の関係者が多いから類似した点がある。しかし、乳母・乳父のほか、外戚関係者や典侍の実家の関係者が近臣となっている比重が大きい。伏見宮家の家司・家礼の中級貴族から天皇との姻戚関係で高位高官にのぼり、近臣になる事例や、職事・弁官の中級貴族から女子を典侍に出して、近臣になるものが多いところに、室町戦国期の時代的特質が見えるというべきである。

 

186ページ(近臣>近習)

 近臣は十五人前後と多人数であったが、近習は少し限定されていたらしい。

 

187ページ

 「近習」がとりわけ頻繁に参内し、勅問に預かることが多く、その際には直衣ではなく「下姿」と見える場合も多い。(中略)

 

188ページ

 親長の事例からすると、直衣は装束姿に含められるのに対して、下姿は直衣ではなく、平常着に近いもので、冠や袍など上着を省略したものではなかったかと思われる。親長が直衣の勅許を受けながら、それ以上の略装と考えられる「下姿」で参内しえたのは、天皇の「近習」で「内々事」に関する諮問に頻繁に対応しなければならなかったからである。

 

212ページ

 室町期の綸旨の作成は金利で発給手続きが執行されるのではなく、奏聞して勅許をえて、それを示す女房奉書を受け取った権利取得者が、蔵人弁や頭中将ら綸旨発行の担当奉行の家に書状などで、文書作成を依頼して作成してもらったことがわかる。室町戦国期の綸旨の発行は、職事弁官の家の請負業務になっていたことがわかる。

 

236ページ

 親長は、禁裏御領で仙洞御領でもあった若狭国玉置荘が、鴨社仮殿造営方に寄進されたのにともなって荘奉行(荘園ごとの担当の申次)となり、鴨社仮殿造営方の行事官紀氏興に、荘園年貢22貫500文を送った。その約五パーセント分の1貫500文を得分として受け取ったのである。ここでも、禁裏御領に甘露寺家が賀茂伝奏や荘奉行として関与することによって、経済的利益を獲得していたことがわかる。

 

237ページ

 「執進上」とは、「支申」の反対語である「執申」と同じ意味であり、仲介・口入・申次のために特産物を献上することである。

 

240ページ

 親長は越前国で知行地として東長田庄を家領にする一方、禁裏御領越前河合庄内に嵯峨摂取院の末寺に、自分の息女真益や妹の真如房を預けていた。讃岐坂田庄内の無量寿院に叔父と子息を預けていたのとまったく同様の措置を越前河合庄内末寺でとっていた。ここも、親長に経済的恩恵をもたらしていたと言える。

 

241ページ

 大覚寺讃岐国坂田庄の現地寺院には、親長の兄や子息が住職や僧侶として赴任し生活していた。禁裏御領越前河合庄の現地寺院には親長の妹や息女を居住させ、一門の家産制的人的ネットワークを維持していた。

 こうした甘露寺家の地方在国勢力とのネットワークは、美濃、近江、尾張、讃岐などでもみられた。美濃国禁裏御領の代官職に補任された斉藤妙純が、親長の妻室南向の「親類」であり、美濃国守護代であったことは前述した。文明三年(1471)に親長の子息が万里小路家の猶子・春房となり、伊勢貞親とともに遁世出走する事件を引き起こした。このとき、春房は近江朽木辺りに匿われていた(『親長卿記』文明三年五月二五日条)。

 親長は、息女を伊勢貞親猶子として近江国人朽木弥五郎貞綱(『親長卿記』文明四年十二月三〇日条)の室に入れていた。出産とともに娘は死去した(『親長卿記』文明五年十一月二三日条)が、朽木家と甘露寺家との密接な関係は、その後もつづいていた。さらに親長の孫娘=元長息女は尾張守護代織田氏に嫁いだことはすでにみた。

 このように天皇の近臣となった中級公家の名家・羽林家が、諸国の守護や守護代・国人らと姻戚関係を締結していたことが、禁裏御領の申次・荘奉行になる歴史的背景であったといえよう。室町戦国期の廷臣層による本所領支配は、禁裏御領によって補完されていたことに注意しなければならない。

 

251ページ

 洛中散在敷地は公家や地下官人らの「朝恩地」であり、「本所知行之地」で、天皇の綸旨と室町殿の御判御教書によって認可されたものとみるべきであろう。洛中の管轄権が朝廷から幕府に移動したとする佐藤説(佐藤進一「室町幕府論」)は再検討が必要である。洛中の敷地と地子銭徴収は、禁裏から公家・官人らに本所知行権が安堵されており、公家・地下官人にとっても、町の地子が経済基盤=当知行として重要であった。洛中洛外は公武の共同直轄地であると評価すべきである。

 

255ページ

 甘露寺家の家産経済が弟や子息の日明貿易からの利益によって、一部ささえられていたことはまちがいない。文明・明応期における公家の家産財政や経済活動には国際性をみることができる。日記類にみえる「困窮」は幕府や禁裏からの訪下行を求め、地方知行地に在国するための公務をさぼる口実であることに注意しなければならない。

 

 

第3章 廷臣公家の職掌と禁裏小番制

271ページ

 これまで廷臣とは「朝廷に仕えて官に任ぜられている臣(「広辞苑」)とされてきた。しかし、室町戦国期は、天皇の勅勘(出仕停止処分)や室町殿の突鼻(勘当処分)にあって所領没収や出仕停止のみならず、家名断絶や廃絶する公家や武家が多数現れた。とりわけ、朝廷の公家官制で八省諸司寮の統廃合がすすみ、多くの公家・官人層が没落した。その全体像の解明こそ、今後の研究課題である。特に、室町戦国期の禁裏の公家官制の全体像を明らかにするためには、天皇の勅勘・室町殿の突鼻を受けながらも、両者に奉仕して存続した公家・官人層をあきらかにすることこそが、急務の研究課題にほかならない。とりわけ、天皇の勅勘や室町殿の突鼻を受けた公家・官人らは、半面では天皇の近臣であり、室町殿の家司で寵臣でもあったものが多い。室町戦国期の天皇や将軍の専制化といわれる公武官僚制の変革と連動した政治現象が、天皇や室町殿の恣意的感情的行動を生み出していたともいえよう。天皇上皇の寵臣が活躍することは、院政・鎌倉期を含めた通時代的な政治現象とはいえ、室町戦国期の顕著な時代的特質と考えられる。本書では、禁裏と室町殿の両者を権力基盤にして、公家官人の身分秩序を超えて活躍した特権貴族・官人層を「廷臣」という概念で呼ぶことにしたい。

 

297ページ

 以上の検討から、甘露寺家にとって、兼長・房長・親長・氏長・元長・伊長の歴代が、いずれも蔵人と弁官を兼任した職事弁官から参議・大納言にあがった名家の家柄として、『五位蔵人初拝五代之記』という家記に仕立て送電していたことが明らかになった。

 院政・鎌倉期には弁官が蔵人を兼任しないものもみえるが、室町戦国期には弁官に在職中のものは蔵人を兼任し大弁・参議になると、蔵人を辞している(『弁官補任』)。職事と弁官の兼任は、応永年から明応・永正年間の室町戦国期の時代的特質といえる。

 

308ページ

 参議は本来、八省の長官職にある役職であったが、八省諸司寮の統廃合が進行する中で、むしろ太政官の公卿合議の陣儀の構成員や、儀式・行事の上卿の要因としての役割が重要視されるように変質した。古代の参議と中世の参議は、歴史的性格を異にしていることが留意されなければならない。

 

342ページ

惣伝奏が禁裏小番制の総括責任者であったことがここでも確認される。

 

343ページ

 禁裏小番の目的は、第一に禁裏祗候と警固、第二に禁裏文庫復興の書写活動であったといわなければならない。

 

345ページ

 このように番衆の任務が天皇に祗候して参内者との接待にもあたり、徹夜をして御前での読書などにも従事した。

 

353ページ

 第一に、甘露寺家は、歴代天皇の職事弁官として事物を担当して、参議・中納言・大納言に出世する名家コースをたどり、職事弁官の家と自覚する一方、賀茂伝奏を長期につとめ、天皇・院の近習・近臣となって、公事作法や主上作法の勅問や公家らの問い合わせに積極的に教授・伝授していた。国政運営の行政法にあたる公事作法や進退について、次第書や故実書を書写して家記を整備し、宮中作法に関する知の集積の第一人者であった。親長は、室町戦国期の古典学の碩学三条西実隆より一世代前の人物である。後土御門天皇による朝廷儀礼の復興のため、物語・次第書・歴史書・歌書・歌論書・蹴鞠伝書など、多方面の禁裏文庫再建の書写活動に貢献した。天皇と室町殿を中心にした国政運営の執行にあたる近習・近臣などの廷臣層と、関白・太政官などの特権貴族層と四位五位を含む一般公家層とが、交流する場として禁裏月次和漢御会や月次の蹴鞠・連歌会などが機能していた。禁裏小番制も公家の内部対立を抑制し、支配体制の内部矛盾を緩和し、体制を延命させる機能を果たしたものと考えられる。

 親長は、上卿・参議・職事・弁官の作法について、次第書や故実書の作成・書写・伝授に深く関与していた。それは、上卿・参議・職事・弁官・官務・局務・大内記・六位外記史がいずれも太政官の官職であり、中世天皇の中央官僚機構として機能していたことの反映である。上卿・参議・職事・弁官は、天皇と室町殿や勅問の輩である摂家清華家・門跡らによる最高意思決定機関の合議・調整を行う、上部機関として機能した。他方、彼らは、官務・局務の両局輩と内記所・六位外記史からなる太政官の行政執行実務官人の下部機構を指揮して、儀式・政務のための文書発給行政を執行した。まさに職事弁官機構を中核として、中世天皇中央官僚機構が機能を発揮していたといえる。

 第二に、後花園院から後土御門天皇の文正から明応年間の時期は、応仁文明の内乱の進行と幕府の権威失墜によって、官八省の統廃合や禁裏の警備体制、禁裏小番の制度改革、太政官機構の制度改革などを余儀なくされた禁裏小番制の改革では、公家のメンバーに出入りによる結改のほか、内々番の五番制と外様番の十番制の設置、番衆の人数を八人から三人に削減する結改、近臣番の朝衣の指定、外様番の直垂勤務など制度改革が進行した。その結果、文明十一年土御門内裏への還幸を契機に分岐二年までの間に、鬼間・黒戸を詰所とする近臣番と、天上の下侍を詰所とする外様番とに区別され、制度改革が一段落した。小番衆の職務は昼夜の祗候・警備と和歌・連歌会の開催、禁裏文庫復興のための書写活動であった。禁裏番に参加する公家は、本所権力として諸国散在知行分の有名無実を改善するため、地方に下向・在国することが増加した。このため、禁裏小番への出仕を一ヵ月間二回連日連夜祗候する制度から、一六、二七、三八、四九、五一〇のつく指定日だけ、一日ずつ月六日間禁裏に出資する体制に制度改革して、一人当たりの負担を軽減していった。公家が地方下向に際しては、暇を申請することで禁裏番を休むことが公認された。公家の地方在国と禁裏小番制とは矛盾なく機能するようになった。禁裏小番の公家と非番の公家が禁裏に結集するようになり、公家の本所領への経済的依存も増加した。禁裏小番制は公家層の番役勤仕であり、武家の奉行人制や奉公衆の番役制に比すべき官僚機構であったと言わなければならない。禁裏小番制は、経済的に逼迫する公家層を天皇の官吏として禁裏への番役により、政治的に結集させる官僚制のシステムであったことを指摘した。

 こうしてみると、文正〜明応年間にかけて、禁裏における国政運営はこれまでいわれるような室町殿=幕府の分裂とともに天皇制が共倒れ現象になったという、室町期禁裏の衰退史観の歴史像は再検討が必要なことを指摘できる。後花園・後土御門・後柏原三代の時期は、むしろ室町殿権威が失墜し、武家伝奏のなり手なくなり、幕府の分裂によって武家政権の社会的実力が急速に衰退する過程であった。禁裏の側では、惣用下行帳のシステムである、公方御倉からの財政支出システムが行き詰まりをみせた時期であった。その対策としての禁裏の改革は、禁裏御領への財政的比重を高め、公家御要脚への依存度を高めた時期のスタートであった。広義の禁裏御領だけが、文明・明応年間にも半済令免除の特権を適用されたことは第二章で指摘した。天皇の綸旨による個別大名や国人らへの助成依頼が拡大していったことも指摘できよう。また公家の近臣・廷臣層が、家領支配と家産制的官吏を通じて、本所家政権力として最後の反動構成を強化した時期であった。

 

 

第4章 甘露寺親長の儀式伝奏と『伝奏記』の作成

362ページ

 この検討を通じて(第七章)、中世の古記録が「日記の家」による家記として相伝されただけでなく、国政事業の一環として、室町期以前から「禁裏御本」や「官本」として国家により知の集積がなされ、伝来してきたことを知ることができた。

 

371ページ

 伝奏という職名が院伝奏という院庁の家政機関から出発しながら、室町期の儀式伝奏は、禁裏の職制=国政的機関として天皇と室町殿の合議によって任命されている。

 

372ページ

 任官叙位は申請者の要望であるのに対して、儀式伝奏への就任は後部からの依頼を諾否する自由が公認され、双務的契約事項であったといえる。

 

373ページ

 勧修寺教秀との合議に参加した民部卿源忠富は、後土御門天皇への奏聞をもっぱらに担当した「申次」(『親長卿記』文明四年十一月二日条)で、「近臣祗候之輩」(『親長卿記』文明五年正月二日条)であった。なお、申次は「非伝奏之仁、非職事、不可説」(『親長卿記』文明九年十月十八日条)とあり、本来奏事に従事する「伝奏之仁」や「職事」とは明瞭な区別意識があった。

→「申次」忠富は、天皇家の家政職員のような位置付けか。

 

376ページ

 中世前期の公家官制では、上卿が行事の職事・弁官を介して、外記・官吏の下部機構を指揮・命令して諸行事の行政執行にあたり、行事の職事弁官が実質的な調整・執行中枢機関になっていた。室町期の儀式伝奏が上卿と決定的に異なるのは、奉行として職事弁官のみならず、武家奉行人をも指揮下に置いて、伝奏切符や伝奏奉書を出して行政命令を執行しえたことである。儀式伝奏は、朝廷と幕府の両方の行政下部機関を指揮命令しうる立場にあった。

 

377ページ

 惣用方とは禁裏と室町殿との共同財政。

 

381ページ

 私見では、室町戦国期における段銭・棟別銭・諸国役等の国家的課税権は、禁裏の賦課権と幕府の徴収権との統合によって行使され、集められた国家財政は「惣用方」と呼ばれた。惣用方伝奏による公武の合議・調整にもとづき、儀式伝奏が発行する伝奏切符によって幕府の惣奉行摂津氏の下書(くだりがき)と武家奉行人の合判で公方御倉が下行するシステムは、中世国家の財政支払システムになっていたと考える。惣用方下行システムは、中世国家が集めた国税をプールして国家行事用途に支出するための王室財政運営であり、中世国家の財政支払システムと呼ぶべきものであり、公武の共同財政執行であった。そのため、「惣用下行帳」という同一帳簿が後部に必要であった。その総額を変更するために還幸伝奏や武家伝奏が兼任する惣用方伝奏を介して、禁裏と室町殿の合議と調整がなされたのである。還幸伝奏と武家奉行が「康正二年造土御門殿之後、還幸之時下行帳」を基準にその半分か三分一で、文明十一年の還幸用途を支出して行政執行しようとしたのは、「惣用下行帳」という同一の会計帳簿が公武一体の共同の国家財政であったからである。

 

401ページ

 伝奏は本来院政のもとで院司として生まれた家政職員のポストにすぎなかった。義満・義教二代に社会的政治的地位を高め、室町期の伝奏は院司のポストではなく、天皇と室町殿の合議により補任される国政職員のポストになっていた。伝奏が、律令官制の大納言の職掌である「敷奏」の伝統を踏まえて成立したものであったから、中納言以上のものから人選されなければならなかったものと考えられる。院伝奏と室町戦国期の儀式伝奏とは、まったく歴史的性格を異にするものであった。

 

402ページ

 室町期の伝奏が中納言以上であったのは、敷奏勅許のうえで選任されたからであり、単なる申次・取次としての院伝奏とは歴史的段階を異にしていたことを示している。武家申次と武家伝奏のちがいが重要である。

 

403ページ

 奏事は伝奏と職事の職掌であった。伝奏が職事弁官機構の拡充策として登場したとみてまちがいない。武家の賀茂奉行は飯尾大和守元連であり、女房奉書を幕府に伝達するとき、賀茂伝奏から武家の賀茂奉行に付して武家に申し入れるシステムになっていた(『親長卿記』文明三年三月十四日条)。賀茂伝奏は、朝廷方の賀茂奉行をつとめる蔵人弁と武家方の賀茂奉行である飯尾大和守元連の両者の上司であり、朝廷と幕府の両者の行政機関の指揮命令機関の位置を占めていたことがわかる。

 

423ページ(注25)

 白川忠富天皇の「申次」で、伝奏や近臣・蔵人による奏聞とは区別すべきことが重要である。明石治郎「後土御門天皇期における伝奏・近臣」では、「近臣衆による天皇と伝奏との間の申次行為は結構見いだすことができる」として白川忠富をあげ、「申沙汰(=酒宴)等の通知」に注目している。この明石説は、天皇の「申次」、すなわち職名としての白川忠富の「申次」と、儀式伝奏・武家伝奏らの天皇との申次行為とを混同している。また、「申沙汰」とは、行政担当者としての行事執行実務一般を指す用語で、主演の差配に限定されたものではない。武家伝奏や伝奏之仁は天皇の申次とは職掌が別であり、敷奏宣下を受ける国政的官制的な存在であった両者を区別しなければならない。(中略)武家伝奏武家申次は同一ではない。

 

 

結語

564ページ

 恒例・臨時の仏神事公事は年中行事として執行されたので、国家行事の選択と行事用途の支出システムは天皇と室町殿の合議で決定された。公武必定で補任された儀式伝奏のもとに公家・武家の奉行人らが組織され、伝奏切符と惣奉行・相奉行の下書(クダリガキ)の複合文書によって、公方御倉から必要経費が支出され、「惣用下行」という公武一体の財政運営が行われた(第一章・第四章)。元服・将軍宣下・親王宣下・法会・禁裏月次和漢御会・諒闇・譲位即位など公事の実否、出席者を決める御點や日時の勘文である風記の決定などは、天皇と室町殿の合議で決まった。禁裏・幕府の行事の中で、武家要脚=惣用下行帳から財政を支出するか、公家要脚=禁裏御領など長橋局からの財政支出にするか、先例用途を増減して惣用の総額=財政規模をどうするかの決定は、惣用伝奏・武家伝奏を介した天皇と室町殿の合議で決定された。天皇─儀式伝奏─武家伝奏─惣奉行摂津氏─政所執事または管領─室町殿という相互の合議ルートが機能していた(第一章・第四章)。

 惣用伝奏・武家伝奏・儀式伝奏こそが、禁裏と室町殿の合議機関であり、朝廷側の奉行職事・弁官と、幕府側の管領政所執事制や惣奉行・相奉行制とが、公武共同の官僚機関の役割を果たしたといえる。

 

565ページ

 室町朝廷では、禁裏と室町殿によって近臣や家礼・家僕として登用された廷臣の公家官人だけが政治的経済的にも生き延びることができた。勅問の輩や八卿八省諸司寮の統廃合が進展し、特権貴族の五摂家清華家の中から没落・廃絶者が多く出た。一条房家の土佐下向、尚基以後の二条家没落や清華家の洞院公数の出家・大臣家中院家一門三条坊門道守の切腹など、価格の高い特権貴族ほど「困窮」を口実に没落を余儀なくされた(第二章)。それに対して、名家・羽林家や半家など、中級・下級貴族は天皇の官吏であるとともに、幕府・摂家の家産官僚制の官吏でもあり、国家官僚制と家産官僚制に両属した二重の官吏として、室町戦国期に活躍し家格の上昇を果たした。天皇と室町殿の公武の廷臣になることで、家格の桎梏を部分的に打破することに成功した。

 禁裏と室町殿両者に奉仕する廷臣層となった中級・下級貴族の諸家は、天皇家の官吏として禁裏御料や官職渡領の知行地を給付されて、中央官僚としての経済基盤を確保した(第一章)。また摂家の家司・家礼として奉仕することによって、殿下渡領の知行地や屋敷地を給恩として安堵された。さらに室町殿の家司・家礼や諸大夫としての出仕を通じて、将軍家御料所の知行地の給付や御訪料などの給付を受けた。天皇は、彼らを「武家下知に任せ」、本所権力として譜代家領を一括安堵する綸旨を発給した。公武の廷臣層は経済的基盤を保障され、本所の家政権力として成長することができた(第一章・第二章)。室町朝廷の公家官制の特質は、百瀬今朝雄が平安・鎌倉・室町期の公家社会の身分秩序について指摘した、官職の身分体系と家の諸大夫・家礼の家格体系の二重構成をなしていたとする見解(『公安書札礼の研究』東京大学出版会、2000)と合致するものである。