解題
この家は毛利氏譜代の家臣の大多和氏と同族とみられるが、現在、当家及びこの文書の所在は不明である。
一 平賀元相感状 ○東大影寫本ニヨル
(包紙ウハ書)
「大多和鐵炮助殿 元相」
去月四日、於二予州横松表延尾一、大津衆打出シ合戦之時、於二鑓下一以二鐵炮敵
数人一討伏候之段、寔高名無二比類一候、弥可レ抽二忠節一者也、仍感状如レ件、
(1585)
天正十三年三月十八日 元相(花押)
「書き下し文」
去月四日、予州横松表の延尾に於いて、大洲衆打ち出し合戦するの時、鑓下に於いて鉄炮の敵数人を以て討ち伏せ候ふの段、寔に高名比類無く候ふ、いよいよ忠節を抽づべき者なり、仍て感状件のごとし、
「解釈」
去月二月四日、伊予国横松表の延尾山で、大洲衆が攻め寄せてきて合戦したとき、槍で戦い、鉄炮の敵を数人打ち伏せましたことは、実にこのうえない手柄です。ますます忠節を遂げなければなりません。よって、感状は以上のとおりです。
「注釈」
「横松表延尾」─大洲市・長浜町〔中世〕南北朝期から見える地名。喜多郡のうち。観
応3年6月15日の宇都宮蓮智(貞泰)寄進状に「横松山年貢事」と
見え(西禅寺文書/編年史3)、宇都宮蓮智は年貢として33貫60
0文を同士の菩提寺である西禅寺領として寄進しており、その寄進地
は戎河にあった。西禅寺は永徳4年4月19日のれんしよう寄進状
(西禅寺文書/伊集成6)に「よこ松の御寺」と記されており、戎河
を含む西禅寺周辺の山地を指したもの。のち西禅寺の山号となる。戦
国期には津々木谷氏の配下に横松衆がおり、活躍したという。特に天
正13年2月、大津(洲)地蔵ケ岳城主宇都宮豊綱の軍勢は、横松表
の延尾山下で毛利輝元の部将平賀元相と戦い敗れたという(平賀文
書・大多和泰作氏旧蔵文書・大洲旧記)。現在の大洲市大字八多喜町
から長浜町大字戎川のあたりに比定される(『角川日本地名大辞典
38 愛媛県』)。