周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

楽音寺文書8

    八 小早川弘平自筆書状

 

   尚々御注文進之候、此下ニ」書写候て可給候、惣て時儀を」具にあそハし

   候て、残候て其分」可申遣候、

   又志芳並瀧寺」より源十郎かたへ、」如此申越候、為御」披見進之候、

 昨日者以書状申候処、委」細御返事之趣、先以得其」意候、何篇之事

(豊田郡沼田)

 高山辺之」儀と申、無事之様ニ内々御思案」外聞実可然、於弘平も可

 祝」着候、仍東方之儀も、前々者」此方門中拘候由承候、就者」以注文

 承候、心得申候、御注文ニ」しるし給候九坊共ニ此方御」門中拘候ける哉、

 然者」いつれの坊にハ人体何と申御方、」此方之門中として被拘候由、」其御名

 を坊の下ニ御書付」候て可給候、其分彼方門中へ」可申遣候、若又九坊之

 内」一二ヶ所御拘にて候者、いつれの坊ニ」いつれの人、此方御門中ニて御」拘

 候由、具ニ可承候、彼方之申」事者、往古ハ東西共ニ彼」方門中にて候つる、

 近年引分」候て他門ニ成候由申候、如何可為」事候哉、重而可申承候、恐々

 謹言、

   正月廿八日   弘平(花押)

(切封ウハ書)

「    ─       安芸守

     法持院 御同宿中 弘平」

 

*改行は 」 で記載しました。

 

 「書き下し文」

 昨日は書状を以て申さしめ候ふ処、委細御返事の趣、先ず以て其の意を得候ふ、何篇の事高山辺りの儀と申す、無事の様に内々に御思案外聞実に然るべし、弘平に於いても祝着たるべく候ふ、仍て東方の儀も、前々は此方の門中拘はれ候ふの由承り候ふ、就いては注文を以て承り候ひ、心得申し候ふ、御注文にしるし給ひ候ふ九坊共に此方の御門中拘はれ候ひけるか、然らばいづれの坊には人体何と申す御方、此方の門中として拘はれ候ふ由、其の御名を坊の下に御書き付け候ひて給ふべく候ふ、其の分彼方の門中へ申し遣はすべく候ふ、若し又九坊の内一、二ヶ所御拘ひにて候はば、いづれの坊にいづれの人、此方の御門中にて御拘ひ候ふ由、具に承るべく候ふ、彼方の申す事は、往古は東西共に彼方門中にて候ひつる、近年引き分け候ひて他門に成り候ふ由申し候ふ、如何たるべきことに候ふや、重ねて申し承るべく候ふ、恐々謹言、

   尚々ご注文之を進らせ候ふ、此の下に書き写し候ひて給ふべく候ふ、惣じて時儀を具に遊ばし候ひて、残り候ひて其の分を申し遣はさるべく候ふ、

   又志芳の並瀧寺より源十郎方へ、此くのごとく申し越し候ふ、御披見のため之を進らせ候ふ、

 

 「解釈」

 昨日は、書状をもって申し上げさせましたところ、お返事の詳しい内容によって、そちら様(法持院)のお考えを理解しました。あれやこれやの問題は、高山あたりのことであると言います。何事もないようにと、内々にお考えになっていることが外に知れたことは、本当によいことです。私、弘平にしても当然、満足に思っております。そこで東方の僧坊の件についても、以前は法持院門中がつながりをもっておりました、とお聞きしております。ついては、注文をもってその件をお聞きし、了解し申しております。ご注文にお記しになった九つの僧坊らに、法持院様がつながりをもっておりましたのでしょうか。もしそうであるなら、どの僧坊の何という僧侶が、法持院門中としてつながっておりますことを、その名前を僧坊の名の下に書きつけましてお与えください。それを私が中台院門中へ送り申し上げるつもりです。もしまた九つの僧坊のうち、一、二ヶ所がつながっておりましたなら、どの僧坊のどの人が、法持院門中としてつながっておりますことを、詳細にお聞きするつもりです。中台院が申すには、昔は東西の僧坊はともに中台院門中でありましたが、近年はそれを分けまして、もう一つの法持院門中になりました、と申しております。どのようなことでしょうか。重ねてお聞きするつもりでおります。以上、謹んで申し上げます。

   加えて申します。ご注文を進上します。この注文の下に書き写して、私にお与えください。法持院院主様のご意向をすべて詳細にお書きになりまして、残すところなく(ヵ)、申し送りなさってください。

   また志和の並滝寺から源十郎へ、このように申し送ってきました。お目にかけるために、こちらの書状も進上します。

 

*解釈に、まったく自信がありあません。

 

 「注釈」

「並瀧寺」

 ─現東広島市志和町志和東。志和東と篠との境に近い、通称並滝寺山(550・3メートル)東側山腹にある。真言宗御室派。本尊は行基作と伝える千手観音。天平五年(733)行基の開基と伝え、かつては子院四十八坊を擁する大寺であったが、大永五年(1525)大内軍の米山城攻撃の時兵火にかかって焼失、当時ようやく十分の一を修復したという(芸藩通志)。その後天文二十四年(1555)天野隆綱は当時観音堂へ「東西条原村」のうちの一貫文の地などを寄進した(天野毛利文書)。毛利氏も300石の寺領を寄進したというが、近世に入ると福島正則により寺領を没収されて衰微し、近世後期には子院のうち安養寺・無量寺・養光寺・東光庵・正儀寺・天慶寺・円明寺・明慶寺・法福寺・西光寺・諏伝寺・竹林寺の十二坊の跡が地名・屋号として残るにすぎなかった(賀茂郡志、芸藩通志)。なお、伊勢御師村山氏の記した村山家檀那帳(山口県立文書館蔵)の天正九年(1581)分には志芳東内に並滝寺のほか禅正寺など七寺が見えるが、これらも並滝寺の子院と思われる。寺宝として本尊千手観音のほかに王孫(伝運慶作)・大般若経600巻・唐絵涅槃像一幅・墨絵梵字不動像(伝空海筆)・数珠一連などがある。

 寺の東に並滝寺池(小原池)がある。黒瀬川最上流を堰堤で堰止めたもので、寛文十年(1670)西条盆地の用水を確保するため広島藩が築造を計画し、延宝二年(1674)堰堤の長さ八十二間、水溜り四町八反の池が完成した(「郷土誌」志和中学校蔵、「志和東村庄屋手鑑」木下昌頼氏蔵)。水懸りは篠村・正力村・米満村・寺家村・西条東村・下見村の六花村(広島県川上村史)。現在の並滝寺池は昭和十六年(1941)拡張されたもの(『広島県の地名』平凡社)。

 

「高山城跡」

 ─現本郷町本郷・船木、三原市高坂町真良。沼田川東岸、標高190メートルの山頂にあり、対岸の新高山城跡とともに沼田小早川氏の居城であった。国指定史跡。山頂は三原市に属し、山頂付近の北西から南東方向に延びる谷を中にして二区画に分かれ、広さ約十六ヘクタール。沼田古高山城図写(県立三原高校蔵)によると、北の峰に西から北の丸・二の丸・本丸、南の峰には西から出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸などがあり、船木側から谷沿いに上る道が大手道とされ、真良(しんら)側へ谷に沿って搦手道が通じていた。

 天文十四年(1545)の小早川正平絵像(現三原市成就寺蔵)の賛に「高山屹立 培嶁泰衡 攅峰峭壁 祖元築城 其諱本仏」とあり、本仏祖元は小早川茂平の法号であるから、茂平の築城とされていたことが知られる。応仁の乱の際、小早川煕平の在京中に、その子敬平が西軍方の竹原小早川氏に三カ年にわたって攻められ、煕平没後の文明五年(1473)から同七年にかけての合戦では落城寸前まで追い込まれ、同七年四月に和議を結んで包囲陣が解かれている(同月二十三日付「政信盛忠連署状写」小早川家文書)。次いで天文八年、大内氏と尼子氏の抗争のなかで小早川正平が尼子方に味方したとき、大内氏一味に攻められて占拠され、大内氏は同十一年頃まで城番を置いて、在城奉行田坂四郎右衛門尉を監視させている(「閥閲録」所収神代六左衛門家文書、仏通禅寺住持記「三原市史」所収)。同十三年に尼子勢に包囲攻撃されたときは、これを撃退している(陰徳太平記)。同十九年に沼田小早川家を相続した毛利元就の三男隆景は、翌二十年十月に当城に入城し、翌二十一年六月、対岸の新高山城を改修して本拠を新高山城へ移した(仏通禅寺住持記)(『広島県の地名』平凡社)。

 

新高山城跡」

 ─現本郷町本郷・船木。沼田川西岸に位置し、対岸の高山城跡、三原城跡(現三原市)とともに小早川氏の居城で国指定史跡。標高約190メートル。「国郡志下調書出帳」には沼田小早川雅平が高山城の副塁として築城したと記す。仏通禅寺住持記の天文二十年(1551)の項に「十月十三日、毛利之三男高山入城、両新田牢籠、高山城易」、同二十一年の項には「壬子歳六月十一日新高山普請始、同二十六日隆景ワタマシアリ」とあり、同十九年に沼田小早川家を相続した隆景は。翌二十年に高山城に入場したが、翌二十一年に新高山城を改修して本拠城としたことが知られる。同書の付紙によると、隆景が慶長元年(1596)の秋、当城の石垣を取り壊して三原城に移すまで、この城は沼田小早川氏の本拠であった。

 当城は、本丸・東の丸・中の丸・西の丸・北の丸・井戸郭(釣井の段・匡真寺(現三原市宗光寺)・鐘の段・土塁・空堀などが巧みに配置された広大な山城で(「沼田新高山之図写」県立三原高校蔵)、本丸跡・中の丸跡には大規模な建物の礎石が現存し、山上には慶長元年に取り壊したときに取り残した大石なども見られる。中世の山城から近世の平城への移行期の城として貴重である(『広島県の地名』)。