周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書59 その6(終)

    五九 安芸国沼田庄楽音寺縁起絵巻写 その6

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載しました。本文が長いので、6つのパーツに分けて紹介していきます。

 この縁起の研究には、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』 (広島県立歴史博物館、1996)、下向井龍彦「『楽音寺縁起』と藤原純友の乱」(『芸備地方史研究』206、1997・3、https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00029844)があります。

 

    ツテ                      

 倫実取純友頸上仙洞、忽及叡覧即有御感倫実

           スル                 

 被勧賞、任左馬允之上賜安芸国沼田七郷、倫実為

  ンカ   カ ノ              タマフ   ノ ヲ  

 果遂釜嶋宿願故、令立一堂於当寺置髪像於其中

        シム        ロノ    

 一寸二分像少故令丈六像大、所彼中本尊是也、

                          

 所謂薬師如来丈六像一躰日光月光二菩薩像多聞持国等八天像

       

 金剛力士二天像也、

     (絵6)               (朱印)

             狩野右京藤原安信筆  ⬜︎

      ◯原本ハ、寛文年中藩主浅野光晟ニ召シ上ゲラル、コノ写ハソノ代リトシ

       テ下付サレシモノ

 

 「書き下し文」

 倫実純友の頸を取つて仙洞に献上せしむ、忽ちに叡覧に及び即ち御感有りて倫実に勧賞を行なはる、左馬允に任ずるの上安芸国沼田七郷を賜る、倫実釜島の宿願を果たし遂げんが為の故、一堂を当寺に建立せしめ髪の像を其の中に安置し擬ふ、一寸二分の像小さき故に丈六の像を大に造らしむ、彼の中に籠め奉る所の本尊是れなり、所謂薬師如来丈六の像一体、日光・月光二菩薩の像、多聞・持国等八天の像、金剛力士二天の像なり、

 

 「解釈」

 藤原倫実は藤原純友の首を取って、朱雀帝に献上した。すぐに帝はご覧になり感心なさって、倫実に褒賞をお与えになった。倫実は左馬允に任じられたうえに、安芸国沼田七郷をいただいた。倫実は釜島の宿願を成し遂げるためという理由で、一つのお堂をこの楽音寺に建立させ、髪の中に籠めた薬師如来像をその中に安置しようとした。だが、一寸二分の像は小さかったので、一丈六尺の大きな像を造らせた。その像の中に納め申し上げたのが本尊である。いわゆる薬師如来の丈六像一体、日光・学校二菩薩の像、多聞天持国天など八天像、金剛力士二天の像である。

 

 「注釈」

「狩野安信」

 ─没年:貞享2.9.4(1685.10.1)生年:慶長18.12.1(1614.1.10)江戸前期の画家。通称右京進,号永真。狩野孝信の3男として京都に生まれ,宗家の貞信が早世したため,養子となり宗家を継ぐ。寛永年間(1624~44)江戸中橋に屋敷を拝領し,幕府御用絵師となり,中橋狩野家を開いた。江戸城や禁裏などの襖絵制作に参加。寛文2(1662)年法眼となる。兄探幽の画法を踏襲するが,技量は若干劣る。著書『画道要訣』(1680)では「学画」の奨励など狩野家の絵画制作に対する考えを示し,後代に影響を与えた。代表作は大徳寺玉林院の障壁画。「添状留帳」(東京芸大蔵)は鑑定控。<参考文献>田島志一編『東洋美術大観』5巻(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/狩野安信-15815)。

池の水ぜんぶ抜く大作戦!?

【史料1】

  康正三年(1457)七月二十二日・八月四日条

                (『大乗院寺社雑事記』1─195・204頁)

    廿二日

 一社頭神人共高山ノ池ヲカユ、為祈雨也、然間高山ノ上計ニ大雨下テ、山計ノ外

  無其儀、希事也、(後略)

 

    四日

   (中略)

 一龍花院方於天満拜殿大般若読之、同龍池ヲサラユ、為祈雨也、(後略)

 

【史料2】

  康正三年(1457)八月         (『経覚私要鈔』3─229頁)

     祈雨条々

   (前略)

 一神人高山龍池カユル、是モ両度、(後略)

 

【史料3】

  康正三年(1457)八月十四日条     (『経覚私要鈔』3─236頁)

  十四日、

  今朝モ如形雨下了、(中略)

 一禅定院池水無之間、三ケ日以大掃除人夫土ヲ取云々、

 

 

 「書き下し文」

【史料1】

    二十二日

 一つ、社頭の神人ども高山の池を替ゆ、祈雨の為なり、然る間高山の上ばかりに大雨下りて、山ばかりの外其の儀無し、希なる事なり、(後略)

    四日

   (中略)

 一つ、龍花院方天満拝殿に於いて大般若之を読む、同龍池を浚ゆ、祈雨の為なり、

 

【史料2】

     祈雨条々

   (前略)

 一つ、神人高山の龍池を替ゆる、是れも両度、(後略)

 

【史料3】

    十四日、

  今朝も形のごとく雨下り了んぬ、(中略)

 一つ、禅定院の池の水無きの間、三ケ日大掃除人夫を以て土を取ると云々、

 

 

 「解釈」

【史料1】

 (七月)二十二日

 一つ、社頭の神人たちが高山の池の水を替えた。祈雨のためである。そうしているうちに、高山の上だけに大雨が降って、山以外の場所では雨は降らなかった。珍しいことである。(後略)

 (八月)四日

 一つ、龍花院方の天満社拝殿で大般若経を読んだ。同じく龍池の底を浚った。祈雨のためである。

 

【史料2】

     祈雨条々

   (前略)

 一つ、神人が高山の龍池の水を替えた。これで二度目である。(後略)

 

【史料3】

    十四日、

  今朝もいつものように雨が降った。(中略)

 一つ、禅定院の池の水がなくなったので、三日間、大掃除の人夫を使って、池の土を取ったという。

 

 

 「注釈」

「高山・龍池」

 ─鳴雷神社(なるいかずちじんじゃ)のことか。現奈良市春日野町。春日山中、佐保川能登川の水源にあたる香山(こうぜん)に鎮座。「延喜式神名帳の「鳴雷神社大、月次新嘗」に比定されており、祭神は天水分神。高山社(こうぜん)・高山竜王社(こうぜんりゅうおう)・竜王社とも称し、「大和志」には髪生宮(かみなりのみや)と記すが、髪生宮は当社西北高峰(髪生山)に鎮座する神野神社(こうの)のこと。

 鳴雷神は雨をもたらす神として古代農民に広く祀られ、貞観元年(859)に官社となった(三代実録)。「延喜式」では、四時祭りの二月祭条に「鳴雷神一座十一月准此、坐大和国添上郡、右差中臣一人共祭」、掃部寮神祇官諸祭料の条に「狭席五十八枚、鳴雷神春秋祭料十二枚」とみえ、春日祭と期を同じくして祀られる農業神で、さらに宮中主水司坐神とされるなど、宮中の水を供給する神としても格式のある神であった。

 現在、春日大社末社の一つで、小祠一宇が残るのみで式内大社の面影はない。付近には中世以降請雨の霊場として信仰を集めた竜池(閼伽井)があり、高山・上水屋の水船や、当社上方にあったといわれる香山堂などとともに春日水神信仰の中心であったようである。「大乗院雑事記」「多聞院日記」にも香山信仰の厚かったことが記され、春日山周辺の村々では、近年まで雨乞のための「香山さん参り」が盛んであったといわれる。

 なお竜池からは「相当此年炎干過法之間、為国土豊穣、於断食七箇日参籠高山社、仍結日降法雨、然間為果宿願、於春日社壇、奉転読法花妙典一千部、成現当二世悉地仍注結縁衆交名、奉納塔婆内而已、正安三年辛丑九月日勧進沙門西念」と刻した石塔婆が発見されている。この辺りは、中世、興福寺東金堂衆の行場となったところでもあり、高山社の下に長さ2.18メートル、幅0.72メートルの石造水船がある。その両端に繰形把手を刻出し、側面には「東金堂施入高山水船也、正和四年乙卯五月日置之、石工等三座」の陰刻銘がある。また当社北方の花山には「西金堂長尾水船 文和二年癸巳三月日置之」銘の水船がある(『奈良県の地名』平凡社)。

 

「龍花院」

 ─竜華樹院、竜華院のことか。「南都七大寺礼記」に「本堂尺迦阿弥陀薬師在諸経律論摺形木、件院者法務権大僧正頼信之建立(中略)又在頼信之墓号円塔」とある。当初、一乗院の東(現文化会館の南側)にあったが、「寺務相承記」に竜華院が春日大鳥居の南方、菩提院の東にあったことが見える。正暦年中(990─995)菩提山に移したが、残っていた堂は正中年中(1324─26)に焼失した。のち勧修坊(荒池の南にあった)の南隣に再興され、大乗院領となり、いわゆる三箇院家を形成した。明治の中頃、さらに南円堂の北側に移した(『奈良県の地名』平凡社)。

 

「禅定院」(「大乗院跡」『奈良県の地名』平凡社

 ─大乗院跡。奈良公園内の荒池の南、鬼園山の上に建つ奈良ホテル南側下方、高畑町にある。三箇院の一。寛治元年(1087)権別当隆禅が先考の恩に報いるために創建(菅家本「諸寺縁起集」)。第三代院主に関白藤原師実の子尋範が入り、以後一乗院と並んで両門跡となり、院家の首位に立った。

 当初、一乗院の東隣(現文化会館の南側)の竜華樹院(竜華院)跡にあったが、治承四年(1180)の兵火後、元興寺別院の禅定院(現在地)に移された。興福寺寺務職の門跡で、御所とも呼ばれた。禅定院・竜華樹院とともに統合され、三箇院家を形成した。宝徳三年(1451)尋尊が門跡のとき、土一揆による元興寺焼討に罹災したが、その復興には善阿弥の手になる庭園を含め大いに整えられたようである(大乗院雑事記)。

 寺領は右の三箇院を合わせて大和国内の荘園八十余ヶ所、国外では三十四ヶ所に及んだ。また末寺も長谷寺以下数十ヶ所を数える。「大乗院雑事記」をはじめ多くの大乗院文書が残されている。

 

 (「元興寺」『奈良県の地名』平凡社) 

 ─平安・鎌倉時代にはしだいに寺勢が衰え、伽藍も縮小されていたものと思われるが、「大乗院雑事記」長禄三年(1459)九月三十日条によれば、興福寺大乗院院主の尋範は元興寺禅定院(禅院寺の後身)院主も兼ね、承安四年(1174)に没しているので、この頃すでに元興寺興福寺支配下に入っていた。治承四年(1180)平重衡の南都焼討によって大乗院が焼亡したので大乗院主は禅定院に住するようになり、以後禅定院が興福寺大乗院となった。また「大乗院日記目録」養和元年(1181)一月二十九日条には「於禅定院修十二大会、擬寺内」とあり、禅定院は興福寺の寺内に擬せられている。

 

 

*「室町時代版 池の水ぜんぶ抜く大作戦」。「テレ東版」は「池の水を抜いてキレイにしたい! 迷惑外来生物を駆除したい! 巨大岩石を撤去したい!」といった目的によって、池の水を抜いているようですが、室町時代の奈良では、雨乞いのために池の掃除を行なっていました。おそらく、「池泉を掃除・浚渫することによって、龍神の影向を期待し、その功徳によって雨を祈」ったのだと考えられます(佐々木令信「神泉苑の祈雨霊場化について」『大谷学報』51─2、1971、105・106頁、https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2482&item_no=1&page_id=13&block_id=28)。池に対する接し方1つとっても、中世と現代では大違いです。

 ところで、池に生息していたであろう生物はどのように処理したのでしょうか。食べたのでしょうか、単に殺処分したのでしょうか、それともどこかに逃したのでしょうか。何も書いてないということは、それほど気にしていなかった(執着していなかった)ということなのでしょう。少なくとも、「池の水を全部抜いたら、生態系を破壊してしまうではないか!」といった、エコロジカルな?、エコファシズム的な?視点からの批判は起きてないようです。

楽音寺文書59 その5

    五九 安芸国沼田庄楽音寺縁起絵巻写 その5

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載しました。本文が長いので、6つのパーツに分けて紹介していきます。

 この縁起の研究には、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』 (広島県立歴史博物館、1996)、下向井龍彦「『楽音寺縁起』と藤原純友の乱」(『芸備地方史研究』206、1997・3、https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00029844)があります。

 

      ヘハ                     

 重勅命之上不固辞言、賜勅当面淀河津河尻浜、点

       シテ           シテ     

 大船少船、領和泉国河内国兆民黎民摂津国播磨国

           シテ              

 駈役夫人夫、点領小屋野印南野積茅萱荻薄載千艘

                     

 万艘、相待順風猛風火於舟中草梶於釜嶋方、然間

     ナルコト        ナルコト     リハ

 順風之急千船万船白浪追嵐之熾千燈万燈赤炎、自陸地

      シテ                 

 率千軍万軍鑣並蹄、発百笑千笑甲振冑、

                ルコト    ノヲノ

 依之純友城郭釜嶋自海上之吹懸火春乾野炎

        ルコト              ルヽ ニ ハ

 自陸地之発懸 箭夏黒雲雨、然間純友軍兵等漏火者

      ルヽ ノハ          

 不箭漏箭者不火不一人悉誅殺畢、

         ルコト   

 于舟積柴薄等 火順風事、

             

 倫実上洛時備前国河之時或神明変人故也云々、

     (絵5)

 

 「書き下し文」

 重ねて勅命の上は固辞の言に能はず、勅を当面に賜りて淀河の津河尻の浜を卜し、大船・小船を点じ、和泉国河内国を領して兆民・黎民を催し、摂津国播磨国を領して役夫・人夫を駈り、小屋野・印南野を点領して茅萱・荻・薄を苅り積み、千艘万艘に運び載せ、順風猛風を相待ち火を舟中の草に着け梶を釜が嶋の方に廻す、然る間順風の急なること、千船万船の白浪追風熾んなること千燈万燈の赤炎、陸地よりは千軍を率し万軍を率し鑣を列ね蹄を並ぶ、百笑を発し千笑を発して甲を傾け冑を振るふ、之により純友が城郭釜嶋は海上よりの火吹き懸かること春の乾く野の炎のごとく、陸地よりの箭を発し懸かること夏の黒雲の雨に似たり、然る間純友が軍兵等火に漏るる者は箭を遁れず箭に漏るる者は火を遁れず一人も漏れず悉く誅殺し畢んぬ、

 舟に柴・薄等を積み火を順風に着くる事、

 倫実上洛の時備前国の河を渡るの時或る神明人に変はる故なりと云々、

 

 「解釈」

 重ねて勅命を下されたうえは、固辞の言葉を申し上げることはできない。勅命を直にいただき、淀川の津である河尻浜を占い定め、そこで大船や小船を点検し、和泉国河内国を領有して多くの庶民を人夫として催促し、摂津国播磨国も領有し、そこでも人夫を催促して、小屋野や印南野を差し押さえ、茅萱や荻、薄を苅ってたくさんの船に運び載せ、強い追い風を待って火を船の中の草に着け、釜島の方角に梶を切った。そうしているうちに追い風が強くなり、たくさんの船が白波を立て、追い風が盛んになり、多くの船の燈火の赤い炎が見える。陸地からは数多くの軍兵を率い、騎馬兵が列をなして立ち並んでいる。軍兵らは大笑いして、身につけている甲冑を震わせながら進軍していった。これによって藤原純友の城郭釜島は、春の乾いた野原の炎のように海上からの焼き討ちの火が吹きかかり、夏の黒雲の雨のように、陸地からの矢が射掛けられた。そうしているうちに純友の軍兵らは、焼き討ちの火から逃れられたものは矢の攻撃から逃れられず、矢の攻撃が逃れられたものは焼き討ちの火から逃れられず、倫実勢は一人も討ち漏らすことなく、全員誅殺してしまった。

 船に柴や薄など積んで火を着け、追い風で釜島に着岸させたこと。

 藤原倫実が上洛したとき、備前国の川を渡ったとき、とある神が人間の姿に変わっ(て手助けしてくれ)たから(うまくいったの)である、という。

 

 「注釈」

「河尻」

 ─河尻は尼崎市を含む神崎川河口付近の総称で、瀬戸内海水運を通じて運ばれてきた物資は、河尻で川船に積み替えられ、神崎川・淀川を遡上して、京の外港的な役割を果たしていた淀にもたらされていた(田中文英「神津川流域の発達と港津」『Web版 図説 尼崎の歴史』中世編第1部、http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chuusei/chuusei1-1.html)。

 

「摧」─「催す」の誤字・当て字か。

 

「小屋野・印南野」

 ─尼崎市昆陽(こや)周辺と、明石市加古川市加古郡印南町周辺。実のところこの2ヶ所は、治承四年(1180)六月の福原遷幸時に、遷都候補地として提案された場所だったそうです(樋口健太郎「幻の『小屋野京』」『地域史研究』(尼崎市立地域研究史料館紀要)118、2018・11、http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/publishing/bulletin/contents/118.php)。

 

「点領」─「点定」と同じ意味か。

 

「傾甲振冑」─未詳。

中世被差別民の装い

  河田光夫『中世被差別民の装い』

               (河田光夫著作集・第二巻、明石書店、1995)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

  

P29

 鎌倉末期、弘安頃(1278〜87)成立といわれる『塵袋』には、「天竺ニ旃陀羅ト云フハ屠者也。イキ者ヲウルエタ体ノ悪人也」とある。古代インドの被差別民「旃陀羅(せんだら/チャンダーラ)は屠者であり、「エタ」のような悪人だとする。(中略)『塵袋』は、また、「キヨメ」・「ラウソウ(濫僧)」や「非人・カタヒ」などを「エタ」と呼ぶ世間の風潮を記し、著者は、「エタ」とは「餌取(エトリ)」のことだとする。(中略)これまでの論者の間には、けがれ差別と卑賤視のみを差別とする固定観念があるが、右の史料等により、「悪人」と決めつける差別があった事実にも、目を向ける必要がある。

 

 →新型コロナに感染した者を、犯罪者(悪人)であるかのようにSNSで断罪し、差別する風潮とよく似ている。

 

P34

 本来は衣類を表し、差別と関係がなかった仏典の「非人」の原義を生かして、空海は、被差別民「蝦夷」に対し、この語を使ったのである。空海が異類と「蝦夷」に共通させた概念は、その外形が「(普通の)人に非ざる」点である。それは、中世でも猟民・漁民・ひじり・「悪僧・悪党」・山伏・乞食などを指した「異類・異形の類」(後述)と同義語である。

 前にあげた、流罪人または獄囚を「非人」とした『続日本後紀』の例も、彼らが普通でない装いをさせられた点に原因があったとも考えられる。

 

P35

 黒田俊雄氏は、この例や、「乞食非人」と連称した例、「乞食」を「非人」と言い換えた例を挙げて、「乞食・乞丐(かたい・こつがい)」等が「非人の代表的な者であったというべきであろう」としたが、むしろ両者は、乞食を外形的に言えば「非人」になるという関係にあったと考えられる。『発心集』(1216年以前)一の三話で、やせおとろえ、ぼろがたれさがるつぎあわせの着物を着た乞食を、「異様の物の様」、「人の形にも非ず」とする。同じ話を記す『私聚百縁集』(1257年)承応二(1652)年刊本の九の十五話では「非人形」とし、訓点がなければ「非人の形」とも読める。異類を連想しつつ「(普通の)人の形に非ず」とする表現が「非人」に通じることは明らかである。

 

 身体障害者や「癩者」もまた、「非人」とされた。

今昔物語集』で、次のように、「片輪者」を人に非ぬ身とするのは、外形が普通の人に非ざる者という意味とも考えられる。

 

P36

 「癩者」が「非人」にされるのは(この点を特に強調しておかなければならないが)、その病気の症状による肉体的な外形よりも、普通の生活の場から引き離され、長吏が率いる「非人」集団に入れられたり、放浪・乞食等の生活を余儀なくされた結果、服装等の装いが「人に非ざる」ものとなるからである。差別を生むのは、病気ではない。社会であり、人間である。そして、そうした装いが、さらに彼らに対する差別を強め固定するのである。

 

P42

 以上のように、「非人」の第一義は、「天・龍・ヤシャ」などの異類であり、差別とは関係なかった。それが「蝦夷」・放免・乞食・ひじりなど、装いが普通の人に非ざる者とする第二義の「非人」へと展開し、すべてではないが、多く、差別と結びついた。

 そして、「非人」の語は、次第に「清水坂非人」など、長吏に率いられた被差別民を表す語に集中していく。これが第三義の用法である。網野善彦氏が指摘した天喜三(1055)年の「小野守経請文」に「非人之長吏」とあるので、その成立は十一世紀にさかのぼる。被差別民の「非人」が成立することによって、第二義の「非人」の用法は、次第に蔑称へと傾斜したと考えられる。しかし、完全に第三義に集約されないまま、後々の時代まで残る。その場合、価値が人間以下だとする、いわば第四義的な意味と重なっていく。

 ここで重要なのは第三義の、被差別民を表す「非人」であるが、その後が第一・二義からの展開であるという点が、差別と装いの深い関係を物語る。

 

 

P45 第2章「犬神人」の装い

 「犬神人」についても、網野善彦氏は差別の存在を否定するが、以下に示すように、職能は『塵袋』の「キヨメ」に当たり、姿は「濫僧(ろうそう)」であり、しかも「非人」の一種であるから、被差別民であったことは間違いない。

 

P49

 これらのふりがなが鎌倉時代の史料として使えないとすれば、別稿で触れたように、「犬神人」を弦売りの「つるめそ(う)」とする史料は、室町末期にまで下る。

 

P53

 結局、『拾遺古徳伝』の詞書と絵は、「犬神人」が「乱僧」であり、「清水坂非人」であることを決定的に証明するものである。

 また、『拾遺古徳伝』の「犬神人」の衣の色が、明るい茶色と、青みがかっても見える明るい茶灰色との二種類である点は、「癩者」・山伏にも共通するので、後に触れる。

 

P56

 既に見た「犬神人」の衣の色は、明るい茶色、赤身がかった濃い茶色(赤さび色)、薄い赤味橙(柿の実色)が一つの系統にまとめられる。別稿で確認した『親鸞伝絵』・『親鸞絵伝』の室町時代まで七本の「犬神人」場合は、右に加えて赤茶色、みかん色、茶色、赤味がかった薄茶色であった。また、そこで触れなかった『親鸞伝絵』の千葉県夷隅郡照願寺本(康永三=1344年)は赤さび色、茨城県下妻市光明寺本(室町初期)は赤味がかった茶色である。これらを総合して茶赤系統と呼ぶ。『日本国語大辞典』は、「柿色」を「柿の実の皮の色。赤黄色。また、柿の渋の色に似た赤茶色。あるいは、弁柄(べんがら)に少し黒を入れた暗褐色」とする。これによると、茶赤系統は柿色に当たり、前章で挙げたひじりの「柿衣」がもし柿色衣なら、関連が注目される。また、『拾遺古徳伝』の、青味がかっても見える明るい茶灰色は、この系統に入れ難く、青灰系統と呼ぶ。結局、「犬神人」の衣の色はこの二系統に総括できる。

 

 

P57 第三章 「癩者」の装い

 このように明瞭に対比された乞食と「かったゐ」は別物であり、「かったゐ」は「癩者」を指すと思われる。

 

P60

 以上の様々な衣の色は、「犬神人」と同様、ほぼ、茶赤系統と青灰系統に分けられる。

 

P64

 「青」は「青空」の青色、「青田」の緑色を含む。『万葉集』の「人魂のさ青なる君がただ独り逢へりし雨夜の葬りをそ思ふ」は、人魂に会った恐ろしさを詠み、冥界につながる気味悪い人魂を青とする。「白馬の節会」の「あお馬」は、白に近い灰色だという。『親鸞伝絵』西本願寺本下一段や『男衾三郎絵巻』三段の馬の色がそれに当たり、やや青みがかっても見える。「青衣」もこうした広範囲の色を持ち、「犬神人・癩者・穢多」の青灰系統の着物につながる可能性がある。

 道端に坐る「癩者」等の青灰系統の衣が、この世の人ならぬ冥界の亡者や衣類の色に通じるとすれば、人魂よりも恐ろしい人の世の差別の残酷さをひしひしと感じさせる。

 

 

P65 第四章 山伏の装い

 「柿の衣」で最も有名な山伏は、行商もした鋳物師や、芸能民の一種とも言える歩きみこなどと生活の場を共にする遍歴民であった。

 

P68

 さらに、妖怪の天狗と山伏が通じ、天狗は山伏の姿をして現れると言われる(『塵袋』、『太平記』、謡曲鞍馬天狗』・『大絵』や、絵巻『天狗草紙』の絵など)。また、狂言『柿山伏』に「山伏の果ては鳶にもなるという」とし、『荒木田守武句集』で、連歌の句「山ぶしにもやことしならまし」に「正月の一日のゆめにとびを見て」を付け、天狗の正体とされる鳶に山伏がたとえられる。これらは、遍歴民山伏に対する恐怖視の表れである。特に中世前期までは、不浄視や卑賤視と並んで、恐怖視も差別の重要な一形態であった。

 

P74

 ここで、「柿の衣」は色を表すのではなく、朝布を風雨に耐える丈夫なものにするために柿渋で摺った衣であり、「赤・黒の色を雑へて染る」こともありうるとする点が重要である。(中略)とすると、「柿の衣」は、色の表現ではなく、柿渋で摺った衣という意味になる。

 

P75

 麻に柿渋をひいた粗末な衣を指す「柿の衣」の色は、茶赤系統のすべてと灰色にまたがると思われるが、青灰系統の他の色との関係は不明である。「犬神人・癩者」・山伏に共通し、差別との関係の深い茶赤系統と青灰系統の色の関係も、なお、将来に多くの問題を残す。

楽音寺文書59 その4

    五九 安芸国沼田庄楽音寺縁起絵巻写 その4

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載しました。本文が長いので、6つのパーツに分けて紹介していきます。

 この縁起の研究には、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』 (広島県立歴史博物館、1996)、下向井龍彦「『楽音寺縁起』と藤原純友の乱」(『芸備地方史研究』206、1997・3、https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00029844)があります。

 

         メン               

 遂入洛経奏問言、令純友勢不倫実力付余

    ント          ノタマハク ナル  ナル    シテ

 虎賁彼朝敵云々、天気 云 純友何躰気力哉、倫実奏

            ノタマハク クナラハ      シト

 云非人倫鬼神、天気 云 如 鬼神仏力闘云々、

                       

 于玆倫実弥髪中像致信心、依勅故当寺号一院御願所

     (絵4)

 

 「書き下し文」

 遂に入洛し奏聞を経て言く、純友を誅せしめん勢倫実が力に及ばず余の虎賁に仰せ付け彼の朝敵を誅せしめんと云々、天気云く純友何の躰なる気力なるや、倫実奏して云く人倫に非ず鬼神のごとし、天気云く鬼神のごとくんば仏力を以て闘ふべしと云々、茲に倫実いよいよ髪中の像に信心を致す、勅による故に当寺一院の御願所と号す、

 

 「解釈」

 藤原倫実はとうとう京に入り帝に申し上げていうには、「誅伐しようとした藤原純友の勢力に倫実(私)の力は及びませんでした。残る勇猛な軍勢にご命令になり、あの朝敵(純友)を誅伐させてください」という。朱雀帝がおっしゃるには、「純友はどのような気力であろうか」。倫実が申し上げていうには、「人間ではなく、鬼神のようです」。帝がおっしゃるには、「鬼神のようであるならば、御仏の超人的な力を用いて戦うのがよい」という。そこで倫実はますます髪の中に籠めた薬師如来像を信仰した。勅命によって建立されたから、当寺を一院の御願所と名乗っている。

 

 「注釈」

「令誅純友勢不及倫実力」

 ─この部分を返り点・送り仮名のとおりに解釈すると意味が通じないので、上のように意訳しました。おそらく、「誅せしめんとする純友の勢ひに倫実が力及ばず」と書き下すほうがよいのかもしれません。